日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

世界遺産と熊野地方(23) 本宮・「湯の峰温泉」

2008年02月20日 09時46分45秒 | 世界遺産の熊野地方
湯の峰温泉と坪湯  
世界遺産と熊野地方(23) 本宮・「湯の峰温泉」

国道311号線で再び本宮方面を目指した。 
山間地の谷間のような地域を四村川と並行して走っているが、熊野川に近づくに従って山岳が異様に入り組んでいて、そのため河川も道路も複雑に曲折していて判りにくい。 
四村川も大きく蛇行しながら請川あたりで本流の熊野川に合流しているようである・・。 R311も旧道、新道、その他の道路が複雑に絡み合って湯の峰方面はカーナビでも判りにくい・・。 
それでも案内にしたがってどうやら「湯の峰温泉」に辿り着いたようで、急峻な山間地、四村川の支流である湯の峰川・・?に沿って温泉場はあった。

熊野詣の信仰の歴史は古い、その古さと相まって熊野本宮詣の湯垢離場(ゆこりば:神仏に祈願するため、温泉を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)として身を清めたのが、ここ日本最古の温泉・湯の峰であるという。 その歴史は、なんと1800年前にまで遡るという。 
ある温泉愛好家に言わせると、温泉好きでここに来なければモグリだとも言っている。 
湯の峰は小さな温泉地で木造の旅館が数件、身を寄せあっている程度の温泉場で全国的には余り知られてはいないかもしれない・・。

我等、本日の宿舎は谷川の少々上流部の辺にあった・・、「よしのや」という民宿であるが建物も部屋もピカピカと新しく気持ちがいい。 
尤も、新築・リニューアルが3年前と言うからそのはずであるが・・、おまけに宿の美人女将が、心憎いほどの応対振りで何とも心安らぐ・・。

玄関で応対してる時、芳紀女性が二人入って来た。 
聞くところ、あの小広王子から熊瀬川王子、岩神王子、湯川王子、発心門王子、猪鼻王子、水呑王子、伏拝王子、祓戸王子そして本宮大社と・・、何と山坂9時間ごしで越え、八カ所の王子社を巡ってきたという。
小広王子といえば我らが最後に訪れた王子で、この先は急峻な山岳地のはずである、通しで20km以上はあるだろうか・・?、難路の長距離を疲れきった様子も無く健気に談笑する彼女達が眩しく見えた。

宿所といえば、「よしのや」は前日、前々日宿泊したホテル浦島とは全てが好対照の感がある・・、否、只一つ共通するものがあった「温泉」である・・。 
宿には無論内風呂があるが、玄関前に離れの露天風呂があった。露天は普通の住居地域で塀に囲まれてはいるが樹木が繁る中、野趣満点に創作、造作された露天は最高であった。上さんと貸切混浴しながら湯趣・湯味をたっぷり楽しんだ・・。 
後に帰宅後、記念写真を見たら上さんの色っぽいヌードが写っていた・・、これは余計か・・!。

湯上りの食事前に浴衣姿で小さな湯の町を散歩した。 
街の中ほど湯の峰川の河原に「湯筒」という施設がある、コンリートで良く整備された河原に四角い湯の桶と隅には湯筒地蔵が祀られていた。 対岸には源泉自噴湧出の大きな槽があって、モウモウと白煙が噴出している。湯筒の温度は92度と高温の温泉が湧いていて、この槽で食料品を蒸かしているようで、来客人もそうであるが地元の人の共同炊事場としても利用されているようである。 近くの店で玉子を買ってきて漬けてみた・・。

下駄の音も高らかに川岸をぶらつく、下の方に共同浴場もあった・・。 何とも風流で、実に雰囲気が良い・・。
河原にある湯の峰名物の「坪湯」を覗いてみた。 定員2名の小さな小さな湯小屋であり、湯船である。 
坪湯の場所は、我が宿舎・「よしのや」のほぼ真下の河原にあって、がっちりした石橋の向こうに東屋が待機所としてあり、湯屋がこれまた風流に造られている。
人の気配が無いようなので定額を銭箱に入れて、ここでも一っ風呂浴びた。
石組みとコンクリで呈よく造られているが、浴槽の横に「シャンプー、石鹸の使用はご遠慮下さい」とあった・・、納得である。

出来合いの温泉タマゴを持ち帰りながら食事と一緒に食したが、その湯宿の食卓も中々であった・・。 一杯機嫌で出来上がった後、再び露天風呂に浸かり・・、夢路を辿った。
ああ・・極楽極楽・・!!。


次回は、 湯の峰・「湯治伝説」


世界遺産と熊野地方(22) 世界遺産・「熊野古道・中辺路・Ⅱ」

2008年02月19日 11時35分56秒 | 世界遺産の熊野地方
継桜王子と野中の一方杉、 野中の清水
    
野中の「とがの木茶屋」
世界遺産と熊野地方(22) 世界遺産・「熊野古道・中辺路・Ⅱ」

「継桜王子」に来た・・、野中地区の氏神でもある王子社で社殿もあり、古木杉の囲まれた石段の上の境内に建つ。 
この境内斜面には「一方杉」といわれる巨木が現存する。 杉の樹齢は800年前後の巨木で、特徴的なのが南向きだけに枝を伸ばしている、ことから「野中の一方杉」と呼ばれており、県の天然記念物に指定。 確かに10本近くあるうち、皆同じように南方にある熊野大社を慕うように枝を伸ばしているともいう。 このため一方杉と呼ばれているわけで、この不思議な現象は、生物の生態を知る上でも貴重なものと言われている。

道の下位、斜面下に石垣でしっかり囲まれた石造りの池に清涼な清水が結構な勢いで湧き出し、溜められている。 「野中の清水」といわれるもので、周りは朱色の欄干の手摺が施してあり、丁寧に管理、保管されているのが判る。
小生も早速、ペットボトルに頂いて・・、手すくいで二口、三口流し込んだ。まろやかで清涼感たっぷりの水が喉越しに落ちてゆくのが判る。 思わず美味いと・・叫ぶ程である・・!!。

清水は野中・坂巻山の湧水で、付近住民の飲料水、生活用水として利用されており、地元住民が清掃などで清水の維持と環境整備を行っているという。 
日置川の源流の一つでもあり、古来より涸れることなく水が湧出していて、熊野詣の古道「中辺路」の途中で旅人がこの湧水に癒され、この縁を歌枕に詠んだ数々の歌や句を残している。 古記にも「野中の清水と云う名水有り」と記されていて、日本名水百選のひとつにも選ばれている。

「 住みかねて 道まで出るか 山清水 」  服部嵐雪(1705年) 


水場より継桜王子まで戻って先へ行く。 
すぐ其処に茅葺屋根の一軒家がある、「とがの木茶屋」といって貧しい農家の家といった感じであるが、どっこい今では郷愁を誘う雰囲気たっぷりの休憩舎であり、旅籠(はたご:民宿)でもあるとか・・。 
中には懐かしい囲炉裏なども有って、この囲炉裏を囲んで宿の女将が古道にまつわる「民話」なども語ってくれるらしい。

「秀衡桜」(ひでひらざくら)は、継桜王子社から約100m東の道端にある、今は三代目としての石碑が建つが・・。 
『 平安時代後期、奥州の豪族・藤原秀衡夫妻が本宮をお参りするために途中の滝尻(滝尻王子:乳岩や胎内くぐりといわれる秀衡の説話)まで出来たとき、急に産気ずき男の子を出産した。岩屋に残したわが子の無事を祈願しながら野中の地へきたとき、杖代りにしていた桜の木をこの地に植えた。その後本宮を参拝した帰り道再びこの地を訪れたとき挿した桜の木に綺麗な花をつけていた。「これでわが子は無事であろう」と喜び、一枝切って別の木にその桜を継いだ。そして、急いで滝尻まで戻ると確かに息子は元気で無事であったという・・。この子はやがて平泉で成長して藤原忠衡となり、奥州落ちしてきた源義経を助けたという 』・・以上、秀衡桜と継桜王子に因む伝承がある。 
東北・陸奥から紀伊までは遠かったであろうが紀州・熊野には藤原秀衡にかかわる伝承がいろいろと残っているという。
ただ、史実は、陸奥国に新熊野社を勧請したとする古記があるらしく、秀衡が熊野を信仰してことは確かだと見られるが、熊野に参詣したという史実は確認されていないともいう。


継桜王子を過ぎると古道は旧国道と合流し、旧国道を行くことになる。 
しばらく進むと「中ノ河王子」跡がある。 今は、文字が刻まれた石碑があるのみで寂しげであるが、後鳥羽院や修明門院(平安末期:高倉重子・順徳天皇の母)の参詣録にも記されている由緒あるものだったらしい・・。

ここからは暫く森の中の旧道を行く。
「中ノ河王子」から、旧国道を本宮に向かって約2kmで小広峠に着いた。 
道端の草生した石垣の石段を数段登った奥の草むらに、上方の欠けた「小広王子跡」の石碑が立っていた。 
村の古記録の説明によれば、元々、小広王子権現は村はずれの小広峠付近にあったが「宮居」が古く維持困難になったため1573年、神意を伺って遷宮と決まり、「継桜王子社」へ移したという。 その後江戸中期、紀州藩が再建したが、明治の道路建設で再び破損したとある。

歴史は、特に歴史的事実や遺構は栄枯盛衰が繰り返され、やがては消え去って行くものであるが、それらが自然な状態なら良しとするが、人為的に、無意識に、無分別に消されてゆくのは悲しいことで、あってはならないことである・・!。

小広王子からは、旧車道と分かれて再び険しい山道の参詣道になるが・・・。


ところで・・、
冒頭にも記したが平成16年7月に世界遺産として「紀伊山地の霊場と参詣道」と題して認定された。
紀伊山地には修験道の「吉野」、神仏習合の「熊野」、密教の「高野山」と、三つの異なる宗教の山岳霊場があるが、それら三大霊場とそれらを結ぶ参詣道を「熊野参詣道」、「高野山町石道」、「大峯奥駈道」などによって世界遺産は構成されている。
この世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の特徴として、まず「道」であることが挙げらる。 「道」の世界遺産は、他にはスペインからフランスを繋ぐ「サンチアゴへの道」があるのみである。

和歌山・奈良・三重の3県29市町村にまたがり、コアゾーン(世界遺産の資産となる区域)とその周辺のバッファゾーン(緩衝地帯。資産周辺の環境や景観を保護するために、土地の利用に規制がかかる資産周辺の区域)を合わせた面積は約12000haで文化遺産としては日本最大である。 
また、文化遺産でありながら滝や原始林や川や海岸、岩、温泉など自然景観を資産として多く含む点も特徴のひとつである。これは、文化遺産の中での自然遺産でもあり、所謂、複合遺産としての性格や価値が十分に有るとも思うが・・??。
因みに、世界遺産には文化遺産・自然遺産・複合遺産の三種類があり、「紀伊山地の霊場と参詣道」は文化遺産である。
日本の12件の世界遺産のうち10件が文化遺産であり、屋久島と白神山地の2件のみが自然遺産、だが文化と自然の両方を兼ね備える複合遺産は日本にはまだない。

紀伊山地の三つの霊場・吉野・熊野・高野山は山岳宗教の霊場であり、それぞれ、紀伊山地の自然のなかで育まれたものであって、紀伊山地の自然なしには山岳霊場たりえない。又、三つの霊場がそれぞれ異なる宗教の霊場であるという点が特徴的でもある。
これらの霊場が熊野本宮を中心として「参詣道」で結ばれている。
紀伊半島は、日本でも有数の降雨量の多い地域である。このため、所々に石畳で舗装された道跡が残っている。 また江戸時代、紀州藩により整備された一里塚などがが残っている個所もあるという。

しかし、熊野古道の中には、国道や市街地に吸収されてしまったものもある。 
例えば、かつて十津川街道として知られていたルートは国道168号線に吸収されており、紀伊路(大阪-田辺)が登録外であるのも同様の事情によるらしい。 又、登録されたルートでも、大辺路・伊勢路の大部分は国道42号線に吸収されている。
紀伊半島の中央部は、際立った高山こそないものの、どこまでも続く山々と谷に覆われているため、古来より交通開発が困難であり、交通路が敷かれうる場所も限られていた。 そのため、小辺路や大峯奥駈道のような例外はあるものの、古人の拓いた道と現在の主要な交通路が並行(中辺路と国道311号線、JR紀勢本線や国道42号線の紀伊半島部分と大辺路・伊勢路)していることや、重複(前述)していることが少なくないのである。

「熊野詣」それ自体の盛衰もあり、又、歴史的な変遷から生じた派生ルートなどもあって現在では正確なルートが不明になっている区間も多数在る・・。 世界遺産に登録された熊野古道は、これら全てではないことに留意する必要もある。
そうした「忘れられた」ルートを再発見しようとする地元の動きもあるようだが、更に、車道に併合されて消された部分や不明な部分は、世界遺産に登録されたのを機に再復活の試みとして、新しく「古道」(・・?復古古道)を造成することも考えられるが・・??。 

最近、「ご当地ソングの女王」と言われる「水森かおり」が、「熊野古道」という歌を唄っている。 歌の内容はともかく、これを機に地元の有志達が何処かに記念碑を建てて熊野を更にP・Rし客寄せを計っているという。 
尤もなようだが、もっと前向きで建設的な方法を創造(新たに創り出す)、模索しては如何だろうか・・?。


この先、中辺路は「小広王子」から「湯の峰王子」までの凡そ20km、険しい山道を辿ることになるが・・、我等は新道の国道311号へ戻って今夜の泊まり宿である「湯の峰温泉」へ一路目指した。

次回は、 本宮湯宿・「湯の峰温泉」


世界遺産と熊野地方(21) 世界遺産・「熊野古道・中辺路」

2008年02月18日 10時55分10秒 | 世界遺産の熊野地方
中辺路「牛馬童子」と王子 

世界遺産と熊野地方(21) 世界遺産・「熊野古道・中辺路」

国道311号線を西に向って走る、熊野は確かに山また山の世界である。
暫く行ったところに、その名も「熊野古道・中辺路」という道の駅があった。 
道の駅舎には色々な古道歩きのグッズ類が置いたあるが、小生は古道の案内地図を戴いて出発である。

国道を挟んだ古道入り口には、賑やかに案内板が立つ。
杉木立が奇麗に立ち並ぶ間の道は良く整備されていて、坂道には木製の階段が施してあり歩きやすい。 暫く山歩き気分でジックリ歩を進める。
午前中は好天であったが山中で変わりやすく、曇りから今は小雨模様になってきた。

ところで、中辺路の西部域には国道に沿って冨田川が流れる。この川沿いを北上してきた古道は滝尻地区の「滝尻王子」から奥は御山、熊野の霊域だと考えられ、これら前後の険しい山々を越えてきて逢坂峠の「大坂本王子」までは急峻な山道となる。 
これらを越えた現在地が国道311号線と接するところである。

上りきった所に平坦な広場があって墨に石造が祀ってある、「牛馬童子」といって50~60cmの極小さなものであるが、よく見ると一人の童子が一頭の牛と馬に跨っている姿であり、服装は庶民のと異なって高級感がある。 きっと、やんごとなき宮家の童子がこの地で何かの不幸があったとも想像されるが・・、すぐ右に同じく石の童子の姿像が安置されている。

そこから緩い登り坂となり「箸折峠」に着く。 峠からは見通しも良く近露の里も眺望出来、旅人の絶好の休憩所となっている。

宮の参詣者・花山法皇もここで休憩した思われ、この時、「昼食の弁当を開いたが箸がついてなかったので、ススキの軸を折って箸にした」、このことから箸折の峠名が付けられたという。 この時、ススキの軸の赤い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」と尋ねられたので、この地が「近露」(ちかつゆ)という地名になったとも云われる。 
法皇の法衣と経を埋め建てられたという「宝篋印塔」もあり、これは鎌倉時代のものと推定されて県指定の文化財である。
石仏の牛馬童子は花山法皇の旅姿だとも言われるが・・?。

ここ箸折峠に至って間もなく「近露王子」に至る。 杉の植え込まれた段々のやや急な坂道を一気に降りて、集落の一端に辿り着いた。
この地は熊野本宮に至る中で、最も大きな集落であり、参詣の人々が出会う人里で、昔、「道中」とよばれていた区間である。 従って、今なお多くの旅籠跡が残っており、往時の熊野詣での賑わいを忍ばせてくれる。

日置川を渡った旧道沿いに、その「近露王子」があった。
入り口に「史跡・近露王子」と名柱があり、苔むした石段の奥はコンモリした森を造っているが社宮らしいのは無かった、代わって古石の碑が置かれてあった。 
近露は、熊野道を巡る各王子の中でも最も早く設けられた里宮で、前後に険しい山岳地をひかえる中にあってこの地は拓けた里に在り、旅人は心安らぐ一点の地だった。

そんな中、近露王子は近露の里の真ン中に鎮座して、かつては産土神(うぶすながみ・
生れた土地の守り神、氏神・鎮守)としても祀られていた。 
平安時代からの熊野詣の記録にもしばしば登場していて、宮人により「近露の水は現世の不浄を祓う」とあり、すぐ下を流れる日置川で神にお参りするために身を清めたという。 近露王子は参詣に備えて身を清浄にする霊場となっていて、川の近くの御所では後鳥羽院が歌会を催したことなど・・、歌人・藤原定家の参詣記などにも記されている。 

近露は田辺と本宮の中程に位置し、辺りが盆地となっていたので食糧にも比較的恵まれたことから、熊野詣での宿所としても賜わったといわれる。

熊野道中でよく「王子」と言われる宮社が存在し、九十九王子といわれるが・・?。
九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、熊野古道沿いに在する社宮のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護・安全を祈願された社をいう・・。

「王子」とは若王子を意味し、熊野三山の御子神と言われるが本来は沿道住人が祀る雑多な在地の神々・産土神であった。
これら諸社を王子と認定したのは、中世熊野詣において先達をつとめた熊野の修験者によるものであり、修験者は院政期以降の皇族・貴人たちの参詣の先達をつとめた人々でもあった。 そこには、参詣途上、身の安全を祈願する目的の他、儀礼・儀式を行う場所でもあり、歌会などを行う催場でもあったという。 又、併せて参詣者の庇護、物品の補給を行ったとされる。
今日(こんにち)で端的に言えば、一般道の「道の駅」、高速道で言えば「サービスエリア」みたいのものであろうか・・??。

九十九王子の「九十九」とは古来数の多さに喩えられるが、王子は実際に90を越す数に上り、その分布は参詣路で最も華やかで賑わったとされる紀伊路・中辺路の沿道に限られているのも特徴である。
王子社の中でも位の高いのが五体王子と呼ばれるもので、藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子の五社とするのが一般的である。 これらは、熊野の主神の御子神ないし属神として三山に祀られる五所王子と呼ばれる神々であり、三山から勧請したものと考えられている。
各王子社は、現在でもその痕跡は見られ、特に中辺路は熊野古道のハイライトともいえるほど格式の高い王子や旧跡が数多く残されているという。


近露王子かすぐ近く、この土地で南北朝時代から連綿と続き現在29代目の野長瀬家(のながせけ)がある、そして土豪「野長瀬一族の墓所」の一群がある。
この地に隠匿していた護良親王(もりながしんのう:後醍醐天皇の皇子、鎌倉幕府滅亡の主唱者の一人)を五代に亘って庇護した土着の豪族で、「太平記」にも登場している。 外れには一族を祀る観音寺があり、県文化財に指定されている。

護良親王のこと・・、
鎌倉末期、京では後醍醐天皇が中心となって鎌倉倒幕の機運が上る。しかし当初は失敗して流刑の処分にあい隠岐に流されてる。
この頃、後醍醐天皇の第一皇子は叡山にこもって修練し、天台座主となり「大塔宮」と称して武力をもとにした寺院勢力を味方につけ、そして間もなく還俗して「護良親王」となった。
楠木正成らの反幕勢力と合流して蜂起し、吉野、高野山、熊野などを転々としながら2年にわたり幕府軍と戦い続ける。 
今でもこの地方には親王の痕跡が残っているし、紀州の「大塔村」や「大塔山」は親王の名を記念して付けたものと思われる・・。

車ををソロリと進ませる・・、
この辺りの地は国道311の旧道にもなっていて地元の生活道でもある、一部は古道とも重なっていて、古道の面影や史跡も多く残っているところでもある・・。
2kmほど進んだ車道わきの山の斜面、杉の根元に「比曾原王子」の碑がひっそりと立つ。 ヒソ原、比曾原という地名で鎌倉末期頃まで諸書に登場するという、現在地名が比曾原であるかどうかは不明である。 

この辺りは山腹を縫うように旧道が屈曲しながら延びている、遥か下方の新道R311が車の快走往来を見せている。


次回は、 「中辺路・・Ⅱ」

世界遺産と熊野地方(20) 世界遺産・「熊野参詣・・Ⅱ」

2008年02月15日 11時18分51秒 | 世界遺産の熊野地方
世界遺産と熊野地方(20) 世界遺産・「熊野参詣・・Ⅱ」

引き続き「熊野参詣」についてであるが・・、
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは以前にも数度に亘り記してきたが、日本固来の神祇信仰(神々を祀る・・、※天津神と国津神などで、)と仏教が混ざり合い、独特の行法・儀礼・教義を生み出した宗教現象をいう。 
日本では千年以上のもの間、複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教と日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出したとされる。
ただ、神を仏の鎮守として祀ったのは朝廷や権力者の、所謂、政治支配側の政策的なものでもあった。
仏に対して神を低く位置づけるのは・・?、一般民衆を含めた地域社会に僧侶が仏教を弘める方便として考えだしたものであり、仏教政策の作為的面が見られるのである。
これらの永年に亘る政策を打破し、日本固有の神を主神として復活させるのは、遥か後年の明治時代に到ってからであるが・・。

熊野大社に今も見られる「権現」とは権(か)りに仏が化して神と現われるの意で、習合の理論となる本地垂迹説の先駆を示すものである。 
中世(平安、鎌倉期)には祭神に本地の仏尊を設定することが一般化し、本地垂迹思想が徹底するところとなった。


その前に・・、※天津神と国津神の神々について・・、  
奈良・律令期における神別けとして、「天神地祇(テンシンチギ)」というのがあった。 天神つまり天津神は天上はるかの雲の上におり・・、地祇つまり国津神は山の重なる地上の山中にあって、すなわち雲や霧のなかに鎮まるとしている。 
天津神は天孫降臨で高天原に縁のある神々で「アマテラス」や「ニニギ」(大和系)などであり、その中でも有力な神でありながら、その秩序を乱して高天原から地上に追放されてしまう「スサノオ」や「オオクニヌシ」などの系譜に連なる神々が「国津神」(出雲系)ともされている・・。

さて、「本地垂迹説」は仏・菩薩が人々を救うために様々な神の姿を借りて現われるという教えであり、日本における本地垂迹説は奈良期・聖武天皇(東大寺の創健者)の時代にまで遡るという。 
当時の朝廷は、高度な外来文化としての「仏教」(6世紀中国より伝来)を重んじたので、神仏同体の思想を打ち出して土着の信仰を宥和(ゆうわ:ゆるして仲よくすること)しようとした。 実際、神仏習合の思想としての本地垂迹説が一般に広まるのは、平安時代も中期以降のことと考えられている。
神仏習合はさまざまな面で進んだが、平安時代の中期になると多くの神社で祭神の本地仏を特定するようになった。
そんな中、最も影響を受けたのが熊野三神であり、今に至っても「熊野三山」といい、「山」は仏教用語における「本山」を意味しているのである。
そして、熊野三山となった頃の平安中期には、強力な信仰の対象となり官、朝廷、天皇の厚き庇護を受け、参詣の対象になっていった。

「熊野信仰」は中世の朝廷、貴族の時代を経て武士、庶民へと広がりを見せ、熊野大神の前に額ずけば、その慈悲により俗世に傷ついた我が身も往生決定して生まれ変わり、幸せ多い人生が約束されると信じた。 
仏教が習合し、更に熊野修検道が加わり、当時の末法思想とも合わさって、一つの浄土思想を形作っていった。 
この信仰は『道の辺に飢え死ぬるもの数知れず・・』といった、中世の地獄を見た人々の心を激しく揺り動かし、熊野へと聖域めざし参詣心をかき立てたのであった。

人々は京より往復およそ1ヶ月、雲を分け昇り、露を凌いて熊野三千六百峰の山々をよじ登り、谷を下り、僻遠の地・熊野本宮を目指して参詣した。 
この道は難行苦行の旅であるからこそ、一切の罪行が消滅するという信仰になり得たのであろう。 
藤原定家は『山川千里をすぎて遂に宝前に額ずく、感涙禁じがたし・・・』と記している。


熊野道は「蟻の熊野詣」とも称され、聖地を目指す人々の行列を「熊野三山詣」と喩えた。
熊野三山は万民を受け入れ、伊勢のように僧職を避けることもなく、高野のように女人を拒むこともしなかった。 所謂、天皇直々の参詣から、広く下位層の一般庶民まで信仰の自由が保障されていたのである。 
こんな多層の人々によって歩かれた熊野道は次第に拓かれていった。 今でこそ「熊野古道」といわれるが、平安期の頃には既に紀伊路と伊勢路の二つの大きなルートがあった。

その紀伊路は、京より淀川を下り和泉国をへて紀伊国に入り、大辺路、中辺路、小辺路の三つのルートに分かれる。これら三ルートのうち、中世にもっぱら利用されたのは中辺路であった。 
伊勢路は京より南下して大和国、さらに東に向かって伊勢国に入り、南下して東から入るルートである。
又、いま一つに大峰道がある。大峰道は本宮と吉野を結ぶ険しい山岳ルートで、山伏の修行地とされた。 現在も大峰奥駆修行と呼ばれ、天台宗山伏(本宮より吉野へ=順峰)、真言宗山伏(吉野から本宮へ=逆峰)の修行の地となっている。
これらの辺路道、修行道は熊野の最奥部と言われる「熊野本宮大社」をほぼ中心に開けているのが判る。 
最も歩かれた道としては紀伊路が海沿いを南下し、途中、田辺あたりで山道を本宮大社に向う「中辺路」といわれ、険しい山々を縫うように辿っていて、古くより参詣の道として定着していたという。

「紀伊山地と熊野参詣道」・・、熊野で語り伝えられてきた神話や伝説は、現在も暮らしの中に息づいている。つまり過去と現在、生と死が連続している風土が広がっているのである。 
中世の昔より巡礼者が、この世界を歩くことによって浄化され救われると信じたものが、今なお存在し、実感できるのである。
これらの情景が色濃く残っているのが「中辺路」でもある。

次には、本宮大社を後にして、その「中辺路」を歩くことにする。


次回は、 熊野古道・「中辺路」

世界遺産と熊野地方(19) 世界遺産・「熊野参詣について・・」

2008年02月14日 10時06分55秒 | 世界遺産の熊野地方
熊野参詣道(提供者に感謝)

世界遺産と熊野地方(19) 世界遺産・「熊野参詣について・・」

 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を総称して「熊野三山」と呼ぶ。「三山」の山というのは仏教用語であり、本地垂迹(ほんちすいじゃく)の精神は今も尚生きている表れである。

このことはさておいて、熊野三山は水に関わる神々であるということは前回の本宮大社を含め何度も述べてきたが・・、
熊野本宮大社は今でも熊野川を自然神としているし、そこに鎮座する「大斎原」が聖地であることに変わりはない。 
又、熊野速玉大社は河口部、港にあり、神事には「御船祭」という船にまつわる祭事が1800年以上も続いているという。 
そして熊野那智大社は高さ133m、幅13mの「那智の滝」が信仰の根本であることは言うまでもない。 

川、滝、港という水に関わる三つの立地を総称した熊野三山は、水の在り方、水の形態の三つの側面を表しているといわれる。
このように熊野三山は三方に分布しているが、これは何故だろう・・?、何か根拠が有るのではない・・?。
或る史家が推察するに・・、
三方は、きれいな二等辺三角形を構成しているのが判るという。 
これは仏教に於ける循環の構図を現していると仮定している。それを三角形の中心点からの方位で見ると熊野速玉のある方向は卯、熊野本宮のある方向は亥、それに熊野那智のある方向が未の方角に当るといわれる・・。
これは常世の輪廻にあたるとされて卯(兎)の如くで生まれ、亥(猪)の様に盛んとなり、未(蛇)のようにソロソロとで死んでいくとも譬えられるという。

那智には、補陀落渡海で有名な補陀落山寺があり、最後は仏になって海で入滅するという思想、行動があったことは既に述べた・・。 
山は水の流れの源とし、罪の穢れを川の如く浄化するとともに、海の冥界へ旅たつ・・、この輪廻転生を現しているのではないかと・・。
この世における自然界の輪廻、水に関わる生物の循環、人間本来の姿の生死観をこの三角形は示していると考えられると・・、いう思想である・・?。


水に関わる熊野の地、紀伊半島は大台ケ原、大峰山系、高野山系を有し、日本一の多雨地帯であることは周知である。
これらの水系は主に山系を流れ落ち、各種渓流、支流を合わして、熊野川や紀ノ川となり、大海の熊野灘、太平洋に注ぐ・・。
水多きことは故に、紀伊地方は深山幽谷を形造り、所謂、「地の果て・・」でもある・・。

昔は、黄泉の国(よみのくに:ヤミ・闇か、ヤマ・山が転じたともいう。死後、魂が行くという所。死者が住むと信じられた国。冥土といわれ、死者が棲むといわれた異界の地)・熊野には「真の闇」があると信じられていた。

現在、我々が往来していて目視できる熊野の地域は、緑化運動などでスギの植林が奨励され、熊野のいたるところで伐採が行なわれてスギやヒノキの森に変貌してしまった地である。 これら鬱蒼と繁るスギやヒノキの森の直線的な暗さは、真の熊野の闇ではないという。 
昔の人びとの心を捉えて離さなかった本当の「熊野の闇」は、ナラやカシやトチ、ブナ、クスノキ、梛木(なぎ)などの広葉樹林と照葉樹林の混交の森にあったのである。

又、熊野には近世にいたるまで海の漁労、山の狩猟・採集の生活など所謂、縄文様式が遺さ(のこさ)れてきた事実がある。 
南北にかけ離れた蝦夷や琉球ならいざ知らず、畿内(きない:帝都付近の地)といわれる本州の中央に位置し、弥生文化の中枢を担ったはずの近畿地方の一角に、なぜ縄文の息吹が遺されたのか。 それは熊野が京や大阪から、直線的には比較的近い距離でありながら、現実は、「闇」が支配する遠く離れた辺境の風土だったからなのである。

熊野は、古代の葬送の儀礼である風葬や水葬の習俗も遅くまで遺されたという。 川が死者の骨を洗い、カラスが風葬にされた死者たちの清掃者でもあった。 熊野本宮の象徴として、「八咫鴉」が祀られたのは理解できるのである。
農耕を中心とする弥生文化は太陽の恵みは欠かせない存在であり、彼らは天照大神(アマテラス)を絶対神として祀った。
ところが、熊野は弥生文化の浸透は遅く、縄文の象徴である火の神・火之迦具土神(カグツチ)とその母イザナミが熊野に逃れて祭神となった地域である。・・、そして「花の窟」(はなのいわや:三重県熊野市)に祀られているのである。

こんな自然、風土、信仰が個別に発生したとされる三つの大社は、過去と現在と未来を巡る浄土信仰と、熊野における縄文的自然に宿る神々によって渾然と融合し、広大な精神世界を醸し出してきたのである。


熊野では神仏同位、神仏習合の精神が最も早く起こったとされ、一般に「本地垂迹」と称して平安中期頃には「三所権現」の本地仏が命名されたという。
本宮社は、家津美御子大神(ケツミコ:スサノオ)で阿弥陀仏、新宮・速玉宮は熊野速玉大神(ハヤタマ:イザナギ)は薬師如来、那智宮は熊野夫須美大神(クマノフスミ:イザナミ)の千手観音を各々の本地仏としている。 
本地仏とは、本地垂迹の思想に基づいて御神体に、その各位に相当する仏姿を当てたものである。


次回、 「熊野参詣」・・Ⅱに続く・・