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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

新・日本紀行(78)松山 「霊場・石手寺」

2015年12月11日 11時50分14秒 | 愛媛、香川県
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 新・日本紀行(78)松山 「霊場・石手寺」   、





http://www.88shikokuhenro.jp/ehime/51ishiteji/img/map.gif









伊予随一の51番霊場・石手寺本堂と三重塔、其れにマントラ洞(入場門)





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『 伊予の秋 石手の寺の 香盤に 
       海のいろして 立つ煙かな
 』 与謝野晶子




小一時間、本館の由緒ある温泉に入浴し、施設、周辺を見学して退出した。

奥道後のNTT保養所「拓泉荘」へ戻り、宿の朝食を格別美味しく戴いて、改めて本日の行程へと出発する。

先ず、本館のすぐ近く、昨日も今朝も門前を通過しながら車中より一見しただけの第五十一番霊場・「石手寺」である。 
入り口に大きな御影石に刻印された石柱に「熊野山・石手寺」とあった。



小川に架かる小さな狐狸橋を渡ると両側に、未だ開店前の土産物屋などが軒を並べている。 

参道を進むと荘厳な堂々たる仁王門(国宝)が建ち、巨大な「わらじ」が通路の両脇に置かれてあり、その横に霊場巡りのお遍路さんであろうか、願掛けの小草鞋が多数吊るしてあった。

この門は鎌倉時代の造営で、両側内の仁王像・金剛力士像(阿ア形像、吽ン形像)は同時代の代表的彫刻家・運慶の作といわれ、これはもう完全に国宝クラスの像物である。 

門をくぐると右手に均整のとれた華麗な三重塔がそびえ、それと 並んで鐘楼が建っている。
この鐘楼前の歌碑(冒頭)は道後を訪れた時「与謝野晶子」が詠ったものという。 
正面一段高いところに緑に囲まれて本堂があり、並んで大師堂が建っていた。



今も尚、四国霊場第五十一番の札所では伊予地方随一の名刹として松山地方の大師信仰の中心であり霊験あらたかなところから、善男善女の参詣は後をたたないという。

建造物の大半は国宝、重要文化財となっており、四国霊場の中でも由緒ある寺の代表的な一つである。

又、小高い山の上に一際大きな弘法大師像が立つ、それは像体は中国を、顔はインドを向いているともいわれる。



地元出身の正岡子規もお堂の多さに・・、

『 石手寺や 何堂彼堂 弥勒堂 』 

と面白可笑しく詠んでいる。






  
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新・日本紀行(78)松山 「日露戦争と秋山兄弟」

2015年12月10日 14時42分19秒 | 愛媛、香川県
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新・日本紀行(78)松山 「日露戦争と秋山兄弟」  ,







秋山好古(兄)と秋山真之(弟)



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明治期、日露戦争を勝利に導いた「秋山兄弟」

小生が数年前、病床において(大腸ガン)読破した司馬遼太郎の大著に「坂の上の雲」がある。 そしてその後NHKの特別番組でも放送されたことがありました。

物語は、明治期の日露戦争の名将・名参謀である秋山兄弟と歌人・正岡子規を軸に、四国・松山出身の三人の男達の友情と国家存亡の一大叙事詩である。 
日露戦争のおいてロシアの名高いコサック騎兵を破った秋山好古(あきやま・よしふる)、日本海海戦の参謀・秋山真之(あきやま・さねゆき)兄弟と文学の世界に巨大な足跡を遺した正岡子規を中心に、明治の群像を描いている。

この陸海軍に分かれた二人の兄弟が、まだ当時東洋の一小国であった日本を、亡国の悲運から救ったと言っても過言ではない。
弟の真之と子規とは、東京の下宿の一室で起居を共にした程の親交であった。


秋山兄弟は、松山藩士の子として松山市歩行町2丁目に生まれている。
兄・好古は日露戦争の「黒溝台の戦い」では30kmにも及ぶ最左翼を守備し、僅か八千の兵で十万の敵の攻撃を耐え抜き、日本陸軍を壊滅から救った。 
コサック騎馬隊は単銃なのに対し、好古の申し出によって日本陸軍で初めて機関砲(騎兵砲)が配備され、この戦いで大活躍をした。 

好古は、身だしなみには全く無頓着で、下着もろくに着替えず、天気の良い日にはよくシラミ退治をしていたという。 そして、「身辺、物事は単純明快でいい」が口癖であった。
しかし、時計の様な几帳面な面もあり、晩年、中学校の校長時代には毎日、馬で登校し、一日も欠勤や遅刻をせず、きっかり二十分前には出勤するので、沿道の人はその姿を見て時計の針を正した程であったという。 後の陸軍大将、勲一等章



弟・真之は正岡子規とは幼少時代よりの友人であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊し、俳句や和歌なども学び、文学的才能にも秀でていたという。 
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節に、『 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ 』や、Z旗(国際信号旗の一つ)の信号文の『 皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ 』は参謀・真之の有名な一節であり、子規より得た文学的才能が開花した名文として歴史に残った。 

兄同様、身なりなどを気にしない性格であったが、日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における東郷平八郎の訓示(連合艦隊解散の訓示)の草稿を秋山が作成したもの。 この文章に感動した、時の米大統領ルーズベルトは、全文英訳させて米国海軍に頒布したともいわれる。
東郷平八郎は、真之を「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と評価した。 海軍中将。



  
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新・日本紀行(78)松山 「正岡 子規」(Ⅱ)

2015年12月09日 10時46分02秒 | 愛媛、香川県



 新・日本紀行(78)松山 「正岡 子規」(Ⅱ)   、




〇〇


正岡 子規の旅姿



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子規は、35歳の若さでこの世を去っている。
辞世の句、絶句になった・・、

『 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな 』 享年34。


この句は、自分の死を既に仏に成るまで達観し、冷静に見詰めている。
子規の忌日の9月19日を(1902・明治35年)「糸瓜(へちま)忌」としている。 これは「秋の季語」でもある。 
又、子規自身、自分のことを「獺祭亭主人」と号していたから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。 獺(かわうそ)は獲物を集め、巣の周りにたくさん並べて置いておく、それを称して「獺祭」といい、子規の生きようとする意欲が食へのこだわりにつながり、看病する母や妹が枕元へ常に食物を並べて置いていたという。



子規は、死を迎えるまでの約7年前から結核を患っていたという。
病床の中から「病床六尺」を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録であると評される。 
反面、闘病日記である「仰臥慢録」は、読む人をして、心が痛んで、とてもまともには読めないともいわれる。

本名・常規(つねのり)であるが、雅号の「子規」とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。 
そのとおり子規の文学は、その病と切っても切り離せないものであった。
子規が最初に喀血したのは、1888年(明治21年)8月の、鎌倉旅行の最中であったといい、医師に肺結核と診断される。 当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なくなり、この時、子規は「ホトトギス」の句を作り、はじめて自分を「子規」と号するようになった。

『 新年や 鶯鳴いて ホトトギス 』


ホトトギスは、カッコウとも呼ばれ杜鵑、時鳥、子規、不如帰、杜宇、蜀魂、田鵑などカッコウ科に分類される鳥である。 
特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵(たくらん)して育ててもらう習性で知られている。托卵とは、ある鳥が他種の鳥の巣に産卵し、その鳥に抱卵・育雛させることで、仮親の卵より早く孵化し、本親の卵を巣外に排除してしまうという、特殊な習性をもつ。


俳諧雑誌「ほととぎす」は明治30年(1897)、正岡子規の友人・柳原極堂の手により刊行された。
発行部数は当初は300部程度であったが、出版が東京に移ってからは読者は全国に拡がり、名実共に日本俳句派の機関紙となった。 
和歌や新体詩が入り、幅広い文芸誌となり、38年からは夏目漱石の小説「吾輩は猫である」を掲載、これが大変な人気となって文芸誌としての道を歩んでいく。 
「坊っちゃん」も、「ホトトギス」が初出版している。
子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった、1895年3月3日、新橋をたち中国の大連に向っている。 

新橋からの出発に先立ち・・、

『 雛もなし 男ばかりの 桃の宿 』 と詠んでいる。


むろんこの日は3月3日で桃の節句だった。それなのに別れを惜しんでくれる女性もいないとスネているのである。 だが心中、戦地に赴く「心意気」も感じられる。 
しかし、中号・大連に着いた頃は、既に事実上の戦争は終わっていたのである。 
帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院して須磨で保養した後、松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友「夏目漱石」の下宿でしばらく静養していたという。



序ながら、俳人・正岡子規は幼少時代から「秋山真之」とは親友であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊、和歌や俳句などを教えたともいう。
その影響からか、秋山は軍人ながら名文家としても知られており、後に「秋山文学」と称せられるほどの文章家であったという。
秋山兄弟と正岡子規の物語は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で日露戦争を背景として描かれている。


次回は、その「秋山兄弟

  
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新・日本紀行(78)松山 「正岡 子規」

2015年12月08日 16時48分28秒 | 愛媛、香川県




 新・日本紀行(78)松山 「正岡 子規」   、



〇〇


正岡 子規の旅姿



余りにも有名な、 

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺  』  

松山出身の「正岡子規」の句である。   


道後温泉本館の至近、湯築城址でもある道後公園の緑が映える。

湯築城(ゆずきじょう)は、中世、松山を拓いた河野氏が築城し、当時は松山の中心でもあった。
今では公園になっていて道際に、大きな「子規記念博物館」があった。 
子規は慶応3年、松山市花園町3番地(松山市駅から徒歩3分位、現在は石碑のみで生家は“子規堂”に移る)に生をうけている。
 
俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など、多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼし、明治時代を代表する文学者の一人である。 
中でも舶来したばかりの「野球」に心底熱中したことは先に記したが、尚且つ、旅に遊んだ。 

子規の徒然の旅の途中、奈良路では・・、

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺  』 

は誰でも知ってる子規の代表的な句である。


鎌倉路での・・、

『 大佛の うつらうつらと 春日より 』 も良い。


14、5歳の頃から機会あるごとに未知の自然風土や古跡に接して詩情を養い、見聞をひろめたという。 
明治の頃、鉄道がようやく普及しはじめた頃、東北・陸奥の「芭蕉」の足跡を訪ねている。 
芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規はいとも気楽だった・・!、
  
『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』

、と芭蕉顔負けの秋田まで脚をのばしている。 


この時に、芭蕉の『奥の細道』にちなんだ「はて知らずの記」を残している。 
紀行文集の一編に「旅の旅の旅」というのもあり、日本周遊を終えた今、こうしてペン・・?をとっている小生には一端(ひとは)通じるのを感じる。



 次回も 「正岡 子規」(Ⅱ)   、







  
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新・日本紀行(78)松山 「道後温泉・5」

2015年12月07日 10時47分45秒 | 愛媛、香川県




 新・日本紀行(78)松山 「道後温泉・5」  ,






http://cache5.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/01882014132.jpg
坊ちゃん列車


http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/53/0000854553/56/imgb20498afzikazj.jpeg
坊ちゃんからくり時計


http://farm1.staticflickr.com/56/124676675_64ff136775_z.jpg?zz=1
道後温泉本館前 「兵隊さんは女の子がお好き」







古事記」や「万葉集」にも登場し、3000年の歴史を誇る日本最古の道後温泉は、日本三古湯の一つとされる。  
神話の時代、古事記に大国主命(オオクニヌシノミコト・大地創造の神)と少彦名命(スクナヒコノミコト・大国主と協力した国土の神)が出雲の国から伊予の国へと旅して、当温泉に浸たったと記されてる。 聖徳太子が病気療養のため道後温泉に滞在したのをはじめ、奈良期には天皇や多くの皇族方が行幸したとされてる。

因みに、「道後」の名の由来は国府が伊予国(現在の今治市)に置かれた頃、京から見て国府よりも遠い地域を「道後」(道前、道中)と呼び、名残が道後及び道後温泉の名前の起こりとされている。


日本三古湯は一般的には、道後温泉(愛媛県)、有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県)と言われ、何れも今回の周遊で立ち寄って来た温泉である。
小生の田舎(実家)の「いわき湯本温泉」(福島県浜通り地方)も古く、奈良時代には開湯されてて道後、有馬とともに三古湯とされる場合もある。 
いずれも神話の時代からの長い歴史を有する温泉である。


市街地に広がる温泉街は、例によって巨大なホテルや旅館が並ぶが、一方、古き良き湯の町の情緒も、そこそこに感じられ残っている。
駅前には新名所として、本館100周年を記念して造られたという人気のスポット、「坊ちゃんカラクリ時計」がある。1時間毎に漱石の小説「坊ちゃん」に登場する人物をモチーフした人達がユーモラスに登場し踊りだすという。


次回は、五十一番霊場・「石手寺




  
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