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日本の旅の記録です・・!!

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日本周遊紀行(9)糸魚川 「姫川と翡翠(ひすい)」

2009年11月09日 10時28分11秒 | 長野、新潟県、
【東北・日本海道】 新潟(糸魚川)⇒⇒⇒⇒青森(大間)



日本周遊紀行(9)糸魚川 「姫川と翡翠(ひすい)」

昔、高志、古志の国(越の国)の豪族で、その姫の名は奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と称し、現在の新潟県西頸城郡辺りを支配していた古代女王であったとされる(古事記)。
糸魚川や青海地方の特産品である祭祀具・翡翠(ひすい)を支配する巫女であったとも言われ、「奴奈川姫」という名は「奴奈川」つまり糸魚川市を流れる「姫川」のことで、当地方の女王を意味しており、個人名ではなくこの地方の代々の女王を指す可能性もあるともいう。

この頃、出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた大国主(オオクニヌシ)の命は、能登半島に上陸し少名彦命(スクナヒコ)と力を合わせ、地方を平定開拓するともに、越(高志、古志)の国の貴石・翡翠の覇権と美姫と噂された奴奈河姫を求めて「越の国」に渡ることになる。
越の国の居多ヶ浜(上越市)に上陸し、身能輪山周辺に居を構えたとされる。(居多ヶ浜や身能輪山は、現在の上越市・直江津の西海岸とその近辺で、往時は越後国府があり、又、すぐ南に上杉謙信の「春日山」も在る) そして越後地方の開拓や農耕技術、砂鉄の精錬技術などを伝えたという。

美姫・奴奈河姫に想いを寄せていた地元の根知彦(ネチヒコ・姫川沿い糸魚川市根知)は大国主の出現にひどく怒り身能輪山に乱入したが、結局、大国主が勝利し、姫の元に通いながら結婚することになつた。 
その後、奴奈川姫と大国主命の間に男子を生む、この息子が諏訪大社の祭神・建御名方命(諏訪地方参照)である。


一般には、奴奈川姫と大国主神の物語は神代のロマンなどといわれているが、古事記における二人の問答を見る限りでは二人の出会いはかなり非情なものであったともいう。 
大国主神は侵略と脅しであり、一方の奴奈川姫はひたすら命乞いをしているのである。つまり、征服者と被征服者の関係であったと・・、その後、奴奈川姫は、大国主の子である建御名方命を産むのであるが、「奴奈川神社」(糸魚川市の一の宮)によると、姫は大国主の手から逃れ、悲運を辿ることになるというが。 

大国主命はその内、本国の出雲に帰ることになるが、姫に一緒に出雲へ来るように説得する。しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った、出雲には大国主の別な妃もいたし、それに大切な翡翠を守らねばならないという願いが強かったのである。 
大国主は強引に連れて帰ろうとするが、姫は途中で逃げ出し追手に追われることになる。  
そこで、姫は、姫川の奥深く逃げ込み、追っ手が厳しくなると姫川に無念の入水をしたという。 又一方では、途中で諏訪から息子が迎えに来て、姫川山中で余生を送ったともいわれる。 

姫川沿いには、姫にまつわる伝承や史跡が多数残るという。
奴奈川姫はヒスイの主権者といわれているが・・、  

ぬな河の 底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも』 「万葉集十三巻」より

この中の「ぬな河」とは「姫川」のことで、そして「底なる玉」とは「翡翠・ヒスイ」を指しているといわれている。 

古来より翡翠を身につけていると魔除け、厄除けになり、幸運を招くの石として珍重され最高の装飾・装身具として愛用されてきた。 
遠くは縄文期より姫川界隈の翡翠は利用されていたことが知られている。

姫川下流の丘陵地にある縄文時代中期の「長者ヶ原遺跡」(糸魚川市一の宮、美山公園北・ 縄文時代の遺跡で、古代にはここでヒスイ加工が行われていたという)からは、ヒスイの大珠や勾玉、加工道具、工房跡などが昭和20年代から続々と出土されているという。

太古の紀元前4000年頃には世界最古のヒスイ文化が実証されているともいわれる。
古代人に装飾品として愛用されたヒスイは、この糸魚川地方から北海道より九州まで全国に行き渡っていたことも明らかになっている。
更に、糸魚川から全国へ、海から遠く隔たった内陸部や、大平洋岸までヒスイが運ばれているという。陸奥の国の「三内丸山遺跡」は、縄文期の4000~5000年前の遺跡と言われるが、ここでも多量の遺跡の中に、当地の翡翠は相当数発見されている。


神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代には、古志(越)の国の「奴奈川姫」という女王が翡翠の勾玉(まがたま)を身につけ霊力を発揮して統治していた。 古代人は、勾玉というのは神霊の依り代とも考えられていたもので、重要な神宝として神祭りに用いられた。そのような重要な祭器であったから、このうちの特に霊力の強いものが「三種の神器」の一つとなったといわれる。

「神璽」(しんじ・皇位のしるし)と呼ばれる「八坂瓊勾玉」(やさかにのまがたま)は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト・神話、岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作ったとされる神、天孫降臨の1神)と呼ばれる職人集団の祖神である

糸魚市川の姫川流域、北陸の海岸や富山県の翡翠海岸などは、我が国での殆どの翡翠が産出するという。
糸魚川-静岡構造線(フオッサマグナ)に関係する激しい断層活動、造山運動で鉱物の変成作用が起こり、地上に揉みだされ地表付近に出現したといわれる。 
硬玉ヒスイの産地のひとつ姫川支流、小滝川「ヒスイ峽」の翡翠は良質であり、糸魚川市、青海町の産地と共に国の天然記念物に指定され、一般の人の翡翠の採掘は禁じられているという。 

現在市場に出ている翡翠宝飾品の大半は、海外、ミャンマー産とみられている。 東洋では特に重宝がられ、中国では他の宝石よりも価値が高いとされている。 
石言葉は長寿、健康、徳で、緑色のものが最も価値が有るという。

次回は、「上越」



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日本周遊紀行(8)姫川 「稗田山崩れ」

2009年11月09日 10時26分57秒 | 長野、新潟県、

日本周遊紀行(8)姫川 「稗田山崩れ」


「日本三大崩れ」、というのをご存知であろうか・・?。

北アルプスの北端と妙高山系・雨飾山の山峡の狭い空間を一級河川の「姫川」の急流が流れている、そして、その河岸に道路、鉄道、民家がひしめきあっている。
姫川の源流域は白馬連峰に端を発する支流の松川・平川の扇状地が分布し、平坦な盆地(白馬盆地)を形成しているものの、流域の大半の地形は白馬岳をはじめとする標高2000mを超える山々が連なり非常に急峻である。 
水源は白馬村の親海湿原湧水群(日本100名水)といわれるが、元々の水源は青木湖であったとされ、佐野坂の地すべり堆積物によって堰き止められたと考えられている。 そのため、親海湿原の湧水は青木湖からの浸透水であるとの説もある。
全長わずか58キロで平均勾配1000分の13という急流であるため、度々洪水におそわれている。 
近年では平成7年(1995年) の大洪水の災害で姫川温泉が甚大な被害を受け、国道、JR大糸線がかなりに亘って流失寸断され長期不通となった。 又、翌年にはこの災害復旧工事中に土石流が発生し作業員14人が死亡している。
尚、この年に息子と白馬の大雪渓を登ったとき、あの白馬大雪渓が例の大雨の影響で完全に土砂で埋まっていたのを思い出した。
元より、日本は国土の約70%が山地であって、これらの山々は地質的にも脆弱な山域が多く、 火山や地震で大規模な崩壊を起こす山も数多くあるという。  主な大規模崩壊地としては、富山県「鳶山崩れ」、山梨県と静岡県の分水嶺・安倍川の 「大谷崩れ」、そして長野県「稗田山崩れ」を三大崩れと言うらしい・・。この崩壊は20世紀の日本における最大の崩壊ともいわれるという。
姫川中流域にある「稗田山崩れ」は、明治44年(1911年)、稗田山(ひえだやま・コルチナスキー場の北側)北側斜面が大崩壊し、大量の岩石土砂が支流の浦川を急流下して姫川河床に堆積し、高さ60m~65mの天然ダムを形成してしまったという。 堰き止められた姫川は「長瀬湖」と呼ばれる湖を出現させ、川沿いの集落で死者23名、負傷者・水没家屋多数などの甚大な被害を与えた。
この辺りの集落であった来馬地区の川原の下には、明治時代当時の宿場町が、今でもそのままの形で埋まっているといわれる。 
その前後の江戸期、昭和期のおいても数回に亘り浦川上流地区の稗田山系において土砂崩落があり、被害を出している。この辺りは、糸魚川・静岡構造線の断層地帯に含まれる、そのため脆弱な不安定な地形を形造っているという。 

この忌まわしい現場を1976年(昭和51年)、「幸田文」氏が72歳にして「稗田山大崩れ」を視察、見学している。 文氏は明治の文豪・幸田露伴の次女で、大沢崩れをはじめ全国の山河の崩壊地を訪ねて一種のルポルタージュ文学として『崩れ』を紹介している。72歳にして「崩れ」に興味を持ち、時には人の背を借りながらも取材を続け、文学者らしい表現で荒々しい崩落地の様子を記述してある。
普通、このようなつかみ所のない自然現象を文学者が書くとは想像し難く、老文学者で高齢の女性を掻き立てたエネルギーは何なのだろうかと。 生まれつき好奇心が強く、たまたま始めて見た崩壊地点の壮大さ、恐ろしさ、神々しさに気を取られたのかとも思う。 そして、あのお年でなお、あそこまで執着できたのかと尊敬する次第である。
「稗田山崩れ」の現場の途中には、幸田文による「歳月茫々脾」が、遭難稗と共に建立されている。

幸田 文氏の『崩れ』、「歳月茫々・・稗田山崩れ」の断片
 『この崩壊は稗田山北側が楕円形に、長さ8km、高さ河床から約300mのところまで、ほぼ1kmの厚さですべる落ち、その莫大な量の土砂が大音響とともに浦川の谷に落ち込み、浦川はたちまち埋め尽くされて新しい平原となり、稗田山はその北半分を失って全く原形を姿を止めぬ姿になってしまった。
更に、この新平原は下流に移動し、行く手にあるものは田畑も人家人命も、全て押しつぶし呑み込み、下敷きとしつつ、姫川本流へと直角に殺到し、勢いのあまり対岸の大絶壁に打ち当たると左右に分かれて堆積し、堆積のの長さ凡そ2km、高さ65mのも及び、ために姫川は堰きとめられて、冠水の長さ5kmという大きな湖を現出し、橋を壊し人家耕地を浸した。
 そのままにしておけば渦は上流へ拡がるので、水路を切って水を落したところ、まずい事に土砂交じりの濁水は沿岸を削って流れ、下流に氾濫し、町も美田も潰されて、惨憺たる河原へと変じた。(以上は村人による「小谷ものがたり」より)。
崩壊が始まって2度、3度しつこく続けられた災害である。破壊家屋27棟、失われた人命23人、10kmに亘って変貌した土地・・。 今この村を、集落を訪れても昔日の面影はない・・が、あの時埋まってしまった家々も、その家の人達も、今もってそのままになっています。 掘り起こす事の出来ないほどに、深く埋まったのです・、と村人が言う。
連れ立って話してくれる村の人は実直に、事の起こったことに対し「・・という話です、・・だそうです、・・らしいけれど 」という。 道野辺に生い茂る夏草は、いきおいよく鮮やかに青く、まことに歳月茫々の思いに打たれる。
だがここのそうした想いを、からりと晴れ上がるような、これまた感動の強い話を聞いた。 聞けばこの人今66歳、災害の時はお母さんの胎内の中、だったという。
稗田山の崩れは午前3時でまだ真っ暗、眠っていたお母さんはたぶん、ゴーッという土石流の轟音で驚いたろうが、その時はもう何が何だかわからないまま、その恐るべき土砂の流れに乗せられていた。 どういうわけでそうなったかわからない。ただ、土石流の上に乗ったまま流されて、対岸に打ち上げられ、無事みごとに助かったのである。 なぜ転々する土砂の上で、土中に巻き込まれる事なく、ふわふわと上表にいることができたのか、万雷のような大音響の流下の中でどうして錯乱もせずに無事にいられたのか、気丈でもでもあろうし、稀有な好運、奇蹟でもあろうか。
こんな怖い目にあったのは非運だが、それでいて無事に助かったのは、たいへんな隆盛運ともいえよう。 凶が吉に転じるのを、この母と子はいのちをもって体験したのである。
ここにこうして稀有の天助をうけた一人の人が、静かに落ち付いた暮らしを続けていると思うと、崩壊と荒涼と悲鳴ばかりを見歩いてきた私には、なにかしきりに有難くて、うれしくて、ほのぼのと身にしむ思いがあった。
 「 あの山肌からきた愁いと淋しさは、忘れようとして忘れられず、あの石の河に細く流れる流水のかなしさは、思い捨てようとして捨てきれず、しかもその日の帰途上ではすでに、山の崩れを川の荒れをいとおいくさえ思いはじめていたのだから、地表を割って芽は現われた、としか思えないのである・・、 』

後日であるが、幸田 文氏の『崩れ』を読み・・、そして、別宅・白馬の近くでもある、その現地を訪れてみた。
崩壊地手前の耕地の一角には崩壊に関する説明碑、幸田文氏の「崩れ」の碑文が在り、又、平成7年の大洪水の被害に関する記念碑も立っていた。
更に、山間の奥まった所、吊橋から稗田山塊と思しき上空をを見上げると、垂直の岩肌がいかにも陰惨に見える。 切り立った崩落部分は一山全山が崩れ落ちたのだろう、と想像させる程、周囲が大絶壁、断崖となって岩石というよりも茶色の土が露出しているのである。 見渡しても、何しろ視界の180度以上の山塊が崩壊しているのである。 撮影に際しては空から撮るか、よほどの広角レンズでもないと、まとめて撮れないくらいである。 自然の脅威に圧倒されるばかりであった・・!!。
吊り橋の手すりに寄りかかり谷底を見ると、余りの高さに怖さで身体が縮む想いであった。 
ところでこの吊り橋は、その後の日本列島に長大型橋の時代を迎えるが、その横浜ベイブリッジや瀬戸大橋を初めとする吊橋架橋の礎(もと)になったともいわれる。

次回は、「糸魚川」

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日本周遊紀行(7)白馬 「塩の道・千国街道」

2009年11月08日 20時13分24秒 | 長野、新潟県、
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 日本周遊紀行(7)白馬 「塩の道・千国街道」 









白馬村の塩の道に奉げられる案内板と昔を偲ぶ道祖神、石仏群



「塩の道・千国街道」とは

千国街道の「千国」とは、現在の長野県小谷村の一部であって、明治期まで千国村と称していた。 現在地域名としては存在していないが、JR大糸線(大町~糸魚川)の駅名として千国駅が存在する。
 
「塩の道・千国街道」は、新潟県糸魚川から長野県松本までの旧道のことで、現在では、国道147・148号線の約130kmを指し、そして鉄道ではJR大糸線がその役目をひきついでいる。
 
近世では、海側からは海産物(主に塩・魚)、山側からは麻・たばこ・生薬・大豆などの生産物である生活必需品の流通路として使われていた。

本来「塩の道」というのは岩塩のない日本では海でとれた塩を内陸に運ぶための道のことを言い、海岸から内陸にむかって国内各地に「塩の道」があった。
特に信州では、太平洋側から入る塩のことを「上塩」とか「南塩」と言い、主に岩淵(富士川)、吉田(豊橋)、名古屋、江戸から運ばれました。
日本海側から入る塩のことは「下塩」とか「北塩」と呼ばれ、富山(針ノ木峠経由)、糸魚川、直江津、新潟から運ばれた。

そして、上塩と下塩との移入路のターミナルには「塩尻」という地名がつけられたと言われている。
有名な塩尻市をはじめ、上田市塩尻、下水内郡栄村などの地名が残る。
 

更に、「千国街道」の歴史を遡ると、石器時代には既に開かれていたとも言われている。
長野県和田峠で採掘された黒曜石(ガラスとよく似た性質を持ち、割ると非常に鋭い破断面を示すことから先史時代より世界各地でナイフや鏃:やじり、槍の穂先などの石器として長く使用された。産地として、長野県では霧ヶ峰周辺や和田峠が有名)が日本海側の遺跡で発見されたり、新潟県糸魚川市の姫川流域でとれる翡翠(ひすい・勾玉の原料)が長野県の遺跡で発見されている。

これはこの時代から日本海側と長野県を通じる道があったと推定され、中間の長野県大町市から翡翠を加工する工房跡も発見されていたことからも、この一筋の道(千国街道)によって物資が流通していたことが判る。
 
又、古事記に基ずく神話等によれば、大国主命と奴奈川姫(ヌナガワヒメ)の子、建御名方命(タケミナカタ・諏訪神社の祭神)が出雲国から逃げて諏訪に行ったのも、この道を使ったと考えられている。
大陸から出雲の国へもたらされた金属や医薬の製品や知識と、越後・姫川の玉(翡翠、ヒスイ)の交流、さらに越後と諏訪がすでにこの道によって結ばれていることを物語っている。(時代的には4世紀と考えられるそうです)
 

更に、安曇野に入りその地方に稲作をもたらしたと言われる安曇族は、もともと北九州を根拠地としていたらしい。
アルプスの守り神とされる「穂高神社」の縁起略記によると、安曇族は海神系の宗族として北九州に起こり、海運を司ることで早くから大陸との交渉を持ち、文化の高い氏族として栄えていた。
その後豊かな土地を求め、海路日本海を経て越の国(富山、新潟)に上陸、更に信濃に入り信濃国を安住の地と定め、安曇野を開拓、稲作文化、鉄文化を普及した。
奈良時代前には高家郷、八原郷、前科郷、村上郷の四郷からなる安曇郡が成立している。
豪族・安曇族は、古事記にもその名が記されているが、この一族も日本海を北上して糸魚川からこの道を通って安曇地方に入ったと考えられている。
 

各地にある「塩の道」で、千国街道は信州でもっとも代表的な海岸と内陸部を結ぶ街道であり、歴史もあり、川中島の合戦のときに「上杉謙信が敵である甲斐の武田信玄に塩を送った」という逸話は前回述べたとおりである。
 

千国街道は、藩士たちの参勤交代の列が往来した五街道のようなメジャーな存在ではなく、物々交換の交易の道であり、「ごぜ」(瞽女とは、三味線を携え農村・山村を巡る盲目の女性遊行芸人で、ゴゼサン・ゴゼサなどと呼ばれた)や旅芸人集団が往来したり、長野の善光寺への参詣の人が往来するなど、どちらかと言えば「庶民の道」として発展してきた。
 
現在では国道147・148号線そしてJR大糸線(昭和32年全線開通)にそ座をゆずり、太平洋戦争後しばらくは生活物資を運んでいた「歩荷」(ぼっか;山岳のような体力的もしくは地勢的の難所において人間が背中に荷物を背負って徒歩で運搬することを言う)もいなくなり、旧道は現在、地元の生活道や林道、ハイキングコースとして使われている。


次回、小谷村





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日本周遊紀行(7)白馬 「塩の道・謙信と信玄」

2009年11月08日 16時52分54秒 | 長野、新潟県、

白馬村から白馬三山(左下にジャンプ台が見える)



日本周遊紀行(7)白馬 「塩の道・謙信と信玄」


我が第三の故郷になった「白馬村」

白馬村は信州・長野の最北部に位置し、西側山岳部は三千米級の北アルプス北部が連なる。 名峰「白馬岳」の白馬三山、五竜岳、唐松岳などに代表される山並みは、全国から登山者が耐えない。 又、そこから伸びる八方尾根、遠見尾根、岩岳などの山腹には、わが国を代表するスキー場が南北に並ぶ。

その白馬村の中心を、今は副道となった「塩の道」が通っている、昔の国道である。
信州には、塩の道と呼ばれる街道がいくつか存在する。三州街道(伊那街道)とも呼ばれ、三河方面(赤穂事件の吉良家の領)から塩や海産物を信州方面へ運ばれた。又、秋葉街道(南信州街道)は太平洋側の相良から、その名も塩買坂を通って信州へ到った。

そして、こちらは松本から新潟・糸魚川市へ至る凡そ120kmに及ぶ街道で「千国街道」と呼ばれた。松本からは敬意を表して「糸魚川街道」と呼ばれ、越後・糸魚川側からは「松本街道」と呼ばれた、これを通称「千国・塩の道」といっている。


日本海側から塩や海産物を海の無い信州に運び入れるために、又、信州側からは麻、タバコ、米など、中世~昭和初期まで主として使われた生活の道である。 
こちらの特徴は、大名家などの武家による参勤交代などはなく、庶民によるボッカ(歩荷・人々が歩いて物資を運ぶ)や牛馬が通り、道路は蹄(てい、ひづめ)で踏み固められた生活物資の生活用流通路であった。

又、この街道は、「敵に塩を送った義塩の道」としての逸話が有名で、上杉謙信が敵将・武田信玄に塩を送るために通った道としても知られる。
武田信玄の本拠・甲斐は内陸地で、塩を他国からの輸入に頼っていた。
戦国期は、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、駿河の北条・今川義元(氏真)の時代である。 上杉謙信と武田信玄(信州松本は信玄の支配下であった)が川中島で争っている時、同時期、武田は南の海に面した駿河・今川とも衝突してしまう。そのため今川氏真は1567年、甲斐と駿河の国交を断絶し、往来を禁止をしてしまう。氏真は信長に桶狭間で倒された今川義元の子である。 

このため駿河・今川から求めていた塩が甲斐に入ってこなくなり、信玄は本当に困り果ててしまう。おまけに氏真は越後の謙信にも謀って、信玄に塩を送らないように依頼する。
ところが謙信は「そのこと卑劣なり・・!」と申し出を拒否し、更に戦闘中でもあるライバルにむかって、上杉謙信は「貴公とは弓矢を交えても、塩を絶ってまで甲斐の人々を窮乏に貶めようとは思はない。今後は越後から好きなだけ塩や物資を送るので輸入してほしい」と信玄にしたためたという。

ところで、地形的に信州から甲斐の国は南北に長い。
駿河から甲斐へは富士川を遡ると平坦で短いが、逆に越後から信州松本までは国内でも有数に海から遠い距離にある城下町であり、しかも険しい山中が大部分を占めている。

武士道精神にたった謙信の取り成しに、信玄が感服したのは言うまでもない。信玄公は「我が亡き後、国危うければ越後に託せ、謙信は頼りになる男だ・・!」と言い残している。 
実際に、多くの武将は武田家滅亡の後、越後に向かったという。
改めて上杉謙信の偉大さに敬服するのであるが、実際、謙信が信玄に塩を送ったという話は歴史的に確証はされていないとも言われるが・・?。

因みに、現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。
ただ元より、信玄がまだ信濃攻略以前の甲斐しか治めていなかった頃は、謙信はライバルとしての意識はしていなかったようである。 
謙信が信玄を敵視し始めたのは、信濃の主・村上義清が信玄に敗れて謙信に頼ったときからで、義清が前の領地を取り戻したいという、願いを受け入れて謙信は武田家と戦う意思を固めたのである。
このときの最初の戦が「川中島の戦い」で、それから10年ぐらいをかけて信玄とは川中島の戦いを5回も行うことになるが。

この戦いを謙信自身は「義の戦いなり」と称している、つまり、領土的野心のある戦ではなかったのである。
ここにも謙信の「人となり」が表れているし、“義の人”のイメージが見えてくるのである。

余計だが、我が別宅はこの白馬「塩の道」に面している。 
そして毎年五月の初旬(連休)には、往時を偲んで「塩の道祭り」が行われ、大勢の人が練り歩く、中には当時の服装、仮装をして参加している人もいる。

次回は暴れ川;「姫川」
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日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」

2009年11月08日 16時52分15秒 | 長野、新潟県、

信州・「松本城」 

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日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」

西に北アルプス、東に美が原高原を望む信州松本平・松本市、その市街の中央に”平城”として厳然と聳え建つている。 黒城とも言われる「松本城」は周囲の水堀に映えて、どの方位から望んでも実に優美である。
昔は「深志城」と呼ばれ、又、別名黒城、烏城とも呼ばれ、城は戦国時代の戦闘城として今もその形を留め残っている。
薄暗い板敷きの中に入ると、各層がかなり急な階段で結ばれ、各所に敵の侵入を防ぐ石落[いしおとし]や鉄砲狭間[てっぽうざま]といった防護策を施してある。
明治中期には天守閣は荒廃に任せ、倒壊寸前の状態であったが、有志により大改修が行はれ、その後も改装、復元を行いながら現在の姿になった。
 築城は戦国期、家康の名参謀と言われ、後に家康を見限って豊臣秀吉の下に出奔した「石川数正」と長子・康長によるもの。 犬山城、彦根城、姫路城とともに国宝に指定されている名城である。

ここで「石川数正」について・・
若い頃に読んだ、山岡荘八の大長編「徳川家康」に石川数正が多く登場し、かなり印象に残っている・・、内容は忘れたが。 
「徳川四天王」は酒井、本多、榊原、井伊と言われる、石川の名は無い。
徳川隆盛期の頃は家康参謀として、西に石川数正、東の酒井忠次の両名が主軸を成していた。 石川数正は幼い日の家康(松平竹千代)と駿府の人質の頃に苦渋の生活を共にしていた仲で、家康は「数正は随一なり」と評した程で、いわば竹馬の友であった。 三河武士団の中にあって、智謀と外交の冴えで家康の地位を固めていく。
この頃、天下の覇権を掌中にした豊臣秀吉と関東に勢力を置いた徳川家康との間に微妙な力関係や諸問題が発生する。 この間、数正は交渉役として徳川家の外交折衝を務めた。
しかし1585年、突如として家康のもとから出奔して秀吉のもとへ逃亡するのである。その訳の凡そは、秀吉に言い寄られ、次第に懐柔され、果ては周辺では既に親方・家康を裏切っているとの噂が立ってしまう。
 その頃、家康は本拠を浜松に移し、いわゆる四天王がその中枢を固めていた。 数正はというと岡崎城でいわば左遷された形で、西に秀吉、東に家康の様子を伺いながら、悶々とした日を送っていた。
外交通の数正も、交渉を重ねるうち「人たらし」といわれた秀吉の前に次第に傾注してゆき、遂に苦渋の選択の中、不忠の汚名を負いつつ秀吉のもとへ出奔して行ったとみられる、家康に謀反をおこしたのだ。
石川数正の真の狙いは何か・・?、真実は今でも謎とされているが・・。
秀吉の家臣となった数正は徳川家康が関東に移ると秀吉より信濃松本に加増移封されているが、秀吉の死後は当然ながら家康より冷遇されたという。

次回は、安曇野から白馬

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