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日本の旅の記録です・・!!

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日本周遊紀行(230)白馬 「冬季長野オリンピック」(2)

2012年04月20日 09時59分50秒 | 長野、新潟県、
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 日本周遊紀行(230)白馬 「冬季長野オリンピック」(2)  .



1998年・平成10年2月17日、ジャンプ団体

この日、白馬には激しい雪が降っていた。 
ジャンプ台を見ても、選手のスタート地点が見えないほどの悪天候である。 係員が懸命に整備をしても、新しい雪がすぐに降り積もり、予定されていたトライアルは中止が決まり、本番の開催が危ぶまれる状況だった。 

ジャンプは風の影響が強い競技だということはよく知られているが、降り積もる雪も競技には大きな影響をもたらす。 先ず、時速90km前後の猛スピードで滑り、飛ぶ選手たちにとって、激しい雪で視界が妨げられるのはとても危険、さらに、助走路に新雪が降り積もると、スピードがあがらず飛距離は伸びない。 だがしかし、すでにスタンドは超満員、このまま競技は中止されても仕方がないほどであった、予定よりか成り遅れてから、なんとか1本目の競技が始まった。


1本目のジャンプ、日本の1番手・岡部の飛距離は121.5m、続く斎藤が130mの大ジャンプで、2位のオーストリアに44ポイントの大差をつけて首位に立った、やはり日本は強い。 
残す2人はラージヒルのメダリストコンビ、さらなる大ジャンプを期待して、スタンドには楽勝ムードが漂よう。 

でも、神様はそんなにお人好しではなかった。 3番手の原田が登場するのを待っていたかのように、雪がいっそう激しくなってきた。 
会場に原田の名前がアナウンスされた、カメラのアップで、何とか姿は捉えられるが、戻すと雪の中に消えてしまいそうだ。 大丈夫なのか? 競技が続行されるのかどうか心配であったが、日本は参加した13チームの最後に飛んでいる。 3番手のジャンプを残しているのは原田だけ。 

原田がスタートした。 「ハラダ! ハラダ!」という応援の大歓声が、白い風に吸い込まれる。 
ところが、雪の合間からうっすらと見える90m付近のランディングバーンに姿が見えたとき、原田はもう、吸い付かれるように着地していた。 飛距離は79.5m、こわばった表情で電光掲示板を見上げる原田、ハイテンションだった大歓声が、一瞬で凍り付いたように鈍い響きに変わった。 

このとき、日本中の人々の脳裏には、4年前、リレハンメルオリンピックの悪夢がよぎった。 最後のジャンパーとして登場した原田がまさかの失敗ジャンプ、ほぼ手中にしていた金メダルを逃してしまった出来事である。
あれから4年、原田はリレハンメルの雪辱を果たすために、あらゆる努力をしたはずだが、それが・・、直後の原田の一言「屋根付いてないから、しょうがないよね・・」・・と。
 

ジャンプ競技ほど“運“に左右されるスポーツはない。 どんなに努力しようが工夫を重ねようが、本番で吹雪に見舞われたり、積雪で助走路のスピードが奪われれば全て水疱に帰してしまうのである。 
名ジャンパーであった秋元正博氏は「この競技は運が五割だからね」と。 だからといって、「どうせ最後は運だから」と開き直ってしまえば、その選手はそこで成長は止まる。 勝利の女神に愛されるためには、運を信じて険しい坂道を一歩一歩進んで行くしかない、ジャンプは人生そのもののようだ。


雪の勢いは一向に弱まらない、セカンドラウンドが始まって8人目、チェコの選手が飛んだところで競技は一時中断される。 
数分後、セカンドラウンドだけの記録を一度キャンセルして、観天望気の後、競技は再び開始された。 できることなら「もう一度最初から」やり直してくれないものか。 原田選手に、もう一度チャンスをあげたい。 しかし、神様が、いや原田は、さらに感動的なドラマを用意してくれていたのであった。
 

競技2本目、逆転劇の幕開けは、岡部から始まった、日本選手1番手の岡部が137mという驚異的な飛距離をマークした。  
15日の個人のラージヒル2本目に原田がマークした136mというバッケンレコードを更に更新したのである。 
原田がビデオによる飛距離測定器の範囲を越えたため、この日は手書きの飛距離表示板を増設、142mまでスムーズに判定できるようになっていたらしく、早速、それが役に立ったのである。 続く斉藤は124mの安定したジャンプで日本は再びトップに立った。 あとは原田と船木のジャンプに期待、金メダルの夢が再びはっきりと視界に入ってきたのだ。

そして、原田である。 1回目の失敗ジャンプが、まだ頭の隅に残っていて二の舞を演ずるのか、それとも、きれいさっぱり忘れて新たな気持ちで飛び出すのか・・?。 相変わらず雪の勢いは強く、条件は一回目と同じである。
 
再び、NHKの工藤アナウンサーが、ややカン高い声で実況していた・・、
そして「さあ、いよいよ原田スタート・・・ん・・高いぞ・・高くて、高くて、高くて・・、行った・・原田、大ジャンプ・・!!」、ついさっき岡部が樹立したばかりのバッケンレコードに並ぶ137mのスーパージャンプだった。 
場内は興奮のルツボ、TV観戦士(小生)は「ヨッシャー・・!!」とガッツポーズ・・!。 そしてその後、猛烈なプレッシャーの中で着実に決めた船木のジャンプは125m。 
飛び終えた船木が、祈るような表情で会場の電光掲示板を見上げている。次の瞬間、地鳴りのような大歓声のボルテージがさらに上がる、

『 1位 JAPAN」、日本が金メダルである・・!! 』


船木がガッツポーズをしながら、背中から雪の大地に倒れ込み、原田、斉藤、岡部、日本チームのメンバーが、抱き合い、飛び上がって喜んでいる。 原田が、先頭を切って船木に駆け寄り、一度は立ち上がって仲間を迎えた船木が、原田と抱き合ったまま、再び地面に倒れ込む。 
会場はこの上ない熱狂の渦に包ました。
グオオオーと、わき上がるような歓声の中に「はらだー!」、「ふなきー!」と選手たちを祝福する。 誰からともなく起こった「ニッポン!ニッポン!」という大合唱が、いつ終わるかもともなく白馬の山にこだました。 
興奮が永遠に続くのではないかと思うほど、感動的なドラマにすべての日本人、観客が酔いしれていた。 その後、原田が泣きながら「船木、船木・・」と叫んで、コメントしていたのが印象的であった。 やはり、原田はヒーローであり、勝利の女神は日本チームに、原田に、微笑みと愛を下されたのであった・・!!。



今、白馬のジャンプ台は、あの日の思いを秘めるように静まりかえっている。

尚、長野オリンピック競技の内、アルペンスキー競技は男女の滑降、スーパー大回転および複合は白馬村の「白馬八方尾根スキー場」で実施された。 
又、神城地区の山間には「スノーハープ」という競技場が在って、世界一流の選手たちをも唸らせ難コースと言われたクロスカントリー競技が行われた。 
現在は、冬は歩くスキー(クロカンなど)、グリーンシーズンはローラースキーなど自然散策も楽しめる。 又、当地域は「蛍の里」としても整備されつつあり、行楽地域としても絶好の場所になっている。


白馬の別宅に付いた・・!。
ガラン・・!、とした部屋で大の字になって気持ちを落ち着かせる。 そして、名物、「倉下の湯」で身を清め、2,3日ノンビリして、厚木の実家へ戻ることにしよう・・!!。

時に、平成17年6月17日 18時


《 西日本編・・完 》    



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日本周遊紀行(230)白馬 「追憶・冬季長野オリンピック」

2012年04月20日 09時20分48秒 | 長野、新潟県、
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 日本周遊紀行(230)白馬 「追憶・冬季長野オリンピック」  .





写真:白馬村と白馬ジャンプ台



白馬:「追憶・冬季長野オリンピック

序ながら、あの冬季長野オリンピック・白馬ジャンプ競技の感動的名場面を思い起こしてみよう。
1998年・平成10年2月11日、白馬の空は晴れ渡っていた。 

この日、先ずノーマルヒルの競技がいよいよ開催されるのである。 やや高台にある競技場の観覧席は日本選手の原田や船木の登場を、今やおそしと待ちわびていた。
いよいよ本番。 1本目のジャンプは原田雅彦選手がやってくれました。 最長不倒、K点越えの91.5mでトップに立つ。 
飛び終えて、満面の笑顔で歓声に応える原田選手。 
次に飛んだドイツのトーマが84.5m。最後に飛んだ船木和喜選手はやや伸びを欠いた87.5mのジャンプに終わり、原田選手が断然トップで折り返した。 1本目を終えて1位が原田選手、そのほかの日本選手は船木選手が4位、葛西選手が5位、斉藤選手が7位である。 一本目は真さに期待通りの強さであった。 

空は本当に気持ちよく晴れ渡り、さわやかなそよ風(ジャンプ台には向かい風)が吹く絶好のコンディションで、誰もが、もう原田選手の金メダルを信じているようである。 
2回目を待つ間も会場は大興奮!
しかし、・・あああ、これは神様のいたずらか・・! それでも原田は主役であった。
 

2本目の競技は、1本目の上位30人が出場し、下位の選手から順番に飛んでいく。 
船木が登場したのは勿論最後から4人目、満員のスタンドが歓声とともに大きく揺れた。
飛距離は90.5m、2本の合計ポイントは233.5点、フィンランドのアホネンを合計ポイントで2点上回りトップに立つ。 
残すは3人、1人でも船木に及ばなければメダルが確定する。 船木の次に飛んだのはオーストリアのビドヘルツル、飛距離は船木選手と同じ90.5mまで伸ばした、ビドヘルツル選手は1本目88mを飛んで3位、ああ、抜かれてしまうかという不安を抱きながら見守る。 でも合計ポイントは232.5点、船木には届かない、大歓声が起こる、船木のメダルはもう確定した。 
飛距離の合計では船木を上回ったビドヘルツルであったが、世界一美しいといわれる船木のジャンプは、飛型点を多くかせいでわずかな差を守った。
これで原田選手が「自分のジャンプ」をしてくれれば、日本が金銀のメダルを獲得できる可能性があった。 次はフィンランドのソイニネン、見事なジャンプで89mを記録した、ソイニネンが着地した瞬間、「ウオオオ」という声があがつた。 船木が逆転されたのである。 
なんにせよ、これで原田選手が「ちゃんと飛んで」くれさえすれば原田が金メダル、船木が銅メダル・・、最高の成績である・・?。

いよいよ最後のジャンパー、原田の番がやってきた。 
白馬の山を貫くような大歓声が起こる、いよいよ原田がスタートした。
そして、結果は・・、原田はやっちゃいました。飛距離は84.5m、合計ポイント228.5点で5位に転落してしまったのである。 
「ああああああ・・!!」、着地した位置を見て、やけに長いため息が渦巻いた、あのリレハンメル・ オリンピックの団体戦、最後のジャンプで失敗したシーンが頭をよぎる。
 

残念ながら、日本選手の金メダル獲得はならなかった。 
それでもバーンを滑り降りてきた原田は、終始笑顔を崩さず、手を挙げて歓声に応えた、ヘルメットを取り、周囲のスタンドに何度もおじぎをしている。 
きっと「応援してくれたのに、金メダルが取れなくてすみません」という意味なのだろう。 悔しさに顔をゆがめていいはずなのに、観衆を気づかい、取り囲む報道陣の質問にもていねいに答えている原田選手の姿。 
観衆の誰も、原田を責めるような声を飛ばしたりはし、むしろ「ラージヒルは期待してるぞぉ!」という声があちらこちらから聞こえていた。 
  

ジャンプ・ラージヒルの日、1998年・平成10年2月15日、天候は雪である。 
競技の前にトライアル(試技)と言う練習ジャンプがあり、飛んだ原田は108mの失敗ジャンプ、船木は着地でバランスを崩して転倒してしまい、あやうくフェンスに激突しそうになった。

ともかくも、1本目の競技が始まった。 
岡部の1本目、飛距離はなんと130m!大差をつけて、まず首位に立つ。 原田がスタート地点に姿を見せると、満員のスタンドから大歓声だ、ノーマルヒルでの屈辱を晴らして欲しい。 原田の飛距離は120m、失敗というわけではないが、風に恵まれず、やや不本意の5位。 
そして1本目の最後に飛んだ船木の飛距離は126mで4位につける。

1本目が終わり、2位に岡部、4位に船木、ややポイント差はあるものの6位に原田が続く。
ファイナルラウンドは1本目の上位30選手だけで争われる。 風の条件がよくなったのか、1本目より飛距離を大きくのばし、K点を越えるジャンパーが続出する。 

25人目、いよいよ原田の2本目、地響きのような歓声があがる。 
そして、原田がやってくれました。 NHKの工藤アナウンサーが「・・・さあ、原田スタート・・、ン・・高いぞ・・どこまで行くのか・・立て、立て、立ってくれ・・立った・・!!」の絶叫口調が耳に残る。
そして、135m地点を越える大ジャンプ。 見ていても伝わってくるような衝撃に、足と両手を大きく広げて転倒しそうになるのを耐えきった。 まさに奇跡・・、歓声が爆発音のように激しく原田を祝福する、これでメダルに手が届く! アップの画面でスタンドには、もうすでに泣いている人がいるようだ。 

ところが、会場の電光表示板には、いつまで待っても「HARADA」の飛距離やポイントが表示されない。 
白馬のラージヒルのジャンプ台では、ビデオを使って飛距離判定をしているが、カバーしているのは135m地点までで、原田は、その135m地点をはるかに越えて着地してしまったのだ。 

測定ビデオのないところまで飛んでしまったために、測定されないまま次の選手がスタートしている、「原田はどうなんだ?」、観戦諸氏はヤキモキ・・、すばらしいポイントをマークしたのは間違いないが・・?。 競技は進む、そして、続いて船木がやってくれた。 原田の大ジャンプの興奮もさめやらぬうち、またまた130mを越える大ジャンプを見せた。 飛距離は132.5m、しかも、テレマーク姿勢もぴたりときめて、飛型点は審判全員が20点満点というずばらしいジャンプであった。  
残るは2人になって、1本目2位の岡部が登場、この時点で船木が1位、原田のポイントはまだ発表されないが、残念ながら岡部の飛距離は119.5m、最終的に岡部は6位。 
いよいよ最後のビドヘルツルである、この時点でトップは船木、もし、ビドヘルツルの飛距離が伸びなければ、船木選手が金メダルである。
スタートを切った。 我々日本人は「落ちろー!」と心の中で叫んだに違いない。 それが通じたのか、飛距離は伸びなかった、120.5m。 
原田のポイントはまだ表示されないままであるが、船木が1位であることはもう間違いない、船木の金メダルが確定した。 ラージヒルでは会心の金メダル、観衆に向かって大きく手を上げて喜びを表現している。 

競技はすべて終わった。 でも、原田のポイントはなかなか表示されない、一度は観衆の声援に応えた船木が、少し心配そうに原田に歩み寄る。 そして、電光表示板に「HARADA」の名が浮かび上がった、3位である・・!。 
飛距離は136m、白馬の山が割れるような大歓声が起こる。 
金メダルの船木選手は本当にすばらしい、でも、原田の銅メダルは、見ている者にとって、金よりも輝いていた、オメデトウ・・日本、次は団体である。

ここでは何と言っても原田の2本目のジャンプが注目された。 白馬の冬のバッケンレコード131.5mであるが、それを4.5mも上回る大ジャンプであった。 
この辺りの地面(雪面)はほぼ水平で、着地した瞬間は、物凄い衝撃が全身を打ったはずである。 後日談で、この136mジャンプの着地の際、あまりの衝撃の大きさで原田のスキー板にヒビが入ってしまったという・・、凄い・・!!。 


次回は、「ジャンプ団体



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日本周遊紀行(12)新潟 「信濃川と上杉家」

2009年11月09日 10時36分57秒 | 長野、新潟県、




日本周遊紀行(12)新潟 「信濃川と上杉家」



新潟市内へ入って間もなく、信濃川に架かるかの有名な「万代橋」を渡る。
万代橋は昭和4年の構築にしては美観溢れる橋である。それもそのはず、この橋は国の重要文化財なので、 文化財の橋としては、あの「日本橋」に次ぐ2番目だそうである。
橋の下流は、充々と満たされた水流が間もなく日本海に達しようとしている。
信濃川は全長367kmで日本で一番長い川であることは周知であるが、長野県に遡ると千曲川や犀川(さいがわ)と名称が変わることは余り知られてはいない・・?。
実は、新潟の信濃川と呼ばれている部分は153キロメートルなのに対し、長野県の千曲川と呼ばれている部分214キロメートルと千曲川の方が長いのである。千曲川の流域である佐久や小諸市周辺は、島崎藤村の「千曲川旅情」でも有名である。

小諸なる 古城のほとり
雲白く 遊子(ユウシ)悲しむ
・・・
千曲川 いざよう波の
岸近き 宿にのぼりつ
濁り酒 濁れる飲みて
草枕 しばし慰む

又、犀川は上流の「安曇野・押野」に到って「梓川」と「高瀬川」が合流する。 この両河川のことを安曇節が詠っている。

『安曇節』 長野県民謡
槍で別れた梓と高瀬
巡り会うのは 巡り会うのは 
押野崎 チョサイ コラサイ

小生、山歩きが好きで北アルプスを何度も巡ったことがあり、「槍ヶ岳」にも登頂したこともあり、頂上より東へ「東鎌尾根」というのが延びている。この分水尾根を左右、北と南に分けた水域が「梓と高瀬」なのである。
南の槍沢へ下った渓流は、やがて、梓川となって「上高地」を潤し、又、北の天上沢へ降りた水流は、高瀬川となって大町へ到っている。

千曲川と犀川が合流する地点が長野市の川中島で、「川中島古戦場」であり歴史的な名所である。現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。

武田信玄(晴信)と上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いで、いずれの戦いも千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地を中心に行われたことから、川中島の戦いと総称している。 
延べ10年位をかけて5回も行うことになるが、結果として戦い以後も武田信玄が北信濃を支配し続けたため、信玄が戦略的勝利をおさめたと評価しうる。 

一方、上杉軍は北信濃をほとんど奪うことができなかったものの、謙信も信濃飯山城を守りきったため、ある程度の成功を収めた、そのため両者痛み分けとする見方も有る。


この後、信濃川河口においても動乱があった・・、
天正6年(1578年)越後の虎・上杉謙信は脳卒中で死亡する。
謙信は生前に後継者を決めていなかったため、二人の養子である景勝と景虎が後継跡目を争うことになってしまう、この跡目争いを「御舘の乱」といい、上杉家のお家騒動である。 

謙信は内心では、関東管領職と上杉家の跡目を景虎に、越後国主の座と越後上杉家を景勝に、それぞれ継がせるつもりであったというのが一般的な説となっているが。
その前に、長尾景虎が上杉謙信と名乗ったのは、元々、越後の長尾氏と上杉氏は姻戚関係にあり、上杉氏は関東管領職にあって、その家督と職を謙信が継いだことから上杉姓を名乗ったのである。その後、仏門に入って謙信と名乗った。

「関東管領」というのは、室町幕府における職名で関東地方一帯を統治する役職をいい、鎌倉に設置されていて足利将軍家が任命することになっている。 管領職は上杉氏の世襲で、鎌倉管領ともいう。

この「御館の乱」は、結果として家中の支持を集めた景勝が、景虎を攻め滅ぼすことになる。
この時、新発田城主・新発田重家は謙信に仕えていて、謙信の死後に起こった「御館の乱」では上杉景勝の重臣として勝利を得ている。 
しかし重家は、織田信長と気脈を通じ、上杉家において謀反を起こすのである。原因の一つに御館の乱での恩賞が不満であったらしい。 
重家は信長の支援のもと上杉氏に対して攻勢を強めたが、景勝軍と戦って敗れ、自害して果てている。
重家は、その戦乱中に新潟・信濃川の中洲に砦(築城)を築いている。しかし、4年後には景勝によって落城してしまう(廃城)が、この時の廃城遺構は現在は残っておらず、実際の場所も分かっていないという。 

その理由は、当時は信濃川と阿賀野川の河口が一帯となっており、その「中の島」に築いた城の為に、後の洪水等の河口変動により土地(島)が消滅してしまった為とされている。 現在は川底なのか陸上なのかも不明だが、市内白山公園付近(信濃川の昭和大橋のたもと)ではないかとの推測もある。

信濃川の「中の島」と言う事で上杉方も簡単には攻められず、水上交通の要所の為、水利権を得た新発田側が物流を掌握するなど一時は優勢であった。 一方、上杉方は地元の商家と組み、商船に武器を俵に詰めるなどして乗せ、内通者を通じて場内に入り込み城主を討ち果たし、あえなく落城させたといわれる。
その後の新発田側は、劣勢に追い込まれ、次々と城も落ちて 、遂に本城の新発田城も落城し、新発田氏は滅亡する。結果、重臣・直江兼継を以って、越後には「上杉景勝」時代が到来するが・・!。

尚、「新発田」と言う名称は新発田氏が滅んだ後もその名は残り、現、新発田市、そして新発田藩、新発田城として江戸末期まで存続している。 
慶長2(1597)年に上杉景勝が会津若松移ると、秀吉の家臣・溝口秀勝が新発田城に任じられ、その後は代々溝口氏の居城となった。その秀勝の「秀」は秀吉から授かったとされ、曾孫にあたるといわれる人物に赤穂浪士・「堀部安兵衛」がいる。

溝口氏の江戸期、河口上流部での河川改修により阿賀野川が信濃川に合流(水路で繋がれている)するようになってから水深も深くなり、新潟は河川水運、日本海海運の「新潟湊」として発展してゆく。

幕末、修好通商条約によって新潟は函館、横浜、神戸、長崎ととも日本海側ではただ一港の「官港」として開港し発展してきた。

次回から「山形県」
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日本周遊紀行(11)出雲崎 「金(ゴールド)と良寛」

2009年11月09日 10時35分25秒 | 長野、新潟県、
日本周遊紀行(11)出雲崎 「金(ゴールド)と良寛」


出雲崎は、出雲の国と交流があったことから名づけられたとか・・、
地名の由来は、出雲の「大国主命」が当時の「越の国」(古代北陸地方の名)まで遠征したとき、出雲の国との交流が始まった事に因むものと言える。
今は、日本海に面した小さな町ではあるが、かつては北国街道の宿場町で、往時を偲ぶ家並みが6kmも続いていたという。 現在、その北国街道の名残りである出雲崎の「妻入り住居の町並」が歴史国道として、歴史的町並保存地区に指定されている。
「妻入住居」とは・・、 建物の正面出入口を屋根の三角部分を正面とする様式である。これに対して、建物の正面出入口を屋根と直角方向に設けること「平入り」(ひらいり)という。

海を隔てて佐渡ヶ島まで50km余り、出雲崎は佐渡金山の金の陸揚げ港としても栄えたという。 道の駅に「越後出雲崎・天領の里」というのもあり、江戸時代においては出雲崎は、佐渡への黄金の道、御奉行船などが出入りするための地で、幕府の直轄地を「天領」と称した。
江戸時代に佐渡金山で産出した金銀は、現代に換算して凡そ2000億円にのぼるとされ、その何割かが江戸城に送られた。 佐渡奉行所(佐渡・相川町)の御金蔵から運び出される金銀の荷は木箱に入れて封印し対岸の出雲崎まで運ばれた。 官船は「御座船」とも呼ばれ、船のまわりには幔幕が張られ白地に紺色の葵の御紋の幟が舳先に、また船尾に立てられたという。
出雲崎からは陸路で江戸までの距離はおよそ92里(368㌔)、出雲崎では支度のため2泊、それからは鉢崎、高田(新潟県)野尻、屋代、小諸(長野県)、坂本、高崎(群馬県)の順で、埼玉県に入って熊谷と浦和、板橋となり、1日37㌔のペースで早ければ10日間かかって江戸へ着いたという・・、その道を「金の道」と称した。 現在の国道352号、18号で北国街道ともいい、加賀藩前田家をはじめとした北陸諸大名の参勤交代の道として、そして越後最大の高田藩と江戸を結ぶ街道としても賑わった。

出雲崎は良寛(りょうかん)(1758~1831)生誕の地としても知られてる。良寛は芭蕉よりも百年あまり後の人で、歌を詠み、書をしたため、一生清らかに暮らした和尚として有名である。
江戸末期・長岡藩家老の「河井継之助」(司馬遼太郎の『峠』の主人公)が曰く、越後の生んだ英雄は「上杉謙信と釈・良寛」だという。 
良寛は1758年、出雲崎の名主(なぬし:大庄屋の下で一村内の民政をつかさどった役人、身分は百姓)の長男として出生しているが、名主が性に合わず突然、寺で髪を切って出家し、名を「良寛」とあらためている。岡山・玉島(現在の倉敷市)の円通寺で十数年修行し、その後、諸国行脚し20年修行につとめ、越後に戻ったのは39歳であった。
越後に帰っても、寺も持たず、説教などもせず、貧しい庵をつくって住んだ。 名・利を離れて村童たちと天真らんまんに遊び戯れ、詩歌を詠じ、心のままに一生を送った。 その歌は万葉調を好み、用語や格調にとらわれることがなかったという。良寛の名は、子ども達を愛し、積極的に遊んだと云う行動が人々の記憶に残っている。 良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈している。

 『 子供らと 手毬つきつゝ 霞たつ
           長き春日を 暮らしつるかも 』
 『 霞立つ 長き春日を 子供らと
           手まりつきつつ この日暮らしつ 』
と詠う。
良寛は又、戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わしたという。 唯一の女性弟子の「貞心尼」に対して、ほのかな恋心を抱いていたとも云われている。
禅師.常に酒を好む.然りといえども量を超えて酔狂に至るを見ず.また相手は田夫(でんぶ)、野翁(やろう)たりとも互いに銭を出し合いて,酒を買い,呑むことを好む.しかも汝(なんじ)一杯,吾一杯という風に,盃(さかずき)の数,彼我(ひが)幾多少(いくたしょう)なからしむを常とす
良寛は決して世捨人、隠者をもって自認していたのではなく、 人を恋い、人と相会うことを喜ぶ。  以外と好き嫌いが激しく、「真にして偽りなき」性(さが)を愛した、 それは子供たちであり、きこりや漁夫たちであった。
老いても木石のようにならず、生きる喜びを謳歌し続け、一人でいるのが好きで、一人でいても四六時中が充実していた。 手先も器用で結構ユーモアがあり、嘘が言えない愚直さ、放浪性、孤独性、庶民性と貴族性と特異性を併せ持った性質であったと・・。
良寛の特に嫌いなもの三つ、詩人の詩、書家の書、料理人の料理。つまり、型にはまった、技巧を弄したものを嫌ったようである。   
町と日本海とを見下ろす丘陵上に「良寛(りょうかん)記念館」は建ち、良寛の書画やゆかりの品々が展示されている。

次回は、「新潟」

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日本周遊紀行(10)上越 「越後・上越」

2009年11月09日 10時34分16秒 | 長野、新潟県、
日本周遊紀行(10)上越 「越後・上越」


「上越」のことであるが・・、
新潟県を地域で呼ぶと通称三つに地域を云い、北部より下越、中越、そして上越の各地方のことである。地理的な表現だと下越が上方で上越が下方になる・・? 
しかし、地名というのは古来より伝承されたものが一般的であり、「上越」という地名は、当地に平安期の「国府」が存在したのが大きな理由だろう・・?、しかも「京」に近い地域を“上“としたのであろう。

この上越は小昔の昭和期までは、懐かしい名称の「高田」、「直江津」と其々の地域に分かれていた。
高田地区はやや内陸に在り、妙高山麓にちかいこともあって、豪雪地帯で有名である。 この地区には越後で最大とされた高田藩の拠点であり、、高田公園・高田城がある。 戦国末期、徳川家康の六男「忠輝」が築城したもの。
直江津・・、直江の津は中世より拓かれた港町であり、「津」は港を意味する。 上杉家の家臣、「直江氏」が現在の直江津の辺りを本領とし、津(港)の支配権を所持していたようである。地名は戦国時代末期に、上杉景勝の家臣・「直江兼続」が、姓名を取って直江津港を開いた事に由来する。
直江兼継は、越後の二代目藩主・上杉景勝の主席家老であり、文武兼備の智将でもある。
戦国末期、家康が上杉景勝に「謀反の疑いが有る」と、言掛りを付け、その上杉景勝に疑いを晴らす為に「大阪へ来い」と使者を会津(上杉景勝の領国)に派遣する。 この返事を上杉景勝に代わって家老の直江兼継が「謀反などありえない、大坂へ行く必要はない、来るなら来い・・、」と言う、云わば果し状」(直江状と呼ばれる)とも云うべき檄文を届ける。
この返書が家康を激怒させ、「関が原の役」の引き金となったともいわれる。
上杉家は関が原の役で交戦する事なく敗者となったが、兼継は勝者の家康に面会の折、死を覚悟して「私は、天下一の弓取り内府公(家康)と戦いたかった」・・ともらしたという。 家康は、兼継の男気に惚れ、本来ならば上杉家断絶・切腹のところ、気骨ある人物を殺すには惜しい男と観て、上杉家そのものも米沢へ減封(120万石から30万石に)されただけで済んだという。
兼継は上杉景勝より6万石を貰っが5万石を同僚、家臣に分け与え、更に5千石を小身の者に与え自分は5千石で暮らしたという。

現在、NHKで「風林火山」を放映中でお馴染みであるが・・、上越には何といっても「春日山城址」がある。 標高190mの春日山山頂に築かれ天然の要害を持つ難攻不落の城で、戦国期の名将「上杉謙信」の居城であった。
「謙信」は初名は長尾景虎といい、越後の龍と恐れられた戦国屈指の闘将である。 山内上杉家より、その名跡と関東管領職を継ぎ、後、仏門入道して上杉謙信と名のった。
戦勝の神・毘沙門天への信仰が深く、戦場では常に白地に「毘」の文字を染め抜いた軍旗を掲げて戦った。 宿敵・武田信玄や、関東の雄、北条氏康・氏政父子を相手に、生涯数え切れぬほどの合戦を繰り広げたが、大義名分のない合戦は決して仕掛けなかったという“正義の人”でもある。

さて、豪雪地帯の上越地方であるが・・、
「トンネルを抜けると雪国であった」というのは同じ越後でも越後湯沢のことであったが、こちらも大の雪国である。
日本の国土で雪国(積雪寒冷特別地域)と称される地域は、日本の国土の約6割、人口は2.5割を占めるといわれ、高齢化は全国平均を上回るスピードで進展しているという。 一昔前までは、雪国の地域である日本海側を「裏日本」と称し、少雪国の太平洋側を「表日本」と称したようである。
雪国の対極にあるのが暖国・表日本であり、積雪寒冷特別地域以外の地域で、いわゆる太平洋ベルト地帯である。 かの明治維新以降、先進工業化が優先的に整備され、日本人口の7割、工業生産出荷額の約7割が集中するなど、日本の産業、経済、サービスの中心であることは確かである。
昭和の宗匠・田中角栄が、『上越国境の山地をブルを総動員して削り取ってしまおうか・・?』と冗談とも、本気とも取れる発言をしたことは知る人ぞ知るであるが・・。
雪国は弱者であり、絶えず豊かな暖国から支援されてきたといわれるが・・??。雪で閉ざされ暗く、高齢化率も高いから未来も暗いのであろうか・・?、否であると。 
雪国の代表の一つである新潟の人口は、明治20年ころまでは、東京、大阪、兵庫を抜いて日本一であり、昭和40年代の初めころまで納税額もトップクラスだったそうである。
また、江戸期以前の日本海には、上方(大阪)と蝦夷(北海道)とを結ぶ物流航路が存在していたのは周知で・・、高田屋嘉兵衛でも有名な北前船である。大阪からの「下り荷」は塩、酒、雑貨、北海道・東北・北陸からの「上り荷」は海産物、米、材木が主体であり、中継港の敦賀、新潟、酒田は繁栄を極めたなど、経済でも暖国に引けをとらない時代もあったのである。

雪国には、雪で閉ざされた時期を生き抜く衣食住の知恵がある。 また、自然の雪ダムで水が豊富で、食料自給率も高く、米、酒が旨く、自然が豊富でもある。 21世紀に世界が抱えるであろう問題は、地球温暖化、食糧問題である。
日本も確実に直面するであろう、これを克服する素地は暖国にはない、・・が雪国にはあると。
21世紀は、あるいは雪国の時代ではないか、これから雪国の反攻が始まるというが、さて・・!!。

次回は、「出雲崎」
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