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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

古都鎌倉(13) 「杉本寺」

2009年06月11日 09時14分56秒 | 鎌倉編
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巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島



古都鎌倉(13) 「杉本寺」
 
鎌倉で一番古いお寺を知っていますか・・??、
鶴岡八幡宮から金沢街道沿いに東に約1km行くと左手の森の中にあるのが観音霊場・「杉本寺」である。



観音霊場について・・・、
四国の観音霊場の巡拝は、巡礼と言わず一般に「遍路」(へんろ)と言う、「辺路」に通ずる。
世界遺産に指定された熊野古道では、小辺路、中辺路や大辺路などが在るが、こちらはヘンロとは言わず「ヘジ」と読む・・。
お遍路さんが着用する白い衣が「死に装束」で、手にする金剛杖には五輪の梵字が刻まれ「墓標」そのものであるという。つまり遍路は昔は辺鄙(へんぴ)の地を巡る道で即ち「辺路」で、死を覚悟した厳しい「修行」だったという・・。

巡礼または巡拝は、観音様をお参りし、衆生の功徳を願う周遊的な参詣といえる。
「巡拝寺院」を「札所」というのは、自分の氏名、住所の書いた木札を巡拝寺院に打ち付けたからで、現在は木札が紙札に変わっている・・。
「観音経」によれば、「三十三観音」は我々悩み多い人間を三十三の姿に変身して救ってくださる観音だといわれる・・。
現在では「六観音」といって、現世利益中心の密教(真言、天台)を主とした観音に人気があるという・・。
「六観音」とは聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、 准胝観音、如意輪観音で各々、現世の悪鬼救済の役割を果たすとしている・・。
因みに、霊場と言われる「坂東三十三ヵ所」の観音寺院は一箇所を除き、全て六観音の内から成っている。
ところで、全国に観音霊場は多数存在するが、代表的なのが西国、秩父、坂東で秩父の一ヶ寺を加えて「百ヶ所観音霊場」ともいう。
「百ヶ所観音霊場」の巡拝で結願を果たした場合、そのお礼として長野市にある「善光寺」(南向観音)と「北向観音」(上田市の常楽寺)にお参りするのが習わしとしている。

「杉本寺」は、鎌倉幕府が開かれる500年も前の奈良期の天平年間に創建された鎌倉最古の寺である。 
板東三十三観音霊場の第一番札所の発願寺であり、札所参りは、この寺から始まるのである。「坂東札所」は平安中期、花山法皇が巡って来られた札所を指定したことから始まってとされている。
鎌倉幕府が成立し、源頼朝が観音信仰に熱心だったため、後世、更に隆盛したという・・。

小さな仁王門をくぐると、苔むした細い石段の両脇に「十一面杉本観音」と書かれたいくつもの幟が目につく。 登り切ると茅葺きの本堂が目前に現れ、風格と美しさに思わず息をのむ・・。
佇んでいると、ゆっくりとした時の流れを感じ、落ち着いた気分に浸ることができる。
奥の方にはそれぞれ慈覚大師(じかくだいし)作、行基(ぎょうき)作、恵心僧都(えしんそうず)作といわれる三体の十一面観音が立つ。 仁王門の仁王像は、鎌倉期の代表的刻師・「運慶」の作という・・、何れも、重文及び国宝である。

次回は、 「建長寺」


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古都鎌倉(12) 「瑞泉寺」

2009年06月10日 09時19分12秒 | 鎌倉編
巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島

古都鎌倉(12) 「瑞泉寺」
 


鎌倉駅徒歩から徒歩で30分、または京急バス鎌倉駅から大塔宮方面へ・・、二階堂地区の最奥部山裾に「瑞泉寺」は静寂な佇まいの中に在った。
本堂裏手は、岩山になっていて、くり貫いた岩屋の前は、草木に囲まれた小池が寂として佇んでいる・・。

某人が岩屋で座禅想に耽って居る時、池面に、満ちた月が映っている、しかし、その月は、いつしか移りゆき、消えうせていた・・。
「世は動である・・、しかし、動の中に静を求める・・。 今は静である、しかし、静の中にも動がある」 微かに落ちる水の音と小鳥の啼く音、静寂の風景の中にこんな想像をしてみたが・・。


室町時代にかけて臨済宗の黄金時代を築いた「夢窓国師」は、足利尊氏・直義兄弟の篤き帰依を受け南北朝時代の動乱の渦中にありながら良く出家者としての中庸の立場を保ちつつ、南北両朝の天子(天皇及び一族)たちの精神的指導をなしたともいう。 
師は、後醍醐天皇を初めとし多くの天皇より国師号を賜り、「七朝国師」といわれるほど尊崇されていた。
更に吉野朝廷と京都側との講和を図ったり、尊氏兄弟の和を図ったりしたために権勢に近づき政治的手腕にも長けていたが、決して介入はせず、寧ろ権勢に参加することを拒否した高潔な禅僧であったという。

国師は各地に禅寺を創生、中興し、併せて禅流の思想にもとずく庭園を創作したことは、よく知られ、この瑞泉寺の庭園が各地の国師庭園の大基になっているともいわれる・・。
特に著名なのが京都の苔寺・西芳寺や天竜寺の庭園であるが・・。
庭は、中腹の鎌倉石の岩盤に滝、池、中島等の全てを巧みにえぐって橋をかけ、さらに水を貯めて滝として流すなど、岩庭と呼ぶに相応しい庭園である。 鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されている。

本堂裏の庭園から「天園ハイキングコース」が敷かれている。
この鎌倉の丘陵地帯であるハイキングコースは別名「鎌倉アルプス」と呼ばれ、市街を囲むように延びている。 南面には相模湾が広がるが、他の三方向は山に囲まれているため、天然の要塞の様になっている。
因みに、この事は源頼朝が平家の大軍を迎え撃つことになるかも知れないという思案の元に、鎌倉を永住の地と決めた経緯にもなったともいわれる。

庭園の裏山の山上には国師が開いた「偏界一覧亭」(へんかいいちらんてい)が在ったという。 ここで鎌倉五山の僧を招いて、よく詩歌を詠み、勉学に勤しんだという・・、これが「五山文学」発祥といわれた。 
五山文学とは、夢窓国師を中心とした禅僧によって生みだされた漢文学で、臨済宗の奥義を吟味しながら詩文を中心に禅義、法語、日記、随筆、紀行文などと多彩で、一山・疎石(夢窓国師)の門下によって五山文学は一層栄えたという・・。
現在、コースからは木柵で閉鎖され、行けないようになっているが、名残の小堂が残っているようである・・?。 その前に碑文が立っていて一部に・・、
『 前もまた 重なる山の 庵にて 梢(こずえ)に続く 庭の白雲 』・と夢想国師がこの亭で詠んだものと伝えられている。

「瑞泉寺」は、室町期の鎌倉公方(京・室町の征夷大将軍が関東十ヶ国における出先機関として設置した鎌倉府の長、関東公方ともいう)の代々の菩提寺であり、本堂前の大庭園は百科の花が咲き誇り、特に「梅」は有名である。


門前に「吉田松陰」の碑が在った。
吉田松陰が江戸遊学時、時折ここ瑞泉寺を訪れている。 当時、この寺の住職である名禅僧「竹院」は、松蔭の伯父に当たっていた。

松蔭は、江戸期の官学である朱子学を中心とした教育をうけていた。
朱子学者は異教である仏教、特に禅宗を敵視する傾向が強い学問であるといい、ために仏教に対する警戒心が有った。
朱子学では、学問的な理性の自己実現という命題があり、従って、禅宗でいう「悟り」とは実体が無く、道にも外れた空理であると断じ結論付け、排撃といってよいほどの姿勢に転じている。 
しかし松蔭は、学問的偏見や肩書きには捉われず、人を見る洞察力、判断力があった人物である。 松蔭が初めて江戸に来た時に早速訪れて、この禅僧とじっくりと話し合い、詩文から禅宗の高等理論まで様々談論している。
そして・・、
『死して後、已む』という格言を会得している。 松蔭の実践思考と禅宗の考え方が一致したのである。
「已む」(やむ)とは・・、長く続いている現象や状態が自然に止まり消え失せる意で、自然現象などが時が来て消え失せる、お仕舞になる、続いていたものに決まりがつく、落着する、後が続かなくなる、物事が中止になる、病気・気持などが治まる、癒えるといった意味合いをもつ。

松蔭は、嘉永6(1853年)年6月、ペリー率いる米艦隊4隻がやってきた直後、その様子をつぶさに観察し、その後、「瑞泉寺」を訪れている。 
竹院が見るところ、この日の甥御はどこか様子がおかしかったという。
松蔭が切り出した話に竹院は驚愕した・・、話は、長崎に停泊しているロシア船に乗込み、海外に留学すると言うのである・・。
しかし、竹院はこれを「貴」とした、そして、路銀の足しにとして金三両を渡しているのである。 そして、10月には長崎へ発ち、末には入っている。 
だが、あろうことか、長崎のプチャーチン艦隊は既に出航した後だった・・。

それからの安政元年(1854年)1月、米国のペリー艦隊が前回の倍近い7隻を率いて再び浦賀に現れている。 そして、あの吉田松陰の密航事件が発生するのである。
ペリー船が再航した際、門弟と二人(金子重輔)でポーハタン号へ赴き、密航を訴えるが拒否されている。
その後、幕府に自首をし、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚されるのである。

尚、「吉田松陰」については、本ブログ集の巻頭・『旅の旅の旅』に若干の記載が有り、更に、「西日本一周記」の内、地元・山口「萩」の項で詳細を述べる予定である。
日本周遊紀行 山口県萩「吉田松陰」  http://orimasa2005.blog101.fc2.com/category43-1.html

次回は、 「杉本寺」

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古都鎌倉(11) 「鎌倉宮・護良親王の墓」

2009年06月09日 10時21分28秒 | 鎌倉編


「大塔宮・鎌倉宮」と裏手にある土牢(下左)及び親王墓墳
 

巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島


古都鎌倉(11) 「鎌倉宮・護良親王の墓」
 
脚は再び八幡宮の北東部の奥の方を目指す・・、そこに「大塔宮・鎌倉宮」、そのまた奥の階段を登った先に「護良親王の墓」が在る・・。

鎌倉時代末期の頃・・、
京では後醍醐天皇が中心となって倒幕の機運がもり上っていた。
しかし当初は失敗して天皇は流刑の処分にあい隠岐に流される。この頃、後醍醐天皇の第一皇子は叡山にこもって修練し、天台座主となり「大塔宮」と称し、武力を元にした寺院勢力を味方につけ、そして間もなく還俗して「護良親王」(もりながしんのう)と名乗っている。
親王は、楠木正成らの反幕府勢力と合流して蜂起し、吉野、高野山、熊野などを転々として2年にわたり鎌倉幕府軍と戦い続ける。 
今でもこの地方には親王の所縁や痕跡が残っている、紀州の大塔村は親王の名を記念して付けたものといわれる・・。

この時期、関東・足利に勢力をもつ「足利高氏」が鎌倉の命で、天皇派を一掃すべく上京するが、途中で寝返り鎌倉の京の出先機関である「六波羅探題」を攻めて、これを滅ぼしている。 
1333年、後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨(りんじ:天皇直々の命令書)を再び発し、これを受けた上野の国・新田の郷の勇士・「新田義貞」は、鎌倉幕府の本拠(最後の将軍:北条高時)を攻めてこれを滅ぼしている。

北条・鎌倉が滅んだ後、護良親王は京へ戻り後醍醐天皇とともに新政を開始する、(建武の中興)・・。 親王は公家でありながら、征夷大将軍に任ぜられ、足利尊氏は鎮守府将軍となった・・。  
しかし、所詮は公家と武将、次第に尊氏と反目しあい、父の後醍醐天皇とも折り合いが悪くなり、遂に、尊氏暗殺のため兵を集めるが失敗する。 結果、皇位収奪を企てたとして謀反反乱のかどで、捕らえられる。
親王は、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ護送され、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟・足利直義の監視下に置かれる。 親王は、ここ鎌倉宮:往時の東光寺の岩牢に閉じ込められた。 
その後、建武2年(1335)鎌倉に攻め入った北条時行に敗れた直義は、逃れる際に親王を暗殺している・・、親王は若享年28歳であった。

その後、後醍醐天皇の強引な政治手法に反感した足利尊氏は天皇を追放して、京に光明天皇(北朝)を擁立、一方後醍醐天皇(南朝)は吉野にあって政権復帰を覗う・・。
所謂、この先50数年にわたり南北朝時代の動乱の時代へ突入する・・。(太平記) 

1338年、足利尊氏は京・室町で征夷大将軍となり、足利幕府・室町時代を開く。
足利時代、所謂、「室町時代」(1338~1573)は、南北朝(1336~1392)の動乱、応仁の乱(1467~1477)、戦国時代(北条早雲、1495~・・)と、混乱の時代でもあった・・。


「鎌倉宮」は、大塔宮・護良親王を祭神として、明治2年に明治天皇の勅命で創建された神社である。 宮は、親王が幽閉されていた東光寺跡(現在の鎌倉市寺分の天照山「東光寺」とは異なる)に建てられ、本殿の裏手には親王が幽閉されていた間口・奥行4m、深さ3mの「土牢」が今も残っている。 
なお、護良親王の「墓」は鎌倉宮から徒歩3~4分の山腹にあり、急な石段を登った、昼なお薄暗いところに、菊の御紋を飾った小社が鎮座している・・。
小社には俗人が立ち入らぬよう、柵が施してあった・・。

次回は、 「瑞泉寺」



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古都鎌倉(10) 「安養院」

2009年06月08日 11時10分42秒 | 鎌倉編
 巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮⇒護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島


古都鎌倉(10)「安養院」

「安養院」は「北条政子」の法名であり、政子ゆかりの観音寺院である・・。
政子が、夫・源頼朝の菩提を弔うために笹目にあった「長楽寺」という寺をこの地に移したのが前身といわれる。その後、政子の法名をとって安養院と改名した。

『・・汝らは、昔の惨めさや、辛さを忘れたか、そこから汝らを救い出した幕府の恩を忘れたか・・。』

実朝が暗殺されて正統・「源氏」は滅びた。
それを期に都の朝廷、公家たちは、「番犬たるべき武人が主に背き、鎌倉幕府なるものを別地で開いて都をないがしろにした・、源氏なきあと今こそ鎌倉を葬り去れ・・」・・、と息巻いた。 

承久3年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた兵乱を「承久の乱」という。これに対して鎌倉側は朝廷に弓引くは如何なものか・・、と思案している御家人衆にむかって発した政子の論旨演説であった。
我にかえった家人達は大挙して都へ攻め上り、圧勝するのである・・。

政子が21才の若い時分、流人の頼朝に一目惚れし、平氏の力を恐れる周囲や父親の反対を押し切って頼朝のもとへ走った「情熱の女」であった。頼朝の正室となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると「御台所」(みだいどころ)と呼ばれるようになった。
頼朝と父・時政の間にはいって北条家を盛り立てる「明晰な女」であり、そして遂に北条天下を勝ち取った「政略の女」でもある。

文治2年(1186年)義経の愛妾の「静御前」が時政に捕らえられ、鎌倉へ送られた。 頼朝は白拍子の名手の静に舞を所望する。
静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で・・、
『しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな』と義経を慕う歌を詠った。
これに頼朝は激怒するが「政子」は、流人であった頼朝との辛い馴れ初めや挙兵のときの不安の日々を語り『私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません』ととりなした。 政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えたという。

頼朝亡き後、政子は出家して尼になり尼御台となった・・、「尼将軍」といわれる所以である。

一方、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子(頼家、実朝)が変死して婚家(源氏)が滅び、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判を加える向きもある。 
又、この頃から政子の嫉妬深さも批判の対象となり、政子を「日野富子」(室町幕府8代将軍足利義政の正室。応仁の乱)や「淀殿」(豊臣秀吉:羽柴秀吉の側室。淀君、茶々)と並ぶ悪女とする評価も出るようになった。

「安養院」は鎌倉市大町材木座、JR/江ノ電鎌倉駅徒歩12分
境内には、天然記念物に指定された槙(まき)の巨木(樹齢700年)があり古刹の雰囲気を醸し出している。

墓所は、扇ヶ谷(おうぎがやつ)・鎌倉五山第三位の「寿福寺」に源実朝の胴墓と共に眠る・・。



古都鎌倉(9) 「東勝寺跡・高時やぐら」

2009年06月07日 11時38分27秒 | 鎌倉編
巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮⇒護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島

片岡鶴太郎演ずる「北条高時」が・・、
『・・・とっとと退散しろ、もう鎌倉はお終いじゃ、・・畜生、鎌倉が焼けて、後になにがあるというのか、後には、ろくな世がくるものか・・・』
『鎌倉以外に行く所などない。潔く自害しよう。』

十四代執権・九代得宗(北条家当主)北条高時は腹を欠き切った・・、享年31歳。
東勝寺は二日間燃え続け、後に8百数十の屍骸が残っていたという・・。
この時以降の1333年には、鎌倉幕府140年は灰になったのである・・。
東勝寺は鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が創建した寺院で、北条家代々の菩提寺であった。

鎌倉の市街地から滑川の東勝寺橋を行くと、すぐに都会とは思えぬ山間の鄙びたところに出ると、左側に夏草で覆われた平地があり、「東勝寺跡」の碑文がある。
また、すぐ裏山中に自害した一族の墓「高時腹切りやぐら」があった。

追記、高時といったら、愚鈍執権の代名詞のようにいわれる、最後に登場した得宗によって滅亡へ加速したようで、ある意味気の毒な人ではあった・・・。
ただ個々人の統治者云々もさることながら・・、歴代の一族支配は足利、徳川政権に観るように、創世記、隆盛期、安定期、衰退期、滅亡期と時代の趨勢(すうせい)の常道であったのかもしれない・・。

ともあれ、ここで何百人もの人々が自ら腹を切り、首を掻き落とし、黒煙を上げて燃え盛る建物と共に最期を遂げた、と想像すると絶息感涙の念にかられる・・。
この地は、今でも北条一族の怨念が漂っていて、霊感のある人は感ずるものがあるともいわれる。
因みに東勝寺はただちに、より大規模に再建されたが、戦国期に再び炎上消失している・・。

北条氏について・・、 
北条氏は概ね「時政」から世に出る、初代・時政は希代の策士であったといわれる。伊豆の豪族だった北条家は、流人として当地へ落ちてきた頼朝の見張り番であった。娘・政子と婚姻関係が成立した時、源氏の正統である頼朝に接近し、平家追討の院宣がだされた時点から、筆頭御家人として頼朝を世に出した・・。
頼朝なき後、二代頼家、三代実朝を退け、将軍実朝の時、時政は初代の執権に付いている・・。 
執権とは単には政権を執ること・・、
つまり、鎌倉幕府(国会)の政所(内閣)、別当(大臣・長官)のうち最上級者(総理大臣)の称で、将軍(国会議長)を補佐し、政務を総轄した最高の職である。
源実朝の時、北条時政がこれに任ぜられ、以後北条氏が世襲することになる。

武家政治を起こしたのが平清盛と源頼朝ならば、その政権を長く続けたのは北条執権で、十五代執権・高時まで存続する。
特に時政-義時―泰時-時氏―時頼-時宗の六代は極めて優秀な人物で、これだけの人が政権を握っていれば国も安定していたはずといわれる・・。 
又、北条家当主を得宗(嫡子相続)と称し、義時―泰時-時氏―時頼-時宗-貞時-高時が一族の得宗を引き継いだ。
執権=北条家の当主ではなく、当主一族の仲から選ばれたのが執権である・・。
江戸期、徳川家の宗家のようなものであろう・・。

因みに、北条、足利、徳川の三武家政権は、それぞれ16代、15代、15代続いた。前任者と後継者の間に、血の濃さにあまりこだわっていないという点で、北条執権家と徳川将軍家はよく似た傾向を示しているといえる。

更に鎌倉幕府の将軍は、源氏将軍三代以降、藤原将軍(摂家将軍)二代、皇族将軍(宮将軍)四代と計九代続いている。



北条執権   執権年代   執権時の主要事項

1.北条時政  1203-1205  頼朝の挙兵に参加、比企能員を討ち、源頼家を幽閉、源実朝を将軍にして初代の執権になる
2.北条義時  1205-1224  和田義盛を滅ぼす北条執権政治の確立、承久の乱を鎮
3.北条泰時  1224-1242  「承久の乱」、六波羅探題設置、評定衆を設置、貞永式目の制定
4.北条経時  1242-1246  武蔵守
5.北条時頼  1246-1256  三浦泰村を滅ぼす、北条氏の権力強化、建長寺を開山
6.北条長時  1256-1264  六波羅探題、宗尊親王擁立
7.北条政村  1264-1268  
8.北条時宗  1268-1284  蒙古「元寇の役」をのりきった、円覚寺を開山
9.北条貞時  1284-1301  
10.北条師時  1301-1311  相模守
11.北条宗宣  1311-1312  六波羅探題
12.北条熙時  1312-1315  持明院・大覚寺両院の対立
13.北条基時  1315-1316  新田義貞の鎌倉攻略の際、化粧坂を守るが自害
14.北条高時  1316-1326  13歳にして執権に就任、新田義貞の挙兵と足利尊氏の裏切りにより幕府の命運も途絶え北条の菩提寺である東勝寺において一族郎等と共に自害
15北条貞顕 1326-1333

次回は、「安養院」

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