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日本の旅の記録です・・!!

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古都鎌倉(8) 「三浦一族の墓」

2009年06月06日 17時44分00秒 | 鎌倉編

義明の冥福を祈る「来迎寺」(鎌倉・材木座)

巡った寺社、史跡の順番・・、
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮⇒護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島

古都鎌倉(8) 「三浦一族の墓」

大江広元の墓地を下りると、その途中左手にもう一つの「やぐら」がある。 その中には五輪塔や卒塔婆や供物が供えて有る・・、こちらは「三浦一族の墓」である・・。 
三浦氏は、北条氏との幕府の主導権争いに敗れ(宝治合戦)、一族の最後は、追い詰められて頼朝ゆかりの法華堂に籠もって自害したという。


話は、先ず源平合戦の頃である・・、

源義経が、頼朝の代官として平氏を攻めた時、難関の奇跡といわれた「一の谷合戦」は有名である。
摂津の国(大阪)と播摩(兵庫)との境に一の谷がある、この地に平家軍は陣を構えていた。
前は瀬戸内海、後ろは鵯越え(ひよどりごえ)といわれる人馬寄せ付けない・・?急斜面の地である・・。
義経はこの高地に立って下を見下ろした時、ここからの攻撃は無理だと内心思ったが、傍らにいた佐原十朗義連(三浦の義連・よしつら)が『こうゆう崖は、われわれ三浦の方では、普通の地形で、いわば三浦の者にとっては馬場のようなものだ』といったという。
人の目から見ると、確かに難攻な斜面であるが、馬の目で見ると、そうでないかもしれない、三浦党は馬の目をもっていたのだろう・・。
義経の「鵯越えの逆さ落し」はこうして生まれたという・・。


三浦半島に根拠(衣笠城)をもつ三浦党(党首・三浦大介義明)は、流人である伊豆の頼朝をひそかに支援していた。
そして「我等は代々源家の家人である」と常々申していたという・・。

これについて、三浦氏は元々は桓武天皇の流れをくむ、平家の一族であり、半島一帯の武士団であった。
平安中期、奥州陸奥の変(前九年の役)に源頼家に従って参戦し活躍もしている、その功をもって正規に三浦半島の領有権を与えられ、衣笠城を築き、城持の豪族になった。 
この時から、三浦党は源氏の大家人になったのである・・。 

頼朝の初戦「石橋山の合戦」で敗れたのは、三浦党が応援に駆けつける際、酒匂川が増水して到着が遅れたからともいわれている・・。
落人となった頼朝が房総へ渡る途中、湾上で三浦党と出会い同勢して上陸した。この際、三浦党を従えていたということで、房総衆は頼朝を見直したという・・。
この後、復帰なった頼朝が行った「論功行賞」で、三浦義澄・義盛らは三浦本領安堵、新恩拝領を受け、義澄は三浦介の名乗りを許された。
そして、義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らとともに「宿老」として頼朝のブレーンとなった。

その後、鎌倉は「北条の時代」へと移行する。
北条氏は、他氏排斥の意向が強く、常時内紛が起こる。そんな中、三浦一党の和田義盛は1213年は「和田合戦」で滅ぼされている。
今度は第5代執権・北条時頼らによる三浦氏討伐の謀略が進められ、かくして宝治元年(1247)、「宝治合戦」といわれる両雄対決となる。 
三浦一族は手強く戦ったが北条方の優勢は動かず、頼朝を祀る法華堂に逃れ、主な従者260人、都合500余人が自害を遂げ三浦氏は滅亡したという。

この時点で三浦一族の主流は滅亡する・・・が、
その後、傍流の佐原氏の三浦盛時により再興され、戦国大名の相模三浦氏へとなるのであるが・・。

古都鎌倉(7) 「大江広元・毛利季光・島津忠久の墓」

2009年06月06日 17時43分45秒 | 鎌倉編
巡った寺社、史跡の順番・・、
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮⇒護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島






上から大江広元・毛利季光・島津忠久の墓


こちらへ行くには、源頼朝の墓の右手奥にある石段を登って山の小道を歩いていくか、一旦頼朝の墓を降りて右側に歩いていった先の左手階段を上っていくようになる。どちらも山裾の薄暗く湿った林の中で、かなり心細いルートである。

山腹に玉垣に囲まれて三ヶ所の墓があり、よく見るといずれも「やぐら風」(矢倉・窟、岩山に穴を掘って物を貯蔵しておく倉、また、墓所、鎌倉付近に多い)横穴古墳のようなものを改装したもので、江戸近世以降のものと見られる五輪塔が入っている。
真ん中に鎌倉幕府の要職を務めた「大江広元」の墓があり、左側には大江広元の第四子で後の中国地方の大名の毛利氏の祖といわれる「毛利季光」の墓がある。そして右側に頼朝の子で、後の南九州地方の大名・島津氏の祖といわれる「島津忠久」の墓がある。

これら、三者について・・、
わが町、神奈川県・厚木市に南毛利、毛利台といった地名が今も在る。
中世の頃までは、相模の国(神奈川県)のこれらの地域である愛甲地区を、「毛利の荘」と称していた。

大江広元は頼朝の側近で、幕府の公文所や政所の別当(長官、大臣)として幕府の政治を進めた、いわば事務長官であった。頼朝は、彼に相模の国・毛利の荘を与え、その子四男の季光に「毛利季光」と名乗らした・・。
後に季光は中国地方の安芸の国を与えられ、「三本の矢」で有名な長州藩の宗領「毛利元就」を生むのである・・。
鎌倉で幕府の統領になった頼朝は、都の学問や法律を学び、様式や文化を取り入れるべく都(京都)から大江広元を鎌倉に招いた。 広元は、政所の長官として腕をふるい、頼朝が全国に「守護・地頭」を設置したのも全ては広元の献策によるものであると言われている。
頼朝の死後も北条執権の下で幕府に参与している・・。

毛利季光について・・、
建仁2年(1202)大江広元の四男として生まれたのが季光である。
季光が名乗った「毛利」は、現在の厚木市域から津久井方面にかけてひらかれた庄園名であり、平安時代末期から鎌倉時代にかけて森冠者(陸奥六郎義隆)や毛利太郎景行などの武将名が資料に登場している。
季光は、和田義盛の乱で亡んだ毛利氏や愛甲氏にかわって、毛利庄の領有権を得たことによって、自らの姓を「毛利」と改めたといわれる。
毛利庄と鎌倉とのつながりは深い・・、
宝治合戦(ほうじがっせん:鎌倉時代の1247年に執権北条氏が御家人三浦氏の一族を滅ぼした事件である・・、三浦氏の乱とも呼ばれる)において三浦方についた季光は、この日、一族と共に死の時を迎えることになる。鎌倉の有力御家人・三浦氏との姻戚関係をもったことが、逆に季光の運命を追いつめる結果となってしまったのである。 
季光を含めた三浦一族が敗戦の結果、自殺、討死を余儀なくされるが、この時、一人四男の経光だけは越後国にあって、この難をのがれている。
この季光の子「経光」によって毛利の姓はかろうじて保たれた。
経光は、越後国・佐橋庄(新潟県)と安芸国・吉田庄(広島県)の地頭職が安堵され、この毛利氏が後の吉田庄で戦国大名として名を馳せることになる。
そして「毛利元就」を生むことになるのである。

次に島津忠久のこと・・、
頼朝が幼少時流人の身であった頃、世話をしたのが比企家(埼玉、武蔵の荘)の禅尼であった。
その娘(丹後の局)と頼朝の間に産まれたのが忠久だという・・、御落胤である。
大阪の住吉大社境内で誕生したとされ、同大社境内に史跡として島津忠久公誕生の地とする「誕生石」がある。
一時、畠山重忠に預けられ、成人して幕府御家人となり、源頼朝から日向国島津庄(宮崎県都城市)の地頭に任じられ、「島津」姓を名乗った。
島津家に伝わる史料でも、忠久は母親が源頼朝の側室で頼朝の落胤(隠し子)であり、そのため厚遇されたと記されている。
その後、薩摩国・大隅国・日向国の3ヶ国の守護職に任じらている。 しかし、建仁2年(1203年)の「比企能員の変」に連座したとして、三州守護職を地頭職を剥奪される。
その後、北条氏との関係を修復し、薩摩国においては建保元年(1213年)守護職に復職している・・、九州の覇者・「島津氏」の開祖である・・。

頼朝が築いた武家政治(幕府)は、永きにわたって江戸期まで続くことになる。
この制度を打ち破ったのが、くしくも長州・毛利氏と薩摩・島津氏の両藩で、明治維新に繋がるのである・・。
両氏は、武家政治の始まりと終わりに煌く出現し、当墓地においても「薩長同盟」がなされているのが面白い・・。

次は、「三浦一族の墓」



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古都鎌倉(6) 「白旗・法華堂と源頼朝の墓」

2009年06月04日 08時45分08秒 | 鎌倉編
巡った寺社、史跡の順番・・、
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法華堂と源頼朝の墓
    
 
八幡宮、白旗宮からさらに東へ歩で5分ほど・・、清泉女学院小学校の辺りは、往時「大倉御所」と称して征夷大将軍源頼朝の屋形であった。
更に小さな案内札を頼りに辿り着いたところ、やや急な石段を登ると五輪塔がある。周囲は、覆う樹木による冷たい空気が身を引き締める。
そこに「法華堂」(白旗社)と「頼朝の墓」がある。 

八幡宮を含めたこの辺り一帯は、幕府を開いた源頼朝の夢の跡である。
頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いたのは1192年であった・・、47歳の時であった。
平安時代末期に河内源氏の棟梁である源義朝の三男として京都に生まれている。
源平合戦・平治の乱で源氏は敗退し、頼朝は清盛への嘆願かなって13歳で伊豆へ流される、頼朝の源平合戦と呼ばれる諸戦役で最初の戦いに敗れた「石橋山の戦」いは33歳であった。

頼朝が征夷大将軍となって7年後、家人が相模川に橋を架けたのを御祓供養するために現地に出かけ、帰り道稲村ガ崎で落馬して、それが原因で死亡したという・・。
また俗説によると頼朝の乗っていた馬が雷の音に驚き一散に走り出したため、頼朝は河原に投げ出され、石にあたって絶命したとも・・、馬はなおも走り止まらず相模川に入水したしまった、以来この川を通称「馬入川」と呼ぶようになった・・と。
確かに小生の住む厚木市の相模川は、平塚市に入ると「馬入川」と称し、国道1号線に架かる橋を「馬入橋」とも呼んでいる・・。

頼朝の治世は僅か20年、征夷大将軍として7年、享年53歳であった・・、頼朝の墓は大倉山の裾に今も静かに眠っている。
清泉女学院小の校歌に「英雄墓は苔むして・・・」唄われているが、2m足らずの五輪塔で、明治維新にいたるまでの690年の武家政治を築いた英傑の墓というには、あまりに寂しい佇まいにも思える・・。

墓下にある「白旗社」は今も頼朝を鎮護している。


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古都鎌倉(5) 「白旗神社」

2009年06月03日 10時09分02秒 | 鎌倉編
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現在はあまり見かけないが・・?、
学校の運動会には赤旗と白旗に分かれて競ったものである。元はといえば赤は平氏、白は源氏で源平合戦を模じったものである。
赤は安心、白は心配などと云って、おじゃけたものであるが・・、

時代歴史は源平どちらが勝利したのだろう・・?
「平家にあらずんば人に非ず」と平清盛全盛の時代が概ね20年・・、
幕府を開いた頼朝から実朝までが30年、永い時の間を観れば引き分けがよろしかろうとも思われるが・・? 

鶴岡八幡宮境内社に、その源頼朝と孫の実朝を祀ってあるのが「白旗神社」である。
八幡宮の東の境内にあって、こじんまりしているが唐破風造りの神殿は落ち着いた風格があり、林の中に鎮座している。
創立年代は、弘安4年(1281年)以前といわれる。

白旗神社は、関東地方、東北地方、中部地方に分布する神社であり、白幡神社・白籏神社とも表記される。
多くは源頼朝を主祭神とするが、他に源義家・源義経などの源氏の武将、源氏の氏神である八幡神を主祭神とするものも多い。
社名は源氏の旗である白旗に因むものである。
日本全国に70社あまりがあり、鎌倉幕府のあった神奈川県の他、頼朝所縁の千葉県に多く、他に茨城県・福島県・岩手県・宮城県など主に東国に分布する。

その内の1つで、隣町の藤沢市内にある「白旗神社」は・・、宝治3年(1249年)9月に「源義経」が合祀された神社として知られる。
奥州征伐で討ち取られた義経の首が鎌倉まで送られ、腰越の浦での首実検の後、境川に捨てられた。そして、この地に流れ着き、当地に義経の首が葬られたという。
境内には、源義経公首洗の井戸がある。
 

逸話として・・、
豊臣秀吉が小田原攻めの後に八幡宮と白旗宮を参拝したといわれるが、その際に祀られていた頼朝像を見て・・、
『我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父や父祖は関東を従えてもいて、故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。しかし、我は氏も系図も無いが、天下を取った。 故に御身より我の勝ちなり。 しかし御身と我は天下友達なり・・』と言うと、笑いながら頼朝像の背中をポンポンと叩いたという。


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古都鎌倉(4) 「鶴岡八幡宮と大銀杏」

2009年06月02日 18時47分35秒 | 鎌倉編
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古都鎌倉(4) 「鶴岡八幡宮と大銀杏」

『箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ』

源実朝が編纂した「金槐和歌集」より自身の一首である。
実朝は政治の実権は既に北条氏に移っていたため、早くから京風文化に憧れ、和歌、管絃、蹴鞠などを好み、特に和歌では第一級の歌人といわれた。
実朝が右大臣に任官したのをうけて、次の年の承久元年(1219年)正月、八幡宮本社において拝賀の儀式が盛大に行われた。
祝賀式が無事終了して、実朝は数人の従者とともに本殿から幅員のある石段を降りていった、途中に公孫樹(いちょう)の植木があった・・・。

現在、太鼓橋から石畳の参道をゆくと、中ほどに舞殿(神楽殿)がある、舞殿は源義経の愛妾だった「静御前」が歌舞を演じた舞台である。
そこから幅の広い61段の大石段を上ると、すぐに煌びやかな本殿が鎮座している。その石段の途中左側に樹齢千年以上ともいわれる大公孫樹がある、この樹は二代目ともいわれるが、本殿と石段とそしてこの公孫樹の樹が三味一体の構図を成して実にいい。 

実朝が公孫樹に近ずいたとき、木陰で待ち伏せていた甥子の公暁(くぎょう・頼家の子、)に「親の敵・・覚悟めされい・・」といって、切り伏せられ首をはねられた・・。
三代将軍源実朝暗殺事件である。




頼朝は政治的手腕に優れ、一代で鎌倉幕府を創設するが、二代頼家、三代実朝共父に及ぶべきもなく凡庸な人物であったらしい。
その為、頼朝以来の御家人が不平不満に陥り、はては同士内抗争が起こり頼家、実朝は失脚暗殺に陥ったという。
頼朝なきあと鎌倉は北条時代の安定期をむかえるまで、動乱の坩堝と化していた。
ともあれ実朝の暗殺で源氏血統は絶やしたのである。


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