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日本の旅の記録です・・!!

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古都鎌倉(18) 「常楽寺・源義高の墓・・?」

2009年06月19日 10時07分55秒 | 鎌倉編

「常楽寺御門」:門額には、大船の起源とされる山号・「粟船山」と記してある。


「源義高・墓碑」:碑には「木曽清水冠者義高公の墓」と記されてある。


巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島


古都鎌倉(18) 「常楽寺・源義高の墓」

横須賀線・北鎌倉の駅を過ぎて大船方面へ向かい、「子袋谷」と信号を右手に5~600m程行くと「常楽寺」がある。
寺の山号を「粟船山」と言い、現在の大船の地名はこの「粟船」(あわふね)が変化して成立した地名だとも言われている。
2005年度のNHK大河ドラマで放送された『義経』にも登場してきたが、こちらに木曾義仲の嫡子・源義高(木曽義高)の墓が有るというので訪ねてみた。

頼朝の従兄・源義仲(木曾義仲)の長男・義高(当時13歳)は、頼朝、政子の長女・大姫と許婚し鎌倉に住むようになった。
その頃、義仲は平家追討のため立ち上がり京で平家を討つが、勢い余って朝廷、公家を蔑ろにし、都で狼藉を行うようになった。それを見かねた頼朝は朝廷より院宣を賜って義仲を討つことになる・・。 この時、人質同然となった義仲の嫡子・義高は鎌倉を出奔するが、武蔵の国(埼玉県狭山)で捕えられ・・、母・政子の助命嘆願も虚しく、頼朝の命で斬首されてしまう。
以降の大姫は病に伏し20歳の若さで死去する・・が、この頼朝の冷淡な仕打ちに政子の出所である北条家は頼朝、源家にたいして少なからず疑念を抱くようになったのかも知れない・・。
その後、頼朝は急死することになるが、その死因については一般に事故死と言われるが、北条氏による陰謀説というのも少なからずあるようだ・・。
尚、二代頼家、三代実朝の失脚暗殺は北条によるものとして定着している・・。
その義高の墓が大船・常楽寺境内の外の裏山に埋葬してあるといわれる。

始め小生は、義高の墓を詣でるつもりで常楽寺を訪れたが、境内ではどうしても見つからず、寺の住人に問うたところ・・、「門を出て塀の脇の小路を行った、山の上の方に在ります」と何か冷淡に云われたのが気になった・・?。 
それは上部に民家が迫る、丘のような傾斜部分に寂しく在った。 
墓標には『木曽清水冠者義高公の墓』・・と立派に記載してある。
北条家に先駆的役割のあった縁(ゆかり)のある源家の義高を、少なくとも立派な境内の一隅にでも祀ってやればいいものを・・と思案したが・・?。
因みに常楽寺は北条三代執権泰時が建立したもので、その泰時の墓が安置してある。


先にも記したが・・、泰時公が60歳で他界した後、建長寺創建の為、中国・宗の僧、蘭渓道隆(大覚禅師)が北条時頼の招きで日本の鎌倉に来る。
この時、常楽寺に入り純粋な中国・宋の禅風を世の人々に示したのが、この寺院であったと言われる。
又、時頼は軍務の暇を見ては、常楽寺の禅師の元を訪れ、禅道を問うたという。
その後、『常楽寺有一百来僧』というように多くの僧侶が禅師のもとに参じるようになる。
これは建長寺が開堂供養される五年前のことであったと・・。
そのころの当寺の建物には三門・仏殿・方丈などがあり、相応の規模を誇っていたという。

道隆は建長5年(1253年)、建長寺の開堂供養が行なわれ寺内に禅道場の院が創建されると、その住持(一寺の長である僧)となり常楽寺の住職をも兼ねて、建長寺を守る僧衆をも教育したとされている。 つまり、道隆との縁により「常楽寺なくして建長寺なし」(常楽は建長の根本なり)ともいわれ、常楽寺は厚く尊崇されたという。


次回は、 高徳院・鎌倉大仏


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古都鎌倉(17) 「東慶寺」

2009年06月18日 09時53分35秒 | 鎌倉編
 巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島


古都鎌倉(17)「東慶寺」


「参道の庭園」


「東慶寺御堂」


円覚寺から道路を挟んだほぼ正面に「東慶寺」がある。通称、男子禁制の尼寺で「駆け込み寺」又は、「縁切り寺」として知られている。

平家が「壇ノ浦」で滅亡し、鎌倉にて頼朝が源氏武門の棟梁として、いよいよ日本に武家政治を執行するようになる。 
平安期よりの土地所有制度は「荘園」と称して、朝廷、又は公のものだったが、この時期より「一所懸命」の示すように、土地は私有財産として認められるようになった。
当然、領有権や地境いなどの争い事で問題が生ずるようになる。
そこで頼朝は「問注所」なるものを設置する・・、いわば、訴訟の受理などを扱った幕府の裁判所であった・・。

・・・では、家庭内の騒動はどうだったか・・、又、男女間や夫婦の問題では・・?、
当時の武家社会では男尊女碑が徹底していて、女性が社会に対して発言する機会など無かった時代である・・。
『妻が三下り半・・・』と言う、今ではあたりまえの離縁状、離婚届であるが、武家封建社会では、夫は「三下り半」で簡単に妻を離縁することが出来たが、妻からの離婚の請求は一切許されなかった。
そこで女性は「東慶寺」に入り、女性をも尊重し、優位に話を進められた「尼寺」である。所謂、現在の日本の家庭裁判所というところか・・。

「東慶寺」は北条時宗夫人・覚山尼(かくさんに)が開山した寺院で、こ寺院は縁切寺、駆込寺で知られている古刹で、「縁切寺法」という制度を定めたのもやはり覚山尼だという。

室町時代の五山制度にならって設けられた「尼五山」と呼ばれる尼寺が京都及び鎌倉に五ヶ寺ずつあったという。
鎌倉では東慶寺が尼五山の第二位にあったが、現存しているのは当山のみで、ほかは廃寺になっているらしい。

東慶寺・住職は代々の名門の息女が名を連ね、特に後醍醐天皇の皇女が住職になられてから、この土地の名にちなんで「松ヶ岡御所」と呼ばれ、現在、この地を「松ヶ岡」と称している・・。
又、大阪夏の陣で豊臣方が滅亡し徳川天下になった折、太閤秀吉の孫にあたる豊臣秀頼の娘は、豊臣家が滅亡する中、家康に許されて当山に入寺し、後に「天秀尼」となって住職を継ぐことになる。
この時、家康公から「何か願いはないか」と聞かれ・・、天秀尼は「開山よりの御寺法を断絶しないようにして頂ければ・・・」と答えたという・・。
これが許されて、この「縁切寺法」に基ずく調停、仲裁、決裁は明治6年まで存続したと言う。 女性からの家庭内騒動の請求が法律で認められるようになるまで、実に600年の長きにわたって存在し続けたのである。

鎌倉街道を挟み、ほぼ円覚寺の正面に在って、往時は円覚寺をも凌ぐほどの隆盛を極めた寺院だったが、今では尼寺の風情を残した穏やかな寺仏堂と梅の木や花一面におおわれる境内が、僅かにその面影を偲ぶ・・。


次回は、 「常楽時」


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古都鎌倉(16) 「明月院」

2009年06月17日 09時16分53秒 | 鎌倉編
 巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島


古都鎌倉(16) 「明月院」

この寺院は、鎌倉でも一、二をあらそう程人気がある・・、「あじさい寺」、「花の寺」として有名である・・。
本堂の名前は、その名も「紫陽殿 (しようでん)」(あじさい殿)と称している・・。



未だ紫色の花を着けている「紫陽花」が、磨り減った「鎌倉石」」の参道階段に迫り出していて、さすがに何とも美風流である・・。
「鎌倉石」は、三浦丘陵の鷹取山地層から切り出された黄褐~褐~青灰色の比較的柔らかい石材石質で、鎌倉時代から利用され昭和初期まで採掘されたといわれる。

紫陽花は雨模様に似合う花であるが、今日は熱き日差しを浴びてチト気の毒であるが・・、一般には青から赤紫へ変化するところから「七変化」ともいわれる。 ここにあるアジサイは、日本古来からの「姫あじさい」という品種で、花は淡い青から日ごとに濃い青に変わっていくという。 






山門をくぐると、そこは本堂になっていて、正面には「枯山水」の庭園が広がっていた・・。「枯山水庭園」は、中国古来の山水画の影響による造園手法で、水や流水を用いず、石組を主とし山水を表す庭園である。水面(湖水、海面)を表すのに砂や微細石による表現「砂紋」は大きな特徴のひとつ・・。 
本堂横は、鎌倉でも最大級の「やぐら」があって、時の権力者・北条時頼の坐像が祀ってある・・。


明月院を含むこの辺りおの地域一帯を「山ノ内」という地名になっていて、往時の関東管領「山ノ内上杉家」の所領であった・・。
「明月院」の開祖は12世紀の中期頃で、当初は明月院とは云わず、1380年頃までは「禅興寺」と称していたらしい。
明月院は、はじめ禅興寺の塔頭の一堂とされていたが、その後、上杉憲方の子孫によって大規模に発展し、塔頭というよりも一つの寺院として風格を備えてきた。
上杉憲方の法名を明月院と号したが・・、上杉家はご存知「上杉謙信」の祖である・・。
因みに、禅興寺は明治初年に廃寺となっている。

序ながら、名門・「上杉家」を辿ってみよう・・、 
上杉の発祥地は丹波の国・上杉庄(京都府綾部市)を領して上杉を名字とし、公家(朝廷に仕える貴族・文官)の家柄であったという。
室町初期、鎌倉公方・足利基氏の執事(管領)に任ぜられて、初代の関東管領になって以来、鎌倉に居住した。
一族は主に山内(やまのうち)と扇谷(おうぎがやつ・こちらも鎌倉の地名))二家が出たが、関東管領の職はもっぱら山内・上杉家の当主が独占した。 

戦国期に至ると、扇谷・山内両上杉家は新興の後北条氏(北条早雲が祖・戦国小田原の雄)に圧迫されるようになり、武蔵国に勢力をもっていた扇谷上杉家は後北条氏に敗れ滅亡する。
上野(こうずけ・群馬)の国に所領を持つ山内・上杉憲政も、遂に関東を放棄して、越後守護代として勢力を張る長尾氏を頼り、関東管領の職を長尾景虎(上杉謙信)に譲ったのである。 この頃、小田原北条は、関東一円を制覇している。
長尾氏は上杉と名乗り、景虎は初代越後・上杉藩主となる。

戦国たけなわの頃、二代目「上杉景勝」は豊臣秀吉に仕え、五大老の一人となった。
北陸、出羽を平定し、領内に多くの金山を抱えて、その実収入は200万石と言われる大大名となった。
その後、1600年の「関ヶ原の役」に際して徳川家康に敵対し、敗将となって米沢藩30万石に減封されるが・・、江戸期にはいって家督相続の件もあり、吉良義央の子綱憲が養子に入って半知15万石で家名存続することを許された。 
義央は(きら よしひさ)は通称は上野介(こうずけのすけ)、一般には「殿中、松の廊下の切られ役」(忠臣蔵)の敵役として有名である。
江戸後期には上杉鷹山(ようざん・治憲)が藩建て直しの為殖産興業を行って、財政を立て直したことは有名である・・。

次回は、 「東慶寺」


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古都鎌倉(15) 「円覚寺」

2009年06月16日 09時22分07秒 | 鎌倉編
巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島


古都鎌倉(15) 「円覚寺」

建長寺から更に鎌倉街道を北に行くと、やがてJR横須賀線が右手に現われる。
間もなく北鎌倉の駅だが、その直前に池を挟んだ線路の向こう側に広大な伽藍が見えてる・・「円覚寺」である。「えんかく」でなく「えんがく」と濁って読むらしい。


大きな石柱に刻文が「臨済宗大本山円覚寺」とあり、同じく左側に「北条時宗公御廟所」とあった・・。
階段を上がると、やがて巨大な総門が出迎える・・、その後背に山門、仏殿、方丈と段階的直線に並ぶ。 更にその奥に各塔頭(たっちゅう)が配置されている。
「塔頭」とは、本寺院内にある小寺院・支院、分院を指す。


「円覚寺本堂仏殿」

円覚寺の塔頭の数は、現在の鎌倉の寺の中では一番多く18ヶ寺あり、最盛期には40数箇所あったとされる。
鎌倉には、円覚寺を頂点とした同じ宗派の寺で東慶寺(後述・・)、浄智寺、瑞泉寺といった臨済宗円覚寺派のお寺がある。

北条時宗の父、時頼が創建した建長寺が官営的性格の強い寺院・官寺に比して、こちら「円覚寺」は北条家の私的な性質をもつ寺院で、私寺ともいわれる。 
建長寺を開山した高僧の「蘭渓道隆」はすでに没していたため、やはり中国の高僧・「無学祖元」を招いて鎌倉幕府八代執権北条時宗により創建され、1282年に完成している。

無学祖元は、「弘安の役」(元寇・蒙古襲来)直前の世情騒然たるときに中国より亡命同様に日本に帰化している。
弟子の礼をとったとされる時宗をはじめ、多くの武士たちの精神的な指導者となり、武士階級に臨済宗の教えを浸透させる基盤を培った。
僧は一時期、円覚寺と建長寺の兼任座主を務めながら多くの弟子を育てるが、後に五山派の主流となった「夢窓疎石」(夢窓国師)を輩出した。

創建の目的は主に、鎌倉時代に時の執権・北条時宗が、この時代におきた元寇・「文永の役、弘安の役」の戦没者を追悼供養する為に建てたといわれる・・。 
北条得宗家の祈願寺で、鎌倉時代には北条家によって手厚い保護を受けた・・。
円覚寺は、鎌倉五山・第二位の寺挌である。


山門より右手高台に大きな梵鐘がある・・、ここでは洪鐘(おおがね)と称しているが、さすがに大物で大晦日NHKの除夜の鐘でもお馴染みである・・、国宝指定。


余談になるが・・、
総門前、JR線踏み切りの向側に池がある・・、「白鷺池」(びゃくろち)というが円覚寺境内に含まれるという。
明治期の戦時たけなわの頃、軍港・横須賀へ鉄路を引くため強引に境内を分断する破目になったといい、これが今のJR横須賀線である。


次回は、 「明月院」

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古都鎌倉(14) 「建長寺」

2009年06月15日 10時10分23秒 | 鎌倉編
巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒鎌倉まとめ


古都鎌倉(14) 「建長寺」


 
今まで巡った寺社は、八幡宮を境に東の方角であったが、次より西の方向を巡ってみましょう・・。
先ず、八幡宮より至近にある「建長寺」からです。



八幡宮の西、鎌倉街道の巨福呂坂(こぶくろざか)を過ぎると、緑樹の中に巨大な総門が現われる・・、「建長寺」である。
鎌倉五山第一位の臨済宗・建長寺派の大本山で、時の執権・北条時頼が建長五年(1253)に中国・宗から来日していた高僧・「蘭渓道隆」(らいけいどうりゅう)を招いて建立したわが国最初の禅寺である。 
時代の権力者、北条氏や足利氏に保護され隆盛を極めたという・・。

境内の広さと大小の伽藍で圧倒される・・。 実は50を越す大、小寺院を有したが、14,15世紀に起こった数度の火災で,その多くが焼失し江戸時代に入り,高名な沢庵和尚の進言で再建されたという・・。
蘭渓道隆が宋から伝えた厳しい禅行が現在まで脈々と受け継がれ、今もも厳しい修行が行われている寺院である。


小生の檀家寺(いわき市白鳥町・・白鳥山・龍勝寺)は京都の大本山妙心寺の一派で、宗派は禅宗の臨済宗である。
一般に坐禅を宗旨とする仏教の宗派を禅宗といい、座禅とは静座して精神を集中させる行法で、日本では臨済宗・曹洞宗・黄檗宗(おおばくしゅう)がある。
曹洞宗の大本山は御存知越前福井の「永平寺」、黄檗宗は京都の万福寺で中国の建築様式をそのまま取り入れているので有名である・・。
臨済宗は多岐に分派し、現在日本には十四派があるという・・、本山は京都の妙心寺、そして鎌倉の建長寺等々・・。
臨済宗は中国・唐の時代の臨済禅師が宗祖で、中国に渡り学んだ「栄西」らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。
同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政界、文化人に重んじられたといわれる。
その後時代が下り、臨済宗は江戸時代には曹洞宗・黄檗宗に比して、やや衰退気味になった。この落ち目の「臨済宗」を救ったのが駿河の「白隠禅師」で、彼によって再びが中興されたのであった。 この臨済宗十四派は全て白隠によって再興されたものといわれる。

白隠は、江戸期の駿河の国・原宿の名僧で
『 駿河には 過ぎたるものが 二つあり、富士のお山に 原の白隠 』 と歌われているのは有名である。


鎌倉には禅宗の寺が多くあり、「鎌倉五山」と言う寺格をあらわす呼び方がある。
これは鎌倉の禅宗の五大官寺(御堂造営費を国府が支出し、経営維持した寺で大寺院・国分寺など。又、幕府が特に保護した寺の俗称)のことを言う。
五山の制度は、インドや中国・南宋期に五つの寺を定めたことに由来するといい、禅宗の保護と統制のため、格式の高い寺五つを定めたもの・・。 
鎌倉五山は、第一位が建長寺、第二位が円覚寺、第三位が寿福寺、第四位が浄智寺、第五位が浄妙寺である。 因みに京都五山は第一位が天竜寺、第二位が相国寺、第三位が建仁寺、第四位が東福寺、第五位が万寿寺。
このようにして定められた五山は、時の権力、政治と強く密接な関係を持つようになり、僧たちも政治に活躍の場を広げ、その影響を強めていったという。


次回は、 「円覚寺」