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日本の旅の記録です・・!!

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古都鎌倉(23) 満福寺・・Ⅰ:「義経の腰越状」

2009年06月27日 10時00分48秒 | 鎌倉編
 巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満福寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒(鎌倉まとめ)

古都鎌倉(23) 満福寺・・Ⅰ:「義経の腰越状」

「満腹寺」は江ノ電・腰越駅の至近にあり、「源義経」に縁のある寺院である。
                 
       
『・・源義経おそれながらもうしあげます。気持ちは鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけると思っていたのに、はからずも、あらぬ告げ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しもしてはいませんのに、お叱りをうけ、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。あらぬ告げ口に対し、私の言い分すらお聞き下さらないで、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝えできず数日をこの腰越で無駄に過ごしております。あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔にお会いできず、兄弟としての意味もないのと、同じようです。なぜかような不幸せな巡り会いとなったのでしょう・・・・・・・』
  
有名な義経が兄頼朝への嘆涙の「腰越状」の一端である・・、。

海岸沿いのR134から小動岬の手前を江ノ電に沿って右折すると、すぐに「腰越」駅がある。右手に 「義経腰越状旧跡 満福寺」 の石碑が目に付く、お寺の目の前を江ノ電が走っていて、踏切を渡るとすぐにお寺への階段になっている。
NHK大河ドラマ:「源義経」の影響か、赤青の旗のぼりが立っている・・、源平の義経であるから「白」又は、「赤白」でいいものを・・、と思うのは余計だが・・。
今は訪れる人もなく静寂の中に本堂はあった。これまで大伽藍を目にしてきたためか、思っていたより小さなお寺であった。

       
                      
お寺の地域は、江ノ島の近くで藤沢市に近いが、鎌倉市腰越である。 ただ、往時としては鎌倉府からは遠い距離にあって、他国、又は隣国のような地であったのだろう・・。
その昔、今から約800年も前の世、ここに「義経」がいたのだ・・、と云うより留め置かれていた・・、と言ったほうがよかろう・・。

何故・・?この地に義経が・・を主題に・・、 
本堂の正面頭上に木彫りの精密な彫刻が施してあり、それは「義経が弁慶に、例の『腰越状』を本筆又は清筆させている風景“であった」 
その「腰越状」は満福寺本堂・玄関ショーウインドウで見る事が出来る。

                        


本年(2005)NHK大河ドラマ「源義経」もいよいよ佳境に入ってきた・・。 
義兄弟の木曾義仲を打ち破り、一の谷、屋島、そして壇ノ浦で平家一門を壊滅させた、その最大の功労者は源義経であることは衆人が認めるところである・・。
しかし、その戦功を上げるに逆比例して、兄頼朝との間が遠のき、軋轢を生じ、遂には殺してしまうのである。  
英雄義経が哀れな失脚をしたのは、一般に兄に憎まれたためといわれる、「判官びいき」という言葉があるくらい、この武将の悲劇的な末路に我々は同情的である。それが為、現世までいろいろな形で語り継がれている・・。


義経は、兄頼朝の代官として「西国攻め」に出陣し、その期待に応えて義仲も平家一門をも滅亡に追い込んだ。
ところが、その彼に頼朝はろくな恩賞を与えない・・。

--これには後例がある、徳川家康が天下を掌握した折、大名衆は譜代(代々その主家に仕えること)大名と外様(譜代以外の外部)大名に分けられるが、その時の恩賞は外部に多く、身内に少なかった、 それどころか一旦与えた恩賞を取り上げてしまうこともあった--・・。

それどころか、鎌倉まで来て弁明しようとした義経を、腰越に止めて対面もせず都に追い返してしまうのである・・。

源平合戦の最終局、「壇の浦の合戦」では、平家の総帥であった平宗盛は、その最後があまり見苦しいので平家の侍達に海の中へ突き落とされたが、泳ぎが達者だった宗盛は死のうとしないで泳ぎ回っているところを他の侍に助けられたと言われる。 合戦後には、源義経に捕らわれて鎌倉に送られる。
その時、宗盛は頼朝に対面しているが、見苦しい様を見せて頼朝を呆れさせ、鎌倉方の侍達の笑い物になった。
この時、宗盛親子を捕虜として連れてきたのが義経であった・・、 この事は「若宮大路と段葛」の項で既に述べた・・。

腰越に止めおかれて、義経が腰越状を書くに至った場所がここ「満福寺」であった・・。満福寺に5月15日から6月9日まで滞在したといわれる。
この間義経は、頼朝宛に異心のないことを切々とつずった書状をしたためた、世に言う腰越状である。
しかし思いは届かなかった。
その後、頼朝との敵対関係を知らされた義経は京に戻り戦線を開くが、既に戦意戦力は無く、追い詰められた義経はその後、態勢を立て直すべく九州へ逃れようとするが、嵐に遭い船は沈没、更に吉野山に逃れる。 ここは愛妾「静御前」との悲しい別れの地でもある。静はこの時、義経の子を身籠っていたが、頼朝の追っ手に捕らえられ、静かは母の磯禅師と共に鎌倉へ護送される。
鎌倉で無事出産したが、男児だったため、由比ガ浜の海に沈められる・・。 
頼朝に命じられ、八幡宮の「舞殿」で舞ったのは有名な話である・・が、静は舞いながら

   『吉野山  峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の  跡ぞ恋しき』

   『しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな』

 と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子がとりなして助けられる。

この吉野でも追われた義経は北陸路を辿って奥州へ逃れる。 また長い逃避行の後、安住の地を奥州平泉に求めた。 
しかし、養父と慕う藤原秀衡とは間もなく死別、その後ろ盾を失った義経は、頼朝指令によって、秀衡の子の泰衡の手により討ち取られ、その生涯を閉じた。 、

義経が衣川高館で討たれたのは、1189年4月30日のことである。
その首は黒漆の櫃(ひつ)におさめられ、清酒に浸されて鎌倉に送られた。 しかし、首実検が行われたのは腰越の浜であり、義経は首になっても鎌倉に入ることはできなかったという。


次回は、 「義経の腰越状」・・Ⅱ、


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古都鎌倉(22) 「稲村ヶ崎と七里ケ浜」

2009年06月26日 10時13分55秒 | 鎌倉編
稲村ガ崎と稲村ガ崎からの七里ケ浜、江ノ島遠望(碑には「かながわ景勝五十選:稲村ガ崎」とある)





巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒(鎌倉まとめ)

古都鎌倉(22) 「稲村ヶ崎と七里ケ浜」

材木座海岸、由比ガ浜、稲村ガ崎、七里ヶ浜そして江ノ島と湘南海岸に面した秀美な景観が続く・・。 
この「稲村ガ崎」、「七里ヶ浜」にもそれなりの歴史余話があったので紹介しておこう・・。

鎌倉幕府の140余年にわたる北条家の長期政権も、どうやら綻びが見え始め、凋落を辿るようになる・・。   
鎌倉末期、いわゆる、南北朝時代の主要な登場人物は「太平記」等でお馴染みの後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成、そして新田義貞など著名な人物が次々登場する。

其の頃、鎌倉では・・、
鎌倉期の幕末、上州・新田軍は鎌倉周辺の自然の要塞ともいわれる極楽寺坂、化粧坂(けわいざか)、巨福呂坂(こふくろさか)などの北条幕府軍の防衛網を突破することができず苦戦していた。 

この当時、新田家も御家人として鎌倉に屋敷を持ち、義貞は数度この地を訪れていた。
義貞は鎌倉の様子を、周辺三方を小山に囲まれた天然の要害であること・・、その間にいく筋かの「切通し」があり好守難攻の地であること・・、そして「稲村ガ崎」の海岸に立ち、潮の具合もある程度承知していたはずだった。

新田義貞は、切り通しで苦戦する中、迂回して海岸へ向かった。そして、この海に祈りを捧げ、家宝の剣を海中に投げ入れると、潮はたちまち引いた。
騎馬武者は稲村ガ崎の海ずたいを走り抜き、若宮大路、段葛を一騎加勢に鎌倉の府へと攻め上ったのである・・。

1333年、鎌倉・北条政権は遂に落ちたのである・・、最後の執権は「北条高時」(既に「東勝寺跡・高時やぐら」の項で紹介済み)であった・・。
新田義貞が無位無官の身で、日の目を見ることのない存在であったのが、たった150騎という少数で上州・新田郷にて挙兵して、それから、わずか14日の後の事だった。

新田義貞は、正統源氏・八幡太郎義家の直系の家柄で、河内源氏の一門として上野の国・新田郷に土着していた。
元弘3年(1333年)後醍醐天皇による倒幕の宣旨(平安末期以降、天皇の命を伝える公文書)の呼びかけに応じ、一族を集め鎌倉幕府討伐のため挙兵した・・、義貞32歳である。
新田軍は東山道を西へ進み、上野国の守護所を落とし、利根川を越えた時点で足利尊氏の嫡子・千寿王(足利義詮)の軍と合流する。
嫡男を奉じた新田軍は数万規模にも膨れ上がったと言われる。

源頼朝、新田義貞に共通するのは、必ずしも多くの勢力をもつ武士団を統率していたわけではなく、頼朝も石橋山の合戦に立ち上がった時は少勢であった・・。
それに、もともと源氏色の濃い関東武士団であり、平家の出である北条政権には少なからず反感をもっていたし、常に八幡旗の下に統領を求めるのが関東の武士団の特性でもあったともいわれる。

さらに新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指ヶ原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、遂に幕府軍と衝突する。
兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏(埼玉県川越市)ら武蔵の諸侯の援護を得て新田軍は次第に有利となる。
新田軍は一度は敗走するが、翌日には援軍に駆け付けた三浦義勝(相模の国)ら数千の兵を合わせて、分倍河原(ぶばい・東京都府中市多摩川河畔)で幕府軍を撃破する。

この頃、足利尊氏は幕府の命で京の反乱軍(後醍醐天皇、楠木正成等)を鎮圧すべく上京するが・・、民意動向により寝返って、鎌倉の出先である京の「六波羅探題」を逆に滅ぼしている・・。
これらの情報が関東の戦場にも伝わり、幕府軍内の謀反などがあって、戦況を有利に導いていったと思われる。 
藤沢まで兵を進めた義貞は、軍を極楽寺坂切通し方面と巨副呂坂切通し方面にわけて鎌倉への総攻撃を開始する。 難攻するうちには新田義貞は「稲村ガ崎」へと向かうのである・・。  


湘南海岸沿いにR134が走っている。
稲村ガ崎から江ノ島辺りの七里ケ浜は、特に景色が良く、遠く富士を仰いだ北斎の絵にもなり、日本の渚百選にもなっている。
風が通るところで、そこそこ波もあり、今は若者のサーフィンのメッカになっている・・。稲村ガ崎あたりから名物の「江ノ電」も海岸近くをゆき、行合川の袂に「七里ケ浜」の駅もあった・・。
ここの沖合いで、一昔前或る悲劇が発生している・・が、今では相当年配の方しか御存知無いかもしれない。

明治43年1月、隣町の逗子開成中学のボートが風に煽られて沈み、乗っていた生徒12名全員が死亡した。
寒風吹きすさぶ中、雄々しき若者が懸命の命の叫びも虚しく、波間に飲まれていったのである・・。 

当時この事件は全国的に大ニュースとなり、数度映画化もされ、七里ケ浜哀歌として「真白き富士の嶺」で歌にもなっている。
この歌は悲しき唱歌として昭和の時代まで歌われていたが・・、いまでは遠い記憶になってしまったようだ・・。



「七里ケ浜の哀歌」(真白き富士の嶺) 作詞者 三角錫子  作曲者 ガードン

♪♪真白き富士の嶺緑の江ノ島    ♪♪ボートは沈みぬ千尋の海原
  仰ぎ見るも今は涙              風も浪も小さき腕に
  帰らぬ十二の雄々しき魂に        力もつきはて呼ぶ名は父母
  捧げまつる胸と心              恨みは深し七里が浜辺

♪♪み雪は咽せびぬ風さえ騒ぎて
  月も星も影をひそめ
  み魂よ何処に迷いておわすか
  帰れ早く母の胸に・・♪♪


次回は、 源義経の「満腹寺」


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古都鎌倉(21) 「光明寺」

2009年06月25日 10時13分58秒 | 鎌倉編
巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒(鎌倉まとめ)

古都鎌倉(21) 「光明寺」


「光明寺山門は関東一の偉容を誇る」

次に、長谷寺より海岸伝いの2kmほど南下した材木海岸に沿って「光明寺」がある。
寺の「山門」は、余りの大きさに真下に立つと威圧されるようだ・・、それもそのはず、高さは30m(ビル八階建てに相当)ほどもあり、「関東一」の規模とか。
因みに、山門(三門)はお寺の門のことであり、お寺の門には総門というのがあるが、これは入り口を示す門のことで、主もたる門は「山門」である。
二階には釈迦三尊、四天王、十六羅漢などが祀られ、同時に、見晴らしは由比ガ浜、江ノ島、富士山の眺めはすばらしく、彼岸の中日には西方極楽浄土をさながら見る思いがするという。 尚、定時的に有料で(300円)山門拝観を行なっているらしい・・。


「光明寺・本堂」(市内でも屈指の大寺院)

その巨大な山門をくぐると、直線状の石畳の正面に本殿があり、ここでは大殿と称しているらしい・・。
この寺院は、「天照山蓮華院光明寺」といい、関東における浄土宗の大本山である。
創立は、鎌倉時代初期の西暦1243年といわれ、寺を開いたのは浄土宗三祖といわれる「良忠上人」である。
浄土宗の宗祖は、ご存知「法然」であるが、その弟子が聖光上人といい、その又弟子が石見国(島根県)出身の「良忠上人」であった。
上人は、鎌倉幕府第四代の執権、北条経時公の帰依を受けてこの光明寺を開かれたといわれている。 その後も歴代執権の帰依をうけ、多くの伽藍を整え、関東における念仏道場の中心となり、当時の天皇・「後土御門天皇」より『関東総本山』の称号を受け、国と国民の平安を祈る「勅願所」となった。



「光明寺・内藤家墓地」(重文)

本堂の横奥に「内藤家」の廟所がある。
磐城・平藩の初代から日向・延岡藩の幕末まで、代々の墓所が一同に祭られているという。
大型の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や六観音、六地蔵など、200基以上の石像遺品が並んでいるとのこと。 草むらに横一列に順よく並ぶ墓石・石像群は美的でもあり、壮観であるが、一種異様な光景でもあり鬼気迫る迫力ですらあった。
このように江戸初期から末期まで代々の大名の墓が全部一箇所に揃っているのは大変珍しいという。鎌倉市の史跡に指定されている・・。


小生の実家・田舎は福島県「いわき市」で、江戸期においてはこの地方を磐城平藩と称して、鳥居、内藤、井上、安藤の四大名が統治していた。 
中でも内藤家は永く、江戸初期の1622年から1747年まで125年間、六代の長きに亘って治めていた。
内藤家は徳川家譜代として戦国期より活躍し、「大阪の陣」では江戸城の留守居役を任されるなど、江戸幕府を開くにあたり功績は大きい・・。 

江戸中期、六代目・内藤 政樹の代の磐城平藩では、天変による洪水や凶作、また悪政などにより藩財政の破綻がつずき、そのため重税で苦しめられた領民の不満が鬱積していた・・。そして遂に元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。
四方から平城下に押しよせた一揆勢は凡そ2万人、富豪や商家を打ち壊し乱入、 役所、獄舎をも襲った・・。 その期間は4日間にも及んで武士団に抗し訴え続け、ついに減免に成功したという。
だがこの騒動で領主・内藤政樹は、日向(宮崎県) 延岡城7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる・・。
去るに及んで次の歌を残したという・・、

『 日に向ふ 国に命を 延べおかば またみちのくの 人に逢うべし 』 

九州、日向延岡・内藤藩は、磐城平藩と同様の年月(124年)に亘り藩政を治める・・。
幕末、薩摩藩を筆頭に倒幕派の南九州諸藩の中にあって、徳川譜代藩であるがゆえに佐幕の立場を採らざるをえず、苦況に立たされるが・・・。

内藤家・江戸上屋敷は、江戸城外郭門の「虎の門」に続く外堀辺りにあった。
磐城・平藩より財政難の連続で、巷では内藤貧乏の守と悪態をつかれ・・、そのあまりの質素な暮らしぶりを揶揄されたほどの内藤本家であった。
しかし、七万石の小藩ながら、その後もなお私財をつぎ込み城下町の再興に尽くすなど、民衆に支持された名家である。

そんな生活ぶりの中、内藤家は代々「浄土宗」を崇拝信仰し、その菩提寺は、鎌倉・材木座の「天照山蓮華院光明寺」であった。
「光明寺」は浄土宗の七大本山の一つで、江戸時代には徳川家康によって関東十八檀林(だんりん・仏教の学問所、平安時代の檀林寺に始まるが、学問所を檀林と呼ぶようになったのは室町末期で、近世は各宗で設けていた)の一つに数えられ、その筆頭に位置づけられた名刹である。
  
延岡城の内藤家は、日向灘の海に面した高台にあるとか・・。
江戸住まいの日々、彼岸や盆の参詣のひと時には、内藤家の人々は鎌倉・材木座の海に重ねて、日向灘を思いだしていたに違いない・・・。

次回は、 「稲村ヶ崎」


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古都鎌倉(20) 「長谷寺」

2009年06月23日 09時06分25秒 | 鎌倉編
 巡った寺社、史跡の順番・・。
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古都鎌倉(20) 「長谷寺」

 大仏さんの前の道路はお土産屋が並んでいて賑やかである・・、が車の通りが頻繁なのが些か難儀である。
「長谷寺・長谷観音」は、大仏さんから2~300m南の方角へ行ったところに在った。
広い駐車場の入り口近くに拝観料の受付がある・・。 
昨今は些か有名になると何処も拝観料を取るようになり、数多くの寺社を巡る時、駐車場料金等を合わせると拝観数にもよるが少なからずの出費である・・。 


「長谷寺山門」



「長谷寺庭園:卍池」

立派な門かぶりの松を抱いた山門を入ると、すぐに緑濃き回遊式の庭園が控え、四季折々の花が取り囲む、実に美的景観である・・。



「参道横の千体地蔵」

つずら状の階段をゆくと、間もなく煌びやかな本堂に出た。近年に再建された本堂の中は、鎌倉時代の作とされる9mもの巨大な観音像が立つ、その金箔は、足利尊氏の寄進と伝えられるが・・。


「本堂と木造十一面観音立像(本尊:像高9.18m)」


由比ガ浜が一望できる広場の一角に、「経蔵」があって目を引いた、先般、京都の嵯峨野の「清涼寺」を拝観した時、同じ造りの「経堂」があったのを思い出した。 回転する「輪蔵」があり、その中に一切経の経本が収められている。人の手によって一回周すると、一切経読誦の功徳があるといわれる・・。
経蔵、経堂とも「浄土宗」特有の建物で、釈迦の教えである経典「一切経」が内臓されている・・。 
他にも長谷寺は梵鐘や弁天堂と洞窟佛と見るべき所は多い・・。

鎌倉には七十余の寺があるといわれるが、大仏さまと長谷観音が最も有名で、八幡宮周辺の史蹟と共に鎌倉観光のベストコースになっている。
巡礼者のほか、多くの一般の人々が日々参詣している。
坂東三十三観音の第4 番札所である

私事になりますが・・、
小生宅のすぐ近くに「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音、神奈川景勝五十選、花の名所百選)が在る。 桜の名所で、春にはお花見客でも賑わい、坂東三十三ヶ所巡礼の第六番札所である・・。
小生の第一子が誕生した折、こちらの観音さんで「御七夜」の祈願を行ったところでもあった。


「長谷寺」は、信州善光寺や京都清水寺など、名の通った寺院とともに全国的な広がりのある寺院であり、一般に「長谷観音信仰」といわれている。その根本に位置するのはご存知、「奈良大和の長谷寺」である。
観音様は、「本尊十一面観世音菩薩」といわれ右手に錫杖を執り、 方形の台座に立つ、 いわゆる 「長谷寺式」 と称する独特の形式で現代に至るまで広く信仰を集めているという。

日本三大長谷寺(大和・奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺、三番目は各寺が名乗りを上げてるらしいので即断は出来ないようだ・・、)をはじめ、長谷寺の分布は全国に200個所以上の関係寺院があるという。
その開祖の歴史は古く、奈良朝の初期までさかのぼる・・。 
播磨の國の「徳道上人」が楠の霊木から十一面観音を刻み、これを本尊として大和の国に長谷寺を開創したのが始まりといわれるが・・。

ついでに・・、
ある日、徳道上人が病のため危篤状態になってしまう、そのとき、夢の中で閻魔大王が「おまえはまだ死ぬことは許さない。三十三カ所の観音霊場を造り、人々に巡礼を勧めなさい」と言われた。
お上人は、それに従って、三十三霊場を定め、最初に巡礼を行ったのが大和の国・長谷寺だといわれている。 しかし、この当時は三十三霊場は世の人の信用を得られずに巡礼はあまり発展しなかったという。 
時代はやや下って、平安中期以降になって長谷寺は観音霊場として貴族の間で信仰を集め、さらには武士や庶民にも信仰が広まった。
その後は、地域を問わず、 時代を問わず信仰の広がりをみせ、特に勧化(かんげ・仏の教えをすすめること)という手法によって諸国に霊験を説き、 人々に伝播していったのであろう・・。

そして鎌倉であるが・・、
天平八年(736年)、そのころ勧化に出て、諸国を行脚していた徳道上人は小田原の近くの里に至った。
その夜、老僧が霊夢に現れ、「我は汝が本願の楠木の観音なり。今、縁に従って由比ヶ浜に出現せり」と告げた。 夢から覚めた上人は、急ぎ鎌倉に行き、尊像を拝して御堂を建立したという・・、鎌倉・長谷観音の開山である・・、


「境内の展望休憩地」

「長谷寺」は、鎌倉の海が一望できる風光明媚な高台の位置にある。


次回は、 「光明寺」


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古都鎌倉(19) 「高徳院・大仏殿」

2009年06月22日 10時45分57秒 | 鎌倉編


高徳院大仏殿「仁王門」と大仏殿



 

 巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島


古都鎌倉(19) 「高徳院・大仏殿」

この項から再び方位が変わる。
鎌倉駅より凡そ2km西の方向・長谷地区に高徳院大仏殿(鎌倉大仏)が鎮座している。

主題よりチョット反れますが・・、
『小粒でも 是見てくれの 大伽藍』・・と江戸川柳に歌われている・。小粒とは実は東京・浅草の浅草寺『浅草観音』のことであります・・、 
江戸浅草の浅草寺の御本尊・聖観音は一寸八分と小さいが、江戸市中の多くの寺院の中でも最古の寺で、参詣の人はひきも切らず、伽藍は坂東第一の大きさを誇っていた。
川柳のいう、浅草寺の小さな、小さな「観音様」と大規模な伽藍の対比が面白い・・。

小生、中学校(福島県いわき市)の修学旅行で、鎌倉の大仏を見学してた折、ガイドさんか誰かが・・謎々クイズをだして・・、
「鎌倉の大仏さんと、浅草の観音様が、東海道を同じ歩調で、向かい合うように一歩一歩、歩いた場合どの辺りで出会うでしょうか・・・??、但し、浅草の観音様はここの大仏さんより、かなり小さめです・・」 
我々は日本橋、新橋、品川などと適当に答えを出したが・・、 答えは「雷門・・で―す・・」・・。 
因みに、浅草寺本堂と間に仲見世通り参道を挟んで、雷門までのおおまかな距離は400m位と思われる・・。 事の真実はともかくとして、鎌倉大仏と浅草観音を対比したエピソードが面白くて、今でも記憶に残っている・・。 

そして、本題であります・・。
鎌倉の大仏、高徳院・阿弥陀如来坐像・・、凡そ700年前の鎌倉期に建造された青銅の大仏である。 
奈良の大仏が戦火のため破損がはなはだしく、中世・近世の補修にて現在の姿になったのとは対照的に、こちらの大仏様は当時の姿をしっかりと残しているという。

「東鑑」(鎌倉時代の歴史書)には巨大な坐像の一部を書いてあるだけで、全体像は記してなく・・、元より建造の目的や年代等の詳細は不明だという・・。
当時の執権・北条一門が財力に合わせ、西方(京)への権力の誇示のために、新しい都市・鎌倉の入り口に当る当地へ建立したと言われるが、・・定かでない。
又、当時は疫病、難病が流行り、行き倒れや死人が続出したという、死体は由比ガ浜に捨てられ埋葬された。これらを弔い、来世に導くために「円応寺」(最初、鶴岡八幡宮の正面の海辺にあったが、元禄の地震・津波で堂が破損したため、現在の北鎌倉へ移ったとされる)が建立され、同時に死者を裁く「閻魔大王」(円応寺のは時の運慶作で、笑い閻魔とも言われる・・閻魔帳の起こり)が主仏として鎮座した。
裁かれた死者で生前、悪行の有った者は餓鬼、畜生の地獄へ送られ・・、善行の有った者は、「長谷観音」の下へ、更に、西方の大仏(阿弥陀如来)のおわす極楽浄土へ参らせたといわれる・・。
謂わば、民衆の平穏を祈っての創建であることも確かであろう・・。

鎌倉唯一の国宝仏で、奈良の大仏が天皇勅願によって創建されたのに対し、鎌倉大仏は民衆の浄財で造られた庶民のための大仏さまである。
初めは木造の大仏で、奈良の大仏と同様に大仏殿(御堂)があったが、天変によって倒壊し、次に青銅の大仏が屋外に鋳造されたとある・・。
大仏は120トンもの青銅で出来ている。 これだけ大規模で、しかも精巧に仕上げるには、大変な技術を要したに違いない。
国内でも大変高度な技術、屈指の技を持った職人たちが集められ、造られたものであろう・・、寺の誌史によると上総の国の鋳物師・大野五郎右衛門が尽力したと記録されている。
小生、この大仏さんは幾度か拝観したことがあったが・・、天井もなく、風に吹かれ、雨に晒されての「露座の大仏さま」は今でも変わらず、禅想に耽り、鎮座している。


『鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな』・・、これは有名な与謝野晶子が鎌倉の大仏を詠ったもので、境内に歌碑もある。
晶子女史が「美男におわす」と詠っている大仏だが・・、美男子かどうか・・?というのは小生・男性につきハテナマークもあるが、言われてみれば鼻筋が透って、端正な顔つきであることは確かなようだ。
この鎌倉の大仏は一体だれが造ったのか、造らせたのか・・?、一説によると、発案は源頼朝ともされている。

鎌倉時代といえば文化面でも大きく飛躍した時代であった、武士や庶民の新しい文化が台頭し、以前の貴族文化と併せて、文化の二元性がでてきたところにあるという・・。
特に鎌倉仏教界にあっては、今まで貴族中心の宗教であったのが、新幕府が中国渡来の禅宗を篤く信仰するようになり、新しい鎌倉文化を花開かせた。これらが浄土や日蓮宗と合わせて広く一般庶民まで普及したのである。 
また工芸などの職人的技能士なども多いに広まったという・・。そんな中、世情は大飢饉(1230年前後)など、飢えや苦しみの惨状があったともいう。
鎌倉大仏はこんな時代背景もあり、時の権力者の援護をも得て、大衆庶民の要求に答えたものといえそうだ・・。
大仏様は今でこそ緑青(銅のロクショウ、錆びを護る錆)の姿をしているが、完成当初は全身金箔を施した華麗な姿であったという、現在も一部にその跡が見られる。 

また、この大仏は胎内拝観(数十円の布施)も可能である。
急な階段を登った、いわゆる中腹に見学用の台座がある、外観の大身美に比べ、窮屈に感じられるが、背中からの明り取り(光明)が何となくユーモラスである、「後光が胎内に射す」といったところか・・・。


次回は、 「長谷寺」


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