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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

平成日本紀行(135)大分 「豊後・大友氏」

2016年08月10日 17時25分02秒 | 宮崎、大分県




.九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)





 平成日本紀行(135)大分 「豊後・大友氏」    、






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大友氏は、我が相模の国(神奈川・小田原)の出身であった・・?

さて、「大友氏」の時代である。 
大友氏は中世・鎌倉初期に東国より豊後に入国して以来、戦国時代の終わり頃までの約320年余り豊後地方の守護職(領主:鎌倉期は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職・しゅごしき・といった)を務めた。 

鎌倉時代は源頼朝が相模の国・鎌倉に幕府を置き、武士階級が天皇・貴族階級と分離して新たな支配体制を創った時代で、開府は1192年のことであった。 
この時期、平安期までの荘園に変わって全国に領主となる守護・地頭を設置し、守護は一国に一人ずつ配置された。 

西国においては、東国から有力御家人衆を派遣、入国させ領地を安堵させた大名としては肥前国の千葉氏、九州探題となった渋川氏、中国地方最大の勢力となる毛利氏、安芸守護の安芸武田氏、日向・薩摩の島津氏、そして豊後国守護に任命された大友氏等であろう。


中国を治めた毛利氏については小生の在住地、神奈川県厚木市より移遷されていったことは中国・山口の項で述べた。 

島津氏については頼朝が幼少時流人の身であった頃、世話をしたのが比企家(埼玉、武蔵の荘)の禅尼であり、その娘(丹後の局)と頼朝の間に産まれたのが島津忠久だという。 御落胤である。 
一時、畠山重忠に預けられ、後に九州日向の国、島津の荘を賜る。これが九州の覇者、島津藩の開祖である。(更に、宮崎の項で述べます・・、)


そして豊後・大友氏も相模国の小田原大友郷が出実であると言われる。 
現在の神奈川県小田原市に西大友、東大友という地名が、酒匂川と曽我梅林に挟まれた静観の地域に今も残る。 

大友郷の初代の祖は源頼朝の庶子(しょし:妾腹の子、嫡子以外の実子)か或は、頼朝の側近であった中原親能(鎌倉初期の文官御家人、公家)の猶子(ゆうし・兄弟の子、甥)と言われているが、その中原氏はその土地の名をとって大友氏を名乗っていた。 

豊後はかっては平家の基盤であり、平家没落後も平家武将が多く残存していた。
その九州に対する抑えの役割が必要であり、その監視と抑えに大友氏が派遣されたといわれる。


豊後地方は、室町期から戦国初期までは大友、大内(周防・山口県の守護大名で、豊前の守護職も兼ねる)、少弐(しょうに:筑後の守護大名)の三国抗争が続くが、戦国期、大友義鎮(大友宗麟)が勢力を伸ばし、一時期は豊後を直轄支配地とし更に豊前・筑前・筑後・肥前・肥後を勢力下にして九州北部を領有するまでになる。



次回は「豊後・大友宗麟」

  
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平成日本紀行(135)大分 「豊の国」

2016年08月07日 17時48分16秒 | 宮崎、大分県
.


九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)




『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/







 平成日本紀行(135)大分 「豊の国」  ,














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豊の国、豊後の国、そして古豪・大分氏が元祖であった・・、

大分の市街北部の大分光吉I・Cまで向かう。
大分市は大分県の中部海岸に位置する市で、勿論、県の県庁所在地である。 
古くは「豊後の国」の国府が置かれた都市で府内(ふない)とも呼ばれた。

古代、大和朝廷の時代には九州は「筑紫(ちくし)の国」、「豊(とよ)の国」、「日向(ひゅうが)の国」と称していた。 
それが律令によって細分化されて、[筑紫の国]が[筑前:ちくぜん][筑後:ちくご]に、[豊の国]が[豊前:ぶぜん][豊後:ぶんご]に、[肥の国]が[肥前:ひぜん][肥後:ひご]に、[日向の国]が[日向:ひゅうが][薩摩:さつま][大隅:おおすみ]の九つに分けら九州の名が付いた。 

九州は日本国発祥の地といわれ、無理やり解(かい)せば「 初めに日出るところであり、豊かにして、肥ゆる、国を筑くところなり 」となる。



豊の国、豊後の国は既に、九州の瀬戸内ルートを通して畿内に通じた「海の道」でもあり、東九州の要地であった。 
その古代、既に「大分」の名が見れる。

市内には有名な「亀塚古墳」の他にも多くの古墳があり、これは有力な勢力を持った人が大分にいたことを示しているという。
その内、三芳地区にある「古宮古墳」は、九州に一つしかないといわれる畿内型終末期古墳(古墳時代:大和時代、畿内地方に多くの巨大古墳が造営されたが、その時代の終末期と呼ばれる)が、ここ「豊の国」にあり、当時日本の政治や経済の中心であった畿内の文化を色濃く反映した地域であったことが伺える。

古墳時代終末期には、既に古墳築造の禁止令(薄葬令=はくそうれい)が発せられていた。
古宮古墳はその最後の頃の古墳であり、誰が葬られているのかは確かな事は判っていないが、当時かなりの権力をもった人物で5世紀以来、賀来川流域を治めていた大分君(おおいたぎみ)の一族で、壬申の乱で活躍した「恵尺」(えさか)という人物が葬られていると想定されいる。

古事記には「 国造本紀 」の項目の中で、大分君は阿蘇君(火の君)と同様に国造(くにのみやっこ:こくぞう)と同格に列せられていて、九州の地方豪族として中央(都、畿内)にも知られていた。 

国造制とは、6世紀頃に律令制が導入される以前のヤマト王権(大和朝廷)の時代の制度で、地方統治体制(ここでは一つ国を意味する)の下の長官、国の長を意味する。

この時期、大分地方に大分国造が置かれていて、この大分国造になったのが大分君一族であった可能性が高いといわれる。
この時代に起こった中央の勢力争いに豊の国からその代表として「大分恵尺」(おおきだ の えさか)が応援に駆けつけ大功をなしたとされている。


壬申の乱」とは、672年に起きた日本古代の最大の内乱であり、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ)に対し、皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が反旗をひるがえしたことによる。 
この戦いに勝利して後に天武天皇となった大海人皇子は、大分君・恵尺の功績に十分に報いて、死後、恵尺の出身国・「豊の国」(この時期、律令制が発布、豊後の国となる)に古墳の造営を許可されたという。


大分市椎迫(しいざこ)の丘陵、西の台小学校の東に石棺式石室の古墳が今も残る。
この古代大分氏に因んで、明治期に豊後の国が大分県になり尚且つ、大分市と呼称したとされる。

奈良期・国府時代の国分寺跡は「久大本線」の4つ目の駅「豊後国分」駅前に良く整備、復元された状態で見学でき、「大分市歴史資料館」が併設されている。 
しかし、肝心の「豊後国府」跡は未だに発見されていないという。 

学説もいくつかあって確定していないが、「久大本線」の駅名にもなっている「古国府」(ふるごう)辺りにあったことは間違いないともいわれ、古国府という地名にもなっているこの地域に遺構が残されているのでは・・?と想像されてる。


次回は、中世の豊後、「創始者・大友氏

  
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平成日本紀行(134)由布院 「湯平温泉」(Ⅱ) 

2016年08月06日 17時13分29秒 | 宮崎、大分県



九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)




平成日本紀行(134)由布院 「湯平温泉」(Ⅱ) 





http://blog-imgs-60.fc2.com/k/a/t/katakuchiiwasi/s1-IMG_9678.jpg



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f7/Yunohira_onsen.jpg



https://img.guide.travel.co.jp/article/110/20130817172028/9DEC8A65DCA743259AB727CEE0A8A0BD_L.jpg



http://livedoor.blogimg.jp/samehadahouzukiika/imgs/4/7/47ca221d.jpg
湯平温泉と河原の砂湯






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湯平温泉といえば観光地としてのイメージが強いが、湯平では昔から熟年層を主とした湯治場としての伝統をかたくなに守っているようで、客層も「癒し」や保養を目的とした利用者が多いという。 

周囲を大自然にひっそりと抱かれて湧きつずける湯の里・湯平は、昨今では由布院の奥座敷としても知られ、訪ねる愛湯人が次第に増えているという。 
温泉は薬効も充分あり、飲めば胃腸に良いともいわれて湯平の旅館ではお茶のかわりに温泉のお湯が客に出されるという珍しさである。


石畳通りに入ったすぐ右側に「銀の湯」があった、格子戸の引き戸が感じいい。他にも湯平には五つも共同湯があり、下から「橋本湯」、「銀の湯」、「中央温泉」、「中の湯」、「金の湯」とある。 

中でも中央温泉はごうごうと勇ましい音を立てて流れる花合野川(かごのがわ)沿いの川原にあり、渓谷の美景が堪能できるという。 川沿いにあるため度々建物が流されたともいうが、今でも川が増水すると川水が溢れて浴槽に入ってくることがあり、時には湯船の中に魚が入り込むこともあるという。 

魚と混浴・・、これ以上の風流はないが地区の人はその度に掃除をして大切に温泉を使っていると。



坂の一番上にある「金の湯」を訪ねてみた。

急坂を上りきってやっとこ辿り着き、最上部に架かる明治橋を渡り、階段を少し川沿いに下りるとコンクリートの白壁のガッシリした建物が「金の湯」であった。 100円の入湯料を受け箱に入れて入室する、他に客はいなかった。 浴室は大して広くはないがスペースの半分くらいが湯舟になっていて、長方形のタイル張りに蛇口から少しづつ湯が注がれている。 

湯の色は薄い赤茶色というか、如何にも効能が有りそうな湯で、少々熱い加減であるが何とか浸かれる。 奥に湯揉み用であろうか、木の板が立て掛けられているのが面白い。 板に寝っころがってお湯を腹に掛ける、「掛け湯」といわれる温泉療法もあり胃腸病に効くともいう。 源泉はすぐこの上にあり、直接こちらへ引き湯しているという。 

ここの温泉は胃酸過多、慢性胃炎や腸炎などに効用があるという弱食塩泉で、飲めば胃酸の分泌を促し胃腸の働きを良くすることから「胃腸の湯」と古来から言われている。 

湯平温泉は、医療温泉の西の横綱ともいわれる天下の名湯ともいわれ、フランスのヴィシー鉱泉と並ぶとも称されているようだ。 「ヴィシー」とはフランスの温泉療養の町で、国中からこの温泉療法を求めに方々からやって来るという。

湯平温泉を満喫して、家路(双葉荘)を辿った。 それにしても今日は朝から色んな温泉に浸かったが、これぞ温泉三昧とも云うんであろうか・・、鉄輪温泉に戻ってからも勿論一風呂浸かるつもりである。


次回は、「大分」方面へ

  
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平成日本紀行(134)由布院 「湯平温泉」

2016年08月06日 17時12分59秒 | 宮崎、大分県
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九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)





 平成日本紀行(134)由布院 「湯平温泉」 








写真:鄙びた石畳の坂道・「湯平温泉通り」(木造の四階建てに注目)






最上部の「金の湯」(共同湯)と浴槽(男湯)




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石畳の、鄙びた、歴史ある、温泉・・!!  、


湯布院町(由布市)の三番目の温泉場・「湯平温泉」へ向かう。

駅前から11号線、更に南由布院駅辺りから国道210号線(大分・湯布院道)を行く。 
山峡の地に久大本線が並行して走り、谷底に大分川の清流が光る。  

車を下りて今度は“ツッカケサンダル”で歩くことにした。 しかし、草履サンダルより下駄が似合う町並み、否、路地である。


温泉街は石畳の坂道通り沿いを中心に約30軒程の温泉宿が並ぶ、小ぢんまりとした湯街である。 
シンボルともいえる石畳をゆっくり歩を進める、歩くうち意外と坂が急なのに驚く。
湯平温泉”ならぬ“湯坂温泉”であろうと皮肉りたくもなる。 

道脇に、石を刳り貫いて造作したと思われる石灯篭が石畳の道筋に等間隔に設置してある。
ボンヤリ灯りで、夜の温泉情緒を盛り上げようというのだろう。



石畳の坂道」、この石畳には約300年の歴史があるという。 
江戸後期に湯町の篤志家(工藤三助)が現在の石畳を作ったのがきっかけで、凡そ500メートルも続く石畳の急な坂道である。 

尤もであるが何故、階段にしなかったのかかなと素人的疑問も生じるが・・?、
何故なら雪の日は大変だろうな、足腰の弱い人は階段に腰掛けて休みながら上れるのにと。
だが階段にすると施工が大変か、などと感じながらも個人の「」で行ったとすれば納得でもある。

石畳は300年の経過があるが、湯平温泉そのものは由布院同様、鎌倉時代より開けたといわれ古い歴史のある温泉場である。 
江戸期に温泉地としての骨格が出来上がり、それ以来、湯治場としての発展をつづける。貴重で豪華な木造四階建ての旅館が建ったのもこの頃で、今もその建物が一部残っている。


大正から昭和初期にかけて一時代を築き上げた湯平は文人・墨人も多く訪れている。
   
『 わたしゃ湯の平 湯治のかえり 肌にほんのり 湯のかほり 』
と詩人の野口雨情が詠っている。

又、山頭火は地元の人情に触れた様子やその思いを

『 しぐるるや 人の情けに 涙ぐむ 』
という句に残し、真新しい石碑が石畳に入り口に建つ。


最近では、1982年(昭和57年)に湯平で『 男はつらいよ 第30作 花も嵐も寅次郎 』がロケ撮影されてもいる。


次回も湯平温泉

  
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平成日本紀行(134)由布院 「由布院温泉」(Ⅱ)

2016年08月05日 17時31分56秒 | 宮崎、大分県



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  平成日本紀行(134)由布院 「由布院温泉」(Ⅱ) 





由布院市街から由布岳


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/a/a4/Shitan_yu_gaikan.jpg




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f5/Yufuin_Onsen_-Mus%C5%8Den_02.jpg
金鱗湖の下ん湯と露天風呂から眺める由布岳





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由布院温泉は奈良期には既に開かれ、鎌倉期から効用のある温泉として広く知られていた由布院であるが、江戸時代になって突如としてただの村人だけの行水(ぎょうずい))の湯になってしまったと言うのである・・?。

16世紀頃までは由布院はキリシタンの里であった。 しかし、江戸期になって、この平和な村にキリシタンの弾圧が襲ってきたのである。 
全村民がキリシタンだったような由布院は、やむなく一部の信者を除いて殆どが改宗してしまったともいう。(今でもその隠れキリシタンの痕跡が墓石などに残っている) 

由布院に対する監視の目は厳しく、キリシタンの疑いを避けるためにも、村人が行水する以外、外部の人は誰も湯治に来なくなっていた。
ここに由布院温泉の陰の歴史が秘められてたのである。

由布院が湯治場として再び活気を帯びるのは明治維新後のことで明治中期、近隣に陸軍の演習場ができ、陸軍のお偉方や兵士たちが旅館や民家に宿泊し、温泉気分を満喫するようになってからである。 
湯布院には今も自衛隊の駐屯地があり、日出生台(ひじゅうだい)演習場(湯布院町、玖珠町、九重町にまたがる西日本最大の演習場)からは時折、砲撃音が聞こえるという。

由布院には、更に大分-佐賀を結ぶ佐賀県道が開通し、大分-由布院間に鉄道も走るようになった。
そして何処も同じようにこの町も歓楽温泉地と化していこうとしていたのである。 

これを憂いたのが油屋熊八をはじめ、江戸時代からの庄屋たちや医者、外部から訪れた学者たちであった。 
油屋は由布院の名勝宣伝文として「 朝かすみ・四季蛍・山のみどり・木々の紅葉・杉の大木・興禅院・八山地獄・蕨狩り・若宮八幡・六所宮・石松公園・倒映湖・人と魚の混浴・下の湯 」を挙げている。

熊八に案内されてやって来た客人たちは、仙郷・由布院盆地の美しさに感動し、その後も度々自らこの自然の素朴な温泉地を訪れたという。 
客人は、由布院で遊んできたと言うより、由布院で癒してきたと言ったといい、勇壮な姿で由布院盆地を包み込むように聳える由布岳や美しい金鱗湖、そして変わらない純朴な農村風景、町の人々の生活がそのまま由布院の歴史を伝えている。


次回は、「湯平温泉

  
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