女として大阪で暮らす。(朝鮮婆ではないよ)

自然を愛する人です。
そして動物を愛する人です。
植物も大好きです。
ニコ生すき、日本の糞ばばですよ。

でばがめとは?

2011-10-17 | 日記

出歯亀(でばがめもしくはでばかめ)とは、一般に窃視(のぞき)行為やその常習者、もしくは窃視症や窃視趣味、ときには単に好色な男のことを指す。「のぞき」と亀に関係があるわけではなく、これは猟奇殺人事件の犯人であったのぞき常習犯の渾名に由来すると言われるが、詳細は本文を参照のこと。英語では「ピーピング・トム(Peeping Tom)」という言葉が概ねこれに該当する。

この語は使用者によって若干の意味の広がりを持ち、窃視行為そのものを指す場合がある一方で、その行為により性的興奮を覚えること(=窃視症)を示す言葉としても使われる。



語源の一般的な説明 [編集]出歯亀という言葉の語源は、1908年(明治41年)に遡る。この年の3月22日、豊多摩郡西大久保村54(現在の東京都新宿区大久保)の藤の湯近くで銭湯帰りの女性(当時27歳、大蔵官吏・野口米次郎の元妻であり、事件当時は下谷電話交換局長・幸田恭の妊娠中の新妻・ゑん子)が殺害され、手ぬぐいを口に押し込まれた状態で発見された。この事件が判明の当初より大々的に紙誌で報道される中、以前にも女湯の覗き行為を行っていた「出歯の亀吉」こと植木職人の池田亀太郎(当時35歳)が強姦殺人の犯人として逮捕された。

衆目を集める事件であったために、新聞は捜査の当初から詳細に報道しており、逮捕時には大見出しが紙面を飾った。また、池田が出っ歯という身体的特徴を持っていたことから彼を出歯亀と呼んで報道し、その語は彼を指す言葉としてここで定着したという。このセンセーショナルな事件は「出歯亀事件」として同時代人の心に焼き付き、森鴎外も「ヰタ・セクスアリス」の中で言及している。そして現代にまで出歯亀という語は窃視趣味やその窃視行動を指す語として残り、犯人は不名誉な形で末代まで名を残すこととなった。

まず何よりも重要なのが、出歯亀こと池田の冤罪説である。取り調べの段階で彼は一旦自供したものの、法廷ではそれを翻し、無罪を主張して徹底抗戦した。被害者が電話交換局長の妻であったことや、当時の習俗の中で地域社会に多大な不安感を与えたことから警察は早期解決を目指して捜査に奔走し、3月31日の時点で嫌疑をかけて取り調べられた者は20名以上、うち5人を勾留したという。それでも犯人検挙に至らなかった警察は引き続き次々と容疑者を拘引するなどし、一方ではおとり捜査も開始した。だがこの経過は(捜査に記者が同行するなどして)逐一新聞報道されており、仮に犯人が報道を見ていたとしたら、それにおめおめと騙されよう筈もなかった。

そのような状況下で池田の逮捕がなされたのは4月4日。彼の自白を以て警察も報道も事件の決着を見なした。だが彼の取り調べが始まったのは前月31日からで、捜査成果の上がらぬ中での厳しい取り調べで得られた自白であったという。また警察がまず容疑をかけたのが、性犯罪の前歴のある者を中心にしていたことにも意を留める必要がある。

彼が覗きの常習犯であったという事実に対しては、どの史料も疑問を差し挟んではいない。しかし窃視趣味と強姦殺人(あるいは致死)との間には大きな隔たりがあることも事実である。警察が複数名の中から容疑者を絞り込んだのは、池田の性向は単に女湯を隙間から覗くことでは飽き足らず、銭湯帰りの女性に悪戯をしようとしたことがあったことからという。

公判で彼および弁護士は拷問による自白に証拠価値は無いと主張した。それに対し検察側は拷問は行われていないと反論している。また、池田の自白による絞殺方法と検死結果とには食い違いがある中で、当人の「一時的な」自白しか証拠が無い以上有罪にするには無理があると、弁護側は主張している。だが地裁判決は無期懲役(徒刑)となり、この点を争点に彼を冤罪と主張する弁護団は控訴審を戦ったが判決は同様。そして大審院で上告が棄却され、池田は服役することとなった。

今となっては彼が真犯人だったのか、冤罪であったのかは知る由もないが、現場に残された足跡と亀太郎の足跡が異なるという証言が存在したのは事実である。それを裁判所は証拠能力不十分として採用しなかったのではあるが。また、彼が1913年(大正2年)、わずか5年の後に自由の身となっていることも見逃せない。

出歯亀は出歯だったのか [編集]俗には、池田の逮捕後、新聞報道で彼の顔写真から「出歯亀」という呼称が使われるようになったという。だがその一方で、事件の弁護人が法廷でそのように呼んだことが契機であるとの説もある。また、当時の新聞が逮捕2日後の報道で、彼の仕事仲間の言葉として「出歯亀」という表現を用い、そこから急速に広まったともいう。

しかしそれのみにとどまらず、些細な……だがある意味ではより重要な疑義がある。「でばかめ」の「でば」が出っ歯(反歯)を意味するものではなく「出張り」すなわち「出しゃばり」を意味していたのだと、例えば高島俊男などは指摘している。

同僚が語ったという「でばのかめきち」とは、その身体的特徴をあげつらうものではなく、何にでも首を突っ込みたがる彼の日常的な行動パターンを指して「出張(でば)」と呼んでいたものが、記者の誤解かあるいは「出っ歯の男が女湯をニタニタ覗いているイメージ」の鮮烈さのゆえにか大きく報道され、日本語の慣用表現として後代まで残ることとなってしまった可能性も実は低くはない。現在では国語辞典に至るまで、彼が生来出っ歯であったことを前提として書かれているが、その根拠は実のところ薄く弱い。

誤記の始まりの原因が後者だとすると、当時既に「出っ歯=好色」という図式があったことになる。だが、あるいは逆にこの事件を境にそのようなイメージが生まれたのかも知れない。なお歯科医の立場からは、歯の噛み合わせと好色とには相関関係は無いとされる。

その他 [編集]時代が下って、「出歯亀」という語は日常生活では比較的軽い意味で用いられるものになっている。ただしさらなる時代の変化に伴い、これが使用されること自体が減りつつあるのかもしれない。というのは簡単なクイズ本(あるいはウェブ上の同様のもの)を俯瞰すると、「出歯亀とは何か」という出題が散見されることから類推される。常識クイズの題材となるということは、既に常識の範疇から外れつつあるのかもしれない。なお現代のいわゆる狭義の出歯亀行為は、暗視鏡や赤外線カメラを用いて野外性交の現場を観察あるいは盗撮(これをエロ系写真週刊誌に投稿して利益を得ている)することを指す。ちなみに、この観察に限れば、倫理的問題はあるが犯罪行為ではない。

「出歯亀」の読み仮名は「でばかめ」「でばがめ」の2種類が使われており、かな漢字変換の辞書によっては一方のみの登録となっている。これは幾多の国語辞典がそのようになっているからと思われ、語源からすると前者に分があろうが、後者もまた人口に膾炙している模様である。

☆でばがめとは、知らない若い子が多いでしょうね。
 いまは、盗撮が多いからね。

人は人で関係ない人生(忍の100の話)

2011-10-17 | 日記
女は、最近鏡を見るのが苦痛である。
そのうえに、呼び名までおばさんから、おばあちゃんとよばれる。

年を取るのは、仕方のないことだが、鏡の自分をみていると、
つくづく、醜くしわのかず、衰えた要望がなさけなくなっていた。

しかし、これは、不幸ではなく、人間に平等にくる老化というもので、
こわいものでも、いけないものでもない、死んでゆく過程の一つ。

年を取ると、いろんなことを知っていくので、じんせいをたのしめる。
工夫で、いろいろ人とは違う、老いの人生を堪能できる。

ひととはちがう、個性をもち、時間を有効につかえるのこりがみえてくるからこそ。
それなのに、人は誰かを見て、自分と比べて無駄な不幸を作り出す。

「ひとは、ひとで、かんけいなし」

女は、いつも思う、こせいてきなばあさんになり、ふけていくのもたのしい。
残りの人生を、どう利用してどう楽しみを検索していくかだけでも、おもしろい。

貧乏で、ふくひとつかえないくせに、別にひととくらべないので、
なんとも、しあわせなばあさんだけど。

生きていくには、たくさんの趣味とたのしみをもてば、
人よりは、自己満足で余生をたのしめるのに。

無駄なことは、人をうらやましがることや、人をねたむこと。
そんなじかんがあったら、好きなことや、好きな本をさがすこと。

でも、たまになんにもしないで、このおばあちゃんは、ただひたすら、
ぼーとして、それも人生の一つとしていきている。

人とは違う、貧乏人生もいいものだとおもっているのである。

女狂いおじいさんの末路(忍の100の話)

2011-10-17 | 日記
あるところ、ある場所に、お爺さんで女狂いの人がいました。
おんなが、ほしくてほしくて、たまらない人でした。

気に入った女を見れば、のぞく、後をつける、はてはだきつく、
警察に、お世話になるほど、色ぐるいでした。

そんな色狂いが、どうしてもおんながほしくなったのでしょう。
また、このみのおんなを、じいさんのくせに、後を付け始めました。

そのおんなは、すばやくきがついて、爺さん言いました。
「そんなに、私に興味があるの?じゃーついておいで?!」

その女の家には、それはそれは、いろいろな女が住んでいました。
爺さんは、喜んでその女たちの家にあがり、お茶を飲んでいました。

爺さんは、うとうとと、ねむくなりねてしまいました。
「このじじいかあ。あらゆる女に、だきついたり、のぞいたりするのは?!」

ここは、実は、女の家であり、まあ悪い人を処理するいえでもありました。
闇の、抹殺場でもありました。

爺さんは、ねていました。
起き上がり、おどろいてしまいました。

「痛い、痛い。」

爺さんは、おんなたちに、麻酔をかけられて、いたずらをする男根と玉を、
きれいに、きりとられていました。もちろん、いのちまではとられませんでしたが、
激痛と、くるしみが、じいさんにおそってきたのです。

いたずらばかりするおじいさんの、体は、とうとう男の体でもなく、女の体でもなく、
なさけない、体にされてしまったのです。

でも、痛みが引いたら、爺さんは、いつものようにおんなにいたずらをしようとしましたが、
不思議と、そんなきもちがおきません。

それだけではなく、女のようになり、あっという間に、そののち死んでしまいました。

爺さんの近所のおんなたちは、よろこびました。

あんな、ずごい気持ちの悪い人は、死んでこそみなさんが喜ぶ、
そんな色狂いじいさんが、あなたのそばにもし、いたら、きっとこのおんなたちが、
復讐を果たしてくれます。



ある女の誕生日(忍の100の話)

2011-10-17 | 日記
あるおんながいた。
いつものように、誕生日がきた。

限りなく憂鬱であり、長く生きてしまったことに後悔する日になる。
ある女の過去がそんな気持ちにしていた。

その女は、犯罪以上の法律ではさばききれない罪をおかしていたから。
だいじなものを、捨て去り、ついには殺してしまった。

たまたま、道徳上だけの罪なのだが、深い憂鬱にさいなまれる日々だった。
誕生日のたびに、その恐ろしい罪がより深くなり、重くなり苦痛だった。

おんなは、初老をこえはるかに、しわもより醜く年をとっていた。
それに、昔の面影はみじんもないかった。

深い罪が、その女の顔を、醜く変えて、より老けてみえて、
ぶきみなぐらい、痩せこけたからだが、きたなくみえた。

嘘と偽りの人生で、こんなにも、体まで醜くなってしまった。
女は、鏡を見るのがいやだった。

若いころには、今と違い美しい容姿だったのに、こんなにもみにくくなった。
いつでも、素敵な思いのできる、美しい顔、体が、すべて醜い骨と肉の塊に。

誕生日のたびに、死んでしまいたい衝動にかられていた。
しかし、罪深いおんなは、その醜い顔と体で、苦しんで生きていかなくてはならないと思った。

それが、せめてもの、罪ほろぼしだとおもったからだった。
きょうも、あすも、ぼろをまとい、食べるものも、すくなく、楽しいことなどない人生。

それが女の誕生日には、より悲しみが増すように、神が残したしるしのような日。
そのおんなが、また、醜くなった顔を。まじまじとみた。

「いくつまで、苦しみの記念日がくるのだろう、この醜い体がさらに崩れ落ちていく日々」

涙さえ、わすれたおんなは、誕生日になると、そっと罪を犯した昔を思い出し。
その罰である。たるんだからだと、人間とほど遠い顔で、ため息をついた。

苦しみは永遠に、続き、醜く崩れ落ちてゆく道を歩くしかないのであった。

うそつきの医者(忍の100の話)

2011-10-17 | 日記
あるお医者さんがいました。
ほんとうに、若いころは親切でいいお医者さんでした。

でも、ある時から、とてもお金に執着するようになりました。
それは、あるとてつもない財産をてにいれてからです。

患者は、お金のもとです。
もちろん、いらない薬を処方するわ、点滴をするわ。
もうけることしか考えない、悲しい医者になりました。

お金に追われる生活で、その医者は患者をかんじゃとおもわない。
もちろん、かねもうけのねたですので、のがさないようにするものの。

病気は、なおさないように、していました。
あるとき、患者がいいました。
「先生、私はどうして、なおらないのですか?」

無言で、暗い顔でなにもいいませんでした。
うつむいたまま、こたえもなく、適当に、診察もおわりました。

そうです。お金のためなら、薬も適当、診察も適当。
おまけにいらない、金の高い点滴は、たくさん患者にして。

それでも、いいとおもいましたが、気が付いた患者は、
つぎつぎと、はなれてゆきました。

その先生は、ある人々だけは差別して、優遇してました。
先生も、ある人々と同じ悲しい生まれの人だったのです。

そのうちに、先生も自分でも治らない病気になり、
くすりをのむようになり、顔色もわるくなり、もちろん、
診察などできなくなりました。

それで、1分ぐらいでしんさつができるように、
じぶんよりしたの、職員に診察させ、ますますいいかげんになっていきました。

自分がたくさん儲かる欲目になった時その医師は、金儲けの悪魔になりました。
もちろん、ある人々だけは、差別して優遇していました。

ある患者は、その診察に、たえきれずに、自殺してしまいました。
なんにんも、そんな患者が、かさなり、ついに、その先生も、
ある日、ある患者に、ころされてしまいました。

でも、真実を知っている人々は、だれもかなしみませんでした。
平和がおろずれて、ホッとしている人のほうが、多かったのです。