大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

エージング・パラドックス(1)記憶力

2019-02-18 09:08:33 | 社会問題

 物忘れは老人の特質である。記憶という貯蔵が減ったのではなく、脳の海馬機能が低下するため、記憶を取り出すことに支障が出ると説明されている。老人同士の会話で、「え~と、あの人何て名前だっけ」「あのブランド何て言ったっけ」と互いに言葉が出てこないことが多い。時間を経て「思い出した」「私も思い出したよ」と言いあう。だから、記憶がなくなったわけではなく、さらさらと出てこないのだ。大抵は固有名詞が出てこない場合が多く、モノの画像と言葉が脳の別のところに貯蔵されているからだとも説明される。

 「あれが何したから、こうなった」なんて会話は老人ではざらだ。むしろきれいな言葉で流暢に話すと驚かれる。だから、最近はやりのクイズ番組など老人には到底無理だ。難問のクイズを瞬く間に解く秀才の出る番組に、老人は、「ありゃ宇宙人だ」と思ってしまう。ただ、負け惜しみに、「記憶力がいいからと言って頭がいいとは限らない」とつぶやく。老人とて、人格が高まったわけではなく、ねたみと嫉妬と言い訳は捨てられない。

 だが、確かにその通りで、老人たちが学生のころは、大学受験でも、今のようにクイズみたいな難問はなかった。当たり前のことをきちんと理解していればよかったのだ。今では、塾に行って「技術」を学ばねば、そこそこの大学には入れない時代になっている。受験技術でクイズ力を養った若者たちが、必ずしも研究者や芸術家に向いているわけではないから、今の日本の知性は高まっていない。

 顔の面識力も記憶力の一つである。どこかで会ったが、誰だかわからない。ニコニコして、こんにちは、と言われると、あなた誰でしたっけとは聞けない。老人は羞恥心を失っていないのだ。当たり障りのない会話をして別れた後も、その人が誰だったか思い出せないのだ。悪い記憶はない、本当に親しい人でもない、つまり、その人のエピソードに欠き、まるで満員電車で隣り合わせたに過ぎない人としか思えないのだ。勇気を出して「あなた誰でしたっけ」と聞けばよかったと後悔するが、再び会っても同じことを繰り返すであろう。

 その人を思い出すには、その人のエピソードが必要である。それも、印象に残るエピソードでなければ、老い先短い老人にとって、「必要ない人」に分類されてしまう。狭い世界で生きる老人にとって、人生の「営業力」は落ちている。日々の暮らしに関係ない人は営業リストからどんどん落ちていくのだ。究極は、認知症になると、配偶者や家族のことも忘れたりする。たくさんのエピソードを持つ相手でも、もう自分の人生にとって必要な人ではなくなり、忘れてしまう。いずれ、あの世に行く時に、記憶を全て置いていかねばならぬから、早めに忘れてしまうということなのか。

 ピンピンコロリだの、人生百年時代だのと、言うは易く、行うは難しだ。老人は、置き去りにした記憶をめぐっていつも苦しんでいる。妙薬と宣伝されている物を飲んでみても、効きはしない。二千年も前、秦の始皇帝が不老長寿の薬を必死に求めたが見つからなかったのだ。二千年経ても事情は変わらない。老化の過程を受容し、今後はAI技術によって機能を補充することを考えるのがせいぜいではないか。

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