大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

2024年 Twenty Twenty-Four (17) マザコン男

2021-01-29 23:28:41 | 社会問題

  譲二のスマホの呼び出し音は、幸い、リモート職員向け政府ニュース速報のお知らせだった。それによると、IMFのデータでは、4年後の2028年には、中国のGDPがアメリカを抜き世界一位に、インドのGDPが日本を抜き3位になるとのことだった。このニュースにつけられた見出しは「ついに大東亜共栄圏の時代来たる」であった。20世紀、第一次世界大戦後の戦後不況や1929年の世界大恐慌に見舞われた日本が、資源小国で「持たざる国」であったから、アジア隣国の資源強奪に走ったのは紛れもない歴史の事実だ。その時日本が作り上げた哲学が「大東亜共栄圏」だ。列強によって植民地化されたアジアの解放を目し、英国支配のインド、アメリカ支配のフィリピン、オランダ支配のインドネシアの反植民地運動の烈士を惹きつけた。

 アジアの国々はインドを除けば比較的コロナの被害が少なく、同じくIMFの資料によれば、コロナ以降、中国GDPは8%台の成長、インドはコロナ禍にもかかわらず11%台、アセアン諸国は5%台と、いずれも、欧米の成長率4-5%を超えた。日本はというと3%台で、それでもコロナ以前の1%にもいかない成長率よりは上がったが、いまや大東亜共栄圏の盟主は中国であり、日本は「過去の国」になりつつある。日本は、中印の仲の悪さを利用して、米、豪、インドと組んで「アングロサクソン共栄圏」を叫んだが、中国人はおろか、かつては日本好きだったインド人ですら、日本人を「遅れた人」と見ているふしがあり、大東亜共栄圏には及ばない。

 日本は国内の様相もコロナ後に変化してきた。2019年に入国管理法を改正し、コロナで入国者が激減したものの、コロナ後再び、介護や建設や農業のために入国するベトナム人とネパール人が激増した。そのため、倒産した多くの飲食業者に代わって、街のいたるところにネパール人経営のインド料理店と若い女性に好まれるベトナム料理店が目立つようになった。彼らはコロナ禍にもかかわらず、低廉な価格でエキゾチックな味わいをもたらし、日本の外食文化を塗り替える存在になっている。やがて彼らは、中国人、韓国人、日系ブラジル人を凌駕する存在となろう。譲二の属する幸老省人口局においても、入国管理法の改正から5年経った節目に、国籍法の改正が議論されている。少子化の解決に、国籍付与条件を緩和し、その子供を日本人とするのが必要とみられている。

 こうした日本の状況の変化に焦りを覚えて登場したのが星林義夫である。星林がロシア外交に目を付けたのも、日本の隣人を増やし、新たな国際的地位を獲得しようと考えたからに他ならない。ロシアも日本と同様、GDPの成長率は3%台と芳しくない。天然ガスや石油の価格に左右される資源国ロシアは、アメリカと一二を争ってきた宇宙開発や軍需生産においては名をとどめているものの国力は崩落している。しかし、そのロシアは、レーニンの革命成就後、権力者となったスターリンが農業を犠牲にして5か年計画で工業化を強引に推し進めた経験を持つ。その軍需生産があってこそ、ヒットラーとの戦いに勝つことができたのだ。日本人は、1944年の米国のノルマンディー上陸によってドイツを敗戦に導いたと認識しているが、それ以前にソ連はドイツを負かしていた。遅れた欧州の国ソ連が強権的に工業化・国の発展を遂げた歴史は星林に大きな刺激を与えた。コロナ後こそこの手法だ・・・

 さらに、星林は、自らを「マザコン」であると宣言している。「LGBTがカミングアウトするように、私は、マザコンであることを恥じない」。星林の父親は不明だ。だからこそ、彼は、ロシア人の子だとかアイヌの子孫だとか言われているのだ。しかも、彼はあえてそれを否定しない。コロナ後は、保守の失政と無策の野党に憤りを覚えた日本人にとって、星林の存在が新鮮に見えた。「新たな外交」「マザコンという名のフェニミズムとマイノリティへの理解」といずれも好意的にとらえれた。無論のこと、コロナ監視体制の強化は彼が憲法25条にいう「健康で文化的な生活」擁護者であることを示すものととらえられた。また、コロナ撲滅は至上の公共の福祉であり、すべての基本的人権は制限される可能性があることも国民に受容されている。「私は、憲法改正はやらない」。星林は明言している。「ただし、憲法9条施行法を立法し、自衛隊は、憲法9条に基づく日本固有の自衛権を行使する組織であることを明記する」。

 譲二は、スマホで送られてきた数値やたった今聞いてきた星林の演説を思い浮かべながら、ようやく落ち着いて、テーブルに缶ビールとコンビニ弁当を広げた。「コンビニ弁当を缶ビールで胃に流し込む、この時こそが俺にとって至福の時なのだ。何が家族だ、何がおふくろの味だ。万人に受ける工夫をしているコンビニ弁当は素晴らしい。コロナで飲食店が軒並み閉まってからというもの、コンビニ弁当はよく売り切れになったな」。譲二はフェミニストが「家族」「おふくろの味」という言葉に反発して「女を家族の奴隷にするつもりか、女はメシを作っていればよいのか」と言うように、独身男の観点から、それらの言葉に反発した。「俺はこれが幸せなのに、生涯、家族を持てだの、家族がなくて気の毒だのと言われてきた。余計なお世話だ」。

 「俺の母親は料理が下手だった。おふくろの味より、本当にコンビニ弁当の方がうまい。しかし、待てよ、星林は、なぜマザコンを標榜しているのか。彼は、おふくろの味とかオカンに作ってもらったマスクとか言わないぞ。ただ、日本は母系社会だから、男がマザコンなのは当たり前だという理屈だ。だとすると、森樹里さんの男女共同不参画法も彼の政治の下で新たな政策が展開されるのではあるまいか」。星林義夫は確かに、何十年も先延ばしをしてきた政治課題を一挙に解決してくれそうな男だ。就中、公務員、教育公務員及び大学の大幅削減や、消費不況の元凶である消費税を除く増税によって、プライマリーバランスを実現し、借金大国を返上しようとしている。

 

 

 

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2024年 Twenty Twenty-Four (16) コロナ回復政策

2021-01-24 21:59:34 | 社会問題

 譲二と樹里は、次の約束をして別れた。譲二はJR駅の方向に向かって歩き、駅前に人だかりがあるのを見つけた。ざっと数百人が足を止めて聞いているのは、星林義夫がアンチコロナ党街宣車の屋根デッキで叫ぶ演説だった。いかつい顔にちょび髭、低身長の星林は、顔に似合わぬ透き通った声で、諄々と諭すように一見の群衆に語り掛けていた。譲二も足を止めた。

 「我々はコロナ体験からレジリエンスを確実にしなければなりません。先ずは、二度と疫病対策に失敗しないよう、マイナンバーが顔面認識で読み取れる監視カメラや国民のIDとなる必携スマホで、常に国民の皆様の健康を管理し、救急車を10倍に増やして、必要な時には、心身の、そう身体だけではなく心の問題も含めて必要な治療が行えるようにします」「経済のレジリエンスは消費税を凍結し、その分、所得税、法人税、相続税、酒税、たばこ税を引き上げます。新たに独身税を設けます。我々は所得の再配分に力を注ぎ、国家の借金を清算します」

 「政治のレジリエンスも必要です。1990年には、アメリカのGDPの7割に該当し、アメリカを抜くかとまで言われた日本は、今や、アメリカのGDPの四分の一、中国の三分の一までに落ち、2030年までにインドに抜かれ世界4位となります。日本の斜陽の歴史を築いた尊託光明党と2012年に消費税導入を決め消費不況を加速させた立憲共産国民党は政治罰法をつくって非合法化するつもりであります」「情報のレジリエンスについては、国民国家を超える権力であるGAFA、即ちグーグル、アマゾン、フェイスブックにアップルの日本での運営を禁止する法律をつくり、コロナで明らかになったGAFA主導のフェイク情報を一切禁止します」「個人よりも家族、家族よりも社会、そして社会の上に立つ強い国家の存在が疫病と戦う手段であり、国家主義のレジリエンスを実現します。その過程で、家族も社会も異なるものになるでしょう」・・・

 譲二には、ちょっと聞いた限りではまともな演説に聞こえたが、その言葉を聞けば聞くほど恐ろしい独裁国家の構築に向かっていくことが明らかであった。日本国民は、なぜAI調査によるともろ手を挙げて星林義夫のアンチコロナ党を圧倒的に支持するのだろう、譲二には理解しがたい。疫病から逃れるために、プライバシーと民主主義をかなぐり捨てるほど、日本の民主主義はそもそも盤石ではなかったのだ。星林義夫は続けて叫ぶ。「2024年、アメリカではトランプが、ロシアではプーチンが、日本では安倍元首相が再登板を狙い、中国では習近平が永遠皇帝の称号を得たが、これら強気の政治家をはるかに凌駕する強気なのが私、星林義夫であります。私の前に立ちふさがる者がいたら、徒労に帰するでしょう。トロウニキスル、トロッキストにしかなれません」。譲二は身震いした。「なんだ、あのバカげたジョークは」。

 新聞情報によれば、星林の経歴には謎が多い。東京オリンピックのあった1964年生まれで今年満60歳。出身は北海道の利尻島だという。一説にはロシア人の血が入っていると言われ、また、別の説ではアイヌの末裔であるという。学歴は某大学宗教学科中退。コロナ以降、約八百あった四年制大学が半分になり、星林の通った大学も今はない。大学が激減した理由は、キャンパスに行けずオンライン授業ばかりに価値を見出さなかった若者が大学離れを起こしたからである。コロナの副次効果は、長年日本が先送りしてきた争点ある問題を一挙に解決してくれたのである。これまでに常勤公務員を半減、これからだが、新臨教審の答申に従えば対面教育が廃止され教育公務員の激減、そして、レジャーランドと言われていた大学の数を半減した。これらは皆、アンチコロナ党提案の議員立法で実現した。いまだに手が付けられていないのは、国会議員の数だが、星林が権力を握り、一党独裁をめざせば、当然に今ある政党の議員は皆失職である。そういうところに、国民は惹かれ、支持を決めたらしい。

 星林は続けた。「最後に外交のレジリエンスですが、私は、北方領土の返還を一番先にやります。アメリカでもなく、中国でもなく、韓国でもなく、北朝鮮でもなく・・ロシア外交から手を付けます。他の国々と違って、これが一番手垢がついていない外交です。ロシア人は、1904年の日露戦争に負けたことを120年たった今でも、悔しいと思っているのです。白人が黄色人種に負けたのは、ただでさえ、ヨーロッパ諸国から後進国と思われていたロシアにとって屈辱だった。だから、日ソ不可侵条約を破って、連合国に与し太平洋戦争では自分達が勝ったのだと歴史に残したかったのです。我々の教科書から日露戦争を消してやりましょう。そうしたら、ロシアは北方領土返還の交渉に乗ってくるはずです」。

 馬鹿な、歴史修正主義ではないか。譲二は思った。しかし、利尻島出身の星林は確信を持っているようなそぶりであった。圧倒的多数の日本人は、ロシア人の心など全く知らない。譲二の世代ならば、ドストエフスキーやトルストイくらいは若干読んでいるが、今の若い世代には認知すらされていないのではないか。日本には、英語の達人はおよそ万単位でいるが、ロシア語は指で数えるほどしかいないと言われている。ロシア人の心をつかんで外交ができるとすれば、それは大きなメリットになろう。

 譲二は、帰りにコンビニで缶ビールと弁当を買って家路を急いだ。多くの街角監視カメラの間を足早に走り抜け、家に着くや否や、意図的に残してきたスマホの電話が鳴った。「畜生! またお咎めかよ」。

 

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2024年 Twenty Twenty-Four (15) レジリエンス

2021-01-20 09:47:00 | 社会問題

 譲二は思った。75歳、生涯独身で生きてきた人生に、後悔したことはなかった。しかし、今でこそ人に会う機会はほとんどなくなったが、会社勤めのころは、「なぜ結婚しないのですか。どこか悪いのですか」「家族っていいですよ、子育てって大変だけれど、小さいうちは可愛くてね」「お金余ってしょうがないでしょう」等々と言われてきた。まるで判を押したように同じことばかり言う人たちだった。日本人って想像力ないなあ・・次第に譲二はそういう「金太郎あめ」集団から遠ざかるようになり、孤独を快適と思うようになった。会社の中では、若い娘たちが、自分を避けるように通り過ぎ、時には、「あの人変人」「キモい」という小声が聞こえてくることもあった。

 しかし、家族がいいと言っていた同僚の男たちは子供が大きくなるにつれ、家族の話はしなくなった。子供は親が思うような「いい学校、素直な子、やがていい就職といい結婚」のレールに乗ってくれることは稀だった。同時に妻は夫に対し不満を持ち、殆どがほぼ家庭内離婚の状態にあった。金太郎あめ集団は譲二に「いいなあ、君は。煩わしいことがなくてさ」「自分のカネを自分だけで使えるなんて羨ましい」「三食昼寝付きで雇った女が怪物になって、家に帰りたくない」などと言うようになった。譲二は、退職する頃には、そら見ろ、世の中の常識的生き方は、決して幸せな生き方を意味しない、俺は独身主義を標榜したのではなく、たまたま縁がなかっただけだが、あんな惨めな結果になるなら、俺の人生の方がよっぽどましだ・・と考えるようになって久しい。

 譲二の年代は、今の若い人のようにスマホゲームの虜になるのではなく、飲んだり映画を見たり以上に、本を買った。多くはツンドクで終わったが、ある時思い立って、本屋で見つけた高群逸枝著「日本婚姻史」を読んだ。日本はもともと母系社会で通婚文化が長かった。複数の男が女性宅に通い、生まれた子供は「父系母所」と言って、父の名前は継ぐものの、母方で育てられた。経済的には母方祖父の責任で育てられたのである。源氏物語はまさに色男光源氏があちこちで通婚する話である。その通婚文化が母方祖父、つまり外戚の権力を大きくした。藤原氏の栄華は通婚文化によって支えられていたと言える。

 明治になって、欧米列強の仲間入りする必要があり、鹿鳴館時代にキリスト教をまねた一夫一妻制度を民法に採り入れたが、日本人のDNAには通婚の長い歴史の記憶が刻まれているのだろう、実質的に、日本の結婚は、家庭は母子で成り立ち、父親は飯の種を運ぶアウトサイダーである。中国やインドのように、何千年も男系だけで継いできた家父長制文化とは異なる。また、キリスト教圏のような神に誓った一夫一妻のみで構成する核家族とも異なる。明治時代に、いくら民法で、家父長制や一夫一妻を普及させようとしても、日本の歴史的文化は根強く生きている。オヤジは退職すれば役割御免の廃棄物となり、通婚時代以来の不倫もなくならない。古い文化を無意識に受け継いだ女たちは、子育て、介護という家庭内の「支払われない仕事」に汲々として生き、寿命は男より長いが不健康寿命は男よりも長く、体があちこち傷ついて死ぬ。

 すなわち、日本の民法は自らの歴史や文化を否定して作られたために無理があり、その制度が常識的とされることが間違いなのである。少なくも、譲二は、高群の本を読んで納得した。アラブのように妻を四人娶ることができたり、チベットのように兄弟で一人の嫁を共有する婚姻は、西洋キリスト教文化の下では皆異端になってしまった。7-8万年前に、アフリカから出て世界中に散った我々ホモサピエンスがその神代の時代から同じ婚姻制度を持っていたわけがない。現在日本で制度化された婚姻制度の外側にいるのは、今の常識に疑問を持つからなのである。

 「森さん。全員婚時代に漏れてしまった団塊世代の俺も、非婚世代とあなたが言う団塊ジュニアも、人類の長い歴史から見れば、ごく普通の生き方で、今の常識を変えていくパワーになるかもしれませんよ」「大井さんはいいことをおっしゃるのね。人類の長い歴史で見れば、わからずやの伝統がゆえに変えないと言っていることは皆ナンセンスです。私の男女共同参画局の仕事で言えば、選択的夫婦別姓や女性天皇を認めないというのは、もともと母系社会だった日本文化に反するし、反対者が言う伝統というのは、たかだか明治に藩閥政治が作ったインチキなものばかり。明治維新だって、我ら国軍と言って錦の御旗を掲げた長州は、実は自分たちでにわかに作り上げたデッチアゲの御旗を使っていたんですよ。最近亡くなった半藤一利さんの本に書かれています」。

 「森さん。老婆心というか、老ジジイ心から言うと、我々の人生はせいぜい80年から90年。だから、千年の歴史で制度を語っても受け入れられまいと思います。ただ、明治に作られ戦後に作り直された日本の近代家族というものが、千年の歴史の重みを感じ取り、機能しなくなったことは確かだ。家のために仕える嫁という存在はもうないし、子供が老後を支える存在ではなくなった。しかし、だからと言って、俺や、森さんみたいに、家族無しで生きていく人ばかりだったら近代社会は成り立たないでしょう」

 「それを主張しているのがアンチコロナ党の星林義夫。彼のスローガンはレジリエンスです」「レジリエンス?」「今、流行の言葉です。簡単に言うと、回復、かな。気候変動からの回復や、経済社会の回復。星林は、家族についても回復を言及しています。彼が人気を得たのは、コロナは禍だが、日本は回復するときに力を発揮すると主張していることでしょう」「果たしてそうかな。戦後の復興、オイルショック後のジャパンアズナンバーワンまでは確かに奇跡の回復を遂げた歴史を持つが、90年のバブル崩壊からは回復できなかったのだと思いますよ」

 「レジリエンスは2024年のキーワードになるでしょう。久しぶりの政治地殻変動がありそうです。良くも悪くもですが」。 

 

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2024年 Twenty Twenty-Four (14) コロナ後の家族

2021-01-16 21:09:17 | 社会問題

 樹里は、譲二の質問に対し、急にしたり顔になった。「親世代の大井さんに申し上げるのは僭越極まりないのですが、モラルや社会規範の緩みという点では、コロナは社会を確実に劣化させたのではないでしょうか」「そうかな。公衆衛生のルールを守り、人と人が距離を置く習慣ができて、むしろ社会に安寧をもたらしたのではないですか」「いえ。テレワークは仕事の集中力を失わせ、繁華街の長期閉鎖は性犯罪を増加させたとみています。閉鎖空間の中で人間は狂ったと思われます」「命令される仕事やお仕着せのお遊びから放たれて、自由を謳歌できるようになったのではないのですか」「違いますね。大井さんのような団塊世代は、それにもまして我々団塊ジュニア世代は、本来自由を謳歌できる人間じゃないのですよ」。

 譲二は、全共闘時代の自分の姿を思い起こしていた。なぜ角棒を振るったのか。大学や社会の古い価値観を壊してやると勢いづいたのだが、下宿に帰って独りになると、造反する自分が本当にやりたいことはついぞ見つからなかった。寂しくて寂しくて、結局、高度経済成長の人手不足の社会に入り込み、精神と経済生活の安寧を得た。その頃読んだエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」には納得した。団塊の世代は、デモクラシーの内容として、学校で自由と平等を教えられたが、社会の富が平等化していく時代で、自由の方は手に余る難しい価値であった。確かに、自由を謳歌できるまでの歴史は作れなかった世代である。

 「ですが、森さん。団塊ジュニアは、就職氷河期にぶつかり、デフレ経済の中で不平等を経験してきましたね。でも、自由の方は、我々よりも使いこなせたのではないのですか」「とんでもない。社会の八割が中産階級意識の中で育って、お決まりの習い事と受験塾に縛られた日々を過ごし、挙句の果ては、就職できずに初めてどこにも属すことのできない自由が与えられました。その自由の行きつく先は、家族を持たない自由でしょう。社会が後押ししてくれないから、我々非婚世代はそもそも求めなかった自由を手にしました」。

 丙午チームに奉職する譲二は、日々このテーマに取り組んでいた。コロナ以降、婚姻数も出生率も低下するばかりであった。コロナの流行時、結婚式は禁じられ、コロナの母子感染を恐れ、病院では家族を排除し妊婦が独りきりでお産をしなければならなかった。また、テレワークやパートの解雇などで夫婦が顔を合わせることが多くなり、家庭内の争いごとが増えた。この経験が「家族の幸せ」と言われてきた価値観に疑問を生じさせるようになった。それまで非正規雇用が増えて結婚が困難になったというのが少子化の通説であったが、コロナ以降は、家族というものへの疑問が語られるようになった。このままだと、2053年に1億を切ると言われてきた日本の人口は、もっと早くその日を迎えるだろうと譲二は考えている。

 「コーヒーのおかわりはいかが」。譲二がうなづくと、樹里は香いっぱいのコーヒーを新しい紙コップに入れて譲二に差し出した。譲二は、その香りに惹かれたのか、我を忘れて譲二らしくない言葉をつぶやいた。「我々の世代は、コーヒーを飲むことすらカッコいいことと思われていたんだ。コーヒールンバという歌があってね、その昔、アラブの偉い坊さんがコーヒーで恋に目覚めたという歌詞だったな」。樹里は目を丸くして、譲二を見た。「へえ、ガチガチのおじさまと思っていたのだけれど、粋なことおっしゃるのですね」「いや、その、私には色恋の経験はないのですよ。ただ、コーヒールンバだけは好きだった」

 譲二の世代はほぼ全員結婚の世代だ。これは、後にも先にもない現象である。戦前の日本社会では、農家の次男三男や都会の奉公人で結婚しない人は多くいた。嫁に行きそびれた妹を一生養うのは、家督相続した兄の役割であった。譲二の両親は戦争世代だが、若い男が多く戦死したため、「男一人に女トラック一台」と言われるほど女性の結婚難があった。しかし、団塊の世代は、テレビや映画で見たアメリカ流の「恋愛結婚」を志向し、アメリカンポップスの日本語吹き替え版で、恋心をあおられた。猫も杓子も当たり前のように結婚していく中で、譲二は、世代の異なる樹里と同じく、結婚しない自由を結果的に得た。それは、家父長的に支配する父にも、その父を心で軽蔑し子供にはヒステリックな母にも、イモを洗うような狭い部屋で喧嘩ばかりしてともに育った兄妹にも、特別な愛情を持てなかったからである。

 「森さん、私は、心を動かされた女性に会わなかったと人に言ってきたんですが、考えると、そもそも家族を作るべきとか、家庭は大切だという考えは宗教みたいなもので、社会に必ずしも家族というものがあるべきとは思いません。もしかすると、コロナの後は、家族が社会の最小単位でなければならないという時代は終わったのだと思います」「コロナはそのきっかけであって、少なくともこの二十年は既に家族が崩壊した社会になっていたんですよね。私は、家族を前提としない男女共同不参画法を目指します」「私は、自分ははぐれ者だから独身を貫いたのだし、家族を否定するほどの確信犯ではないとも思っていました。しかし、コロナで家族を保つのが大変だという考えが広まったと思います。いつの間にか社会は変わり、私の生き方も結果的に間違いではなかったような気がします」。

 

 

 

 

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2024年 Twenty Twenty-Four (13) コロナで社会劣化

2021-01-11 23:02:52 | 社会問題

 森樹里と約束の週末が来た。譲二は今回もまた敢えて洒落めかすのを止め、黒いズボンに長年着こんだ茶色の厚いセーターといういで立ちで出掛けた。「女性だからって、俺に変な気は今更ないし、向こうに変にとられるのも嫌だからな」。杞憂とも思える理屈で地味な服装を選んだのだ。「俺って、もしかすると、昔から考えすぎのところがあって、女性に縁がなかったとも言える」。しかし、何よりも、75歳の一人暮らしで情報弱者である自分に、コロナ後変化した社会を丁寧に教えてくれる人物に出会ったのだ。この縁をできれば保ちたい、と譲二は思った。

 譲二は、計画通り、スマホを自宅に置いて、家を出た。「リモート職員は常時携帯すべき義務があるのに違反したと、また呼び出されるかな」。譲二は学生運動で角棒を振るいながらも、就職時は右旋回して首尾よく会社勤めの人生を選んだ。必要な時に人をだますのは悪いと思っていないし、ばれるのを恐れるほどの小心者でもなかった。「最悪の場合はバーチャル拷問で洗脳されるだと。どんなものか受けてみたい。標高三百メートルの山登りみたいな俺のつまらぬ人生に、最後、谷底に落とされる経験も悪くはあるまい」。譲二はかなり前から自分の死を客観的に想像していたが、独り暮らしの孤独死よりは壮絶死を描いていた。「孤独死なんて言われて同情されたくないんだ。孤独死がいやだから、孤独が怖いから普通に結婚した友人たちは、退職後家庭の隅っこにいて、俺よりも孤独じゃないか」。

 マイナンバー登録のスマホで追いかけられていることは、幸老省に呼び出されるまで譲二の意識に上っていなかった。このシステムは、世界に遅れたデジタル行政を飛躍させようとデジタル監視庁が綿密に作り上げてきたのだ。マイナンバーは確定申告や健康保険証の代替としての試行までは役人の思い付きであったが、ITに強い民間人のリモート職員を大量に採用し、台湾に派遣してその政策化が学習された。コロナをもっとも有効に乗り切ったとされる台湾では、健康保険証でマスクを購入することが義務付けられ、消費のデータが中央で把握されたため買い占めはできず、マスクは人々に平等にいきわたったという。台湾では、武漢でコロナが発生した情報を得ると間髪を入れず、武漢からの入国を阻止し、人々は平等にいきわたったマスクの着用をいち早く始めた。デジタル行政が進歩していたのと、2003年のSARS経験を生かしたのが成功要因であった。

 譲二は考えた。「台湾は中国に対峙しなければならない。だから、情報処理能力は高いはずだ。もともと台湾人であれ、大陸中国人であれ、理数系が強く、システム構築は得意技だ。その上、台湾は教育水準が高い。SARSで学んだから、マスクがいかに有効な手段かをすべての人が知っていたのだ。・・・だとすれば理数系も教育水準も引けを取らない日本でも同じことができそうだが、日本は、対峙する相手がいないと思って、行動が遅いのだ」。その行動の緩慢さを是正したい日本国民はアンチコロナ党の星林義夫に期待をかけるようになったと言うわけだ。

 譲二があれこれ考えているうちに、X公園にたどり着いた。冬の日にしては比較的暖かく、噴水に日が差して煌めく水しぶきを背景に森樹里の後ろ姿が見えた。「男を待たせない女っているんだな」。譲二はほんの少し感動を覚えた。譲二の時代の女性は大概が約束時間に遅れてきた。化粧と服選びの時間が長いせいだと同僚の男から聞かされた。しかし、コロナ以降、女性はますます寡占化したアパレルチェーンの安い服をまとい、化粧からは遠ざかるようになった。高級アパレルや高級化粧品の企業倒産は相次いだ。「健康第一だから、美容は第二ということになったのか。では、ますます少子化が進むことになる」。

 樹里はいかにも安そうなグレーのスーツを着て古びた同色のショールを手にしていたが、振り向きざま、笑顔を見せた。「大井さん、来てくださって有難うございます」。先日と同様、樹里が先に歩いて、木々の間を抜け、円形広場に出て、ベンチに腰掛けた。「今日もコーヒーを持ってきました」。樹里は手早く魔法瓶のコーヒーを紙コップに入れて譲二に渡した。樹里がベンチに座る二人の間にコーヒーの荷物を置いているのは、距離を置くための仕掛けかもしれないと譲二は思った。「おいしいコーヒーを有難うございます。実は・・・」。譲二は、前回、幸老省に呼び出されたいきさつとスマホで管理されていることを樹里に語った。一人暮らしで友人もなく、普段話相手のいない譲二は、つい余計なことを言ってしまった。「だけど、私は、森さんが私を陥れるためのスパイだとは思っていませんよ、ええ。だって、森さんは我々高齢者の採用とは違って、スマホ管理の義務はないのですから、ご存じなかったのでしょう」。

 「アハハ」。樹里は、本気で笑った。「大井さん。私はスパイではありません。私はそんなに賢くないですからね。ただ、ついこの間まで盛んに行われていた忖度や収賄や不倫の事件はみな内部密告によって明るみに出たもので、ケチなスパイはたくさん周囲にいます。それに、コロナ密告、コロナ警察と称して、あいつはコロナだとか、お前マスクをしろとか、あちこちでデマやハラスメントが横行しましたよね。もう日本はお互いが信じあわない社会になったのです」「コロナはそんなに社会を劣化させたのでしょうか」。

 

 

 

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