譲二のスマホの呼び出し音は、幸い、リモート職員向け政府ニュース速報のお知らせだった。それによると、IMFのデータでは、4年後の2028年には、中国のGDPがアメリカを抜き世界一位に、インドのGDPが日本を抜き3位になるとのことだった。このニュースにつけられた見出しは「ついに大東亜共栄圏の時代来たる」であった。20世紀、第一次世界大戦後の戦後不況や1929年の世界大恐慌に見舞われた日本が、資源小国で「持たざる国」であったから、アジア隣国の資源強奪に走ったのは紛れもない歴史の事実だ。その時日本が作り上げた哲学が「大東亜共栄圏」だ。列強によって植民地化されたアジアの解放を目し、英国支配のインド、アメリカ支配のフィリピン、オランダ支配のインドネシアの反植民地運動の烈士を惹きつけた。
アジアの国々はインドを除けば比較的コロナの被害が少なく、同じくIMFの資料によれば、コロナ以降、中国GDPは8%台の成長、インドはコロナ禍にもかかわらず11%台、アセアン諸国は5%台と、いずれも、欧米の成長率4-5%を超えた。日本はというと3%台で、それでもコロナ以前の1%にもいかない成長率よりは上がったが、いまや大東亜共栄圏の盟主は中国であり、日本は「過去の国」になりつつある。日本は、中印の仲の悪さを利用して、米、豪、インドと組んで「アングロサクソン共栄圏」を叫んだが、中国人はおろか、かつては日本好きだったインド人ですら、日本人を「遅れた人」と見ているふしがあり、大東亜共栄圏には及ばない。
日本は国内の様相もコロナ後に変化してきた。2019年に入国管理法を改正し、コロナで入国者が激減したものの、コロナ後再び、介護や建設や農業のために入国するベトナム人とネパール人が激増した。そのため、倒産した多くの飲食業者に代わって、街のいたるところにネパール人経営のインド料理店と若い女性に好まれるベトナム料理店が目立つようになった。彼らはコロナ禍にもかかわらず、低廉な価格でエキゾチックな味わいをもたらし、日本の外食文化を塗り替える存在になっている。やがて彼らは、中国人、韓国人、日系ブラジル人を凌駕する存在となろう。譲二の属する幸老省人口局においても、入国管理法の改正から5年経った節目に、国籍法の改正が議論されている。少子化の解決に、国籍付与条件を緩和し、その子供を日本人とするのが必要とみられている。
こうした日本の状況の変化に焦りを覚えて登場したのが星林義夫である。星林がロシア外交に目を付けたのも、日本の隣人を増やし、新たな国際的地位を獲得しようと考えたからに他ならない。ロシアも日本と同様、GDPの成長率は3%台と芳しくない。天然ガスや石油の価格に左右される資源国ロシアは、アメリカと一二を争ってきた宇宙開発や軍需生産においては名をとどめているものの国力は崩落している。しかし、そのロシアは、レーニンの革命成就後、権力者となったスターリンが農業を犠牲にして5か年計画で工業化を強引に推し進めた経験を持つ。その軍需生産があってこそ、ヒットラーとの戦いに勝つことができたのだ。日本人は、1944年の米国のノルマンディー上陸によってドイツを敗戦に導いたと認識しているが、それ以前にソ連はドイツを負かしていた。遅れた欧州の国ソ連が強権的に工業化・国の発展を遂げた歴史は星林に大きな刺激を与えた。コロナ後こそこの手法だ・・・
さらに、星林は、自らを「マザコン」であると宣言している。「LGBTがカミングアウトするように、私は、マザコンであることを恥じない」。星林の父親は不明だ。だからこそ、彼は、ロシア人の子だとかアイヌの子孫だとか言われているのだ。しかも、彼はあえてそれを否定しない。コロナ後は、保守の失政と無策の野党に憤りを覚えた日本人にとって、星林の存在が新鮮に見えた。「新たな外交」「マザコンという名のフェニミズムとマイノリティへの理解」といずれも好意的にとらえれた。無論のこと、コロナ監視体制の強化は彼が憲法25条にいう「健康で文化的な生活」擁護者であることを示すものととらえられた。また、コロナ撲滅は至上の公共の福祉であり、すべての基本的人権は制限される可能性があることも国民に受容されている。「私は、憲法改正はやらない」。星林は明言している。「ただし、憲法9条施行法を立法し、自衛隊は、憲法9条に基づく日本固有の自衛権を行使する組織であることを明記する」。
譲二は、スマホで送られてきた数値やたった今聞いてきた星林の演説を思い浮かべながら、ようやく落ち着いて、テーブルに缶ビールとコンビニ弁当を広げた。「コンビニ弁当を缶ビールで胃に流し込む、この時こそが俺にとって至福の時なのだ。何が家族だ、何がおふくろの味だ。万人に受ける工夫をしているコンビニ弁当は素晴らしい。コロナで飲食店が軒並み閉まってからというもの、コンビニ弁当はよく売り切れになったな」。譲二はフェミニストが「家族」「おふくろの味」という言葉に反発して「女を家族の奴隷にするつもりか、女はメシを作っていればよいのか」と言うように、独身男の観点から、それらの言葉に反発した。「俺はこれが幸せなのに、生涯、家族を持てだの、家族がなくて気の毒だのと言われてきた。余計なお世話だ」。
「俺の母親は料理が下手だった。おふくろの味より、本当にコンビニ弁当の方がうまい。しかし、待てよ、星林は、なぜマザコンを標榜しているのか。彼は、おふくろの味とかオカンに作ってもらったマスクとか言わないぞ。ただ、日本は母系社会だから、男がマザコンなのは当たり前だという理屈だ。だとすると、森樹里さんの男女共同不参画法も彼の政治の下で新たな政策が展開されるのではあるまいか」。星林義夫は確かに、何十年も先延ばしをしてきた政治課題を一挙に解決してくれそうな男だ。就中、公務員、教育公務員及び大学の大幅削減や、消費不況の元凶である消費税を除く増税によって、プライマリーバランスを実現し、借金大国を返上しようとしている。