2010年、ユニセフ勤務で3年余を過ごしたインドを去って24年ぶりにインドを訪れた。空港は近代化し、ニューデリーには地下鉄もできた。かつては、プレミア、アンバッサダーという、よくエンコする国産車だらけだった街の中心部は、輸入車であふれていた。若い女性はサリーよりもジーパンを身に着けていた。いかにも、インドの経済発展を語る光景である。
しかし、一歩路地に入れば、そこは、24年前と何ら変わらぬ風景が見られた。レプラなのか、足を引きずって物乞いをする人、野生の牛が堂々と街中を闊歩し、所構わず糞尿を撒き散らす。人、人、人、その多さも変わらず、三輪駆動のスクーター・タクシーも健在だった。
かつての住まいに行ってみれば、そこはほとんど変わらぬ状態で「私を待っていた」。当時のユニセフの同僚や友人に会いに行った後、かつての住まいを前にして、誰に会いたかったかと言えば、仕えてくれた家事労働者(現地ではサーバント)だ。我が家には、コック、給仕、子守、門番が常勤で、庭師もいた。常勤者は、母屋の裏手にあるサーバントクウォーターに住んでいた。
我が家の家事労働者は全員ネパール人であった。3年余の間、勤め上げた人達である。これは、実は珍しい。家事労働者はだいたい短い期間で、メンサーブ(奥さん)と折り合いが悪くなり、職場を転々とすることが多いからだ。筆者がユニセフで働いていたため、日中メンサーブはいないし、彼らは好きなように仕事をした。また、筆者の小さな息子と遊び、可愛がってくれた。
読み書きができない彼等とは、インドを去ってから連絡の取りようがなく、会いたくても会うことはできなかった。コックのビム・チェンは、「自分の年齢はわからない。お母さんが教えてくれなかった」と言った。年に1,2回休暇をとってネパールに帰ったが、そこはネパール第二の市ポカラからバスで何日も揺られ、さらにそのあと数時間歩いてたどり着く所なのだそうだ。インドからのお土産をリュックに一杯入れて旅立つ、おそらくは40歳くらいのビムの小さな後姿を見ると、「この人に幸あれ」といつも祈ったものだ。
インドには彼のようなネパール人の出稼ぎが多い。ネパールは人口3千万で、国内総生産はインドの1%程度。ほとんどが農業で、エベレストの観光産業があるくらいだ。経済はインドに依存していて、インドの景気が悪くなればたちまちネパールに打撃を与えるようになっていた。
インドとネパールの国力の差が影響しているのか、ネパール人はインド人が嫌いだ。彼らは、インド人より、おとなしく、やさしく、インド人にいじめられることも多い。見かけは、ビムのようなモンゴロイド系もいるが、多くはアーリア系でインド人と変わりなく、ヒンズー教徒が多く、言語もヒンズー語に近いので、苦なくして覚えられると言う。しかし、彼らの会話には、「インド人らしいね」という言葉が飛び出し、強引なインド人のやり方には批判的だった。
日本はネパールと友好関係にある。開発援助の対象としても力を入れてきた。しかし、この優しい人々とインド人との違いはなかなか見いだせまい。日本にあるインド料理店の中にはネパール人がやっている場合も多く、あたかも、欧米で日本料理と名乗っているが中国人や韓国人がやっている場合に似ている。南アジアは圧倒的にインドが大国であり、その周辺の国々は、インドプラスその他多勢とみられている。南インドの国内総生産の8割はインドが占め、人口は16億中13億がインドだ。
筆者がインド在住の1985年、南アジア地域協力連合(SAARC)ができ、インド、パキスタン、バングラデシュ、ネパール、スリランカ、ブータン、モルジブが参加した。のちにアフガニスタンを加えて現在8か国が参加しているが、ASEANのような政治的経済的結束は見られない。早く言えば、成果を挙げているとは言い難い。インド・パキスタンがカシミールを巡って「戦争状態」であるのに加え、インドひとりが突出している構造では、地域協力は難しいだろう。
また、インドは、周辺のいずれの国とも仲が悪い。インパ関係は言うまでもないが、国境紛争を起こした中国とも悪いし、インド人移民タミールナドゥをめぐってスリランカとも悪かった。中国も、近年、海洋国家をめざして、南シナ海に乗り出し、ベトナムやフィリピンと軋轢を起こしているのを見ると、「大国」の近隣に対する傍若無人は本質的なのかもしれない。
ヒマラヤ山脈にある国々は、戦後になっても長らく、王政を保っていた国が多い。現在ではGDPよりも幸福度が大切とするブータンだけが王国を維持しているが、ネパールが王政を廃止したのは2008年のことである。ネパールは筆者がインド在住のころ、既にマオイスト(毛沢東主義者)と呼ばれる共産党が勢力を伸ばし、王政廃止を目指していたが、当時のビレントラ国王は立憲君主制を認める方向であった。
1990年代には内戦が始まったが、2001年、世界を震撼させる出来事が起きた。ビレンドラ国王一家が王宮で全員銃殺され、発砲したとされる皇太子も自殺したと伝えられた。しかし、国王の弟ギャネンドラが王位につき、事件は封殺されたものの、弟の陰謀説が強く疑われた。結局、不人気のギャネンドラ王は王政に引き戻そうとしたものの、2008年、ついに、王制廃止に追い込まれ、ネパールは連邦民主共和制になった。
王宮での虐殺事件は、おとなしいネパール人の性格からは考えられない出来事であった。ネパールは共和制になったが、国の発展はこれからである。特に、インド以上に問題なのが貧困層が多いことだ。3千万人のうち7割が貧困ライン以下と言われる。
インドでの幸せな生活を支えてくれたビム達の国ネパールの発展を願わないではいられない。ビムは、明らかに、中国・チベット系のモンゴロイドであったが、ヒマラヤ山脈地帯には、我々と顔を同じくする人々を多く見つける。アッサム州もそうだ。中国側からやってきた人は床屋さんや美容師が多く、デリーなど大都市にも移り住んでいた。顔が似ているせいもあろうが、ヒマラヤに住む人々の幸せをなぜか祈ってしまうのだ。