大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

QUAD インド篇 (7)王朝の悲劇

2021-09-30 09:42:30 | 社会問題

 1984年10月の末、筆者は、ヒマラヤ山脈の麓、ヒマチャル・プラデッシュ州のシムラに会議のため赴いた。シムラはイギリス統治時代、夏の間ここで政治を行ったという人口17万の涼しい街だ。空気が澄み切り、筆者は生まれて初めての天に横たわる巨大な銀河を見た。その百万の星々ともいえる煌めきは地上まで明るくするかのようであった。しかし、これは凶の兆しであった。

 10月30日、昼前に「ガンジー夫人暗殺」のニュースが入ってきた。既に首都デリーは混乱の状況にあると伝えられた。真っ先に頭に浮かんだのは、ニューデリーの自宅にいる二歳の息子のことで、出張時は現地の家事労働者に委ねていた。当時のインドは長距離電話をつなぐのに1,2時間かかる国であったから、取るものもとりあえず、飛行機に飛び乗ってデリーへ急いだ。自宅で無事な息子を見るや、商店が閉まって買い物ができないとの噂が広まっていたので、車を運転し、まだ空いていた店で、必需品のミルクや野菜を買って帰った。帰り道、銃声のようなものを聞いたが気に留めず、ユニセフのオフィスに寄ると、誰もいなかった。

 翌日、オフィスに行くと、インド各地で暗殺者の属するシク教徒が三千人、デリーだけでも千人が殺されたと聞かされ、その危険な時に自ら運転して買い物したりオフィスに来たりする筆者の行動は咎められた。「まったく危機意識がない」。それもそのはず、戦後生まれで身の危険を感ずる経験を全くしていなかった。オフィスでもう一人出張に出ていたスリランカ人のワヒッドは、車での帰途、シク教徒がヒンズー教徒につかまって火の中に放り投げられる写真をカメラに収めながらたどり着いたが、彼も咎められた。「泣きながら、撮ってきたんだ」と彼は一部を我々に見せた。

 その年、ガンジー夫人はシク教徒の独立強硬派の総本山ゴールデンテンプルへの攻撃を命じた。その復讐として、夫人の警護に当たる二人のシク教徒が近距離から銃を乱射して暗殺した。ガンジー夫人の強権的な政治には反対者もいるものの、サリーを美しく着こなすたおやかなガンジー夫人は多くの人に愛されていた。デリーはむろんのこと、国内各地で、ヒンズー教徒の反撃が始まったのは当たり前のことだった。警察が沈潜させるのには何日もかかった。ただ、こういう時に発表される死者数などは全くあてにならない。その年の12月にマデヤ・プラデッシュ州ボパールで起きたユニオンカーバイド社の化学工場爆発も、当初は死者二千余りとされたが、その後何度も修正され、二万近くが犠牲になったという。

 シク教徒はおよそ五百年前、ヒンズー教から分かれたワリアー(武人)の集団で、髪を切らず頭にターバンを巻き、6メートルある腹巻の中にナイフなどを所持する人々である。この独特な姿の人をサルタージと呼んでいる。ユニセフにもいたサルタージは、街の治安が治まるまで出てこなかった。インドは多様性の国、多様性を許す国と思っていたが、マハトマ・ガンジーを暗殺したのは、ヒンズーとイスラムの融和を図ろうとしたガンジーに反対するヒンズー原理主義者であった。のちに、ガンジー夫人の長男で首相になったラジーブ・ガンジーを暗殺したのは、ラジーブがスリランカのシンハラ族とインドからの移民タミールナドゥー族を融和させようとしたのに反対したタミールナドゥーの熱狂的支持者であった。決して多様性に寛容ではない。

 ガンジー夫人は、1977年から3年間、政権から降りた時期があった。75年の選挙が違法であるとの高等裁所の判決を得たため、ガンジー夫人は対抗措置として緊急事態宣言を発動し、野党側の逮捕を行ったりしたが、77年選挙に敗れて失脚、その後1980年に返り咲いた。その彼女を支えていたのが、次男サンジャイであったが、サンジャイは80年に自分の操縦する飛行機が墜落して、事故死したのである。兄であり、政治に全く興味のなかったラジーブは、母を助けるため、インド航空のパイロットを辞め政界入りした。

 ガンジー夫人が失脚したのは、その強権的政治に原因があるが、一つの例として、人口増加を防ぐために、男性の不妊手術を合法化し、強制的な実践を行ったことも入る。村落の子持ちの男性はパイプカットが何かも知らないで、手術を受けさせられた。しかし、このことはインドの人口の伸び率に何の影響ももたらしていない。ユニセフでは、「女性は必ずしも旦那だけを相手にしていないのではないか」という冗談もつくられた。実際、暑い国では、女性が黙々と働くのに対し、男性は木陰でトランプやったり昼寝したりしている姿がよく見られ、女性が夫に愛想をつかしていることも事実だった。

 愛息を失ってわずか四年後、インディラ・ガンジーも不慮の死を遂げた。その七年後には母を継いで首相になったラジーブの不慮の死が続き、「ガンジー家の悲劇」と言われる。ラジーブは、生来おとなしい性格で、弟が死ななければ政治に出るつもりはなかったし、母が死ななければ首相になるつもりはなかったとマスメディアのインタビューで語っている。めっぽうハンサムで、ケンブリッジ大学で知り合ったイタリア人の女性ソニアと結婚し、「妻を人格を持つ人間として認めることが夫婦仲をよくする」とまで語った近代的な男性である。機械工学を学んで飛行機の操縦が「趣味」だったのを職業にした彼の人生は、自らの意志ではなく狂わされたのである。

 ラジーブとソニアの息子ラーフルと娘プリヤンカも曽祖父ネルー以来の国民会議派で活躍している。国民会議派は嘗てのような勢いはない。現在モディ首相が属する政党はインド人民党だ。モディ首相はインドの経済的発展に貢献し、ネルー・ガンジー王朝の出番があるかどうかは不明である。

 

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QUAD インド篇 (6)ネルー・ガンジー王朝

2021-09-25 10:47:20 | 社会問題

 現在行われている自民党総裁選の候補者は一人を除き、三人は世襲政治家だ。60年以上もほぼ権力を維持し続けた政党だから、ありうべきことだ。日本ばかりではなく血統を重視するアジアの国では世襲政治家が多い。例外は、中国と韓国くらいだ。もっとも、アメリカのブッシュ親子が大統領を務め、カナダのトルドー親子も首相を務めたから、世襲は、帝王学、選挙戦などの点で有利なのだろう。

 インドもネルー・ガンジー王朝と言われるくらい世襲で国のトップが決められてきた。インドがイギリスから独立した1947年、ジャワハルラール・ネルーは初代首相に就いた。ネルーは、インドの北、ウッタル・プラデッシュ州のバラモン階級の出身で、マハトマ・ガンジーとともに独立を勝ち取ってきた知識人である。ネルーについては、日本人にはあまり説明が要らない。戦後、戦争で動物のいなくなった動物園を知って、日本の子供たちの要望にしたがい、インド象を寄贈してくれたことで有名である。ネルー首相が1957年の訪日の際、娘の名インディラと名付け、贈った象に面会する写真が残されている。東京裁判で日本の無実を主張したパウル判事とともに、日本に親インド感情をもたらした人である。また、1955年に第三世界の初会合バンドン会議を首謀した一人である。

 ネルーは、欧米の自由資本主義圏にも、共産主義圏にも与しない第三世界を目指した。1950年に発布されたインド憲法では、民主主義を掲げているが、ネルーの理想は、当時の知識人らしく社会主義的な国家経営にあり、次第にソ連寄りになっていった。現在では、ネルーの選択はインドが長期にわたって発展を阻害したと評される。特にソ連を真似た計画経済は、貧困の泥沼から抜け出せないインドを作ってしまった。

 ネル―が1966年病死すると、一人娘のインディラが間もなく首相の座を継いだ。インディラの母カマラは若くして病死したため、インディラは早くから「ファーストレディ」の役割を務めてきた。オックスフォード大学で学んだが、卒業はしていない。母とともにスイスでの生活を送り、インディラの英語はインド英語ではなく、キングズイングリッシュである。1942年、フィローズ・ガンジーと結婚してガンジー姓を名乗るが、マハトマ・ガンジーとは関係ない。

 フィローズとの結婚については、筆者がインドにいたとき、ゴシップ誌があるわけでもなく、テレビすら普及してない「情報不足」だったため、多くの口コミ情報でしか知らない。その口コミ情報は、現在のように情報を得やすい環境で確認すると間違いが多い。その口コミ情報では、病床にあった母の遺言で、同郷に住み、イギリスのロンドンスクール・オブ・エコノミックスで学んだフィローズに決まったとのことだ。フィローズは下院議員だった。フィローズについては、ラジブとサンジャイの二男を設けたが、のちに夫婦は不仲になり、早世した。

 この話の一方で、二人はイギリスで知り合い、インディラがフィローズのプロポーズを受け、親は反対だったとの話もある。だが、インドでは結婚は親が決めるものである。そして、「愛は結婚に始まる」と言われ、恋愛して結婚するのではなく、先ず結婚して愛を育むべきという考えである。上流階級は、逆説的だが、しばしば慣習に従わないので、あるいはこの情報の方が正しいのかもしれない。日本でも、真子内親王のように恋をつらぬく例がある。しかし、現代になっても、インドでは親決め結婚を主体とする。日本は、戦前の親が決める「イエ同士の結婚」はほぼ消滅し、戦後アメリカがもたらした恋愛結婚が普通になった。終戦後生まれは日本語版アメリカンポップスに浮かされ「惚れた腫れた」気分になって全員結婚時代を作ったものの、現代、結婚が難しい時代になると、アメリカの文化的侵略が日本を潰すことになったと言ってもいい。インド人に比べると自己の文化を簡単に改める日本人は「軽い」。

 ネルー家はバラモン階級の名家中の名家であったが、フィローズは、実は、ヒンズー教徒ではない。パルシー(イランからの移民)でゾロアスター教徒だ。宗教やカーストにこだわるのは、「一般人」である。社会的地位が高く富裕層であれば、世界の知識も身に着け、自由な選択ができる。パルシーは少数民族だが、存在感があり、インド三大財閥の一つタタはパルシーが創立し、クイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーもインドのパルシー出身だ。インドでは色白が美貌の第一条件であるところ、パルシーは色白である。かくてインディラはガンジー夫人となった。

 ガンジー夫人は、世襲のリーダーが誰しもそうであるように、若い頃から国のトップと付き合っているため、堂々と政治を行った。ミャンマーのアウンサン・スーチーもパキスタンのベナジール・ブットーもそうだった。日本でも、田中真紀子さんは当選一回で大臣を務めたが、臆するところはなかった。世襲は、当然のことながら、親の哲学を引き継ぐ。ガンジー夫人はネルーの社会主義的国家経営を変えなかった。部分的には、緑の革命を進めて、農業生産を上げ、インドを食料自給国に導いたが、国営企業とその許認可権を持つ官僚制度はインドの発展を遅らせた。

 インドに住んでいた頃、大使館通りには、ソ連のみならず多くの東欧諸国が軒を並べ、明らかにインドは東寄り政策を採っていた。一つには、アメリカの同盟国パキスタンが米国産の武器を入手していたので、ソ連から武器を買う必要があった。西側諸国もここでは東側の情報が得られると判断して優秀な外交官を送っていた。ソ連大使館の英語は完璧であり、アメリカ大使館のヒンズー語は完壁だった。情報合戦が行われていたのであろう。それに比べると、日本大使館はヒンズー語ができる人はたった一人、インドでの日本の役割は曖昧であった。

 それでも、インドは民主主義国としての誇りを持ち、ガンジー夫人はレーガン大統領に呼ばれて米国を訪問したときに、レーガンと並んで演説し、「両国ともに価値を共有する民主主義国である」と高らかに語ったのを思い出す。80年代、ガンジー夫人とレーガン大統領はしょっ中電話でやり取りをしていたと聞く。しかし、ガンジー夫人はレーガンの市場原理主義を理解することはなかった。

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QUADインド篇 (5)伝統と宗教の生活

2021-09-19 11:01:56 | 社会問題

 筆者がインドから帰って数年後のことだった。脳腫瘍にかかった役所の後輩が西洋医学の限界を感じて、インドのアーユルヴェーダ(インド古代療法)を施療してもらうため、しばしばインドに行っていると聞いた。彼は「素晴らしい医学だ。受療した後は、抗がん剤で苦しむ西洋医学と違って、頭がすっきりする」と喜んでいた。筆者は口をつぐんだ。

 中国にも西洋にも、人間の解剖を前提に発達した近代医学の前に古来行われてきた医学と治療法がある。筆者が尊敬する故藤井尚治先生の「医学年表」には、古代エジプトからの医学の歴史が書かれている。中国の漢方は、今も、西洋医学と並ぶ治療を行っていて、医師の資格も、西洋医学の医師と漢方医とに分かれている。対症療法の西洋医学と免疫力回復の漢方とを選ぶのは患者である。

 その漢方よりもさらに古くから伝えれてきたといわれるアーユルヴェーダは、インドでは中国と違って民間療法であり、その科学や統計を筆者は知らない。西洋のアロマ療法などと同じカテゴリーと理解している。しかし、なぜか、インド人ばかりでなく日本人など外国の患者にも多くの受療者が存在する。宗教と同様、それなりの大きな価値があるとみられる。

 試しに一回施療してもらったことがある。暗い部屋のベッドに寝かされ、頭の上から冷たい油をたらたらとかけられ、1時間ほど過ごす。それだけだ。健康体である筆者には何も起きなかった。気持ちよかったわけでもなかった。だから、施療者にチップをやらずに帰ったが、鋭い目で睨まれた。後輩が喜んで施療に行くと聞いたとき、絶句してしまったのであるが、彼はほどなくしてこの世を去った。

 日本ではヨガも盛んだ。もともとヨガは修行者が行うもので、ヒンズー教に限らず、ジャイナ教でも仏教でも行う。自己の身体に負荷をかけて中にある魂を知ることらしい。ヒンズー教では、梵我一如、即ち、梵(宇宙)と我が一体となることを意味するとのことだ。本来のヨガの意味はどうあれ、日本のヨガ教室は、明らかに健康体操としてのヨガに「化け」ている。かなり無理な姿勢で、普段使わない筋肉を使うことは科学的にも良しとされているが、宗教論よりも健康効果を求めるのは日本人らしい。神社にお参りして、賽銭で願い事をかなえようとするのと似ている。

 日本の仏教は、修行を伴わないで済む大乗仏教だから、ヨガの意味を問う必要はないのかもしれない。だが、インドの修行者は言語を絶するすごさを持つ。街中でも、真っ裸で白い粉を縫った修行者が歩いているが、宗教上の行為であるので、「わいせつ物陳列罪」に問われることはない。筆者がインド東北部のアッサム州を訪れたときに出会った修行者は、岩の上で、雨が降ろうが、太陽が照り付けようが、ずっと座っていて、右手を掲げて空を指さし、その姿を全く変えることがない。道行く人が修行者に水や食べ物を置いていくが、掲げた腕はミイラのようになり、最早動かすこともできなくなっている。

 なぜこんなにまでして梵我一如を求めるのであろう。世俗的な人間である筆者には分らない。梵我一如は、中国故事の「朝に道を知れば、夕べに死すとも可なり」に通ずる。筆者は若き日に漢文で習ったこの句を生涯大切にしてきたが、人生の夕暮れに来た今、未だ道を覚えずで、死すとも可にならずの状態にある。凡人が梵我一如を達するには、激しい修業が必要なのであろう。現代日本のこの生ぬるさは、もしかしたら修行を前提としない大乗仏教に原因があるのかもしれない。

 インド人の多くは修行はしないが、宗教生活は徹底している。人口の八割のヒンズー教徒は四カーストの下に数千あると言われるサブカーストのどこかに属し、我が家の神がある。と言っても、多くはシヴァ神がヴィシュヌ神である。宗派は数えきれないほどだが、ディワリ、ダサラ、ホーリーの三大祭りはどの宗派も参加し、結婚式や葬式の儀式も厳格に自己の宗教に則って行う。花嫁を迎えに来る白馬に乗った花婿、披露宴では見知らぬ人でも饗応する寛容さと踊りまくる姿、その華麗さは生涯忘れることのできない風景だった。逆に葬式は静かだが、遺体の上に薪を積み上げ、遺体の周囲に水を撒いた甕を割り、点火する儀式の緊張感は忘れられない。人が次の生命体に移るサンサーラ(輪廻)の瞬間である。

 ヒンズー教は禁欲の宗教ではない。歴史的なヒンズー寺院でも、多くの性愛を表す彫刻が迎えてくれる。リンガー(男性性器)や女陰も露わに描かれている。ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナは大変な美男子で、その絵を飾っている家は多い。神様は絵や彫刻ばかりでなく、歌にもよく登場する。その頃聞いたクリシュナの歌は今も耳に残っている。歌やダンスの好きなインド人だから、明るい弾むものばかりだ。

 リンガー信仰は韓国釜山の寺院でも見つけた。日本の神社の祭りの中には鳥居に向かって数人が棒をもって突っ込む所作があるそうだが、これもリンガー信仰と言える。鳥居は女陰を表すと言う。ちなみに、最も古い鳥居はマデヤプラデッシュ州サンチ―にある仏教寺院にある。紀元前3~1世紀ごろの石造建造物で、饅頭山の形をした寺の周囲に鳥居がある。ここを訪れたとき、「ああ、鳥居もインドから来たのか」と感動した。

 インドは宗教抜きには語れない。アーリア人がもたらしたバラモン教は統治のための宗教であったが、やがて理論化されウパニシャッド哲学に発展していく。

 

 

 

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QUAD インド篇 (4)国連機関で見たインド

2021-09-16 21:01:42 | 社会問題

 筆者がユニセフのインド事務所に勤務していた80年代と現在のインドを比べると隔世の感がある。2030年までにインドは日本を抜いて世界3位の経済大国になる予測であり、インドの優秀さは、イギリスの医師の3割がインド人、アメリカIT企業の3-4割がインド人に占められていると言われていることだけでも明瞭である。80年代のインドを思い浮かべると「あのインドが?あの眠れる象が?」と驚愕せざるを得ない。

 思えば80年代においても教育を受けたインド人が優秀であることは誰しも否定はできなかった。しかし、政治の壁、文化的壁があってインドが羽ばたくことは許されなかったのである。それでも一部のインド人は国連機関に入ってきて、その才能と自己主張の強さはアメリカ人エリートと肩を並べていた。国連機関は当時のインド人にとって自国で働くよりも何十倍の給料を手にすることができるので、特に優秀な人が入ってきた。しかし、今は自信ある者はむしろIT企業に向かっているだろう。

 日本もかつて終戦後間もないころ、フルブライト奨学金を得てアメリカに留学した人は極めて優秀であり、日本が豊かになって誰でもアメリカに行けるようになると学生の水準は落ちた。国連職員も戦後まもなく日本の給料の何十倍もあった時代は、わずかのエリートしか就職できなかったが、今は日本の公務員よりも安くなって、かつてのエリート感は失われた。全世界的に見ても、国連の地位の低下と給与の魅力は相関関係にある。

 ただし、筆者の同僚インド人は現地採用職員であり、ニューヨーク本部人事ではなく、外国人スタッフがオフィサーであるのに対し、あくまでアシスタントであって、海外で働くインド人のようには優遇されていない。外国人スタッフは主に郡政府と交渉することが多いので英語だけでも仕事ができるが、集落に入ると、現地語ができないと事業の進捗状況や新たな需要を把握することができないため、インド人スタッフと仲良くしなければ仕事にはならない。幸い、筆者はインド人の友人を多く持つことができた。

 インドは1984年のガンジー夫人暗殺後、首相になった息子のラジブ・ガンジーは硬直化した社会主義的政治の改革を始めた。本格的改革は、ソ連が崩壊したのちの1991年まで待たねばならなかったが、現在では競争原理の導入で、経済は劇的に繁栄し、いわゆる中産階級が育ってきた。しかし、社会指標の改善は経済指標からかなり遅れてやってくる。それでも、ユニセフがよく使う乳児死亡率をとってみても、1990年に出生1000に対し死亡89だったのが2018年には30になった。ちなみに日本は死亡5から2へと改善している(世界子供白書2019年版)。これは驚くべき改善である。筆者がインドに着任した1983年のころは、ユニセフの職員は皆心の中では同じことを思っていた。「この国は何をやっても無駄だ」。

 人々があきらめかけていたその頃、ユニセフのグラント事務局長は信念をもって「子供の健康革命」を成し遂げようと全世界のユニセフ事務所に号令をかけた。先ずは8割の子供たちに予防接種ができるように取り掛かれ、と。「そんなことできっこないよ」と始めは及び腰だった職員も、歴代事務局長の中で最も「やり手」と言われたグラントの指揮のもとに、動かざるを得なかった。ワクチン供給とコールドチェーンのための供給は本部が責任を持った。

 筆者の属するインド事務所では、WHOの現地事務所と組んで、先ずはワクチンの必要な児童数の把握を始めた。筆者も調査方法の研修を受け、WHO職員と組んで集落の児童数の調査に参加した。当時7億の人口の家々をすべて尋ねることはできないので、ルピー札を使って、集落の入り口で札の番号に従い、頭の数字が奇数なら右に行き、偶数なら左に行って、次の番号が6ならば6軒目の家を訪ねて子供の数を訊く。札にある長い番号を使ってこれを繰り返し、概ねのサンプル調査を行う方法をとった。

 80年代はこの予防接種プログラムがメインになった。調査しながら、子供が5人いるのに「3人」と答える母親に「じゃあ、あとの2人はあなたの子供ではないのか」と聞くと「女の子だから、数に入れていない」と言う。やがて10代で持参金を持たせて嫁がせねばならない女の子に対し、健康も栄養も守らないことを当然と思っている。

 こうしたことはユニセフの他のプログラムでもしばしば遭遇した。「子供の健康革命」の実現は、この予防接種を含めてGOBI-FFという手段で行われた。Gは成長記録、Oは経口哺水療法、Bは母乳育児、Iは予防接種、Fは家族計画、もう一つのFは出生率だ。もっとも、家族計画については微妙な問題があり、外国人スタッフは忌避した。圧倒的に予防接種に力が入れられたが、筆者がユニセフを離れた後、90年代に子供の8割の接種を達成したと言う。ちなみにGOBIはヒンズー語ではキャベツのことだそうで、健康革命という目的に対して覚えやすい明確な手段を以て事業を成功に導いたことは喝采すべきである。

 筆者は厚労省に復帰してからはおよそユニセフを振り返ることは無くなったが、今のユニセフは当時のような物量作戦ではなく、1989年に児童権利条約を成立させ、子供の権利擁護を中心に、専門家を養成することに力を入れていると言う。インドは格差社会の最たるものであり、やるべき社会政策は多いが、今では、世界を視野に入れれば、中東やサハラ砂漠以南のアフリカ諸国の方がはるかに問題は深刻であり、ユニセフの重点も移っていくのではないだろうか。

 筆者のインド観は、僻地やスラムの最貧階層を通しているため、偏っているかもしれない。しかし、その最貧階層においても、インドの底力を感じてならなかった。一体、眠りの長かった象はなぜにその力を持っているのか、次回以降に検証したい。

 

 

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QUAD インド篇 (3)日本から見たインド文化と中国文化

2021-09-11 10:23:10 | 社会問題

 筆者は1986年、ユニセフ・インド事務所の出向を終え帰国してから直ぐに「なぜ今インドに」と「インドから考えるアジア」の2冊を出版した。インドの目くるめく経験を忘れないうちに著そうと思ったのだが、今読むと躍動感はあるものの、無知むき出しの著作であった。著作の一貫したメッセージは、「実は、日本は文化的に中国よりもインドに近い」であった。

 現代的に言えば、インドも日本もアングロサクソンの学問を基礎としているから、共産国家が長くなった中国よりもインドの方がわかりやすいからだと言える。しかし、それ以前に、長い歴史の中で、日本は漢字を始めとして中国の文化的影響が最も大きいと考えられてきたが、日本にある文化の起源が中国以上にインドからやってきたものであることを居住者として感じ取ったのである。

 端的に言えば、仏教はインド起源で、中国で本来の教えとは異なる大乗仏教に作り替えられたものの、さまざまの儀式や言葉にインドのものが伝えられた。塔を表すストゥーパが卒塔婆になり、卒塔婆の最上部に書かれる文字「ン」がサンスクリット文字である。八百万の神は、多神教であるヒンズー教の影響を受け、現に弁財天がベンガル地方の女神だったり、仏教が支配層から民衆に普及したのとは別に、民衆の神にインドの神様が存在している。七福神は、インド3,中国3,日本1の神様たちだ。

 タージマハールに行けば、先ず靴を脱がねばならないが、聖なる場所や住宅の中で履物を脱ぐのは、欧米や中国にない習慣である。「お箸を持つ手は右手」と教えられる日本だが、人口の半分以上が左利きと言われる西洋社会では右手で食べなければならない理屈はない。しかし、ヒンズー教では、右手は浄、左手は不浄であり、右手で食べねばならない。

 12世紀に成立したと言われる今昔物語には、天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の話が収められている。仏教とともにインドの民話が伝わり、今日、童話の世界で息づいている。ヒンズー教の神様たちは、人間的な行いをし、全知全能の神や、軍神やらの役割分担もあり、喜怒哀楽も表しているところがギリシャ神話の影響大であり、転じてそれは日本神話にも取り入れられている。

 我々日本人は、ヒンズー教の神やインドの歴史に詳しくない。しかし、中国については、次第に浸透度が薄れているものの、三国志や西遊記等は今も読者を得ている。西遊記の三蔵法師のお伴になった孫悟空は童話でも大人気のキャラクターである。この話は16世紀に書かれたのだが、実は、孫悟空の物語は、インドの古代叙事詩「ラーマーヤナ」が起源であるという説が有力である。ラーマーヤナは、4-5世紀の成立であるから、中国ではインドの千年以上も前の古典を読んでいたことになる。

 コーサラ王国のラーマ王子は陰謀によって王宮を追われ、妻シーターは魔族の王にさらわれる。シーターを助けに行くのが猿神ハヌマーンであり、シーターを今のスリランカから救い出しデリーに凱旋するときにハヌマーンを人々が光を持って迎えた。それが、インドにおけるヒンズー教の三大祭りの中でも最も重要なディワリの意味であり、11月初め、家という家、街角という街角にろうそくが灯され、爆竹が鳴り、花火が打ち上げられる。もっとも、近年では、筆者が滞在したころと違って、火事や爆発事故の多さから規制がかかっているという。

 インドの暑い長い夏が終わってのディワリは、人々を美と狂喜の世界に誘う。筆者は、同僚ナンドの案内で、先ずはラーマ―ヤナの劇を観賞し、当時は電球よりもろうそくの方が多かった光の渦の中で、幻想気分を味わったのである。その時、ナンドから耳にしたのが、「中国の孫悟空はハヌマーンを真似たのですよ」だった。1962年の中印国境紛争以来、インド人の対中感情は極めて悪い。中国人と分かるとトマトをぶつけられたりするくらいだ。だから、インド人にとって、中国がインドのまねごとをしたにすぎないと言うのは、誇らしげである。

 インドでは、牛は聖なる動物として大切にされるが、猿も可愛がられている。タージマハールに行けば、近辺に美しい毛をした大きめの猿が放し飼いにされているのに出会う。大切にされているからだろう、決して人間に乱暴はしない。猿神ハヌマーンのおかげかもしれない。言い忘れたが、ヒンズー教では、ディワリは女神ラクシュミを祭るお祭りでもある。しかし、筆者にとっては、孫悟空の祖先はここにあり、と思うための日々であった。

 インドと中国は陸続きであるが、ヒマラヤ山脈によって大きく隔てられている。互いに影響しあいながらも独自性を失うことはなかった。日本人にとっては、「ガンジス川を越えればアジアではない」という言い伝えがある。それは我々や中国人のようなモンゴロイドではなく、北西の方から来たアーリア人やインダス文明の担い手で南下したドラビダ人とは人種的な違いを感ずるからである。しかし、あの鋭い目と鼻筋の通った顔立ちが育んできた文化は、我々の身近なところにある文化と驚くばかりに共通しているのである。

 

 

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