1984年10月の末、筆者は、ヒマラヤ山脈の麓、ヒマチャル・プラデッシュ州のシムラに会議のため赴いた。シムラはイギリス統治時代、夏の間ここで政治を行ったという人口17万の涼しい街だ。空気が澄み切り、筆者は生まれて初めての天に横たわる巨大な銀河を見た。その百万の星々ともいえる煌めきは地上まで明るくするかのようであった。しかし、これは凶の兆しであった。
10月30日、昼前に「ガンジー夫人暗殺」のニュースが入ってきた。既に首都デリーは混乱の状況にあると伝えられた。真っ先に頭に浮かんだのは、ニューデリーの自宅にいる二歳の息子のことで、出張時は現地の家事労働者に委ねていた。当時のインドは長距離電話をつなぐのに1,2時間かかる国であったから、取るものもとりあえず、飛行機に飛び乗ってデリーへ急いだ。自宅で無事な息子を見るや、商店が閉まって買い物ができないとの噂が広まっていたので、車を運転し、まだ空いていた店で、必需品のミルクや野菜を買って帰った。帰り道、銃声のようなものを聞いたが気に留めず、ユニセフのオフィスに寄ると、誰もいなかった。
翌日、オフィスに行くと、インド各地で暗殺者の属するシク教徒が三千人、デリーだけでも千人が殺されたと聞かされ、その危険な時に自ら運転して買い物したりオフィスに来たりする筆者の行動は咎められた。「まったく危機意識がない」。それもそのはず、戦後生まれで身の危険を感ずる経験を全くしていなかった。オフィスでもう一人出張に出ていたスリランカ人のワヒッドは、車での帰途、シク教徒がヒンズー教徒につかまって火の中に放り投げられる写真をカメラに収めながらたどり着いたが、彼も咎められた。「泣きながら、撮ってきたんだ」と彼は一部を我々に見せた。
その年、ガンジー夫人はシク教徒の独立強硬派の総本山ゴールデンテンプルへの攻撃を命じた。その復讐として、夫人の警護に当たる二人のシク教徒が近距離から銃を乱射して暗殺した。ガンジー夫人の強権的な政治には反対者もいるものの、サリーを美しく着こなすたおやかなガンジー夫人は多くの人に愛されていた。デリーはむろんのこと、国内各地で、ヒンズー教徒の反撃が始まったのは当たり前のことだった。警察が沈潜させるのには何日もかかった。ただ、こういう時に発表される死者数などは全くあてにならない。その年の12月にマデヤ・プラデッシュ州ボパールで起きたユニオンカーバイド社の化学工場爆発も、当初は死者二千余りとされたが、その後何度も修正され、二万近くが犠牲になったという。
シク教徒はおよそ五百年前、ヒンズー教から分かれたワリアー(武人)の集団で、髪を切らず頭にターバンを巻き、6メートルある腹巻の中にナイフなどを所持する人々である。この独特な姿の人をサルタージと呼んでいる。ユニセフにもいたサルタージは、街の治安が治まるまで出てこなかった。インドは多様性の国、多様性を許す国と思っていたが、マハトマ・ガンジーを暗殺したのは、ヒンズーとイスラムの融和を図ろうとしたガンジーに反対するヒンズー原理主義者であった。のちに、ガンジー夫人の長男で首相になったラジーブ・ガンジーを暗殺したのは、ラジーブがスリランカのシンハラ族とインドからの移民タミールナドゥー族を融和させようとしたのに反対したタミールナドゥーの熱狂的支持者であった。決して多様性に寛容ではない。
ガンジー夫人は、1977年から3年間、政権から降りた時期があった。75年の選挙が違法であるとの高等裁所の判決を得たため、ガンジー夫人は対抗措置として緊急事態宣言を発動し、野党側の逮捕を行ったりしたが、77年選挙に敗れて失脚、その後1980年に返り咲いた。その彼女を支えていたのが、次男サンジャイであったが、サンジャイは80年に自分の操縦する飛行機が墜落して、事故死したのである。兄であり、政治に全く興味のなかったラジーブは、母を助けるため、インド航空のパイロットを辞め政界入りした。
ガンジー夫人が失脚したのは、その強権的政治に原因があるが、一つの例として、人口増加を防ぐために、男性の不妊手術を合法化し、強制的な実践を行ったことも入る。村落の子持ちの男性はパイプカットが何かも知らないで、手術を受けさせられた。しかし、このことはインドの人口の伸び率に何の影響ももたらしていない。ユニセフでは、「女性は必ずしも旦那だけを相手にしていないのではないか」という冗談もつくられた。実際、暑い国では、女性が黙々と働くのに対し、男性は木陰でトランプやったり昼寝したりしている姿がよく見られ、女性が夫に愛想をつかしていることも事実だった。
愛息を失ってわずか四年後、インディラ・ガンジーも不慮の死を遂げた。その七年後には母を継いで首相になったラジーブの不慮の死が続き、「ガンジー家の悲劇」と言われる。ラジーブは、生来おとなしい性格で、弟が死ななければ政治に出るつもりはなかったし、母が死ななければ首相になるつもりはなかったとマスメディアのインタビューで語っている。めっぽうハンサムで、ケンブリッジ大学で知り合ったイタリア人の女性ソニアと結婚し、「妻を人格を持つ人間として認めることが夫婦仲をよくする」とまで語った近代的な男性である。機械工学を学んで飛行機の操縦が「趣味」だったのを職業にした彼の人生は、自らの意志ではなく狂わされたのである。
ラジーブとソニアの息子ラーフルと娘プリヤンカも曽祖父ネルー以来の国民会議派で活躍している。国民会議派は嘗てのような勢いはない。現在モディ首相が属する政党はインド人民党だ。モディ首相はインドの経済的発展に貢献し、ネルー・ガンジー王朝の出番があるかどうかは不明である。