インド篇で、インドの多様性を書いた。宗教、言語、人種に加え、州ごとに首相を置く地方分権の構造は多様性を裏打ちする。アメリカはインドに匹敵する多様な国だ。国の成り立ちからして、イギリス、ドイツ、オランダ、フランス、スペイン、そして東欧・南欧の順に移民が入ってきて建国した。中国・アジア系はゴールドラッシュの時代から、アフリカ系は奴隷として強制的に連れてこられた。インドが北方からの侵入によって数々の王朝が異なる文化を創り上げた国であるのに対し、アメリカは宗教対立や飢饉などを理由に本国から新天地を求めた人々が短期間に切り開いた国である。
言うまでもなく、アメリカは1776年、イギリスと戦って独立を果たし、独立当初の13州から西へ領土を広げ、アラスカはロシアから買収、テキサスやカリフォルニアなどはメキシコとの戦いの勝利によって獲得した。フランスはイギリスとの戦いで撤退したが、カナダ東部やミシシッピー川流域にフランス文化を残している。したがって、アメリカのどこに住むかによってアメリカ社会の捉え方は変わってくる。連邦政府はワシントンDCにあり、経済の中心はニューヨークにあるから、日本人のアメリカの認識はおおむねこの二地域の発信によって形成される。
筆者が1975年、人事院長期在外研究員としてアメリカの大学院に派遣されるとき、先ずはどの地域を選ぶかが、その後のアメリカ観、大げさに言えば人生そのものにも影響を与える選択であることを感じていた。大蔵・通産の官僚はハーバード大学に殺到した。明治以来変わらず東大出身が圧倒的に多い当時の霞が関では、ハーバードがアメリカの東大に該当すると考えていたからだ。当時はMBA真っ盛りの頃、ハーバードのMBAはまぶしい輝きを持っていた。
筆者はどういう選択をしたか。筆者が厚生省に入って最も尊敬した人が社会局老人福祉課にいた森幹夫専門官だった。森さんは、結核で十年近く療養した後厚生省に入った方だが、1950年の社会保障制度審議会の答申で、日本の社会保障はイギリス式を選択する主旨が決められたのに対し、福祉はスウェーデンに学ぶべきだと確信して、私費で独自にスウェーデンを視察して回った人だ。公務員の身ではあったが、多くの著書で北欧式を訴え、やがて行政もその流れになった。筆者はもともと研究者を目指していたが、全共闘運動の中で自分の幼さを自覚し、早く社会に出ようと「消極的選択」の官僚の道を取った。したがって、なかなか自分の官僚像が描けないでいたが、森さんが筆者のロールモデルになった。上り詰めることを考えるよりも、テーマを追いかけ著書を持つ官僚を目指した。
その森さんから、ミシガン大学が1965年、米国初の老年科学研究所を設立した事実を知り、迷わずミシガン大学に決めた。ここで、老人問題の修士論文を書くことにした。ミシガン大学はカリフォルニア大学バークレー校と並んで、州立大学のトップであり、社会福祉学では全米一であるが、ミシガン州のある中西部は田舎で、地味で、保守的で、あまり魅力のある地ではなかった。エスタブリッシュメントの東部、南北戦争を彷彿とさせる南部、金を求めてやってきた開拓者精神の西部に比べると、イメージの薄い存在だった。どこまでも広がるコーンベルト、五大湖湖畔の自然美、そして、あえて特色と言えば、かつても今も自動車産業の本拠地であることだけだ。
筆者はこの時海外は初めてで、英語も受験勉強の域を出なかったから、リーディングアサインメント(必読書)を読みこなすのも四苦八苦で、ただ勉強するしかなかった。大学院生の寮に女性四人で住んでいたが、次第に彼女たちに感化され、金曜日のデートやコントラクトブリッジなどに多少興ずるようになった。デートの申し込みも比較的多かったのは、ベトナム戦争後の若者は、アジア人に罪悪感を覚え、もっと知ろうと考えていたのと、ウーマンリブ全盛期のアメリカ女性に恐れをなしていたことによる行動と思う。しかし、二年目、行政学修士の単位を取ったので、寮を出て、病院タイピストをしていたアルシアの家に下宿することにした。アルシアを通して教会に行ったり、彼女の友人に会ったりするうちに、特殊な学生社会から出て現実のアメリカ社会が少しづつ見えてきた。老年科学研究所での修士論文にとりかかると、アルシアが教えてくれる英語が役に立った。筆者の英語が学生スラングばかりであるのを気付いたのである。
あるとき、たまたま知り合った日本から来た自動車会社の人と、デトロイト近郊にあるフォードの工場を見学に行った。巨大な工場で、真っ赤に焼けた鉄板に始まって各工程をつぶさに見、フォードがここで大量生産のライン方式を発明したことを思い、世界史に足を突っ込んだような感覚を得た。ところが、同行者は「遅れているね」と言い放った。筆者はこの分野に無知であったから、驚いたが、彼によると、「もう日本では、殆どロボット化していますよ。こんなに工員はいません」とのことだった。
確かに、70年代の半ば、既にアメリカの自動車会社は、オイルショック後の日本のコンパクトカーに押され気味だった。オイルショック後は、アメリカ人の価値観も変わり、キャデラックやリンカーンなど大型車は長らくステイタスシンボルであったが、燃費が悪く、オイルショック後は避けるようになった。それらの車を乗り回していたのは、むしろ成金の悪趣味であった。既に自動車産業の不況は始まり、これまで黒人や海外アラブ系などが移入して労働者になっていたのが、暴動を起こしたり治安を悪くしていた。大都市デトロイトも治安の問題で、白人が郊外に出ていき、破れた窓ガラスやペンキの剥がれたかつての邸宅は黒人に占領されていた。「デトロイトには絶対に一人で行くな」と筆者はアルシアにも言われていた。
時を経て21世紀、自動車大手のGEとクライスラーが破綻、2013年にはデトロイト市が債務超過で破綻したのは海外でも大きく取り上げられた。この一帯をラストベルト(さび付いた一帯)と呼び、ラストベルトの救世主として表れたのが2016年のトランプである。本来ならば民主党の強い土地柄であったが、共和党トランプはここミシガンでも選挙に勝った。ラストベルトの人々の悲鳴に応えたからである。筆者はこの悲劇の始まりの時期にそこに存在していた。