大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

QUAD アメリカ篇(2)ラストベルトの始まり

2021-11-29 10:47:31 | 社会問題

 インド篇で、インドの多様性を書いた。宗教、言語、人種に加え、州ごとに首相を置く地方分権の構造は多様性を裏打ちする。アメリカはインドに匹敵する多様な国だ。国の成り立ちからして、イギリス、ドイツ、オランダ、フランス、スペイン、そして東欧・南欧の順に移民が入ってきて建国した。中国・アジア系はゴールドラッシュの時代から、アフリカ系は奴隷として強制的に連れてこられた。インドが北方からの侵入によって数々の王朝が異なる文化を創り上げた国であるのに対し、アメリカは宗教対立や飢饉などを理由に本国から新天地を求めた人々が短期間に切り開いた国である。

 言うまでもなく、アメリカは1776年、イギリスと戦って独立を果たし、独立当初の13州から西へ領土を広げ、アラスカはロシアから買収、テキサスやカリフォルニアなどはメキシコとの戦いの勝利によって獲得した。フランスはイギリスとの戦いで撤退したが、カナダ東部やミシシッピー川流域にフランス文化を残している。したがって、アメリカのどこに住むかによってアメリカ社会の捉え方は変わってくる。連邦政府はワシントンDCにあり、経済の中心はニューヨークにあるから、日本人のアメリカの認識はおおむねこの二地域の発信によって形成される。

 筆者が1975年、人事院長期在外研究員としてアメリカの大学院に派遣されるとき、先ずはどの地域を選ぶかが、その後のアメリカ観、大げさに言えば人生そのものにも影響を与える選択であることを感じていた。大蔵・通産の官僚はハーバード大学に殺到した。明治以来変わらず東大出身が圧倒的に多い当時の霞が関では、ハーバードがアメリカの東大に該当すると考えていたからだ。当時はMBA真っ盛りの頃、ハーバードのMBAはまぶしい輝きを持っていた。

 筆者はどういう選択をしたか。筆者が厚生省に入って最も尊敬した人が社会局老人福祉課にいた森幹夫専門官だった。森さんは、結核で十年近く療養した後厚生省に入った方だが、1950年の社会保障制度審議会の答申で、日本の社会保障はイギリス式を選択する主旨が決められたのに対し、福祉はスウェーデンに学ぶべきだと確信して、私費で独自にスウェーデンを視察して回った人だ。公務員の身ではあったが、多くの著書で北欧式を訴え、やがて行政もその流れになった。筆者はもともと研究者を目指していたが、全共闘運動の中で自分の幼さを自覚し、早く社会に出ようと「消極的選択」の官僚の道を取った。したがって、なかなか自分の官僚像が描けないでいたが、森さんが筆者のロールモデルになった。上り詰めることを考えるよりも、テーマを追いかけ著書を持つ官僚を目指した。

 その森さんから、ミシガン大学が1965年、米国初の老年科学研究所を設立した事実を知り、迷わずミシガン大学に決めた。ここで、老人問題の修士論文を書くことにした。ミシガン大学はカリフォルニア大学バークレー校と並んで、州立大学のトップであり、社会福祉学では全米一であるが、ミシガン州のある中西部は田舎で、地味で、保守的で、あまり魅力のある地ではなかった。エスタブリッシュメントの東部、南北戦争を彷彿とさせる南部、金を求めてやってきた開拓者精神の西部に比べると、イメージの薄い存在だった。どこまでも広がるコーンベルト、五大湖湖畔の自然美、そして、あえて特色と言えば、かつても今も自動車産業の本拠地であることだけだ。

 筆者はこの時海外は初めてで、英語も受験勉強の域を出なかったから、リーディングアサインメント(必読書)を読みこなすのも四苦八苦で、ただ勉強するしかなかった。大学院生の寮に女性四人で住んでいたが、次第に彼女たちに感化され、金曜日のデートやコントラクトブリッジなどに多少興ずるようになった。デートの申し込みも比較的多かったのは、ベトナム戦争後の若者は、アジア人に罪悪感を覚え、もっと知ろうと考えていたのと、ウーマンリブ全盛期のアメリカ女性に恐れをなしていたことによる行動と思う。しかし、二年目、行政学修士の単位を取ったので、寮を出て、病院タイピストをしていたアルシアの家に下宿することにした。アルシアを通して教会に行ったり、彼女の友人に会ったりするうちに、特殊な学生社会から出て現実のアメリカ社会が少しづつ見えてきた。老年科学研究所での修士論文にとりかかると、アルシアが教えてくれる英語が役に立った。筆者の英語が学生スラングばかりであるのを気付いたのである。

 あるとき、たまたま知り合った日本から来た自動車会社の人と、デトロイト近郊にあるフォードの工場を見学に行った。巨大な工場で、真っ赤に焼けた鉄板に始まって各工程をつぶさに見、フォードがここで大量生産のライン方式を発明したことを思い、世界史に足を突っ込んだような感覚を得た。ところが、同行者は「遅れているね」と言い放った。筆者はこの分野に無知であったから、驚いたが、彼によると、「もう日本では、殆どロボット化していますよ。こんなに工員はいません」とのことだった。

 確かに、70年代の半ば、既にアメリカの自動車会社は、オイルショック後の日本のコンパクトカーに押され気味だった。オイルショック後は、アメリカ人の価値観も変わり、キャデラックやリンカーンなど大型車は長らくステイタスシンボルであったが、燃費が悪く、オイルショック後は避けるようになった。それらの車を乗り回していたのは、むしろ成金の悪趣味であった。既に自動車産業の不況は始まり、これまで黒人や海外アラブ系などが移入して労働者になっていたのが、暴動を起こしたり治安を悪くしていた。大都市デトロイトも治安の問題で、白人が郊外に出ていき、破れた窓ガラスやペンキの剥がれたかつての邸宅は黒人に占領されていた。「デトロイトには絶対に一人で行くな」と筆者はアルシアにも言われていた。

 時を経て21世紀、自動車大手のGEとクライスラーが破綻、2013年にはデトロイト市が債務超過で破綻したのは海外でも大きく取り上げられた。この一帯をラストベルト(さび付いた一帯)と呼び、ラストベルトの救世主として表れたのが2016年のトランプである。本来ならば民主党の強い土地柄であったが、共和党トランプはここミシガンでも選挙に勝った。ラストベルトの人々の悲鳴に応えたからである。筆者はこの悲劇の始まりの時期にそこに存在していた。

 

 

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QUAD アメリカ篇(1)日本にとってのアメリカ

2021-11-24 09:50:31 | 社会問題

 アメリカは、日本人にとって世代ごとに異なる感情を持っている国と思われる。太平洋戦争を戦った世代は既に大変な高齢で少数である。これを除くと、物心ついたときには戦後になっていた1940年から60年半ばくらいに生まれた者は、マッカーサーの「偉業」とアメリカ文化への同化の中で好意的なアメリカ観を育んだ。その親世代の論客は、単独講和の否定や物質主義への批判をすることがリベラル知識人の証と考えていたにもかかわらず、幼少期にあった集団は、豊かさへの憧れ、ディズニーやポパイの明るい文化を自らのものとして身に着けていったのである。

 その幼少集団の最も大きい塊が、言うまでもなく団塊世代である。筆者はこれに属する。小学校では、基本的に教員はデモクラシーを教えることに徹していた。60人近くのクラスに、一人いるかいないかくらいの割合で、「尊敬する人は天皇」と答えたり、好きな歌は「軍艦マーチ」と言う「遅れた子供」に対して教師は眉をひそめ、大勢の子供たちもその遅れた子供を嘲笑した。子供たちの会話は「ディズニーを見たか」、少し大きくなれば「ララミー牧場を見たか」。思春期には、日本語版アメリカンポップスが流行り、親が聴く演歌とは袂を分かった。

 子供たちは、いつかアメリカのように豊かになると夢見ていた。アメリカの家庭ドラマでは、瀟洒な家の前の芝生に庭テーブルがあり、ママの焼いたクッキーとフレッシュジュースを美味しそうに食べる子供がいて、足元には大きな犬が寝そべっている。その頃の日本人は、ちゃぶ台の上に、オーブンがないからクッキーは焼けず、代替のビスケットを置き、粉末ジュースか缶ドロップと一緒に食べた。金持ちは犬を飼っていたが、都会では小型犬スピッツが流行っていた。「いつかアメリカのようになりたい」。

 いつかアメリカに・・は徐々に果たしていった。上の世代は、安保闘争で反米を明らかにしたが、それは大学生が当時少数で知識人に属していたからである。岸信介の後を継いだ池田勇人首相は安保を政治から封じ、ひたすら所得倍増の経済政策に専念し、オリンピックに合わせて、東京タワー、東海道新幹線、東名高速などを矢継ぎ早に実現させた。そして、大学教育の大衆化が始まったのである。1968年、人口が1億人に達し、世界第二の経済大国に達した日本は、世界に連動して学生運動に見舞われる。全共闘運動だが、「受験戦争」の果て大衆化した大学に入った学生の質は、60年安保時代のエリート学生に比べ落ちた。

 結果的には一過性の反抗運動に終わった全共闘運動だが、連合赤軍に化けたごくわずかの極左を除いて、ゲバ棒を置き石礫を捨てて、学生たちは高度経済成長の社会に労働力として入っていった。それもそのはずである。幼少期にアメリカ文化の洗礼を受け、右肩上がりの日本の恩恵を受け、その本質は反社会的になる要素がない。革命や戦争は本の中での世界だ。全共闘が掲げた毛沢東の「造反有理」は、固い頭の親世代・教授世代に反抗を試みる程度の意味しか持たなかった。しかし、全共闘の経験は、恵まれた職業と家庭生活を全うしながらも、表面的にリベラルを装う傾向を作った。2009年民主党政権を実現させたのはこの世代である。しかし、政党も支持者も脆弱なリベラリズムを擁するだけで、この世代は、アメリカあっての日本、いつまでもだらだらと日常の豊かさを信じ続けるのが本質なのである。

 この世代に続くオリンピック1964年以降昭和の終る89年年ころ生まれた世代は、先頭集団は新人類と呼ばれ、戦争経験を引きずることは無くなった。アメリカに対しても戦勝国だったり、7年間日本を占領し統治していた国だという感覚はなくなった。価値観を共有する同じ先進国だとの見方ができるようになったのはこの世代だ。だから、憧れもない。しかし、彼らは、ソ連崩壊後に、90年のバブル崩壊から今日まで続く下り坂日本の被害者になる。彼らの多くは就職氷河期に直面し、副産物として家庭志向を失い、少子化をもたらした。90年代に行われた数々の制度改革は、金融ビッグバンを始め、アメリカ流の市場原理の導入だが、一握りの起業家の成功に対し、大部分は敗者となった。なぜなら、何もやらなくても豊かな人生を送ることができた親世代(団塊世代中心)は、彼らに何の哲学も教えなかったからである。

 1989年平成以降の世代は、いわゆるZ世代が大半だが、デジタル社会の申し子である彼らの感覚は国というボーダーを越えた発想であり、ますますアメリカを特殊の相手国としてみない傾向がある。その意味では、その直前世代と同じであり、むしろアメリカを特別視するオリンピックまでの世代とアメリカを普通にみるそれ以降の世代に二分する考えもあろうと思う。アメリカ留学の志望も減り、何もかもアメリカに学ぶと言う世代は、現役を退いたともいえる。若者たちは、はるかに年上の政治家がアメリカ特別視集団に属し、今もアメリカ参りをしている姿をどう評価しているのであろうか。日本が核も備えた軍備を持つ普通の国として、沖縄基地返上や自主外交などを思いつく集団にもなりうるのが彼らだ。

 日本からアメリカを観るときに、アメリカが変化していないことを前提にするなら、それは大きな間違いだ。アメリカ自身も日本に対する見方を世代ごとに変化させている。筆者がアメリカに留学していた70年代は、太平洋戦争や戦後のGHQに勤務した退役軍人などは日本の文化や身体的特徴を揶揄する人が多かったが、筆者が担当した80年代後半のMOSS協議における対米交渉の場では、アメリカは日本の上に立つことを強調した。「かつての戦勝国アメリカが上にあることを忘れるな」。しかし、現在、アメリカはWASP中心の国でない自覚を持つようになり、キリスト教文明、西洋文明が優位で日本人はそれに憧れている状況が去ったことを感じ取っている。

 中国の台頭も影響しているが、非キリスト教・非西洋文明を知らぬ大概のアメリカ人は自己の知識の狭さに脅威を感じ始めていると筆者は観る。そのきっかけを作ったのが、サミュエル・ハンチングトンの「文明の衝突」(1996年)ではないか。アメリカ自身が世界のすべての価値の上に立つのではないことをこの本はアメリカ人に教えた。筆者はここ数年の科学政策の国際会議で会うアメリカ人に謙虚な姿勢を多く見るようになったことを驚いている。

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QUAD インド篇(15) マハトマ・ガンジー (インド篇最終回)

2021-11-18 11:15:37 | 社会問題

 マハトマ・ガンジーと言えば、日本の教科書に偉人として掲載され、誰もが知っている。「非暴力・不服従でインドの独立をもたらしたインドの父」は、受験勉強でも必須の暗記項目だ。多くの人は、非暴力・不服従の平和主義に惹かれ、糸車で紡いだ国産の衣をまとい、イギリスがかけた塩の税金に反対して、人々を引き連れ海岸で自ら塩を作るための塩の行進はまさにマハトマ、聖なる人と言われるにふさわしい逸話である。

 しかし、日本では、それ以上ガンジーを知っている人は少ないのではないか。1948年1月、インドが独立を遂げた翌年、ヒンズー・イスラムの融和を説くガンジーは、ヒンズー原理主義者に射殺された。ガンジーの信奉者はあまりにも多く、人々の嘆きはあまりにも大きかった。ガンジー絶命の地、デリーのヤムナ川のほとりにはガンジー碑が立っている。ヒンズー教徒は火葬した後遺灰を川に流し、墓を作らないから碑に替えられた。それから70余年経っている。

 意外かもしれないが、現在、インドでは、ガンジーを日本ほど崇めていない。ガンジーは不可触民をハリジャン(神の子)と呼び、彼らと共同生活をし、ハリジャンの仕事である便所掃除も自らやって手本を示し、差別をなくそうとした。その一方、ガンジーはカースト制度は科学性があるとし、否定はしなかった。したがって、ガンジーを人種差別者と言う人もいる。そして、何よりも、ガンジーが属し独立運動を担った国民会議派は、初代首相ネルー、その娘インディラ・ガンジー首相、その息子ラジブ・ガンジー首相と続いたいわゆるネルー・ガンジー王朝が斜陽になったせいもあって、ガンジー人気は今一である。

 現在首相を務めるインド人民党モディは、ガンジーと同じくグジャラート州出身であるが、ヒンズー教至上主儀者であり、ヒンズー・イスラム融和を説くガンジーとは異なる。また、モディはカーストはバイシャ(商人層)だが、奴隷層に近いくらい低い貧しい層の出身であり、ガンジーは同じバイシャだが、藩王の大臣を務める名望家の出身だ。今や国民の人気は、きれいごとすぎるインドの父よりも、政策マンであり、資本主義を推し進めるモディの方にある、と言っても過言ではあるまい。

 ガンジーは、その思想によって人々を導いた。世界的影響も与えてきた。キング牧師は公民権運動をリードする哲学をガンジーの非暴力・不服従に学んだ。南アフリカのマンデラ元大統領も、パキスタンの女子教育運動家マララ・ユスフザイもガンジーへの言及を忘れない。しかし、インドでの崇拝がかつてほどではないのは、ガンジー哲学が現在の国際情勢から考えると非現実的だからではないかと思われる。中東紛争に非暴力・不服従はあるまい。

 ガンジーは自らを真理を求める宗教者と自覚しているが、キリスト、仏陀、ムハンマドは千年、二千年も崇められてきたのに、ガンジーはその存在とは並ばない。「私は、ヒンズー教徒であり、イスラム教徒であり、仏教徒であり、原始キリスト教徒でもある」と言い放ったガンジーだが、宗教者としてはそれほど認められていない。彼の座右には「バガヴァッド・ギ―タ―」というヒンズー教のバイブルが常に置かれていたから、偉大なるヒンズー僧侶に留まるのではないか。人々の心に永遠に住み着く宗教の教祖ではなく、インド独立の父という、独立運動の指南者としての役割が天命だったのではないか。ならば、独立70余年経てば、人々の崇拝は薄れていってもおかしくない。

 ガンジーの非現実性哲学は、非暴力・不服従だけではない。徹底した菜食主義や性的禁欲もある。例えば、性的禁欲は人々の賛同を得られなかったのではないか。ガンジーの身内からは、ガンジーを尊敬しつつも、必ずしも、性的禁欲を果たした人物とはとらえていない。ガンジーはよく裸の若い女性と寝ていたという事実が報告されている。ただ、しかし、英雄には様々な側面があって、没後、英雄像の賛否両論やら人間的部分やら出てくるのはやむを得ないことである。その意味では、インドのコルカタで活躍したマザーテレサもインドではさほど重視されていないと思われる。「なぜマザーテレサなのか。同じような修道女はいっぱいいる」。

 ガンジーの非暴力・不服従は、インド独立のために軍事力を以て戦おうとした、ビハリ・ボ―ス、チャンドラ・ボースとは相いれず、合流しなかった。二人のボースは日本と連携し、中でもチャンドラ・ボースはインド国民軍を率い、日本のインパール作戦に協力した。ビハリは早くにチャンドラにバトンを渡して新宿中村屋の娘と結婚し、中村屋のカレーブランドを有名にしたが、チャンドラは飛行機事故で命を落とし、独立後の国民会議派の政治の中枢となるべき運命を逃した。インドが一貫して親日であるのは、こうした歴史があるからでもある。

 ガンジーの本名はモハンダース・カラムチャンド・ガンジーだが、マハトマ(聖なる)の名をつけたのは、ノーベル文学賞受賞者タゴールであると言われている。そもそもタゴールは、岡倉天心と親しく、天心がタゴールから得た影響から、「アジアは一つ」の考えを打ちだし、それが、大東亜共栄圏の論理的基礎になった。「ガンジス川を越えればアジアではない」のことわざを飛躍し、インドというアジアを発見したのは他ならぬ岡倉天心である。天心の言葉は軍部に悪用されたと言う見方が強いが、戦後76年経って、QUADは、アジアを二分するのか、それとも逆に、いずれ中国との融和が図られるのか、それは、日本とインドが、アメリカ一辺倒でない独自の外交を選ぶかどうかによる。

 少なくともインドは、独自路線を選ぶであろう。そこには、まだマハトマ・ガンジーがいる。国民会議派外交の祖、ガンジーは言うだろう。「融和しかない、たとえわが身の命を落とそうとも」。

 

(QUADインド篇はこれで終わります。次回はアメリカ篇に移ります。筆者)

 

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QUAD インド篇 (14) インドの女性

2021-11-12 10:15:14 | 社会問題

 カマラ・ハリスがバイデンによって副大統領候補に指名されたとき、「多様性を象徴する初めての黒人女性副大統領」と伝えられた。筆者は、カマラの名がインドによくある名前なので、もしかしたらインド人?と瞬間的に思ったが、ハリス氏は、父がジャマイカ出身の黒人で、母がインド出身であるために「黒人」と分類された模様である。

 アメリカでWASP(イギリス系白人でプロテスタント)が主流のように、インドでは紀元前2千年、北方からやってきたアーリア人が主流である。彼らはヨーロッパ人と同じ白人種(コーカソイド)であり、言語もインド・ヨーロッパ語族である。4千年もの間、インド大陸で紫外線を受け、遺伝子変化があると思われ、一般の白人よりは皮膚が小麦色に近い。原住民ドラビダ人はもっと色黒なので、混血した場合はかなり色が黒い。しかし、いわゆる黒人(ネグロイド)とは異なる。鼻筋が通り、目が鋭い。

 近年、アメリカでは、IT技術者インド人の入国を優遇したため、大量のインド人が居住していて、今や446万人を数える。インドは、世界最大の移民送り出し国であり、イギリス、マレーシアなどに多く居住し、現地の国籍を取った者を含めると世界に3千万人以上のインド系移民がいる。昔から、彼らは印僑と呼ばれ、華僑をしのぐ商売上手である。

 カマラ・ハリスの両親は二人ともスタンフォード大学の研究者であり、のちに離婚して、カマラは母親の下で育った。カマラは、父親のことはあまり言いたがらず、母への感謝と思慕の強い傾向がある。カマラ自身、カリフォルニア州司法長官を務めた優秀な人材であり、ここにも「さすがインド人の血」と思わせる事実がある。ただし、アメリカでは、当初の人気はバイデンとともに下落している。

 もともと白人であるはずのインド人だが、カマラの場合も「黒人」が強調された。オバマ元大統領も母親は白人だが「黒人」が強調される。アメリカでは一滴でも黒人の血が入れば黒人に分類される。最近のアジア人差別においては、もともと中国人が新型コロナをまき散らしたと解釈するアメリカ人が、モンゴロイドを攻撃するものであったが、最近では、インド人もアジア人としての差別を受けることがあると言う。

 バイデンが高齢であるため、ハリスが大統領になる可能性が高いと観ているアメリカ人は少なからずいる。カマラ・ハリスは、今の時点でも、ガンジー夫人に次ぐ世界に名を馳せるインド人、インド系と言えよう。カマラの母親がそうだったように、本国インドでは、高いカースト出身の高い教育を受けた女性は、政界、官界、ビジネス界で活躍している。それは、日本の比ではない。

 にもかかわらず、世界のジェンダーギャップ順位は、日本が120位と低いのは有名だが、インドは140位とさらに低いのである。ちなみに、トップはアイスランドで、いつもの如く北欧諸国が続き、アメリカが30位である。韓国102位、中国107位で、日本はこの2国にも負けている。では、トップで活躍しているインド女性が多いのに、なぜジェンダーギャップの順位が低いのであろうか。

 言うまでもない。インドが近年目覚ましい発展を遂げた中で、何ら恩恵にあずからない階層があまりにも多いからだ。それは低カーストであり、イスラム教徒であり、その女性は、教育どころか、栄養も医療も満足受けられないままに育つ。女性の社会進出とは無縁である。アメリカや日本の経済階層二極化とは比較にならない、トップのいる山があれば、その裾野はあまりにも広く、人間の生活をしていないのがインドの真実である。

 夫が死ねば妻は生きたまま火葬されるサティは百年以上前にイギリスによって禁じられたが、幼児婚の風習については、現在禁じられているにもかかわらず、無くなってはいない。筆者がインドで会ったサーバントの女性は、結婚して初めて初潮をみたと言っていたが、その若さで結婚させられていた。その頃、オイルマネーを持った中東の男性がインドのまだ幼い娘を花嫁としてもらい受けにやってきていた。人身売買そのものだ。インドなら花嫁側がダウリという持参金を出さねばならぬが、アラブ人は逆に花嫁側に大金を渡すのである。

 インドでガンジーストリートと呼ばれるところは売春宿があると言われる。ある日本人男性の話では、子供の頃に誘拐されたり、親に売られた少女たちが働いているが、その身体はあまりに未発達で、不潔でもあり、衝撃を受けたとのことだった。日本だって、戦前、東北地方の冷害のときに農家の娘が苦界に売りに出されたが、警察が見出して保護した娘たちは、大根をかじって生きてきた幼さの残る女の子であった。現代では忘れ去られた記憶だ。インドでこういう社会層が今も放置されている限り、ジェンダーギャップの議論など何の意味もなかろう。

 モディ首相は、役人に上前をはじかれないよう、給付が貧困層に直接届くよう、給付のデジタル化を進めた。身分証を持たない人があまりにも多い中、デジタル証明を新たに作り銀行口座を設けるなどして、給付が確実に届く工夫をしている。また、クリーン・インド政策で、トイレを持たない家に直接トイレ設置補助が渡るようにしている。しかし、現実には、あの手この手で役人の賄賂にかすめ取られたり、不可触民には現場の判断でトイレ補助を与えなかったりと、何百年何千年の慣習をたやすく打ち破ることにはなっていない。

 一つ心配なのは、ヒンズー至上主義のモディ首相は、イスラム教徒への救済措置に力を入れないことだ。イスラムのコミューニティはヒンズーに比べて、貧しく、すべての社会指標において劣っている。筆者は、後藤絵美東京外大助教から、「コーランには、男女が基本的に平等だと書かれている。しかし、相続においては男は女の二倍などの差別も一部ある。今、ジェンダーの観点からコーランの解釈をし直そうとの動きがある」と教わった。しかし、インドのイスラム・コミューニティは、未だに一番識字率が低く、コーランを読んでいる人は先ずいないし、男女差別の慣習を是として受け入れる傾向がある。

 不可触民とイスラム教徒。取り残された集団の女性に光を当てねば、経済大国インドの恥になりかねない。

 

 

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QUAD インド篇 (13) 多様性を捨てるインド

2021-11-06 10:36:35 | 社会問題

 COP26で、インドのモディ首相は、インドのカーボンニュートラルの目標を先進国の主張する2050年ではなく70年を宣言した。中国はもとから60年を目標としているから、いわゆる新興の経済大国は、環境問題においては開発途上国であることを世界に認めさせようとしている。2030年には、GDPは中国一位、米国二位、インド三位になることが予想され、炭素排出量もこのビッグスリーだ。

 確かに、いわゆる先進国は、経済発展の過程で炭素を出しっぱなしで今日の地位を築いた。これから追いつき追い越せの国々に、「お山の大将俺一人、あとからくる者突き落せ」はない、という理屈は成り立つ。核兵器についても、核不拡散条約において、連合国の既得権は認め、新規参入を認めないのは理屈として成り立たない。インドは、これに噛みついて、条約に参加せず、対テロ協力と交換に、事実上アメリカに核保有国の地位を認めさせた経緯がある。インド外交は剛腕である。

 しかし、インドは、ネルー首相以来、非同盟、全方位外交を表明してきた歴史があり、南西アジアでは覇権国であっても、人口規模、経済規模に見合う「世界のインド」になりきれないし、多くの国を率いる勢力になりえない。対して、中国は2015年に打ち出した「一帯一路」政策で、中東、欧州、アフリカから東アジアに及ぶ「世界外交」を始めた。その経済力を背景に、覇権国家として乗り出したことは明らかである。パキスタンはもとより、ネパール、スリランカなどインドの影響下にある国々ですら中国との外交を重視しだした。

 ライバル中国に先を越されたインドは内心おだやかではない。中国が設立したAIIB(アジアインフラ投資銀行)や地域の多国間協力組織である上海協力機構に参加しつつも、中国を利することには乗らない。インドの鄧小平と言われる改革派、モディ首相は経済政策、クリーンインド政策(便所の普及等)などで、長年ネルー・ガンジー王朝(国民会議派)によって行われてきた社会主義的政策の残滓を払拭しようとしている。外交については、いまのところ、首脳外交で世界を飛び回ることには積極的だが、国民会議派のくびきから外れていない。QUADについても、安全保障同盟ではないことを表明し、中国を刺激しないように努めている。

 しかし、野心家モディ首相はこのままインドの伝統的外交を引きずっていくだろうか。モディ首相は、COP26において、ヒンズー語で演説をした。インドの首相が国際会議で英語を使わないのは稀有である。無論、英語ができないからではない。ヒンズー至上主義を標榜するインド人民党の党首として、「ヒンズー教徒のヒンズー語による」演説をしたかったからだ。ヒンズー・ナショナリズムを訴えたかったからだ。モディ首相は、インドの国会でもヒンズー語で演説し、議論する。これに対抗する側もヒンズー語で行うしかない。

 国民会議派のラフール・ガンジー議員(ラジーブ・ガンジーの息子)はモディ首相と激しいやり取りを展開しているが、モディ首相はインド人の中でもさらに議論上手のインド人であり、叶わない。グジュラート州首相として経済政策を成功させ、19年の総選挙では、圧倒的勝利をしたインド人民党の党首モディに、ひこばえ政治家のラフールは完全に負けていて、もうネルー・ガンジー王朝の復活はないのではないかと思われる。ラフールは激しい議論バトルの後、席を移動してモディ首相に挨拶に行き、ハグまでして見せた。目上に対する敬意は、敵対していても表されるインドらしい所作と思った。

 モディ首相がカーボンニュートラルの目標を引き伸ばすのには、インドの現実がある。生産活動の推進のためは当然だが、インドの都市を見れば、その公害を解決するのに大きな転換と政策を必要とし、やすやすと「炭素を減らしてみせます」などとは言えないのだ。筆者はここ十年インドに赴いていないが、事情が変わらないとすれば、人体に感ずる公害は甚だしいものがある。ユニセフ時代、初めてコルカタ(昔のカルカッタ)に行ったときは、一日で鼻毛が生え、鼻の穴が真っ黒になったのを思い出す。この現実を見て、公害対策もままならぬのに脱炭素だけを先行することはできまいと思う。PM2.5に苦しむ中国も同じではないかと思う。先進国は、先ず公害対策、のちに気候温暖化対策に移ってきたではないか。

 ヒンズー至上主義と言うと、欧州の移民排斥の右翼政党や、アメリカ第一主義のトランプ大統領を思い浮かべるかもしれない。しかし、もう伸びしろの小さくなった欧州や、かつての成功物語を象徴するアメリカのラストベルトの復活とは、インドは全く異なる局面にある。まさに経済大国として躍り出ようとしているときに、多様性を標榜してきたそのことが「眠れる象」を作ってきたのだと認識したのだ。イスラム国家ムガール帝国でも、ヒンズー教徒は若干の税を課せられたが、宗教は認められてきた。マハトマ・ガンジーはヒンズー・イスラムの融和を説いた。ネルー以降の国民会議派は、シェジュールカースト、つまり不可触民対策に専念してきた。インドの8割を占める普通のヒンズー教徒は多数派であるがゆえに国家によって後押しされたためしがない。

 モディ首相は「普通の国」を目指しているように思われる。メインの人種、メインの文化を始めて主張する。先進国は、アメリカのWASPのように既にメインが後退し、イスパニア系にメインの座を奪われる日も近い。LGBTQは多様性の象徴で、先進国はこれから多様化していく。インドは、逆に多様性社会で失ってきたものを新たにメイン文化を主張することによって取り戻そうとしているのだ。それは、これまで後進国と見られてきたインドが現存の先進国に取って代わる手段ともいえる。

 次の課題は、中国のように、世界の覇権国家を目指す方針が建てられるかだ。モディ首相は経済政策においては期待され、有能であるが、海外経験はなく、もしかしたら、次の首相の役割かもしれない。

 

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