譲二が丙午チーム長に再び呼び出されて幸老省に出向いたのは組閣の前日であった。幸老大臣は森樹里が内定し、翌日認証式が行われることになっている。丙午チーム長の部屋は綺麗に片づけられ、星林の肖像画も無くなっていた。チーム長は、心もとない様子で、譲二にソファを勧めた。譲二は、いつもと様子の異なる雰囲気を察した。
「あのね、大井さん。今日お呼びしたのは他でもないのですが、私は、明日付で退職し、あなたが私の後任に決まったので、本日、内示をいたします」。譲二は仰天である。チーム長は青ざめた顔をして、淡々と語った。「森大臣は既にご自身の人事案をお持ちで、大井譲二さん、あなたを丙午チーム長に任命することとなったのです」「でも、私は、老人枠の非常勤リモート職員ですから、資格はありません」「資格は必要ありません。任命権者は大臣ですから、大臣の意向であればそれが人事になります」。
譲二の胸の内には森樹里の姿がよぎったが、それはチーム長に話す必要のないことだと考えた。チーム長は、急にぽろぽろと涙をこぼしながら、話し始めた。子豚の泣き顔はいじらしさと醜さの入り混じったものだった。「私は、今日まで星林に賭けてきたのに、水泡に帰した。それというのも、あの大武の裏切りのせいなんですよ」
「大武頼縁さんが何を?」「大井さんは新聞もテレビもご覧にならないのですか。例のX公園監視カメラ爆破事件の首謀者で捕まったのですよ」「大武さんが?」。大武は確かに金石の事務局長だと譲二に打ち明けはしたが、金石は大武を信用していない事実も譲二は知っているのだ。「それは変ですね、大武さんは能吏で、彼こそがチーム長を継ぐべき人材ではないのですか。チーム長もご自分の右腕のように信頼していたではないですか。ということは大武さんは星林派だったのではありませんか」
「ところが、X公園に隣接した高級花屋の事務室に彼は出入りしていて、そこで監視カメラ爆破に使われた火炎瓶と同じものが見つかり押収されたのです」「ふ~ん」。譲二は、金石との会話から大武が金石の参謀を装った星林側のスパイであると確信していた。金石のイニシャルであるGSが刻まれたブレスレットが監視カメラの近くにわざとらしく残されていたのは、まさに金石を犯罪者に仕組む策略だったに違いない。もしかすると、爆破そのものにも金石は関与していないかもしれないと譲二は悟った。
「では、大武さんは今留置場に勾留されているのですか」「被疑者として勾留されている。しかし、彼は、起訴されても何も喋らないだろう」「なぜです、あなたの忠実な部下であり、もしかしたら、彼のやったことはアンチ星林を潰すための仕業かもしれませんよ」「ほう、大井さんは推理探偵ですか。そうであってもそうでなくても、彼は私のやってきたことを知りすぎていて危険なのです。だから、逮捕される前に、あなたの受けたバーチャル拷問を受けさせ、最後の火あぶりで記憶を蒸発させました」。
「じゃあ、あなたのやってきた公にできないこととは何なのです。もし、私があなたの後任となるなら、その事務引継ぎが必要です」「一言で言えば、コロナ前に明るみに出た公文書改竄ですよ。統計をいじくって星林さんの政策に都合の良い数字を作ったり、許認可も星林さんに都合よかれと忖度して決定した。これをやっているのは私だけではない、役人の常套手段と思ってください。あなたも、いずれやらざるを得ない時が来ます」。
丙午チーム長は星林政治に期待をかけて役人の頂点を目指そうとしたが、部下の不祥事で責任を取らざるを得ないことになったというわけである。彼はようやく涙を拭いて、譲二に向かって言った。「丙午まであと二年。年に70万の子供しか生まれなくなった日本を変えてください」。
譲二が丙午チーム長の部屋を出ると、数十人の職員が外に並んで譲二に頭を下げた。彼らは明日から譲二の部下になるのだ。「会社の部次長で終わった俺が、75歳で霞が関の指定職になった。ならば本気で人口政策をやろう」。譲二は道々人口増加の政策を考えながら、ポケットの中のブレスレットを何度も握りしめた。「図らずもピッグが大武の記憶を蒸発させてしまったから、監視カメラ爆破事件の真相は語られず迷宮入りするだろう。大武がわざと落としたに違いないブレスレットも悪用されることはない」
譲二は、コンビニで買い物して帰宅すると、すぐに古い背広をいくつかクローゼットから出した。「明日、森樹里大臣から丙午チーム長に任命されるのだから、背広にネクタイでなければならないだろう」。どの背広も着古してよれよれだ。ネクタイに至っては、安物臭いのが明らかである。「仕方ないよな、こんな人生設計してこなかったのだから」
コンビニで買った新聞の一面の見出しには、星政権の船出は強国日本の始まりとあった。中のページには、男女共同不参画法の成立で日本もいよいよジェンダーギャップ後進国から脱出すると書かれていた。また、申し訳程度の小さな記事として、「監視カメラ爆破事件は、星林政権への批判分子の幼稚な手口であり、軽症者数名出たが、影響は少ない」と「被疑者大武頼縁は完全黙秘しているが、精神鑑定が必要と判断されている」が載っていた。
「かわいそうに、大武氏はピッグに消されてしまった。同時に彼が本当に星林のスパイだったのかどうかも分からなくなってしまった。歴史ってこういうものなのだろうな。真実を知る死人や狂人は、実際には口が無いのと同じだ。太平洋戦争だって、東条独りに罪が着せられた。GHQにつかまる前に自殺した近衛文麿や狂人となったA級戦犯大川周明は真実を語らなかったことになる」
翌日、認証式から帰って職務に着いた森樹里大臣から、譲二は辞令交付を受けた。