大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

2024年 Twenty Twenty-Four (35) 任命

2021-05-26 21:48:49 | 社会問題

 譲二が丙午チーム長に再び呼び出されて幸老省に出向いたのは組閣の前日であった。幸老大臣は森樹里が内定し、翌日認証式が行われることになっている。丙午チーム長の部屋は綺麗に片づけられ、星林の肖像画も無くなっていた。チーム長は、心もとない様子で、譲二にソファを勧めた。譲二は、いつもと様子の異なる雰囲気を察した。

 「あのね、大井さん。今日お呼びしたのは他でもないのですが、私は、明日付で退職し、あなたが私の後任に決まったので、本日、内示をいたします」。譲二は仰天である。チーム長は青ざめた顔をして、淡々と語った。「森大臣は既にご自身の人事案をお持ちで、大井譲二さん、あなたを丙午チーム長に任命することとなったのです」「でも、私は、老人枠の非常勤リモート職員ですから、資格はありません」「資格は必要ありません。任命権者は大臣ですから、大臣の意向であればそれが人事になります」。

 譲二の胸の内には森樹里の姿がよぎったが、それはチーム長に話す必要のないことだと考えた。チーム長は、急にぽろぽろと涙をこぼしながら、話し始めた。子豚の泣き顔はいじらしさと醜さの入り混じったものだった。「私は、今日まで星林に賭けてきたのに、水泡に帰した。それというのも、あの大武の裏切りのせいなんですよ」

 「大武頼縁さんが何を?」「大井さんは新聞もテレビもご覧にならないのですか。例のX公園監視カメラ爆破事件の首謀者で捕まったのですよ」「大武さんが?」。大武は確かに金石の事務局長だと譲二に打ち明けはしたが、金石は大武を信用していない事実も譲二は知っているのだ。「それは変ですね、大武さんは能吏で、彼こそがチーム長を継ぐべき人材ではないのですか。チーム長もご自分の右腕のように信頼していたではないですか。ということは大武さんは星林派だったのではありませんか」

 「ところが、X公園に隣接した高級花屋の事務室に彼は出入りしていて、そこで監視カメラ爆破に使われた火炎瓶と同じものが見つかり押収されたのです」「ふ~ん」。譲二は、金石との会話から大武が金石の参謀を装った星林側のスパイであると確信していた。金石のイニシャルであるGSが刻まれたブレスレットが監視カメラの近くにわざとらしく残されていたのは、まさに金石を犯罪者に仕組む策略だったに違いない。もしかすると、爆破そのものにも金石は関与していないかもしれないと譲二は悟った。

 「では、大武さんは今留置場に勾留されているのですか」「被疑者として勾留されている。しかし、彼は、起訴されても何も喋らないだろう」「なぜです、あなたの忠実な部下であり、もしかしたら、彼のやったことはアンチ星林を潰すための仕業かもしれませんよ」「ほう、大井さんは推理探偵ですか。そうであってもそうでなくても、彼は私のやってきたことを知りすぎていて危険なのです。だから、逮捕される前に、あなたの受けたバーチャル拷問を受けさせ、最後の火あぶりで記憶を蒸発させました」。

 「じゃあ、あなたのやってきた公にできないこととは何なのです。もし、私があなたの後任となるなら、その事務引継ぎが必要です」「一言で言えば、コロナ前に明るみに出た公文書改竄ですよ。統計をいじくって星林さんの政策に都合の良い数字を作ったり、許認可も星林さんに都合よかれと忖度して決定した。これをやっているのは私だけではない、役人の常套手段と思ってください。あなたも、いずれやらざるを得ない時が来ます」。

 丙午チーム長は星林政治に期待をかけて役人の頂点を目指そうとしたが、部下の不祥事で責任を取らざるを得ないことになったというわけである。彼はようやく涙を拭いて、譲二に向かって言った。「丙午まであと二年。年に70万の子供しか生まれなくなった日本を変えてください」。

 譲二が丙午チーム長の部屋を出ると、数十人の職員が外に並んで譲二に頭を下げた。彼らは明日から譲二の部下になるのだ。「会社の部次長で終わった俺が、75歳で霞が関の指定職になった。ならば本気で人口政策をやろう」。譲二は道々人口増加の政策を考えながら、ポケットの中のブレスレットを何度も握りしめた。「図らずもピッグが大武の記憶を蒸発させてしまったから、監視カメラ爆破事件の真相は語られず迷宮入りするだろう。大武がわざと落としたに違いないブレスレットも悪用されることはない」

 譲二は、コンビニで買い物して帰宅すると、すぐに古い背広をいくつかクローゼットから出した。「明日、森樹里大臣から丙午チーム長に任命されるのだから、背広にネクタイでなければならないだろう」。どの背広も着古してよれよれだ。ネクタイに至っては、安物臭いのが明らかである。「仕方ないよな、こんな人生設計してこなかったのだから」

 コンビニで買った新聞の一面の見出しには、星政権の船出は強国日本の始まりとあった。中のページには、男女共同不参画法の成立で日本もいよいよジェンダーギャップ後進国から脱出すると書かれていた。また、申し訳程度の小さな記事として、「監視カメラ爆破事件は、星林政権への批判分子の幼稚な手口であり、軽症者数名出たが、影響は少ない」と「被疑者大武頼縁は完全黙秘しているが、精神鑑定が必要と判断されている」が載っていた。

 「かわいそうに、大武氏はピッグに消されてしまった。同時に彼が本当に星林のスパイだったのかどうかも分からなくなってしまった。歴史ってこういうものなのだろうな。真実を知る死人や狂人は、実際には口が無いのと同じだ。太平洋戦争だって、東条独りに罪が着せられた。GHQにつかまる前に自殺した近衛文麿や狂人となったA級戦犯大川周明は真実を語らなかったことになる」

 翌日、認証式から帰って職務に着いた森樹里大臣から、譲二は辞令交付を受けた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年 Twenty Twenty-Four (34) 不条理

2021-05-19 22:55:26 | 社会問題

 譲二は、警察と救急車が来るのを待つ間、倒れたけが人に声をかけ、状態を確かめて歩いた。いずれも軽症のようだ。血を流していても、ガラス片で切ったような傷だ。確かに、監視カメラのある柱からカメラが砕け落ちていたものの、カメラそのものは重たいものではなく、直撃を受けても大事には至らないということを悟った。

 それよりも、譲二が驚いたのは、監視カメラの柱という柱に仕掛けられたのは、火炎瓶のような簡単な爆発物であり、そのガラス片が壊れたカメラとともに飛び散っていた。譲二は心で思った。「これは、かつて俺たちが全共闘運動でやった手口とさして変わらないシンプルすぎる凶器だ」。しかし、公園前道路に沿って何十とある監視カメラが一度に爆破されたのは、多くの仕掛け人が動員されたに違いなかった。

 一つの監視カメラの柱の下に、飴色の念珠のブレスレットが落ちていた。よく田舎の男がするような代物だ。拾い上げると、念珠の玉の一つに「GS」と刻まれている。「GS? ゴールドストーンだ。金石さんの仕業ではないか。何でこんな証拠物を落としたりするのだ」。譲二は、素早くそのブレスレットをポケットに入れた。背後からけたたましいパトカーのサイレンが聞こえてきた。

 パトカーが拡声器で叫ぶ。「一般の方は監視カメラから離れてください。けが人の救助隊以外の方々は現場に立ち入らないでください」。パトカーから降りてきた警察官が譲二に近づいてきた。「もしかして、110番通報した方ですか」「そうです。大井譲二です」「爆発があった時、何をしていたのですか」「X公園で、話をしていて・・・」。譲二が後ろを振り返るといつの間にか樹里の姿は消えていた。「いや、独りで腰かけていたら、爆発音が聞こえまして」。

 譲二は住所と名前を告げて、その場を立ち去った。ポケットに手を突っ込むと、金石のブレスレットに触った。「俺は、立派に証拠隠滅したのだ。これは犯罪だ。パトカーが来るほんの直前で、誰にも分らないはずだ」。譲二は息をついて、パトカーの方を振り返った。「金石さんのためになったと思うと嬉しい」。金石は、星林の不条理な政治をテロで反撃しようとしている。テロは地下鉄サリン事件のように、極めて反社会的な行為には違いないが、金石が仕掛けたテロは、譲二が学生時代に使った火炎瓶や角棒程度のものであった。「あの人にそれ以上のことはできっこない。ショパンやリストを奏でる人なのだから」。

 譲二がX公園の円形広場に戻ってみると、先ほどのベンチに、なんと樹里が座っていた。樹里は冷えたコーヒーを飲んでいた。譲二のコーヒーもベンチに置かれたままで、樹里のサングラスの奥の目の合図で、譲二も腰を下ろし冷えたコーヒーを口に入れた。「冷めてもうまいコーヒーというのは珍しい」「大井さん、コーヒーよりもあなたご自身はもっと珍しい方ですね」「え?」「だって、けが人に声をかけたり、110番通報したり。何か修羅場を経験した人のようでした」「経験というほどではないですが、私は学生運動をやっていましたから。ちょうどあんな情景でした。警官隊に追いかけられて逃げるとき、仲間の石つぶてが当たって、それから、左手の小指の第一関節の感覚が無くなってしまったんです」。

 譲二は樹里と別れて家路についた。両手をポケットに突っ込むと、ふと古い歌が思い浮かんだ。「右のポッケにゃ夢がある、左のポッケにゃチューインガム」美空ひばりの東京キッドだ。譲二の右のポッケにはブレスレットがあり、これは金石の夢。左のポッケは譲二の感覚を失った左手小指が味のないチューインガムのような思い出をもたらす。

 「あの時も、全共闘運動なんてチューインガムみたいなものと思っていたな。噛んでも噛んでも、何の味もしない。本当は夢を探していた。でも、何が夢なのか分らなかった。右のポッケに自由という夢があったのに、金石さんに言われるまで気が付かなかった」。そう呟きながら、「ハハハ、俺はなんて青臭いこと言ってんだ」と自嘲の笑いを浮かべた。

 譲二たちの運動は、毛沢東の造反有理から次第に「不条理」へと移り変わった。不条理哲学を著したカミュの「異邦人」やサルトルの「嘔吐」は、当時の大学生の間で流行した。譲二は、「異邦人」の中で、「太陽が焼け付くように熱いからアラブ人を殺してしまった」という行に恐れおののいた。自分にも不条理が頭を駆け巡って、とんでもないことを無意識にしてしまうのではないかと考えた。「不条理という悪魔に捕らわれないうちに、俺は普通の人間になろう」。ヘルメットも角棒も捨て、普通のサラリーマンになったのは、不条理から逃げたかったからなのだ。

 譲二の世代が感動した「中国の赤い星」の著者エドガー・スノウは、極端に共産党と毛沢東を称賛し、実存哲学者サルトルは極端に左傾化したが、時代が下ると、評価は暴落した。哲学も思想も永遠の価値は保障されないのだ。したがって、譲二らの学生運動は歴史的に見れば一過性の熱に浮かされた「青年の反抗」でしかなくなった。

 「年取らねば分らないことってある。戦場に行かされた父の世代にかなわないと思い、背伸びをしてみたが、真の修羅場は経験せず、甘ったるい人生を送ってきたにすぎない。余命いくばくかの俺にとっても、若者にとっても、今生まれた赤ちゃんにとっても、何が大切かと言えば、自由だ。星林が抑え込もうとしている自由を金石が解き放とうとしている」

 譲二が家に置いてきた携帯には、案の定、丙午チームからの着信履歴が入っていた。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年 Twenty Twenty-Four (33) 爆発音

2021-05-13 23:09:21 | 社会問題

 金石の弾くリストのリーベトスロイメは情緒よりも流れを強調した速いテンポであった。あたかも金石が「日本に新たな流れが始まっている、遅からずひるまず」と語りかけているような音色である。曲に打ち込む金石を見て、譲二は静かにその場を去った。もっと多くを語りたい心情であったが、真剣に曲にのめりこむ金石を邪魔したくはなかった。再びここに戻ってきても金石に会うことはできないであろう。彼は瞬時に仕事を変え、「自由」を取り戻す政治活動の場に神出鬼没する日々を送るであろうから。

 「そうか・・・最高の価値は自由か」。譲二は難しいことを頬笑みながら話す金石の横顔を思い出し、妙に納得した。「確かに、自由主義と民主主義は一緒である必要はない。自由は全ての人の希望だ。しかし、民主的というときの民主主義は他人を理解する哲学だが、多くの場合は、民主主義は政治的意味が強い。つまり、多数決で決める、そして多数決で決められた体制を意味するのだ」。譲二の長年の疑問が解けたような気がした。「俺が若き日に全共闘運動に参加したのは、自由が欲しかったからに他ならぬ。愛より憎しみの方が深い家庭からの自由、実は出来レースで成り立っている似非民主主義の社会システムからの自由。俺は当時、自分で定義はできなかったが、今そのことが明確にわかったのだ」。

 バーチャル拷問で苦しみの中から絞り出すように出てきた言葉は「俺を自由にしてくれ」だったのだ。そう思い至って、譲二は探しあぐねた宝物を見つけたかの如く、心が躍る自分を感じた。同時に、譲二は、「俺は自らゲイと語る金石さんに欲望は感じない。政治思想に賛同するだけだ。つまり、俺はゲイではない」と確信し、金石と話した副産物に喜んだ。「じゃあ、森樹里さんはどうなのだろう。ほんのちょっとだけ星林に負けたと思った悔しさは感じたが、今は何とも思わない。つまり、俺は俺様らしく、やはり女性に惹かれないことも事実だ。恋心はない」。バーチャル拷問の最中、心配そうな面持ちを譲二に向けたと思われた姿はこの二人だった。

 譲二はその足でコンビニに寄り、新聞と昼飯の弁当を買った。新聞には既に森樹里が幸老大臣候補となっていることが大見出しで書かれていた。「明日だったよな、次の約束は。しかし、こうなっては、さすがの彼女も来れまい」。譲二はやや落胆したが、翌日、ダメ元と思いつつ、X公園に向かった。まもなく連休に入ろうとする春真っ盛りの公園の噴水は煌めく水しぶきを勢いよく上げていた。そこに、黒装束のサングラスをかけた女性が立っていた。紛れもなく森樹里であった。

 「森さん、大変な時期に私がごときとの約束を覚えていてくださって・・・」。譲二は、樹里が既に大臣に任命されたかのように深々と頭を下げた。樹里は大きなサングラスで半分隠れた顔に笑みを浮かべた。「ここでお会いするのも、コーヒーを飲むのも今日が最後かもしれませんが、これからは、幸老省の会議室で堂々議論しましょう」「いえ、それはいけません。これからは、一流の学者や企業や団体の長とご意見を戦わせてください」「果たして、今日まで一流の人々が内閣の補佐や助言をしてきたでしょうか。政治の世界は、古今東西を問わず、権力者が自分に都合の良い意見をつまみ食いしてきました。権力者は助言者を好き嫌いで選んできました。だから、世で言うエライ人に取り囲まれて仕事をしようとは思いません。どうせ、私が女性で50歳で、三流大卒で、職歴が浅いという経歴を見て、見下す人が多いはずですから、そんな取り巻きはいらないのですよ」。

 樹里はいつものように譲二の先を歩き、円形広場のベンチに座って、ポットのコーヒーを二つの紙コップに入れた。「政権の中枢にある人とこんなに近くでコーヒーを飲むなんてことは、私の人生では考えられませんでした」「星林も私も普通の人間か、あるいは普通以下と言ってもいいでしょう。どうか委縮しないでください。日本人は江戸時代の身分制社会を引きずっているのですね。お上はエライ、上に行けば行くほどエライと感じるのですね。あるいは、薩長の藩閥政治では、下級武士の成り上がり者が偉く見せるために爵位などをもらって、ふんぞり返る癖ができたからでしょう」「そうは言っても現実に権力者が国の方向を決めるのですから、エライでしょう」「その実は世襲のひこばえ政治家と学問をおろそかにする車夫馬蹄の政治家が現在ほとんどです。私の世代は、団塊世代みたいに事大主義者ではありませんから、有象無象の政治の世界は恐れませんね」

 譲二は、興奮していたためか、熱いコーヒーを一気に飲み込み、舌と喉を傷めた。「おお、あちち。あの、森さん、私は、女性のことは女性が決めるという男女共同不参加法も賛成だし、星林首相の消費不況からの脱却も良しとしましょう。しかし、コロナに名を借りた監視社会については、何とか首相に思いとどまってほしいと思うのです。中でも、思想病の蒸発療法の推進は、ナチスやソ連を連想させます」「星林は、私に社会政策に専念してほしい、外交、防衛、警察については物申すなと言います」

 その時だった。円形広場の向こう側で、爆発音が聞こえた。パン、パン、パンという連発の轟くような音だ。譲二は、ベンチから立ち上がり、爆音のする方へ走って行こうとした。「森さんは、ここにいてください、危ないですから」。樹里は答えた。「私は、単なる女ではありません。これから大臣になろうとする者です。一緒に行きましょう」。二人が円形広場を抜け、X公園の入り口付近まで走り寄ると、公園外の道路に沿って並んでいた監視カメラが何十台も吹き飛ばされ、道路に転がっていた。

 「けが人はいないか」譲二は大声で叫んだ。路上に数人の人が転がっているのを見て、譲二はすぐさま110番通報をした。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年 Twenty Twenty-Four (32) 奏でられる自由

2021-05-06 22:15:37 | 社会問題

 譲二は、ショパンの華麗なる大円舞曲に惹かれて、ヤマハ音楽教室のガラスの自動ドアから中に足を踏み入れた。早朝、生徒はいないが、先生らしい人が独り曲を奏でていた。「まさか、金石さんでは・・・」。軽やかに、通常より早すぎると思われるテンポで演奏しているのは、紛れもなく金石の姿であった。最初はコンビニで、次には星林の街宣車で出会った金石だが、その姿の美しさを譲二は心に焼き付けていた。かつてのアラン・ドロンのような横顔にあるえくぼが爽やかな笑みを漂わせていた。金石は弾き終わるまで、譲二が傍に佇んでいるのを気付いていない様子であった。

 「あ、あなたは先日、街宣車の前でお会いした方ですね」。金石はピアノから立ち上がって、譲二に笑顔を見せた。「ごめんなさい、勝手に入って聞いてしまって。正直に、あまりに清々しい演奏なので、盗み聞きしてしまいました」「クラシックがお好きなのですか」「素養はありませんが、金石さんの弾き方は、素人でもクラシックを愛でることのできる弾き方だと思うのです」「おや。私の名前をご存じで?」「はい。私の職場にいる大武頼縁という人からお聞きしました」「ははは」「なぜお笑いになるのです?」「分別あるお方に申し上げることではありませんが、彼は危ないですからご用心を」

 「国家社会主義者であり、思想統一と国民監視の社会を作ろうとする星林に対抗する金石さん。大武さんはあなたの地下組織の事務局長だと言っていました。だから、私は、何とかあなたにお会いして応援しようと思っていた矢先、偶然にもあなたの奏でる曲に惹かれるようにして、お会いすることができたのです」「もし地下組織などというものがあるならば、事務局長たるものが口外するでしょうか。彼は情報操作のために星林に使われている人物です。しかし、私は、あなたの言われるように、星林に対抗する活動をしていることは事実です」「あるときはコンビニのアルバイト、あるときは星林の選挙ボランティア、ある時は音楽教室の講師・・・多彩ですね」

 「多彩?あなたは好意的な言葉を使われますね。私は、自分の姿を現したくないので、しょっちゅう仕事を変えているのです。でも、本職はピアニストです。コロナで分かったことは、損か得かの判断しかしない近視眼的政治家はもういらない、法科万能主義で忖度人間に堕した官僚はもういらない、未来予測のできないエコノミストはもういらない、感染症を生活習慣病の下に置いた医学者ももういらない、既成概念は全て価値が下がりました。これからの世の中を創るのは、星林のような宗教学を学んだ者か、私のような音楽家でなければなりません。人間の感性を本当に知っているのは我々だからです」

 「宗教と音学とどちらが世の中を引っ張っていくのでしょう?」「宗教は価値を集約して人の心を縛り、音楽は様々の価値を散りばめ人の心を自由にさせます。多くの人は実は縛られることを喜びますが、それは自由を恐れるからです。自由を謳歌できない社会に慣れすぎてしまったからです。しかし、音楽は、自由に生きることを教え、人に鳥になることを教え、鳥瞰で世界を見れば、いかに政治と社会が間違っていたかが分かります。コロナで閉塞された日常生活の中で歴史の俯瞰も、世界の俯瞰も人々は忘れ、目の前の敵と戦うことだけが習い性になってしまいました。90年代に始まった失われた時代はコロナで決定的になったのです。もう日本は問題先送りの習慣を止めねばなりません」

 譲二は心を打たれた。「それこそが全共闘運動をやっていたころの私の知りたかった理屈です。明治大正の富国強兵の価値観を身に着けた親と、訳もわからぬアメリカ産のデモクラシー教育を施した学校のダブルスタンダードで生きてきた我々世代は、結局鳥の目を持つことはできなかった。国を富ます能力も強い企業戦士になることもできずに親からは蔑まれ、学校では多数派のいい子に入れず民主主義の落第生となり、親とアメリカを憎むときもあったが、最終的には両方の価値観を不消化のまま押し頂いて生きてきたのです。全共闘運動は、戦後世代の単なる青年の反抗期として終わったのです」「そうでしょうね。占領政策で、高等学校ナンバースクールを廃止し、帝大の専門課程三年を二年に短縮した結果、団塊世代には教養主義が欠けていた。受験勉強だけをやった人間が真の理屈にたどり着くことは稀ですよ。日米同盟を良しとしても、教育政策を壊されて貧困な教育を続けている日本は哀れです」。

 「金石さん。どうぞ私を使ってください。私の心の中で若い頃の思いが沸き上がってきました」「星林さんを応援していたのではないのですか」「ええ。私は、独身で生きてきた星林という男に同胞意識を持ったのです。独身で生きる男の心が分かる人間ではないかと。しかし、彼の政策は玉石混交で、コロナの名を借りた監視体制と思想犯の蒸発療法は許せません。私は、団塊世代で、デモクラシーの申し子と言われて若き日を過ごしました。その私は星林の政策は受け入れられません。今はもう応援する気はないのです」

 「しかし、私は、あなたの言うデモクラシー、日本語で民主主義には懐疑的です。ギリシアやローマの都市国家の民主主義も、議会制を発達させたイギリスの民主主義も、アメリカ独立戦争の時の民主主義も、いずれも一定の身分の者が作り出したものと思います。奴隷、異民族、異教徒、黒人、女性が民主主義の名のもとに排除されていた歴史は長い。現在も、民主主義の手段として絶対視されている多数決で決める方式が衆愚政治を生んでいる。だから、民主主義という価値は私は信奉しません」「では、金石さんにとって、最高の価値は?」「自由です。自由と民主主義を結びつける必要はありません」

 譲二は、戦後デモクラシー、民主主義という価値がすべての価値の上に置かれてきたが、その意味は未だに理解していない自分に気付いた。「金石さん、日本は、民主主義だからこそ国民主権を選び、先進国なのではありませんか」「先進国の必然ではないでしょう。イギリスは立憲君主国で、主権は議会における国王です」「民主主義は絶対価値ではないのですね」「自然界を見てください。動物たちは自由は謳歌しますが、民主主義の形態をとった集団はありますまい」

 そう言うと、金石は美しく微笑んでピアノに向かい、リストのリーベストロイメ(愛の夢)を高々とそして速いテンポで弾き始めた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年 Twenty Twenty-Four (31) 真実に迫る

2021-05-01 09:57:18 | 社会問題

 譲二は、大武頼縁と別れ、家に着いてコンビニ弁当を開けた。大武との話が長かったので缶ビールは既にぬるくなっていたが、いつものように、胃に流し込んだ。「ああ、バーチャル拷問の後、いつものこの瞬間が至福の時に思える。独身で生きて独りさびしく食事するだと? 世間の人は本当の幸せを知らないのだ。家族という周囲の鏡に映った自分を自分だと思って生き、家族の希望が自分の希望になり、自分を生きることがないのが世間の人間だ。俺は俺様を一貫して生きてきたのだ。一人で死ぬことを孤独死と言うならば、そういう死に方をしたくて、自分を自分独りで終わらせたくて、独身で生きてきた。誰かに救急車など呼んでほしくはない。生命を与えてくれた天の声を聞いて俺は死ぬ」。

 バーチャル拷問とはいえ、譲二にとっては臨死体験に近かった。苦しみの中で頭をよぎった、譲二は死んでもいいと思っていたらしい父のこと、自分を踏みつけにした母や妹や多くの女たちのことが鮮明に脳裏に甦った。「あの体験で、図らずも俺は、真実を知ったのだ。75年も霞がかかっていた真実を晴れて知ったことになる」。全共闘運動に関わったのは、家族や社会の既成概念と戦ったからだ。家族が優しいわけではなく、社会が民主主義の価値を擁しているわけでもなく、譲二の造反有理は、そのことに対する造反であったのだ。そして、法律学を専攻した譲二は、バーチャル拷問の最中に、唯一のこの世の悪は「刑死と戦争」という結論に達した。「他者の理屈で殺されてはならぬ」。

 「そう考えてみると、星林義夫の政治ドクトリンには、戦争放棄の維持や死刑廃止はなかったな。専ら、消費税を止めて消費不況を脱することと、コロナに名を借りた監視社会を作り国民を思想的に団結させることに尽きる。彼がほのめかしているのは、思想犯を死刑に相当する蒸発刑にしてロボトミー人間を作り、領土返還のための戦争を仕掛けるのではあるまいか」。譲二はそう思い至った。大武が最後の火あぶりの刑を中止して、譲二の思想を蒸発させるのを止めたのは、譲二がその真実に迫ることができると判断したからなのだろう。譲二は段々わかってきた。

 「だが、どうも大武は信用できない」。譲二にはそこが心にひっかるところだった。譲二の高校の同級生でも、頭がよく体躯も立派でいわば文武両道の男がいたが、決して華麗な人生を送ったわけではない。目立ちすぎて潰されたのかもしれないし、男の嫉妬の犠牲になったのかもしれない。戦後の歴代総理の中でも、中曽根だけが例外的に、外国の領袖に引けを取らぬ体躯と明晰な頭脳を持っていたが、多くは華奢でアカデミズムとは程遠い。譲二は、警察官僚や防衛官僚を目指す者には「自分は弱い人間だから、強い人間に見える組織に入りたい」という考えが多いと聞いたことがある。

 「大武は信用ならぬ」。コロナ以降、ますます官僚の地盤は沈下し、デジタル監視庁と幸老省だけの省庁再編が行われたときに、まともな役人は自ら辞めていったという。そんな中で大武は自らを文武両道の切れ者と認め、ひそかにアンチ星林の金石をサポートしていると言うが、譲二の第六感では、この男の言うことを丸のみにしてはならないという結論に達していた。「俺は会社でも、あんまり出世しなかったし、人を見分ける能力も持っていなかったが、あのバーチャル拷問は何故か俺に真実に迫る力を与えてくれた。人は死ぬほどの苦しみを味わわなければ、真実に迫ることはできないのかもしれない」。

 そして、譲二の真実とは、現在彼の心を支配しているのが森樹里と金石というあの美青年だということもバーチャル拷問の果てに分かった。樹里は、星林義夫が組閣したら、幸老大臣になるはずだ。しかも、譲二と以後も会話の場を持つもりだと言っていた。ならば、早晩会えるであろう。そのことは星林が大量死刑や戦争に乗り出すかもしれない危ない局面に自分は戦う立場を確保できるということだ。全共闘運動も中途半端、会社人間も中途半端、老後は半ば蟄居生活をしていた自分に最後の役割があるかもしれないと譲二は考えた。「だったら、アンチ星林の金石に会いに行かねばならない」。

 譲二は、大武に連絡して金石の居場所を教えてもらうことには、気が進まなかった。大武を信用できないからだ。樹里に会えば、先日、同じ街宣車に乗っていた金石を紹介してもらえるかもしれないと思った。譲二は、万年床に寝転がり、どっと出てきた疲れで眠りに陥った。夢の中でつらつら考え、ふと妹が言っていたことを思い出した。「譲兄ちゃん、産みの苦しみは拷問よ。子供を産んでから死ぬことは怖くなくなった。男には分らないでしょうね」。妹はいつも、長兄に比べてできの悪い譲二を馬鹿にしていたが、このときも譲二を馬鹿にするついでに言ったことだ。しかし、譲二は心の中でその言葉を真摯に受け止めた。

 「女はすごいな。たいていの女は俺が今日受けたバーチャル拷問のような苦しみを子供を産むときに経験しているのだ。しかし、戦場に送り出され死と対面させられるのはいつも男だった。死刑囚も圧倒的に男だ。女よりも精神的に弱い男が常に修羅場に送られるのだな。男は狂うよ、右往左往するよ。しかし、バーチャル拷問を受けた俺は、もう怖いものはない。子供を産んだ女と同じだ」。譲二は、樹里の主張する男女共同不参画法も、今の自分なら理解できそうだと思った。

 翌朝、窓のカーテンの隙間から差し込む朝日で目覚めた譲二は、身体が軽くなったように覚えた。「さあて、朝の散歩にでも行くか」。よほど眠りこけたらしく、時刻は9時を過ぎていた。譲二は、牛乳とパンだけの朝食を瞬時に済ませ、野暮な格好で外に出た。「今日は新聞でも買うか。組閣がどうなるか情報集めだ」。そう呟いて、角のヤマハ音楽教室の前を通ると、中から、極めて速いテンポの、ショパンの華麗なる大円舞曲が聞こえてきた。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする