日本にとって人口問題とは、ずばり出生率の低迷である。しかし、人口統計が教えるところは、どれだけ生まれるか以上にどれだけ死ぬかも重要である。平均寿命、死因、男女差、地域比較などは多くの人が関心を持ち、その情報は人生に影響を与えている。「平均寿命に届かず死んだ」「人生百年時代」「老衰で大往生」「男は短命」は、日常的に聞かれる言葉だ。
しかし、誰もが百歳まで生きられるわけではなく、それどころか平均寿命が保障されているわけではない。現に年に270万人近くも生まれた団塊の世代に最も近い人々が75歳に達する率は、2021年生命表によれば、男が約76%、女が約88%であり、つまり逆に男の24%、女の12%は既にこの世の人ではないのだ。団塊よりもひと世代近く上の人で、2021年に95歳に達した人の率は、男が約10%、女が約27%である。つくづく女性の寿命の長さを感じるとともに、実は長生きは今でもかなり難しいことがわかる。したがって、「人生百年時代」は極めて間違った情報を与えることになる。
筆者が厚生省社会局老人福祉課に奉職していた1974年ころ、全国の百歳名簿は500人ほどであったが、今や9万人を超えた。驚くべき増加率に思われるが、そこに達するのは今でも極めて運のいい人に限られる。「人生百年時代」の政府のキャンペーンは年金の支給開始を遅らせたり、高齢者の医療費負担を引き上げるための方便ではないかと訝しく思われる。厚労省の研究などから、80歳以上では3人に1人、90歳以上では2人に1人が認知症であるとされている。また、認知症の有病率は75歳になると急激に増加する。だとすれば、人生百年時代は、特に後半において決して幸せとは限らない。百年間青年であり続けるような錯覚を起こす「百年時代」のキャンペーンは罪深いのだ。
死因は、厚労省人口動態統計2021年によれば、ガン26.5%、心疾患14.9%、老衰10.6%、肺炎及び誤嚥性肺炎8.5%、脳血管疾患7.3%の順である。相変わらずがんが一位であるが、ガン患者の5年生存率が上がり、日本人に多い胃がんの手術などは全国どこでもできるようになり、かつてほどガンは恐れられていない。特に高齢者は、ガンの進行が遅いので、あえて手術せずに日常を送っている人もいる。二位の心臓病は欧米に比べ日本は少なく、特に女性は少ない。肺炎は近年、脳血管疾患を越して上位に挙がってきた疾患であるが、コロナ死もこれに入るのであろう。脳血管疾患については、戦前は結核の次に恐れられた「脳溢血」が減少し、後遺症は残るが治療向上の成果は著しい。
死因に現代の国民病とされる糖尿病が入っていないが、糖尿病は心疾患、脳血管疾患、腎臓病の原因を作り、それらの病気を死因とするからであろう。高血圧も同様である。死因の統計には、以上の上位5疾患の次に腎不全と認知症も明確にされている。人は何かの病気を選んで死ななければならないが、ならば「老衰がいい」と考える人は多い。しかし、全体が衰弱して一つの原因ではないから、ひっくるめて老衰と言っているのであって、名誉の死とは言い難い。太平洋戦争における「戦死」は銃撃戦などで死亡したよりもはるかに多くが「餓死」「マラリア死」等によると言われていて、何が名誉の死なのかは、いつの世も不明だ。病気は選べぬ、押し頂くしかない。
平均寿命は、男が81.47歳、女が87.57歳(2021年)。常に女性の方が高いが、最近その差が若干縮まりつつある。生まれるときは女1人に対し男は1.06人生まれるので、男の数が多いが、高齢になればなるほど女性の数が増えることになる。百歳以上は88.1%が女である。男女差については、諸説があり、女性は子供を産むときに出る黄体ホルモンが体を修繕してくれるからだと言う説、男性は女性より危険な状況の中で働く確率が高いとする説など、いずれも正しいと思われる。ただし、よく知られているように、人の手を借りずに生きられる健康寿命は、男72.14年、女74.79年(2016年)であり、男女差はぐんと縮まる。これは、女性は通院率も高く、有病息災の人生を送っているからだと説明される。男性は女性ほど健康に関心を持たないので、早死にするか矍鑠と生きるかの二極化しやすい。その結果、齢の近い夫婦では、夫が妻の介護をしているケースをよく見かける。
男女の違いという意味では、ガンの部位に違いが表れている。男は、肺がんがトップ、女は、大腸がんがトップ。男女ともに胃がんが減り、膵臓がんが増えている。男性の前立腺がん、女性の乳がん等に関し、最近は男女差を考えたジェンダー医療の論文が増えてきている。女性が男性よりも長生きするのは世界的な傾向であるが、生物的差異の研究は、男女別の効率的な健康方法の発見にもつながり、ジェンダー医療の発展は望まれる。そのことは出生率低下の社会的意味ならぬ生物的意味の追求にもつながり、研究の必要性は高い。ただし、長生きを是とするのであれば、幸福感を伴わない長生きは決して進められるべきものではなく、医学・医療にも価値観が入って来るのは否めない。
筆者は、選挙活動をしているころ、農村部で多くの「幸福感のある長生き」女性に会った。「大病したことがない、風邪もひかない」人々で、90歳を超えても「草取りだけは止めない」と自分の仕事を作り、お茶を飲む仲間がいる明るいおばあさんたちだ。他方で、「膝が痛い、腰が痛い。だから、何もできない」と嘆き続けるおばあさんもいる。おじいさんは概して農作業などやることを見つけ、自分の作った農産物を自慢する。他方で、糖尿病で日がな一日縁側に座りっぱなしの退屈なおじいさんもいる。また、都会部では、夫婦ともに通院が仕事で、昔の成功体験の話が延々と続く。昔の恨みと若い人への苦言が多い。
人口ピラミッドの上部についてあえて政策を考えるならば、「人生百年時代」は止めた方がいい。早く言えば、それは長すぎるし幸せ感をもたらさない。数値目標で生きる人生ではなく、「やること」を見つけられる人生が誰にとっても幸せ感につながる。いくつになっても雇用を含む社会参加の場を提供することが高齢者、つまり人口上層部の質を確保する。人口政策とは、出生と死亡の動態をどう対処するかの問題ではなく、新しい命を人口置換率に近い数で迎え、高齢人口が幸せ感を増すための経済社会を作ることである。今となっても、人口政策イコール少子化政策イコール保育所整備しか考えない政治と社会の認識を変えねばならない。