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大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

QUAD インド篇 (11) 象はライオンよりも強いか

2021-10-25 10:15:11 | 社会問題

 80年代、筆者がユニセフ・インドにいたころは、中国は変わり始めていた。1976年、毛沢東没後、共産中国のカリスマの後に現れたのは鄧小平で、政治は共産主義のまま、市場原理を採り入れ、経済の民活化を始めた。世界で知られる「国家資本主義」である。一人っ子政策を開始し、人口を抑えながら中国は経済成長へと突進していくことになった。まさに眠れる獅子が目覚め、突進し始めたのだ。

 インドは、80年代、「眠れる象」とは言われていなかった。なぜならインドは眠ったまま起きないだろうと思われていたからだ。しかし、1991年、ラジブ・ガンジー元首相暗殺後、インドは市場原理に舵を切り、中国に遅れること十年余で、経済発展の道に乗った。「眠れる象も起きた」。世界中は目を見張る。これは、1971年のソ連との友好条約により、印パ戦争にソ連の武器が必要だったことやアメリカがパキスタンと同盟を結んでいたことから、半ば「やむを得ず」東寄り政策を採ってきたのをやめたからだ。ソ連が崩壊し、対印貿易債務も払えず、インドにとってロシアは頼れる相手ではなくなった。

 それだけではない、アメリカのIT革命に、昼夜逆の時差や得意の英語と数字の強さを使って、重要な役割を果たす機会を得たからでもある。アメリカの同時多発テロが起きると、パキスタンがかくまうオサマ・ビン・ラディンのアルカイダ組織への攻撃に与し、アメリカの協力者となって信頼を得た。アメリカはIT政策の担い手であるインドに、対テロ政策への協力者であるインドに感謝し、インドが核開発を進めていることにも目をつぶるほど友好的になった。

 そもそも、アメリカとインドは仲が悪かったわけではない。インドは、東寄り政策を採っていた時期も、憲法に謳う民主主義国であることを自負し、アメリカとの外交も重視していた。レーガン大統領の時に、インディラ・ガンジー首相も息子のラジブ・ガンジー首相も、国賓としてアメリカを訪れ、レーガン大統領と並んでスピーチをしている。二人の首相は「我々は世界最大の民主主義国である」を強調した。二人とも、演説上手のレーガンの隣で、美しい英語で分かりやすく両国の友好を訴えた。インディラは「インドは古い国、アメリカは新しい国」と大国インドを示唆し、ラジブは、元俳優レーガンと並んでも、背丈も美貌も劣らず、名実ともにアメリカと肩を並べて見せた。

 インドは、中国と同じく、もともと「大国意識」を持ち、歴史や文化の圧倒する重みで、アメリカやソ連の傘下に入るを潔しとしなかった。第二次世界大戦後は、ネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領がアジア・アフリカ会議を創設し、アメリカにもソ連にも属さない第三国を主張した。1955年、インドネシアのバンドンで行われた第一回会議はあまりにも有名である。アメリカでもない、ソ連でもない、第三勢力の存在は世界中に知れ渡った。ネルー首相のその思いは今日まで続き、「古い国インドは新しい国アメリカの下にはいかないぞ」という心意気は見えている。

 ならば、なぜ東寄り政策を採った時期があったのかと言えば、前述のように、印パ戦争に勝つためにソ連の力が必要だった。事実、1971年の印パ戦争はインドが圧勝し、パキスタンは東パキスタンと西パキスタンに分かれていたのが、インドの後押しによって東は新国バングラデシュになった。東西ともイスラム教徒が支配しイギリスから独立の時に一緒になったが、東西の文化の違いは大きく東側は分裂を求めていた。南西アジアの覇権はまさにインドに握られていることをを示した戦争でもあった。また、1962年カシミールで中国との国境紛争が起き、インドは国境線の決め方で「負けた」感覚を持ち、中ソ関係が険悪になっているソ連に近づいたのである。

 バンドン会議では仲良かったはずの中国とは国境紛争で犬猿の関係となり、ソ連の崩壊によって東寄り政策をやめたインドだが、目まぐるしく変わる情勢を一般のインド人はどう見ていたのであろうか。筆者がインドに住んでいたころ、印ソ関係がよく、ロシア人の訪問者をよく見かけたが、インド人は「あのデブたちが」と決してロシア人をよく言っていなかった。元宗主国イギリスに対しては恨みよりも尊敬の念が強かった。鉄道も、学校も、官僚制度もイギリスによってもたらされ、それがインド経済社会の根幹になっていることはよく認識されていた。また、民主主義国であり報道制限はないため、アメリカの実態を知るインド人はアメリカが好きだった。オープンでおしゃべりなのは、両国国民の共通の特徴だ。

 筆者が勤務していた中北部インドでは、中国人に対して悪感情を持つ人が多かった。ヒマラヤ山脈周辺では、中国との国境が近いこともあって、モンゴロイド系の人々が多い。国境紛争からしばらくは、中国人はトマトをぶつけられたり、罵声を浴びせられたりの日々だったと言っていた。筆者も、「あなたは中国人か」と聞かれ、「日本人だ」と言うと、「それは良かった」とすぐに友好的になることができた。今も、インド人は、経済で競争相手にある中国を非常に意識している。「負けたくない」。

 今も、ロシアとの関係は悪くはない。インドは「第三国」として全方位外交を続けているからであろう。中国とだって、2001年に創設された上海協力機構(SCO)に加盟し、テロや経済文化の協力を行うとしている。これには、中国、ロシア、インド、パキスタンのほか、中央アジアの国を合わせて8か国が加入しているが、軍事同盟の様相がないとも言えない不思議な組織だ。中国とパキスタンが加盟しているのを考えると、インドは全方位外交にこだわり、相当に高度な「外交判断」をしていると思われる。

 上海協力機構のほかに、アジア・アフリカ会議、新興国BRICSと、インドは軸足を一つにしていない。したがって、開かれたアジア太平洋会議QUADに対しても、アメリカに注文を付けている。軍事同盟でないことを主張し、アメリカの下には入らない姿勢は明らかである。その意味では、QUADのアジアにおける主導権は日本ではなくインドにあると言っても過言ではあるまい。

 現在の与党インド人民党のモディ首相は、例えて言うなら中国の鄧小平だ。ヒンズー至上主義を掲げ、徹底した市場原理で目覚めた象を走らせている。他方で、習近平は行き過ぎた国家資本主義の修正を始めた。恒大集団(不動産最大手)の破綻問題をきっかけに不動産過熱を抑え、教育競争も受験塾の抑制などで格差に対応しようとしている。しかし、せっかく固めた習近平「王国」が揺らぐ可能性もあり、「行け行け資本主義」のモディ首相に負けそうである。

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QUAD インド篇(10) インド英語の誇り

2021-10-19 10:09:29 | 社会問題

 1983年4月、ユニセフ・中北部インド事務所に赴任したときに、真っ先に衝撃を受けたのは、脳が溶けるような暑さとまくしたてられるインド英語だった。当初は、「英語で話してください」と頼み、「英語で話しているじゃないですか」と返ってきたのだが、アクセントや言い回しの違いで外国語のように聞こえた。英米圏の人々はそれでも難なく理解でき、「インド英語はくどいけど、直ぐに慣れますよ」と教えてくれた。

 確かに慣れると、むしろ日本人の英語と共通点が多く、わかりやすい英語であることが分かった。インド人と話すときはインド英語で話した方がリズムが保たれてコミュニケーションが円滑になることも知った。同僚のスリ・グルラジャは、「ヒロコの英語はアメリカン・アクセント。私の娘もカナダで幼少時を暮らしたから、アメリカン・アクセントと友達に言われて、直すようになった」と教えた。つまり、インド人はインド英語を誇りにしていて、決して英米英語を真似ようとはしない。

 ヒンズー語を勉強するようになって知ったのは、インド英語はヒンズー語の影響を受けている。ヒンズー語は印欧語族、日本語はウラルアルタイ語族で、文法構造は異なるはずだが、初学者の私には共通点の方が多いと思われた。例えば、疑問文は、日本語なら普通の文に「~か?」をつければいいように、ヒンズー語では「~へ?」をつける。だから、英語を話すときもわざわざ疑問文を作らずに「~ですね、でしょ?」という聞き方をする。「You like Indea, No?」という風に。

 英米圏の人が「インド英語はくどい」と言っていたのは、文語調を採り入れたり、格調高い英文学の引用が多いことを指す。どんなに英語を勉強したって、諺や歌詞や映画のセリフなどは聞き取れない。だから、難しいし、何でそんな回りくどい言い方をするのかと疑問に思ったりする。しかし、考えてみれば、それがインドなのだ。長い歴史の中で、ペルシャ語を始めとする北方の言語を採り入れ、現地ヒンズー語とのミックスで新たにウルドゥー語を作り出し、英語もまた独自の英語を作り出す「文化力の高い」インドなのである。

 イギリス人は格調高い古典的な英語が必要な時はインド人に頼むとさえ言われる。日本には手紙文の冒頭と末尾に決まった美辞麗句があるように、インド人も丁重な言い方を好む。それは、相手を尊重し、「へりくだる」を美徳とするアジア共通の文化だ。特に目上の人への敬称は必須である。知り合いの娘さんは筆者のことを必ず「ヒロコアンティー」つまり、ヒロコおばさんと呼び、決して呼び捨てにはしない。英米では、無論、子供でも「ヒロコ」と呼ぶ。一般的な敬称は、名前の最後に「ジ」をつける。「ヒロコジ」であり、日本も、山田「さん」とつけるのと同じだ。

 拡大家族の文化のため、いとこ等の呼び方も父方母方、男女が分かるような区別がされる。中国も然りで、父方の祖母と母方の祖母は呼び方が違う。それは、インドも中国も男系で家系譜が継承され、直系を明確にする家族を意識しているからと言えよう。日本は武家こそ男系で継承されてきたが、一般社会では婿養子や姉家督など実質的に女性が継承することが多く、明治になって、武家のルールを一般化させたに過ぎない。したがって、インドも中国も、現代においても男系に対する強い要請によって、女児が堕胎され、生まれる男女比の不均衡をもたらしている。これに対し、日本の男系文化は歴史が浅く、消滅しつつある。

 インドの言葉や所作に慣れてくると、人を敬う姿勢はアジアに共通のものがあると感じる。合掌して「ナマステ」とあいさつする。ナマステの頭のナムは、「南無妙法蓮華経」の頭のナムと同じで、呼びかけの意、である。仏教を通じて日本に入ってきたインド語の一つである。インド人は西洋人のように握手するボディタッチの文化はない。日本もそうだ。お辞儀は人との距離を保つ。西洋発祥の、握手したり、ハグしたりを日本人はずいぶん採り入れているが、インド人は決してやらない。インドの文化の方が優雅だという誇りがある。ちなみに日本では、政治家は握手を戦術的に使う。接触は忘れない感覚として残るからである。だまされまいぞ、日本人、自らの文化に誇りを持て!

 もうひとつ、ヒンズー語と日本語の共通点がある。「あなたはインドが好きではないのですね」と聞かれたら、英語では、イエスが好き、ノーが嫌いだが、日本語では、逆だ。好きではないならイエス、好きならノーだ。ヒンズー語も同じなので、インド語では、イエスノーが元来の英語の逆となり、欧米人は誤解する。だが、同じ間違いは日本人もやる。

 フィリピン人が日本人の英語を揶揄する動画を見たことがあるが、LとRの区別ができないのは世界でもよく知られていて、その動画では、「日本人は妻をLoveするのではなく、Rubする(こする)のです」と言って爆笑を得ていた。しかし、そのフィリピンもインドも日本も、英米圏の人から見れば英語らしくない独特の発音とイントネーションを持っている。顔を見なくても、これはアジア人の英語だとわかる。アクセントの置き方が自国語のそれに近いからそうなる。

 インド英語を習得する前に、筆者はインドの不動産屋と交渉中に、いささか立腹して英語の罵り言葉を使ってしまった。直後にユニセフの人事担当者から「国連の尊厳を傷つけないように」とお叱りを受けたが、その担当者自身が、人身事故を起こした。その保障をめぐって、彼は「インド人なんか路上で死んだって、箒で掃き捨てられているじゃないか。金払う必要なんかあるのか」と暴言を吐いて、ユニセフを追われることになった。

 貧富の格差が日本とは比べ物にならないほど激しい国インドだが、いかに貧しい姿をしていても、インド英語とそれに込められたインド文化の誇りを抱くのがインド人である。

 

 

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QUAD インド篇(9)不可触民に生まれたら

2021-10-12 09:48:42 | 社会問題

 マハトマ・ガンジーは、カースト制度の外にあって奴隷カーストよりも下にある不可触民にハリジャン(神の子)と名をつけて差別の撤廃を掲げた人である。キング牧師がガンジーを尊敬する所以である。しかし、ガンジーは不可触民出身でないから、その政策は不十分だと批判した人物がいる。インド独立後の憲法草案に寄与したネルー内閣法務大臣アンベードカルである。彼は不可触民の出身である。父や藩王の開明的な考えに助けられ、アンベードカルは、コロンビア大学で博士号を取り、ロンドンスクールオブエコノミクスにも学んだ異色の不可触民であった。彼は、今日に続く不可触民の留保制度(優遇制度)創設などその地位向上に最も貢献した人と言える。

 アンベードカルは、年代も同じで日本の解放の父、松本治一郎と重なるところがある。政治家松本は、勲一等の叙勲が決まったとき、叙勲は天皇によって行われることから、天皇制は差別の根拠でもあると叙勲を拒否した。アンベードカルは、カースト制度はヒンズー教によるものとして拒否し、仏教徒に改宗した。インドでは仏教徒は1%にも満たないが、信徒の多くはアンベードカルに従って改宗した人々である。

 しかし、頂上に上り詰めた人が存在しても、その麓には何世紀にもわたって差別され続け、そのくびきから脱することも思いつかない人々がいるのだ。インドの不可触民は2億人と推定される。その不可触民の中でも、清掃の仕事はより低い地位にあり、中でも糞尿の処理は「ほかに仕事がない」最も低い地位の人々によって行われる。モディ首相がトイレ建設の政策を打ち出し予算化したにもかかわらず、インドではまだ4割の人々が便所を持たず、野外で排泄をしていると言われる。各戸の糞便を処理する契約をして定期的に捨てに行く職業が不可触民によって担われ、しかも極めて低賃金である。その子供はまた親と同じ職業に就く。

 糞尿の処理が近代的施設で行われているならば、その職業自体に問題はない。しかし、普段着のまま箒や素手でかき集められていると聞けば、日本ならば人権問題に関わる。しかも、その背景にあるのは、カースト制度である。人が生まれ変わるときに、浄・不浄の階級がつけられ、最も不浄の階級が不可触民であるとされる。したがって、彼らがその職業に就くのは当たり前という考えがインドの人々にある。モディ首相が近代的トイレの推進を掲げる一方で、トイレの必要性を理解しない人々が、不浄の職業を奪う必要はないとしてしまうのである。

 しかし、都市部の糞尿の流れる下水管の掃除や糞便集めには病気と危険が隣り合わせであり、事故死も多く、従事する者の寿命も短い。トイレプロジェクトを急ぐ必要があるのと同時に、人々の「不浄なものは不浄な人がやればいい」という観念を払拭することをやらねばならない。近年の出来事であまりにも痛ましいのは、二人のいたいけな子供が野外で排泄をしたからと撲殺された事件だ(「13億人のトイレ」佐藤大介著 参照)。二人は不可触民であり、モディ首相のトイレプロジェクトの補助金からは意図的に外された家庭に育った。一人の男が、野外排泄はトイレプロジェクトに反する行為として、若干11歳と12歳の子供を殺してしまうのだ。まるで江戸時代のなで斬りのようなものではないか。その背後に身分制度がある。身分が下の者を殺めるのに罪悪感が欠けるのだ。

 1980年代、筆者のユニセフでの活動では、トイレの建設も重要だった。特にジャム・カシミール州を担当していた筆者は、イスラム教徒の多いこの地域で、女子が学校に来ないのは、排泄する場所がないからだと聞かされた。男は朝、缶からに水を入れて、数人手をつなぎながら「連れウン」をする姿をよく見かけたが、女は子供も含めて日没から日の出前の真っ暗闇の中で、排泄をしなければならない。人間だから、昼間学校に来ている間にも排泄が必要になることは当然だ。しかし、隠れてする場所がないため、そもそも学校に行かないということになる。

 そこで、ユニセフは郡政府と一緒に各小学校二基づつトイレの建設を始めた。そのトイレは二層式便所で、当時のインドでは進んだ技術であった。一層に糞尿を貯め、数年かけて満杯になると、別の一層に貯め、その間、初めの一層の糞便は微生物などの働きで肥しになる。トイレはコンクリート造りでドアの鍵も閉まる。これで、女子が堂々と学校に来られるだろうと喜んでいたところ、半年後に、各学校を訪れると、どこもトイレが使われた跡がない。それどころか、荷物でいっぱいになっている。「こんな立派な建物を糞便に使うなんてもったいないから、倉庫にした」と言うのが弁解だった。

 インドの今の発展は、1991年からである。ソ連が崩壊し、東寄り政策を改め市場原理を採り入れた。以降のインドの経済的発展は言及するまでもない。また、アメリカのIT革命に首尾よく乗って、その担い手の多くはインド人によって占められている。活躍しているインド人は、バラモン階級か上位階級が多い。上位階級の子息は優れた教育を受け、高等教育は英語で行われるから、何不自由なく、アメリカやイギリスに進出していく。

 しかし、その一方で不可触民としての人生をいつまでも変えられない人々がいる。経済的発展の後に、文化や社会は緩やかに変わっていくだろうが、撲殺された子供のことを考えると、筆者は待っていられない焦燥感を感ずる。大国インドに救世主が必要だ。日本もまた、世襲政治家の政治私物化、ジェンダーギャップに冷淡なトップ、いつまでたってもなくならない児童虐待・・それらは実は文化の問題であることを認識し、「文化をも変えてみせる」救世主が望まれる。

 

 

 

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QUAD インド篇 (8)インドの家族

2021-10-06 10:05:40 | 社会問題

 インドで非常に親しくしていただいたのが、デリー大学教授のチョードリ先生一家だった。先生は日本学の専門で、本居宣長や平田篤胤の研究をしていて、浅学菲才の筆者はこの分野の研究内容は押し頂くだけだった。現在95歳、ご夫人は数年前に亡くなった。一人娘のナンデ二―は、ニューヨークに住むIT企業勤務の優秀なインド人と結婚している。無論、親が決めた結婚だが、母親の死にニューヨークから駆け付けたが間に合わなかった。なぜ一人娘をニューヨークに嫁がせたのだろうと筆者は考えるが、社会の上層部にいるほどその地位を維持したいのはインド人らしいとも言える。今なら、アメリカのIT企業で成功しているインド人ほど誇らしいものはない。

 チョードリ先生は学者であり近代的な方なので、当時のインドには珍しい核家族でデリーに暮らしていた。しかし、ご夫人の郷里のカルカッタを訪ねたところ、家族として紹介されたのは大人数で、いわゆる拡大家族で夫人は育ったことが分かった。拡大家族では同一の家に住んでも住まなくても、家計は一緒で、いとこ同士は兄弟姉妹として育つ。我々団塊世代が今の若者よりも社交的なのは、近所に子供がいっぱいで遊び相手に苦労することがなかったからだ。同様に、インド人は小さい時から家族の中の「社会」に生きている。自己主張の強い性格はその家族の在り方と関わる。

 歴史人口学者であり家族人類学者でもあるエマニュエル・トッドによれば、インド北部では、男の子はみな成長後親元に残り、大家族を形成する。これが拡大家族であり、外婚制共同体家族と呼んでいる。いとこは兄弟姉妹として育つので、いとこ同士の結婚はない。南インドでは、人種・文化の違いがあり、家族は母系で母系いとこの結婚があり、非対称共同体家族と呼ばれる。ちなみに、トッドの分類では、従来の日本は直系家族と呼び、長男だけが親元に残る。

 さて。ご夫人の家族に歓待されたので、お返しにレストランでの夕食に誘ったところ、チョードリ先生一家が来ると思いきや、一族郎党二十人もの人が来て、驚いてしまった。核家族に慣れた日本人の認識不足だった。拡大家族は、一家で成功者が出れば、家族全体が潤う。成功者は所得を独り占めにしないで、家族全体のために働く。社会保障制度が整備されていないインドでは、拡大家族そのものが全体の保障機能を果たしている。しかし、今のインドの発展は、遠からぬ将来に、都会に核家族で住む人々のための社会保障が家族内保障を越えて必要とするであろう。

 インドでは(ここでは筆者の住んでいた北インド中心だが)、男の子がみな平等に育って親元に残るのに対し、女の子は「嫁に出す」。しかも、相当な持参金を持たせることが習慣になっている。その持参金はダウリと呼ばれるが、金銭、電化製品、衣装など大変に金がかかる。娘三人持ってダウリが払えないと自殺した親の話が新聞記事に載る。筆者の仕事では、社会の底辺が対象であるだけに、ダウリが少ないと一生いびられる嫁の話ばかりだ。当然に子供が生まれると、男の子が大切にされ、女の子は自分の子供ではないという扱いである。

 自分も嫁に来たのに、息子の嫁をいびるのは一般的な現象である。日本のように、インドもいつかは嫁姑の関係が逆転する日が来るであろうが、それは、若い女性が上の世代よりも高い教育を受け、かつ社会進出を遂げて、家族の中で強い立場を持つことが必要である。筆者がインドにいたころでも、教育を受けた女性は姑のいびりを跳ね返す力を持っていた。同僚ナンドの夫人は大学で英語を専攻し、中学の英語の教師だった。彼女は口を極めて姑の悪口を言い続け、ナンドは困惑していたが、ついに家を出て行ったのは姑の方であった。

 筆者の仕事の対象の低所得階層では、それはありえない。嫁は夫や姑から暴力を受けたり、妊娠中でも食事を満足に与えられなかったりと、うんざりすることばかり聞かされた。そういうインドの風潮の中で、ガンジー夫人が暗殺され息子のラジーブが首相を引き継いだ時、思わぬことが起きた。ガンジー夫人の次男サンジャイの嫁マネカが反旗を翻したのである。サンジャイはガンジー夫人の後継者と確実視されていたにもかかわらず、飛行機事故で不慮の死を遂げた。マネカはラジーブに対抗して政党を新たに創り、ラジーブと選挙区で戦った。マネカは負けたが、その後、ガンジー家の率いる国民会議派に対抗するインド人民党に与し、インド人民党が政権を取った時には環境大臣などの要職に就いた。

 マネカは元モデルで、名門ジャワハルラル・ネルー大学を卒業した。ちなみにサンジャイは大学に行かなかった。サンジャイとは恋愛結婚で、インドトップの名門と知らずに結婚したと彼女はテレビのインタビューで語っている。結婚後、マネカは姑であるガンジー夫人とうまくいかず、また、兄嫁のイタリア人ソニアとも心が通じなかった。「ソニアはショッピングが趣味、私は読書が趣味」と半ば軽蔑した言い方をしていた。ソニアは火葬に運ばれるガンジー夫人の遺体の顔を愛おしそうに拭き、この嫁姑は大変良い仲であったと言われる。ラジーブとサンジャイの二つの結婚はイギリス王室のウィリアム王子とヘンリー王子のそれと似通っている。

 インドの経済発展の後に来るのは社会の変化であろう。間違いなく、家族の文化も変わってくるはずだ。ネルー・ガンジー王朝の如くこの上ない上流社会では、既に、将来の価値観を先取りして、マネカのように、悲劇の王朝をさらに悲劇化する、個人の行動が家族に縛られない行動として表れている。日本は既にエマニュエル・トッドが分類したかつての日本とは違う存在である。いいとか悪いとかの問題ではないが、家族関係が個人主義に変わっていく過程で、経済的理由以上にそのことが人口を減らしていく。インドにも日本と同じことが起きるであろうか。ちなみに、中国では、一人っ子政策を廃止した今もなお、子供は一人でいいと考える人が多く、人口減少が始まろうとしている。

 

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