80年代、筆者がユニセフ・インドにいたころは、中国は変わり始めていた。1976年、毛沢東没後、共産中国のカリスマの後に現れたのは鄧小平で、政治は共産主義のまま、市場原理を採り入れ、経済の民活化を始めた。世界で知られる「国家資本主義」である。一人っ子政策を開始し、人口を抑えながら中国は経済成長へと突進していくことになった。まさに眠れる獅子が目覚め、突進し始めたのだ。
インドは、80年代、「眠れる象」とは言われていなかった。なぜならインドは眠ったまま起きないだろうと思われていたからだ。しかし、1991年、ラジブ・ガンジー元首相暗殺後、インドは市場原理に舵を切り、中国に遅れること十年余で、経済発展の道に乗った。「眠れる象も起きた」。世界中は目を見張る。これは、1971年のソ連との友好条約により、印パ戦争にソ連の武器が必要だったことやアメリカがパキスタンと同盟を結んでいたことから、半ば「やむを得ず」東寄り政策を採ってきたのをやめたからだ。ソ連が崩壊し、対印貿易債務も払えず、インドにとってロシアは頼れる相手ではなくなった。
それだけではない、アメリカのIT革命に、昼夜逆の時差や得意の英語と数字の強さを使って、重要な役割を果たす機会を得たからでもある。アメリカの同時多発テロが起きると、パキスタンがかくまうオサマ・ビン・ラディンのアルカイダ組織への攻撃に与し、アメリカの協力者となって信頼を得た。アメリカはIT政策の担い手であるインドに、対テロ政策への協力者であるインドに感謝し、インドが核開発を進めていることにも目をつぶるほど友好的になった。
そもそも、アメリカとインドは仲が悪かったわけではない。インドは、東寄り政策を採っていた時期も、憲法に謳う民主主義国であることを自負し、アメリカとの外交も重視していた。レーガン大統領の時に、インディラ・ガンジー首相も息子のラジブ・ガンジー首相も、国賓としてアメリカを訪れ、レーガン大統領と並んでスピーチをしている。二人の首相は「我々は世界最大の民主主義国である」を強調した。二人とも、演説上手のレーガンの隣で、美しい英語で分かりやすく両国の友好を訴えた。インディラは「インドは古い国、アメリカは新しい国」と大国インドを示唆し、ラジブは、元俳優レーガンと並んでも、背丈も美貌も劣らず、名実ともにアメリカと肩を並べて見せた。
インドは、中国と同じく、もともと「大国意識」を持ち、歴史や文化の圧倒する重みで、アメリカやソ連の傘下に入るを潔しとしなかった。第二次世界大戦後は、ネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領がアジア・アフリカ会議を創設し、アメリカにもソ連にも属さない第三国を主張した。1955年、インドネシアのバンドンで行われた第一回会議はあまりにも有名である。アメリカでもない、ソ連でもない、第三勢力の存在は世界中に知れ渡った。ネルー首相のその思いは今日まで続き、「古い国インドは新しい国アメリカの下にはいかないぞ」という心意気は見えている。
ならば、なぜ東寄り政策を採った時期があったのかと言えば、前述のように、印パ戦争に勝つためにソ連の力が必要だった。事実、1971年の印パ戦争はインドが圧勝し、パキスタンは東パキスタンと西パキスタンに分かれていたのが、インドの後押しによって東は新国バングラデシュになった。東西ともイスラム教徒が支配しイギリスから独立の時に一緒になったが、東西の文化の違いは大きく東側は分裂を求めていた。南西アジアの覇権はまさにインドに握られていることをを示した戦争でもあった。また、1962年カシミールで中国との国境紛争が起き、インドは国境線の決め方で「負けた」感覚を持ち、中ソ関係が険悪になっているソ連に近づいたのである。
バンドン会議では仲良かったはずの中国とは国境紛争で犬猿の関係となり、ソ連の崩壊によって東寄り政策をやめたインドだが、目まぐるしく変わる情勢を一般のインド人はどう見ていたのであろうか。筆者がインドに住んでいたころ、印ソ関係がよく、ロシア人の訪問者をよく見かけたが、インド人は「あのデブたちが」と決してロシア人をよく言っていなかった。元宗主国イギリスに対しては恨みよりも尊敬の念が強かった。鉄道も、学校も、官僚制度もイギリスによってもたらされ、それがインド経済社会の根幹になっていることはよく認識されていた。また、民主主義国であり報道制限はないため、アメリカの実態を知るインド人はアメリカが好きだった。オープンでおしゃべりなのは、両国国民の共通の特徴だ。
筆者が勤務していた中北部インドでは、中国人に対して悪感情を持つ人が多かった。ヒマラヤ山脈周辺では、中国との国境が近いこともあって、モンゴロイド系の人々が多い。国境紛争からしばらくは、中国人はトマトをぶつけられたり、罵声を浴びせられたりの日々だったと言っていた。筆者も、「あなたは中国人か」と聞かれ、「日本人だ」と言うと、「それは良かった」とすぐに友好的になることができた。今も、インド人は、経済で競争相手にある中国を非常に意識している。「負けたくない」。
今も、ロシアとの関係は悪くはない。インドは「第三国」として全方位外交を続けているからであろう。中国とだって、2001年に創設された上海協力機構(SCO)に加盟し、テロや経済文化の協力を行うとしている。これには、中国、ロシア、インド、パキスタンのほか、中央アジアの国を合わせて8か国が加入しているが、軍事同盟の様相がないとも言えない不思議な組織だ。中国とパキスタンが加盟しているのを考えると、インドは全方位外交にこだわり、相当に高度な「外交判断」をしていると思われる。
上海協力機構のほかに、アジア・アフリカ会議、新興国BRICSと、インドは軸足を一つにしていない。したがって、開かれたアジア太平洋会議QUADに対しても、アメリカに注文を付けている。軍事同盟でないことを主張し、アメリカの下には入らない姿勢は明らかである。その意味では、QUADのアジアにおける主導権は日本ではなくインドにあると言っても過言ではあるまい。
現在の与党インド人民党のモディ首相は、例えて言うなら中国の鄧小平だ。ヒンズー至上主義を掲げ、徹底した市場原理で目覚めた象を走らせている。他方で、習近平は行き過ぎた国家資本主義の修正を始めた。恒大集団(不動産最大手)の破綻問題をきっかけに不動産過熱を抑え、教育競争も受験塾の抑制などで格差に対応しようとしている。しかし、せっかく固めた習近平「王国」が揺らぐ可能性もあり、「行け行け資本主義」のモディ首相に負けそうである。