1975年6月、ベトナム戦争終結の直後、筆者は、アメリカに足を踏み入れた。25歳、それは、25年の夢をかなえた瞬間であった。幼い頃を代々木のワシントンハイツ(米駐留軍将校宿舎)の近くで過ごし、GHQに勤務していた父がアメリカ人と会話するのを聞き、人生の初めから、いつかアメリカに行くことが目的になっていた。厚生省に入省し、人事院の長期在外研究員の試験を受け、やっと実現した夢であった。
筆者のように、アメリカに接近して育った場合でなくても、団塊世代は、こぞってアメリカに憧れていた。1953年に始まったテレビ放送は、子供にとっては、力道山や大相撲よりも、デズニー、ポパイ、猫のフィリックスなど、とことんアメリカ的に面白いアニメに夢中で、また、アメリカのホームドラマに見る生活の豊かさには目を見張った。日本もいつか、こんなに楽しくて、豊かな国になるのだろうか、子供ながらに皆そう夢を抱いていた。
人事院留学生の多くはハーバードなど東海岸の大学を選んだ。いわゆるアイビーリーグで、アメリカのエスタブリッシュメントを代表する大学である。筆者は、留学の前年1974年に、全米で初めて老年科学研究所がミシガン大学に創立されたのを知って、ここで老人問題に関する修士論文を書こうと決めた。当時、厚生省の老人福祉課に在籍し、有吉佐和子の「恍惚の人」がベストセラーになった時で、これからは、厚生行政のテーマで生きようと熱い思いであった。
ミシガン州が五大湖を臨む中西部にあることは知っていたが、「中西部」とは何かを知らなかった。白人が8割の州であり、ドイツ系が最も多く、アイルランド、イギリス、ポーランド、フランス、オランダ、イタリアと続く。黒人とアジア系はそれぞれ1割くらいであった。筆者が住んだアナーバー市はミシガン大学のためにある市であり、人口10万のうち学生が3万、大学関係者が3万であり、夏休みになると、人口は半分になり、街は空っぽになってしまうのであった。
大学院における英語での勉強はなかなか難しかった。語学の壁もさることながら、プラグマティズムという実践的な教育は、日本での概念教育に慣れた者にとって戸惑うことも多かった。また、当時、日本の大学でコンピューターに触ったこともなかったが、アメリカの大学では、既にコンピューターから情報を取ることが当たり前であり、今は消滅したパンチカード式のコンピューターを使いこなせないとレポートもままならなかった。1970年代に教育における日米格差が歴然と存在していたのである。
猛勉強と金曜日だけに許される、フライデーナイトのデートだけで過ごした日々が続いた。ウーマンリブをそのまま生きる女子学生に感動し、開放的でややヒッピー的な若者文化の波に呑み込まれていた。そのころ、毎日のようにテレビに登場するリベラチェに関心を寄せることはなかった。そもそもテレビを見る暇もなかったのである。
若者は全国さまざまのところから大学に来ているため、中西部の地域集団とは関係なく、ベトナム戦争後の社会を作り上げていく新たな集団であった。他方、部屋を借りていた主の女性アルシアに連れられて行く教会のコミュニティーでは、いわゆる中西部人に出会った。敬虔で、もの静かな人達だったが、日曜礼拝の後の茶話会では、行き過ぎたウーマンリブや黒人の行為などを非難していた。ここで知ったのは、社会人の世界は学生の世界とは全く別で、新しいものを拒否する体質的な保守を感じたのである。
それでも、人々は優しかった。「アジア人は真面目だから」と言った。ベトナム戦争に事実上負けたアメリカでは、ベトナムへの贖罪のような気持ちを持っている人が多かった。ただし、太平洋戦争に従軍した経験のある人は、「原爆が戦争を終結させてよかった」話や、日本人娼婦について戦利品のように話す人もいた。なべてアメリカ肯定、絶対視の保守体質が色濃く出ていた。この頃、日本のコンパクトカーが爆発的に売れ始めていたが、「日本がアメリカを抜くことは絶対にない」と人々は言い切った。「アメリカは偉大なのだ」。
アメリカの偉大さを守り続けてきた文化がリベラチェやデズニーのエンターテイメントかもしれない。筆者が猛勉強に勤しむ毎日、教会で会った人々は、家に帰って、そのエンターテイメントを楽しんでいたのだろう。アメリカのエンターテイメントは視聴者を徹底的に楽しませる、実に偉大な産業であった。人々にとって、政治や社会を未熟な知識で語るよりも、幻想的なエンターテイメントの世界に浸るほうがどれだけ幸福だろう。また、エンターテイメントは人々を裏切ることなく、飽くなき偉大なるアメリカを提供し続けたのである。
リベラチェはベトナム戦争もウーマンリブもほとんど語らない。政治や社会の在り方に口を挟まない。彼の弾き語りの歌「珍しい夢」に、「「もう戦いはしない。平和を約束しよう」というのが唯一あるが、音色の美しさに比べ、メーッセージ性は程遠かった。彼は、ラマンチャの男の映画主題歌「叶わぬ夢」では、もっと力を入れて唄っている。彼には、叶わぬ夢があったのであり、「届かぬ星」に届きたいと叫んだ。彼の叶わぬ夢とは何だったのか、本当のところは分からない。
古き良きアメリカ、そして今日に続くアメリカ社会の偉大さの一角を築いた人リベラチェ。中西部出身で、決してその保守性の衣を脱がなかった彼は、保守革新を問わず、人々の心を温めた。筆者は、アメリカ政府とは別の、トランプ大統領とは別の、土台である大きなアメリカがあることを意識している。その土台は、とても温かい。我がアメ車がパンクしたりエンストしたりしたとき、どこからともなく、アメリカ人は駆け付けて助けてくれたのを感謝を以て思い出す。筆者は、アメリカの土台が大好きなのである。アメリカに住んだ経験のある人の殆どが同じことを言うのを読者は聞いておられるだろう。「アメリカ政府は嫌いだ。しかし、アメリカは好きなんだ」。
アメリカの土台の一部だったリベラチェ。今は、星の王子様になって、「届かぬ星」に届き、「叶わぬ夢」を叶えて、地球を眺めていることだろう。30余年ぶりに墓場から起こしてごめんなさい。筆者は、永遠にあなたに憧れる。(終わり)
読者の皆様、長期間ご高覧有難うございました。この欄はしばらく休載します。大泉博子