大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

リベラチェ アット ハート(28)アメリカの星(最終回)

2018-05-28 08:23:43 | 社会問題

 1975年6月、ベトナム戦争終結の直後、筆者は、アメリカに足を踏み入れた。25歳、それは、25年の夢をかなえた瞬間であった。幼い頃を代々木のワシントンハイツ(米駐留軍将校宿舎)の近くで過ごし、GHQに勤務していた父がアメリカ人と会話するのを聞き、人生の初めから、いつかアメリカに行くことが目的になっていた。厚生省に入省し、人事院の長期在外研究員の試験を受け、やっと実現した夢であった。

 筆者のように、アメリカに接近して育った場合でなくても、団塊世代は、こぞってアメリカに憧れていた。1953年に始まったテレビ放送は、子供にとっては、力道山や大相撲よりも、デズニー、ポパイ、猫のフィリックスなど、とことんアメリカ的に面白いアニメに夢中で、また、アメリカのホームドラマに見る生活の豊かさには目を見張った。日本もいつか、こんなに楽しくて、豊かな国になるのだろうか、子供ながらに皆そう夢を抱いていた。

 人事院留学生の多くはハーバードなど東海岸の大学を選んだ。いわゆるアイビーリーグで、アメリカのエスタブリッシュメントを代表する大学である。筆者は、留学の前年1974年に、全米で初めて老年科学研究所がミシガン大学に創立されたのを知って、ここで老人問題に関する修士論文を書こうと決めた。当時、厚生省の老人福祉課に在籍し、有吉佐和子の「恍惚の人」がベストセラーになった時で、これからは、厚生行政のテーマで生きようと熱い思いであった。

 ミシガン州が五大湖を臨む中西部にあることは知っていたが、「中西部」とは何かを知らなかった。白人が8割の州であり、ドイツ系が最も多く、アイルランド、イギリス、ポーランド、フランス、オランダ、イタリアと続く。黒人とアジア系はそれぞれ1割くらいであった。筆者が住んだアナーバー市はミシガン大学のためにある市であり、人口10万のうち学生が3万、大学関係者が3万であり、夏休みになると、人口は半分になり、街は空っぽになってしまうのであった。

 大学院における英語での勉強はなかなか難しかった。語学の壁もさることながら、プラグマティズムという実践的な教育は、日本での概念教育に慣れた者にとって戸惑うことも多かった。また、当時、日本の大学でコンピューターに触ったこともなかったが、アメリカの大学では、既にコンピューターから情報を取ることが当たり前であり、今は消滅したパンチカード式のコンピューターを使いこなせないとレポートもままならなかった。1970年代に教育における日米格差が歴然と存在していたのである。

 猛勉強と金曜日だけに許される、フライデーナイトのデートだけで過ごした日々が続いた。ウーマンリブをそのまま生きる女子学生に感動し、開放的でややヒッピー的な若者文化の波に呑み込まれていた。そのころ、毎日のようにテレビに登場するリベラチェに関心を寄せることはなかった。そもそもテレビを見る暇もなかったのである。

 若者は全国さまざまのところから大学に来ているため、中西部の地域集団とは関係なく、ベトナム戦争後の社会を作り上げていく新たな集団であった。他方、部屋を借りていた主の女性アルシアに連れられて行く教会のコミュニティーでは、いわゆる中西部人に出会った。敬虔で、もの静かな人達だったが、日曜礼拝の後の茶話会では、行き過ぎたウーマンリブや黒人の行為などを非難していた。ここで知ったのは、社会人の世界は学生の世界とは全く別で、新しいものを拒否する体質的な保守を感じたのである。

 それでも、人々は優しかった。「アジア人は真面目だから」と言った。ベトナム戦争に事実上負けたアメリカでは、ベトナムへの贖罪のような気持ちを持っている人が多かった。ただし、太平洋戦争に従軍した経験のある人は、「原爆が戦争を終結させてよかった」話や、日本人娼婦について戦利品のように話す人もいた。なべてアメリカ肯定、絶対視の保守体質が色濃く出ていた。この頃、日本のコンパクトカーが爆発的に売れ始めていたが、「日本がアメリカを抜くことは絶対にない」と人々は言い切った。「アメリカは偉大なのだ」。

 アメリカの偉大さを守り続けてきた文化がリベラチェやデズニーのエンターテイメントかもしれない。筆者が猛勉強に勤しむ毎日、教会で会った人々は、家に帰って、そのエンターテイメントを楽しんでいたのだろう。アメリカのエンターテイメントは視聴者を徹底的に楽しませる、実に偉大な産業であった。人々にとって、政治や社会を未熟な知識で語るよりも、幻想的なエンターテイメントの世界に浸るほうがどれだけ幸福だろう。また、エンターテイメントは人々を裏切ることなく、飽くなき偉大なるアメリカを提供し続けたのである。

 リベラチェはベトナム戦争もウーマンリブもほとんど語らない。政治や社会の在り方に口を挟まない。彼の弾き語りの歌「珍しい夢」に、「「もう戦いはしない。平和を約束しよう」というのが唯一あるが、音色の美しさに比べ、メーッセージ性は程遠かった。彼は、ラマンチャの男の映画主題歌「叶わぬ夢」では、もっと力を入れて唄っている。彼には、叶わぬ夢があったのであり、「届かぬ星」に届きたいと叫んだ。彼の叶わぬ夢とは何だったのか、本当のところは分からない。

 古き良きアメリカ、そして今日に続くアメリカ社会の偉大さの一角を築いた人リベラチェ。中西部出身で、決してその保守性の衣を脱がなかった彼は、保守革新を問わず、人々の心を温めた。筆者は、アメリカ政府とは別の、トランプ大統領とは別の、土台である大きなアメリカがあることを意識している。その土台は、とても温かい。我がアメ車がパンクしたりエンストしたりしたとき、どこからともなく、アメリカ人は駆け付けて助けてくれたのを感謝を以て思い出す。筆者は、アメリカの土台が大好きなのである。アメリカに住んだ経験のある人の殆どが同じことを言うのを読者は聞いておられるだろう。「アメリカ政府は嫌いだ。しかし、アメリカは好きなんだ」。

 アメリカの土台の一部だったリベラチェ。今は、星の王子様になって、「届かぬ星」に届き、「叶わぬ夢」を叶えて、地球を眺めていることだろう。30余年ぶりに墓場から起こしてごめんなさい。筆者は、永遠にあなたに憧れる。(終わり)

 読者の皆様、長期間ご高覧有難うございました。この欄はしばらく休載します。大泉博子

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リベラチェ アット ハート(27)独身という生き方

2018-05-26 08:30:23 | 社会問題

 リベラチェは、生涯独身であることについて拘泥している様子はなかった。「姉に孫が三人いるので、私の母は曾祖母なんです。私はこれに関与してませんけど」と言って聴衆を笑わせたり、「舞踏会のワルツを弾きます。舞踏会は皆一人一人パートナーがいるんですよね」とジョークを仄めかしたりした。彼の冗談は上質で、清潔感に溢れていた。結婚好きのアメリカ人が一度も結婚しないのが少しも変には思われなかった。富豪だからこそ、あるいはゲイだからこそ、形上結婚するのが、カップルソサイエティと言われるアメリカ人にとって「必需品」である。パーティーでも付き合いでもカップルで行うのが普通だからである。

 インタビューで彼はいつもこう答えていた。「私は、離婚の多いファミリーの出です。兄ジョージが5回目でやっと幸福な結婚を掴んだように、私もそうなることが分かっていました」「私は、ひとりぼっちではありません。買い物も料理も家族と一緒にします」「何度かロマンスはあったのですが、そのたびに離婚系家族である警告を感じて、断念しました」。

 結婚は、全ての人がするようになったのは歴史的には新しい。19世紀までのヨーロッパでは、親の遺産が入って初めて結婚ができたので、結婚する男女の齢の差は大きかった。日本でも、下男下女が結婚するのは難しかった。漱石の「坊ちゃん」に出てくるお清のように、一生主人の家で勤め上げて終わる人は多かった。現代でも、ヨーロッパでは、婚姻関係を結ばない同棲夫婦が多い。フランスでは、準結婚制度のようなPACSもある。アジアでは、筆者がユニセフの仕事で赴いたラダック(小チベット)は、男兄弟全員がたった一人の嫁をもらうという結婚制度を残す。

 ただ、移民社会のアメリカでは、移民女性が不足したこともあって、結婚は男が獲得するものという考えがあり、レディーファーストという習慣をつくって女性の歓心を買おうとした。だから、アメリカ人は結婚が好きで、再婚、再再婚もためらわない。ここでは、トランプ大統領の例だけ挙げれば十分だろう。これに対し、日本は、戦前のイエ同士の結婚から、戦後、またぞろアメリカ文化を唯々諾々と受け入れて、恋愛結婚へと変化していった。しかし、恋愛結婚は人まねに過ぎず、男がリードして結婚に結び付ける文化と躾が置いてきぼりにされ、近頃の若者は、結婚という事業を一人で行うのが難しくなってきた。団塊世代のように、大量生産時代ならば、十分に訓練されなくても結婚の大量生産が可能だったのだが、より繊細になった今の若者は、そうはいかない。

 筆者世代は、結婚しない人に対して偏見があった。女性には「売れ残り」「行かず後家」「オールドミス」など、今のセクハラが罪となる社会では考えられないハラスメントの言葉が平気で当人に投げつけられた。男性には「あの人どこかおかしいんじゃないの」という言葉がぶつけられた。一生独身の男性の前を女性は避けて通る傾向もあった。「欲求不満の男に何かされるかもしれない」という恐怖のせいだ。データを見れば、うなづける。1970年、男性の生涯未婚率(50歳まで未婚)は1.7%、女性は3.3%なのだ。つまり、社会の極めて少数派の生き方であった。因みに女性の方が多いのは、戦争で多くの若い男性を失ったからである。

 現在(2015年統計)、この数字は、男性23.4%、女性14.1%。男性の独身の方が多くなったのは1980年代後半に入ってからで、1990年には、男性5.6%、女性4.3%となり、以降、男性が女性を引き離していく。この頃、男が職場の女に言うセクハラの言葉「オールドミス」が消えた。オールドミスターの方が多くなったからである。そして、独身率(生涯未婚率)は、社人研の推計によると、2035年、あと20年足らずで、男性29.0%、女性19.2%になる。今30代を迎えた人は、男3割、女2割が結婚しない社会をもたらす。

 こうなってくると、結婚しないのはもうマイノリティーではなく、堂々、社会での生き方の一つになったのだから、独身を揶揄するセクハラ用語は使えない。むしろ結婚する方が「なぜするのかを明確にする必要がある」。婚活、就活、妊活、終活など、筆者が若いころにはなかったマニュアルが流行るのは、意図的に構えてやらないといずれも手に入らない時代になったからであろう。団塊世代の筆者らは、受験勉強も普通の勉強で「受験活動」ではなかった。筆者は予備校も塾も行ったことはない。しかし、今の試験問題はクイズみたいで、普通の勉強では受からないのだと聞いた。では、結婚も敢えて「婚活」をやらないとできないのか。やれやれ。

 しかし、、この社会問題は、少子化政策、産業政策、労働政策などではよく議論されるが、独身を選んだ人の生活の質、性癖、文化などについては「余計なお世話」なのかどうか、十分な議論がされていない。もしかしたら、リベラチェのように、性的マイノリティーが増えているのかもしれないが、そんな統計を真面目に扱った役所はない。だが、民主主義が良くも悪くも徹底し、結婚という社会制度をも個人の選択によって忌避されることが大きくなっていけば、生涯独身の真の理由を、いつまでも「非正規が多くて経済的に結婚できない」「生活が便利で結婚する必要性がない」というありきたりの指摘で、真に行うべき政策のチャンスを逃してしまう可能性がある。少子化対策も、実は真面目に人口対策をすべきところ、焦点を外して、子育て環境政策で誤魔化してきたから、効果を上げていないのと同じことがまた起きるのだ。

 若い人のセクシュアリティを明確に把握する必要がある。同時に、独身者の心理と社会的影響も、独身層が大きくなれば政策課題になり得る。独身者の少なかった筆者世代が若いころは、独身者の気質として「他人に厳しい」とよく言われたが、それは真実か。「子供を嫌う」。それも真実か。独身が消極的選択ならば、政策立案の余地がある。独身を積極的に選んだ人生ならばそれは良しとすべきだが、ならば、リベラチェのように、人にやさしく、子供を愛する人間であってほしい。筆者は、リベラチェのような独身者の多い社会ならば、もはや、政策の出る幕は無かろうと信ずる。

 リベラチェは独身の鑑である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リベラチェ アット ハート(26)マザコンという生き方

2018-05-24 08:13:45 | 社会問題

 ママーズ・ボーイ、和製英語ではマザコンは、リベラチェの代名詞でもあった。ロンドン訴訟でも、ゲイと並んで論(あげつら)われたのは、彼のマザコンぶりである。リべラチェは逆に「母の健康を脅かす誹謗中傷」と明言して提訴に踏み切った。この頃、つまり1950年代の彼の音楽番組で母の日特集を行ったことがある。リベラチェは、「私にとっては毎日が母の日です」と言って、母に捧げる歌として「あなたが全て白髪になっても、僕の愛は変わらない。あなたの目、あなたの姿は美しい・・・」とうたいながら、例によって最後は母フランシスの頬にキスをした。まるで、恋人である。いくら何でも食傷気味だ。

 マザコンは、日本では、90年代初頭のテレビドラマでマザコン冬彦さんが世間に流行り、以降、独立できない男の象徴として否定的にとらえられてきた。しかし、アメリカでは、母思い、母を大切にすることはどちらかと言えばいいことである。世界的には、家族を大切にするラテン系や、男系重視のインド、中国、韓国などは、むしろあからさまに母親に愛情を示す傾向がある。南米の慈母マリア崇拝はその象徴である。また、筆者が住んだインドでは、20代になっても母親と寝ている男性がいたり、公園などで、男性同士が手をつないで歩いているのをよく見かけた。だからと言って、マザコンやゲイの現象だと言うのは早計で、それが当たり前の文化なのだ。日本人も、筆者の世代では、酔っ払って男同士が肩組んで歩いているのを見た外国人が、日本はゲイの国と誤解していたのと同じだ。

 マザコンと言えば、またぞろフロイトやユングの登場になるが、彼らの説はもう学問的に支持されていない。そもそも心理学者の書いたものは検証不能なものが多く、こういう育ち方をするとこうなる、の類は矛盾だらけの例証で、結局確かなものはない。むしろ、パラサイトシングルなど多くの流行語を生んだ山田昌弘氏のような家族社会学のアプローチの方がはるかに納得がいく。社会学的に観れば、マザコンが当たり前のイタリア系と婿入り婚伝統のポーランド系を家族の基礎にし、貧しい移民家族が結束して生きてきたリベラチェのマザコンは、当時のアメリカ社会が作った産物であることは頷ける。

 さて、冬彦さんはフィクションだが、日本の実在人物でマザコンと言われる人は誰であろうか。筆者は、限られた情報によれば、時代は古いが森鴎外がその一人ではないかと思う。1862年生まれの森鴎外は、石見の国津和野(現・島根県)の出身で、代々続く藩医の家系を母峰子が継ぎ、長州から父静男を婿に迎えた。峰子は士族の誇りを持つ、凛とした美しい女性であった。鴎外が藩校を終えた10歳の時に一家は上京し、彼は12歳で東京医学校(現・東大医学部)に入学する。

 鴎外は、ドイツ留学、小倉への赴任時代を除き、峰子が亡くなるまで同居していた。峰子が鴎外に最も大きな影響を与えたのは、1899年(明治32年)、陸軍省の第12師団軍医部長として、九州小倉に赴任するときのことだった。鴎外はこの「左遷人事」に悩み、陸軍省を辞めようとまで考えた。同期が軍医総監に昇進する中、地の果てと思われる遠隔地へ赴任するのである。彼が文学に熱中したからだとか、理由は様々だが、鴎外はドイツ留学以来、医学の研究を許されず、得意のドイツ語を駆使して翻訳ばかりやらされていたのも不満であった。しかし、峰子の一言は彼の辞意を吹っ飛ばした。「ここは忍耐。辞めてはいけない」。

 結局鴎外は3年後東京に戻され、同期より8年遅れで軍医総監まで上り詰めたのだが、峰子の判断は正しかったのである。また、峰子だからこそ、失意の鴎外を支えることができた。鴎外は、東京では、文京区千駄木に観潮楼と名付けた大きな邸宅に30歳から60歳まで住み、父母と祖母も同居していた。留学後の最初の結婚は長男をもうけたが1年半で離婚、小倉時代に18歳下で稀代の美人志げと再婚し、新たに3人の子を育てた。鴎外は、役人として上り詰め、文豪である上にもうひとつ、当時珍しい「教育パパ」であった。子供をかわいがり、かつ時間表を作って自分も子の教育に携わった。峰子から教わった家庭の在り方をさらに近代的な発想で実現したものと思う。

 峰子の存在とドイツ留学は、鴎外の女性に対する考え方を確立させた。彼は女性の能力に敬意を払い、観潮楼で行っていた歌会で樋口一葉を見出し、称讃したのも彼だ。また、平塚ライチョウ等が創刊した女権論の「青鞜」を高く評価し、妻志げにも投稿させた。当時の知識人や文化人では、極めて異例である。それも、母峰子への尊敬の念が女性への敬意に繋がったと言える。

 このことは、ライバル夏目漱石と比べると、面白い。漱石は、赤子の時に養子に出され、その後実の父母の下に返されたが、子供時代は愛情に飢える寂しい日々を送った。帝大教授の名誉を捨てて朝日新聞の専任の小説家となった彼は、悪妻と言われた妻や子供たちを邪魔者扱いにして執筆にふけった。彼は、鴎外が生まれながらにして持っていた「家族」という財産に恵まれなかった。だから、漱石の女性観は、鴎外のような敬意に達してはいない。ただし、斜に構えた漱石の小説の方が圧倒的に面白く、現実直視型の鴎外よりはるかにファンが多い。

 鴎外と言えば、リベラチェよりもまた一世代上だ。どちらも、信頼する母親を持ち、その上でゆるぎない業績と名誉を遺した。二人とも生涯にわたって女性を大切にしている。マザコンの功は罪をはるかに上回る。リベラチェは母の死から7年、鴎外は母の死から5年で世を去った。母親の影を肯定する天才の人生であった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リベラチェ アット ハート(25)若作り

2018-05-22 09:08:33 | 社会問題

 リベラチェは「世界が恋するピアニスト」の名に合わせようと、若作りに腐心した。禿げにはウィグを用い、顔のしわはフェイスリフトで伸ばした。その上に眼や身体の部分も整形したと伝えられる。リベラチェの豪華な衣装に影響を受けたエルビス・プレスリーやマイケル・ジャクソンも整形をしているので、エンターテイナーの世界では当たり前なのかもしれない。しかし、その背後には、アメリカ社会の「活躍する人は若くなくてはならない」という文化があるから、少なくとも若く見えることは必要でもあり、下手すれば呪縛となった。

 現在日本でも流行りのアンチエージングは、90年代ではエイジレスという言葉で同じように使われていた。勿論、アメリカから来た言葉であり、アメリカでは、開拓時代から、「若い国」であり続け、「若い」の価値は人一倍大きい。日本は戦後、アメリカの流行を追ってきた国だが、そもそもは、孔子曰くの「四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳より順う(したがう)」の国であったはずだ。つまり、齢を加えるごとに熟していく人生を手本としたのである。

 「源平盛衰記」に出てくる源氏の武将熊谷直実は、齢を隠すために白髪を墨で塗り、平敦盛の首を取ったが、自分の息子くらいの少年を殺したことに苦しみ、出家した。熊谷が若作りしたのは、闘う相手に遠慮をさせないためだった。とりも直さず、年取った者は敬われることを示唆しているのである。日本では、アメリカのように、老いに抵抗する文化があったのではない。むしろ、吉田兼好のように、仏教徒と俗世間の間に位置し、庵を編み、諸行無常を悟りながら高齢人生を生きることが「美」とされてきたはずだ。なぜ、若作りの国アメリカの文化に追従する必要があろう。

 兼好法師に言わせれば、「毎日、血圧や糖尿病の値を測定して怪しい薬を呑み、医者通いするは、かたはらいたし」だ。ましてや、「髪を染め、紫外線よけの覆面をし、美肌のために怪しい美容液を使うは、よからぬことなり」だ。自分の齢を喜んで受け止め、頭と心を豊かにするのが日本人ではなかったのか。アメリカは、独立戦争をし、南北戦争をし、世界を席巻し、その過程で、民主主義や資本主義や科学を育ててきた。世界を牽引する新しい価値を生み出すのがアメリカの役割であり、アメリカは若さを必要とし続けたのだ。だから、社会で活躍する人は若さにこだわってきた。

 歴史的背景の違う日本がアメリカの社会的価値をそのまま受け容れる必要はない。アンチエージングは、究極の間違ったアメリカナイゼーションである。だが、筆者の思いとは逆に、「人生百年時代」というアンチエージングの目標まで政府は掲げた。この社会は一人の人間に百年分の喜びとサービスを提供する力はない。雇用も、社会貢献も、豊かさも失って、70歳代の健康寿命以上、皆が皆あと20数年を生きろと言うなら、被介護人生に代わる喜びとサービスのある人生を提供できなければならない。それもできないで「さしたる考えもなく、アメリカの価値を採り入れるは由々しきことなり」と兼好法師は言うであろう。

 さて、話はそれたが、リベラチェはアメリカ人だ。しかも、イタリア・ポーランド系という不利な移民家族から出て、大きなアメリカンサクセスを手に入れた人である。子供の時に馬鹿にされた女々しさが、むしろ、美しい青年として育ち、「日常的なことから逃れるためにピアノの世界に入り浸った」と彼がインタビューで答えた、そのことが彼の最高の技能を作り上げた。自分の美しさと技術に気付いた彼は、次々とチャンスに恵まれ、テレビ時代の寵児になった。そのころには子供の時の言語障害も克復し、なめらかな優しい語り口を覚えた。リベラチェが自分の腕一本で成し遂げた若き日の人生を失くたくないのは当たり前だ。彼は、若くあり続けたかった。アメリカ人の成功者なら当然の考えだ。

 美容整形、派手なコスチューム。それらは、リベラチェを若く見せることができた。そして、彼は回春を若さのために必要とする。アメリカの成功者はみなそうだ。トランプ大統領だって例外ではない。現在の夫人は24歳下の元モデル。ケネディ大統領はマリリン・モンローを愛人にしていた。著名な銀幕のスターや歌手が何度結婚を繰り返しているか、言うまでもない。男性の場合はそのたびにより若い女性が相手となっていく。アメリカはそれでいい。アメリカンサクセスとは、若い仕事、若い配偶者もセットになっているのだ。だから、57歳のリベラチェが16歳のスコット・ソーソンを恋人にしたのは、むしろ当たり前の成り行きだった。

 リベラチェが若さにこだわった証拠は、スコットに対し、リベラチェの若き日に似せて整形手術をさせたことだ。自分の若い姿を自分の手元に置いておきたかった。スコットは「自分人形」だったのだ。小さい時に女の子のようにぬいぐるみを抱いていたリベラチェは、生きた人間を自分人形にして傍らに侍らせたのだ。スコットが薬物におぼれていく理由がここにある。スコットはリベラチェが若さを保つための回春の道具に使われたわけだが、世の天才をたまたま支える側にいた人間の悲劇と言えば悲劇だ。しかし、リベラチェは、もとよりおとなしい性格で、家族を大事にし、友人も、そしてファンも大切にした。唯一彼に恨みを持っている人間と言えばスコットであろう。

 リベラチェの人生を思えば、なぜ彼がゲイなのか納得がいく。女の子みたいと言われて育った彼にとって、女は同朋であり、性的刺激が少なかったのではないか。また、彼の歌に「少年のとき、母が言った。坊や、結婚しなさい、幸せが待っている。僕は結婚したい女の子を探したけれど見つからなかった」というのがある。彼は、お母さんが好きで、結局母に及ぶ女性が見つからなかったのも、ひとつの理由だ。リベラチェは、綺麗に撮れた彼のブロマイドを母に贈っている。「お母さんへ。いつも愛しています」と書き添えている。男らしい写真ではなく、女性よりも美しい自分を誇る写真を母親に贈る行為はなかなか解しがたい。その美しさと若さを彼は保ち続けたかった。67歳、彼のピアノの美しさと若さあふれる技術は変わらなかったが、肉体の美しさは限界にあった。若さと美が朽ちる前に、彼はこの世を去った。アメリカ人らしい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リベラチェ アット ハート(24)ポーランド系

2018-05-16 09:45:21 | 社会問題

 リベラチェの名前はイタリア語であるが、彼はイタリア人である父親よりもポーランド人の母親フランシスの影響を大きく受けている。リベラチェの明るいハンサムな顔は父親譲りのようだが、母親も若い時の写真は美しいポーランド娘だったことが分かる。

 ポーランドは中世には大きな国であったが18世紀には分割され、第一次大戦後共和国として独立したものの、再び、ナチス・ドイツとソ連に占領された。今のポーランドは第二次世界大戦後、ソ連側の共産主義国として復活した後、日本人によく知られるワレサ元大統領の運動によって民主主義の国となった。現在はNATOに属し、ロシアに対抗している。

 第一次世界大戦前までの分割時代に、多くのポーランド人がアメリカに移民した。その数は百万と言われる。現在その子孫は一千万と推測され、主にデトロイトやシカゴなどの中西部に住んでいる。今回、トランプ大統領が当選した大きな理由は、中西部ラストベルトの白人労働者たちが支持したからであり、まさにその支持者の多くがポーランド系アメリカ人である。イタリア系と同様、エスタブリッシュメントからは、侮蔑され、遅れて来た移民の歴史を持つ。その影響が今日まで続き、貧しい労働者たちが、白人間の差別を解消してくれるであろうトランプに期待をかけたのである。

 ポーランドはスラブ系に多民族が入り込んだ国である。スラブ系は、ロシア人にもよく見られるように、中年になると極端に太る。これは寒い地方でバターなど油を沢山使うからであろうと思われる。また、目は奥二重で一重に見える人も結構いるし、この地域伝統の固い枕のせいか、ヨーロッパ人特有の長頭系の頭でなく、短頭系の頭をしている人も多い。したがって、日本人には親しみやすい風貌である。ワレサ元大統領を思い出していただけば、イギリスのチャールズ皇太子などとは違った西洋人であることが明白である。筆者のミシガン留学時代の友人トムは、デブで典型的なスラブ人だったが、数学を専攻しながら、「数学で語る宇宙は美しい。日本のワビ・サビも美しいんだよなあ。ねー、僕って日本人に見えない?目は一重だし」と言っていたのを思い出す。また、彼は、ポーランドを旅行して「ポーランド人の鼻って、丸太みたいで、僕のと同じだった」と感動していた。

 ポーランドは、婿入り婚の伝統がある。日本で嫁姑の仲が悪いことは当たり前と思われているが、ポーランドでは婿姑の仲が悪いのだそうだ。外者を排除するのは、世界中どこでも同じということを意味し、女だから、男だからという理由ではない。この婿入り婚の伝統や、リベラチェの父親が愛人をつくって出て行ったことを考えると、リベラチェ一家は母親中心の家族だったと推察される。父親の影が薄いとゲイになるという説もあながち否定できない。

 リベラチェはハーフ・ポーリッシと自ら言い、ポーランド系であることを誇りにしていた。ポーランド出身のショパンをこよなく愛し、コンサートには必ずショパンを選曲し、彼のトレードマークの燭台は、ショパンを描いた映画「思い出の歌」のシーンから思いついたものだった。もう一人彼が尊敬する音楽家は、世界的ピアニストで、しかも音楽家としては珍しく、第一次大戦後のポーランド共和国の首相になったイグナツイ・パレデフスキである。パラデフスキがアメリカ滞在中に、直接7歳のリベラチェの演奏を聴き「この子がいつか私を継ぐ」と絶賛したおかげで、音大の奨学金を得、貧乏でピアノを辞めさせようとした両親も彼に大きな期待をかけるようになった。そして、彼は期待に応えた。後にポピュラーに転向して父親と不仲になった話は既に書いたので、省く。

 あるゲイのジャーナリストが投稿した記事に、ゲイの声について書かれていた。彼は、仕事に疲れ、ゲイ友の数匹の猫を家に残し、癒しを求めてゲイコミューニティーに向かった。コミューニティーに近づくにつれ、電車の中では明らかにゲイたちの会話があちこちから聞こえてきた。自分もゲイである彼は、その声がゲイ特有のものであることを知っていた。その声が実際にどうなのか、彼は書いていなかったが、「テレビで見るリバラチェもこれと同じ声だった」と言う。猫語が分かる彼はゲイ語が分かると言うのか訝しいが、ゲイ仲間同士の声質は特有のものだと彼は言う。リベラチェに関して言えば、筆者の知るところ、高音も低音も絹のような感触であり、音楽的に正確な歌を唄う。優しい響きだ。

 優しい響きは、やはり母親の指南によるのだろう。母フランシスは、いつも、ピアノのそばに椅子を置いて息子の演奏を聴いていた。彼女自身もピアノを弾く人だったが、リベラチェは母親の喜ぶ曲と歌を選ぶようになったと思われる。それが女性的なのか、ゲイ的なのか不明だが、結果的に中高年の女性の人気を集めた原因はここにあると思われる。女性は、特に、中年以上になれば、心に静かに溶け込んでいく曲を欲しがるのである。

 母フランシスが唯一リベラーチェに禁止したのはロック音楽だったが、ロックは若者の音楽であり、リベラチェの客層と異なる。フランク・シナトラもまたロックは避け、女性のファンを持続的に楽しませる曲を選んできたと言う。これに対し、リベラチェ没後の90年代に活躍を始めたポーランド系アメリカ人のマリリン・マンソンは、ハードロックを基本としている。マンソンについては、激しい「アンチ・キリスト」の歌で知られ、キリスト教原理主義者がそのコンサートを阻止しようとしたり、デモを行ったりするほどだ。マンソンは厳粛なカトリック家庭で育ち、無神論のニーチェに刺激され、宗教に反発した。かつて銃乱射事件で多くの犠牲者を出したコロンバイン高校事件は、マンソンの歌に刺激されたとして一時期、彼を犯人扱いにすることまで起きた。

 同じポーランド系でも時代が違えば才能の発揮の仕方が違う。リベラチェにマンソンのような反骨精神や激しさは見られない。リベラチェはイデオロギーや感情を内側で処理する人だ。リベラチェは貧しい移民家族、母親愛、家族愛、人々を大切にするなどの古き良きアメリカ価値を守った人であり、その意味では、永遠に戦後のアメリカ文化を高揚させた功績は忘れられない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする