2001年1月6日、橋本元総理懸案の省庁再編が実現した。この再編は誰も喜んではいなかった。政治家にとっては、行政改革の要である財政効果は期待できず、官僚にとっては、局・課の減少により、部下なしの独立官職が増えて窓際族が増えた。地方公共団体は何処に問い合わせすべきか迷い、巨大官庁となった合併後の省では、決定が遅くなった。
かつて第一銀行と勧業銀行が合併し第一勧業銀行になって以来、人事部は長期間二つあったと言われる。合併した官庁でも同様に、人事課長と参事官を置き、夫々の省の人事を別々に行った。一人だけとなる事務次官は夫々の省が交互に出すのが当たり前になった。縄張り意識と「うちの会社」意識の強い各省の職員はアイデンティティ危機にも陥った。親睦会やOB会は出身省別に組織された。
厚生労働省でも、コーセーショー出身が「労働組合と酒ばかり飲んできた労働省と付き合うのは御免だ」と言えば、労働省出身が「おとなしくて大蔵省言いなりの村社会と付き合うのは退屈だ」と言った。コーセーショーは1970年の団塊世代採用に当たって、当時力を持っていた明智人事課長が「おとなしさからの脱却と競争するキャリア」を目指して新たな省風を作り出そうとしたが、団塊世代以降は、一様に賢くソツのないのが特徴で、期待した「剛の者」は出現しなかった。世の中も、戦後世代に「剛の者」を求める風潮はなかった。
戦後コーセーショーの剛の者とあえて言えば、医療費抑制に取り組んだ村岡次官と収賄事件で失脚した中谷次官であろう。しかし、その後は個性の強い人物は登場せず、労働省との合併で事務的にやたらに忙しい無味乾燥の省になっていった。それは、霞が関全体にも当てはまる。21世紀に入って、政治家の「政治主導」がやたらに叫ばれるようになったが、官僚たちは、政治家の下手な主導を冷笑しながら、戦いを避ける傾向が出来上がっていた。大量生産・大量消費時代の教育と文化を身に着けた団塊世代官僚の限界であった。
鬼頭次官は、後継者を八木にしようと試みたが、労働省出身者の間で八木の評判がことさらに悪く、諦めて八木を社会保険庁長官に据えた。社会保険の職員組合は、団交で、「超過勤務のルール厳守、適切人事を乱さないこと」などを八木に署名させ、八木の手足を縛った。「結局俺は仕事をしてはいけない、人事も勝手にできないということか・・・」。血の気の多い八木は、ここに来て初めて歴代の長官が坐り心地の悪い椅子にただ座らされてきた事実を知ったのである。「見てろよ、そのうちに・・・」。八木は、出っ歯の歯を剥いて、悔しがった。
2001年、小泉純一郎元厚生大臣が総理大臣に就任した。厚生大臣経験者で総理になったのは、鈴木善幸、橋本龍太郎に次いで三人目であった。小泉はその颯爽とした風情に加え、決断は速く官僚を信頼したので、コーセーショーでは人気があった。しかし、小泉はもともと大蔵族であり、その後の小泉改革において、医療保険・介護保険の改革は財務省ベースで進んでいくことになった。「痛みを伴う構造改革」を標榜し、大統領的手法で次々に財政再建の手を打っていく小泉総理に厚労省は後追いするしかなかった。
その翌年、鬼頭は省庁再編で長くなった自己の事務次官職を退任するにあたって、熟慮の末、松田を財政問題の改革が進む保険局長に、竹林を2004年に予定されている年金改革を担う年金局長に当てる人事をほぼ決めていた。しかし、横やりが入った。自民党の香山利三である。娘美津との縁談を無下に断った松田の昇格はならぬと主張した。
松田は鬼頭に呼ばれる。「来るものが来たぞ、松田君。香山先生が君の人事はまかりならぬ、と」「私は、もうこれ以上務めるつもりはありませんから、どうでもいいです」「どうして、君はそう変にクールな人間なのだ」「桜井も昨年出馬を辞め、今は障碍児のための共同ホームづくりをやっています。彼に感化されました。私も、次の人生を決めました」「何をするのか」「辞めるまで話しません」「だが、今辞めてもらっては困る。八木が社会保険庁の職員組合といちいち軋轢を起こしているので、君に代わってもらいたい。社会保険庁長官なら、香山先生も何も言うまい」「何もしなければ良く、何かをすれば組合に噛みつかれる、そんな椅子に座りたくないです」。
「頼む。私がお前に頼むと言ったのは人生初めてだぞ」「確かに・・・私は、今まで絶対に鬼頭次官の言うことは聞きませんでしたから」「君が引き受ければ君にも平和が訪れるよ。役人生活の最期をゆっくりと過ごしたまえ。そうそう、香山先生の娘もようやく結婚したそうだから、もう邪魔は入らないよ」「リストカットはやはり芝居だったんですね。だから、私は、ますます女が嫌いになる」。