大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

日本の社会と社会政策(14)若者と老人、どちらが苦しいか

2024-06-11 09:50:29 | 社会問題

 二極化の時代である。首尾よく大学を出、一流企業に勤めて、世間的に褒められる結婚をする。それは若者の三分の一だ。かつて、70-80年代にはほぼ誰でもが手に入れた普通の生き方が今やエリートになった。若者の非正規雇用が3割強、30-34歳既婚率(男性)が5割からはじき出される数字だ。国際紛争や国内の政治不信の中、高齢になって年金や医療が受けられるかどうか分からない、子供を持ったとしても教育費を払いきれるかどうか分からない、若者は将来不安の中で現代を生きる。デジタルネイティブやJポップスのことは何も知らない年寄り世代は、若者を気の毒に思う。同時に得体のしれない若い世代を蔑視する。

 しかし、高齢者は、古き良き昭和時代をなつかしみ「我々は幸せだった」と述懐する一方、自らの生活も決して楽ではないことを痛感している。食べるだけなら安いもの、賞味期限の迫ったものを買って過ごせば何とかなる。しかし、年金だけでは、家の修理や遠出の旅行などは無理だ。節約の日々は当然にQOL、生活の質を下げていく。若者からみれば、「こんな汚い爺さん、婆さんがなんで電車に乗ってくるんだ。俺たちは座ってスマホゲームをやりたい、席なんか譲らないよ」「なぜ我々がこんなヨレヨレのために、年金や医療の保険料を払わねばならないのか。俺たちの方がよっぽど疲れている」。かつての敬老精神は微塵もない。

 これは、若者が悪いのでも、年寄りが悪いのでもない。政治の貧困が原因である。9割が中産階級意識を持ち、平等と豊かさを実現した先進国日本が90年代初頭のバブル崩壊以来、経済政策を失敗し、これでもかこれでもかというくらい、失敗の上に失敗を糊塗し、それと連動して人口構造は少子化でますます先細りになっていく。国の借金、国民一人当たりの国内生産、少子化率、すべて、G7の中で最悪だ。90年代の不良債権処理も、小泉内閣の市場原理政策も、民主党政権の期待に比して無策ばかりも、アベノミクスの異次元の金融緩和も、すべて経済を劣化する方向に働いた。その中で、政治とカネの関係だけが延々と続いてきたとは許容されるべきではない。野党も、特権をかなぐり捨てるつもりはなく、新たな政治へのコンセプトもなく、同罪だ。

 社会の二極化は、若者の中での二極化だけではない。老老格差も大きい。財産をなした人や相続で資産家となった人、夫婦で働いて比較的大きな年金をもらっている人などは、その日暮らしの一般老人などとは異なる。そして、若者と老人の世代間対立に見る二極化は言うまでもない。これに、最近の世界的傾向である多様性が加わって、何が標準かは分からなくなっている。長年の経済政策の失敗と人口減少に対応する有効な社会政策の失敗から、最近の論調では、資本主義の終焉を唱える学者が多く出てきている。資本主義を否定するなら、一足飛びにマルクス主義に帰るという論客も新鮮に受け止められている。例えば、「人新生の資本論」を書いた斉藤幸平氏であり、「人口ゼロの資本論」を書いた大西広である。

 確かに、気候変動や人口を扱うときに、需要供給が出会う市場での解決は難しい。人々は社会全体の需要よりも個人の需要で動き、供給は大きな投資を要するために大きな政治的決断が必要だろう。近年、アメリカの政策に寄り添う政策はあっても、大きな政治的決断が行われた政治はない。かつてなら、石橋湛山の小日本主義、今流に言い換えればジャパンファーストだったり、田中角栄が列島改造論で示した、日本の地方開発だったりしたが、小粒の世襲議員たちは家業の継続にだけ汲々としてきた。日本という子会社はアメリカという親会社の指示を仰がねば何もできない。だから、極端な円安だからと言って、アメリカの国債を自分の判断で売ることすら禁じられているのだ。

 マルクス経済学がより良い政策に導けるとしても、日本人の多くは共産主義社会を決して目指さない。文化大革命の粛清やロシアの赤い貴族の腐敗を歴史で十分学んできたからである。マルクス主義の政治体制への応用は危険だ。もしかしたら、マルクスも望んでいなかったのに、レーニンや毛沢東が勝手にやったことかもしれない。しかし、例えば、国際関係論でも、現実重視や国際協調主義とは別にウォーラースティンというマルクス主義の学者が歴史的にマクロ的に世界をとらえることを教えている。マルクス主義は、目先の問題の解決に拘泥せず、もっと大局からの解決を目指す。その手法は採り入れてもいいだろう。

 トマ・ピケティも「21世紀の資本」のなかで、水野和夫も「閉じてゆく帝国と逆接の21世紀経済」の中で、現代の資本主義の行き詰まりを説いている。それに代わるのが、必ずしもマルクス主義を実践するものとはならないが、経済政策も社会政策も同じ過ちを繰り返すならば政治の意味はない。介護を社会化したように、保育を社会化したように、人の手を離れて、大きく前進する経済政策や社会政策のためには、個人を凌駕する社会の観念から政策を作り直す必要があろう。若者と老人のどちらを救うかという問題ではなく、両方に利する政策は、市場経済の理屈を超え、社会を前面に出したイデオロギーを要する。

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日本の社会と社会政策(13)都知事選、総選挙に望まれる社会政策

2024-06-04 10:03:44 | 社会問題

 日本の政治は、目下のところ、公明、維新の協力を得て政治資金規正法を成立させて一息つき、都知事選は二人の女性候補がアンチ自民と忌避自民を掲げて戦うのを見守ることになる。というのが、現時点での状況だが、国民は、岸田首相のパー券5万円上限の決断で党内混乱を招き、個人攻撃以外に争点がはっきりしない都知事選に厳しい評価を下している。国民の行動は、選挙に行かないの結果を招く可能性が大きい。しかし、それでよいのか。

 失われた30年を日本は抜けきっていない。90年代バブル崩壊後に訪れたデフレは、銀行の破綻と低迷、非正規雇用が生んだ勤労意欲の低下、さらに、21世紀になって、アンチ自民の受け皿民主党の自滅、異次元の金融緩和による財政規律のゆるみ等、次々に日本は下方修正の避けられぬ国になるべくしてなった。これは、ひとえに政治の貧困であり、自然に下り坂になったのではない。もうどんな政治を選んでも無駄、だから、選挙に行かないという結論になれば、座して死を待つのみとなる。GDPはIMFによればインドに抜かれる予定で、世界5位。国民一人当たりGDPは世界32位。かつては、それぞれ2位と1位だったのだ。さながら没落貴族の感がある。

 国政にも都政にもスーパースターが現れてほしいが、ないものねだりで叶わぬなら、三人寄れば文殊の知恵で、複数の優れた意見を組み合わせてトップの為政者に実行してもらうしかない。まずは時間的に近い方から都知事、次に総裁選後解散の蓋然性が高い与党総裁(多分、これまでと異なる複数の連立となろう)に望まれることを挙げる。都政は、鳥瞰すれば分かるが、明治神宮や六義園など大名屋敷跡や皇居などをそのまま活かして防災都市づくりをすべきである。首都圏の神奈川、埼玉、千葉と一体となって、政治以外の一極集中を分散させる。

 都政においては、国の制度だが国が逡巡してできない政策を実施してみせるという手がある。就学前1年の児童に対し実質的に学齢に達した内容の教育を小学校と連携して行い、1年早い分を義務教育の課程9年の間で実践教育(世の中見学)に振り向ける。都立高校に職業教育を増やし、選択で4年目の課程を作り、職業人としての都民をつくる。大学へは厳選された学生のみに返還不要の奨学金を付与する。職業教育に欠けた現在の前期・後期中等教育を改め、教養の能力・研究能力に欠けた大学大学院にインパクトを与え、全国の動向を引っ張っていくのが東京の教育ではないか。

 東京都は、少子化政策においては、財政力があるため、保育料補助や学童保育の充実、さらに障害児保育など他の自治体に及ばない内容を誇ってきた。しかし、これからは、教育に力を入れ、東京に優秀な学校があるからではなく、東京都の誘導で研究者や職業人の養成を行っていくべきである。社会政策は工夫次第で自治体の判断でできるものが多いのだ。かつて小池都知事が発言したベーシックインカムの導入、つまりは給付付き税額控除のことだが、これは制度の壁が大きすぎるので自治体ではできまい。だからと言って、代わりに、現金バラマキ政策をやるのは、国の猿真似でしかなく、避けるべきだ。

 東京は、合計特殊出生率がダントツに低く、50歳時生涯未婚率がダントツに高い。また、一方で、億単位のタワマンに住む人もいれば、他方で、生活保護の受給率は2%近くあり、その保護費は単身者で月10万円余り。都民の二極分化が進んでいる。保育所以上に高齢者施設に入所する待機が多く、さまざまの社会問題に対し、首都でありながら解決していないものが多い。地域における人と人とのつながりが欠けるのも東京の特徴であり、子育てする人や高齢者の日常生活は共助に欠ける。その中で、必要なのは、男性には結婚、女性には仕事である。男は仕事、女は家庭という、かつての考えは、現今では、男性に近い人とのつながりを失わせ、女性に社会からの乖離をもたらした。男性に対する結婚事業も、女性が働きたくなる仕事の提供も、東京には特に必要である。

 さて。都知事選の後は解散総選挙の後の政治に注目が集まる。自民は相当に票を落とすが、維新や国民民主との連立も視野に入ってくるだろう。その場合、90年代の自・社・さ政権のように、自民以外から総理を選んだ方が、難題解決に向かう可能性が高い。垢のついた自民の総理候補のどの顔を見ても問題先送りタイプだ。日本が蘇るためには、若者政策を掲げ、筆者が常に提言しているように、年金積立金の一部を若者のために保有すること、相続税を引き上げ、若者の税・保険料の負担緩和に使うことで、まずは若者の経済基盤を固めるところから手を付けるべきだ。「すべては若者のために」ができるかできないかが国政の立ち直りにかかっている。

 これから、都知事選には第三の候補者が出てくる可能性はあるし、自民党が分裂する可能性も無きにしも非ずだ。事情はどうあれ、社会の基盤をどうするか、社会政策に乗り出すリーダーこそが苦境に立つ日本の政治に望まれる。

 

 

 

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日本の社会と社会政策(12)女の戦いより、社会保障モデルの変更を

2024-05-28 09:15:33 | 社会問題

 都知事選は、今のところ、小池百合子対蓮舫の女性対女性の対決になった。二人とも、かつては可愛らしい姿でキャスターを務めていたことは同じで、小池氏は貫禄と脂肪がつき、蓮舫氏はモデル出身だけあって身体のメンテナンスはできているが、魔女の形相になった。一人は学歴詐称、一人は国籍詐称が常にまとわりつく。しかし、都民は、アメリカで超高齢者同士の大統領選が免れぬように、詐称はさておいての対決を甘受しなければならないのか。それでも、総理に次ぐ日本のポストに、女性同士の対決が行われるのは、フェミニストにとっては喜ぶべきことなのか。

 否、喜ぶべきことではない。日本で上り詰めた女性は、男性社会をうまく利用して、男性社会を否定せずその賛同を得て地位を獲得してきた。女の姿でありながら「名誉男」として存在しているのである。アメリカで上り詰めた黒人が「名誉白人」になるのと似ている。だから、NHK朝ドラのモデルである弁護士・裁判官三淵嘉子のように、制度の壁にぶつかりながら苦労して世に出た人とは異なり、女性全体の底上げに努力するようなタイプではない。男が脱帽する艶めかしさを武器に、男を踏み台にして上ってきたから、自分のための地位であり、社会や日本のためではなく、上るために必要な学問も軽視する。フェミニストが諸手を挙げて歓迎する輩ではあるまい。

 トップの女性がそうだから、永田町にも霞が関にも、ジェンダーの視点から不合理と考えられる社会政策を必死になって遂行する女性は少ない。少子化政策の失敗は、為政者が、男は「女子供の仕事」を忌避し、女は「自分のように立派な女をつくる」ことを目的にしたことによる。女性の社会進出については一定の効果をもたらしたが、女性の多い保育や介護の現場の報酬が一向に良くならないのは、そのために働く政策決定者が少ないからだ。むろん、日本の発展のためであり、女性が受益者だから女性が行うべきというのではない。性に関係なく、社会科学的に正しい政策決定が行われなければならないが、政策を実現するには強い思いを持った推進者が必要であり、女性の思いを共有できる女性の存在は大きいと思われる。

 社会保障制度は、徐々にジェンダーの観点から改正されてきた。かつては、給付開始年齢も男女で異なり、国民年金(今の基礎年金)について主婦は任意であり、結婚退職時に一時金で受給資格を失わせるなどが行われてきた。今では、離婚して夫婦で年金分割することも可能であり(ただし、分割後の年金が少ないので歓迎されない)、働き続けた女性は男性と変わりない年金を受給する。しかし、夫の被扶養者であることにより保険料を支払わないで済む基礎年金の制度によって、働く時間の調整が行われたり、そもそも主婦の年金権確立のために作られた、保険料を要しない第三号被保険者の制度が社会問題になっている。スウェーデンでは、遺族年金はないし、女性が外で働かない選択はほとんどない。人口の少ない国で国の政策として女性の労働力が必至だからである。超高齢少子社会の日本で、生産年齢人口が減少する中、すでに女性の労働力は必至となった。もう働く時間の調整や第三被保険者の制度を継続する余裕はない。

 岸田政権の残念なところは制度を深堀する能力に欠ける。第三号被保険者の制度を維持しつつ、働く時間の調整部分を事業者に補助し、一時的にしのごうとする。その意図は、昭和の標準である夫が大黒柱の家庭観を抜けきらないからである。実際は、父母と子供の家庭は全世帯の4分の一しかない。少数派になった昔の標準家庭をモデルに制度設計をすれば、労働政策など他の政策に悪影響を与えるのは当然だ。しかも、かつてのモデル標準家庭が減ってきて久しい。1992年には、共働き世帯が専業主婦世帯を上回るようになったのだ。これにともなって、現在、保育園児の方が幼稚園児よりも多い。だから、かつて根拠なく言われた「三歳児神話」なども消えた。

 為政者は、昭和モデルの家庭を作っている場合が多い。それこそ岸田首相もそうだ。だから、世の中の状況に疎いのだ。霞が関も、相対的に専業主婦家庭が多い。かつて公務員宿舎の近所にある小学校の先生が言っていた言葉を思い出す。「公務員の子供が多いこの学校は、平穏で、保護者もPTAなどで協力的。商店街近くの小学校と比べると、楽しています」。だが、永田町の高給取りや霞が関の安定収入の家庭を当たり前として制度を作ったら、世間との乖離は甚だしい。社会保障制度は、夫が大黒柱のモデルで構築されてきたが、今や、少子化政策で人口が増える可能性が少ないなら、女性や働ける高齢者の労働市場を確実なものにしなければならない。どんな生き方をしても、生き方に中立で公平な個人単位の社会保障制度に作り替えていかねばならない。家族単位、特に昭和の標準家庭をモデルにした制度は耐震度ゼロの家みたいなものだ。

 もしかしたら、左翼フェミニストと結果的に同じ意見かもしれない。しかし、少なくとも、今回の都知事選は、女性が期待できる政策は出てこないだろう。野心ある戦いの人同士、「武」の戦いになるが、筆者は、男でも女でも良いが、制度の深堀ができ、学問を重視する「文」の人が第三番目に出てくることを期待する。

 

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日本の社会と社会政策(11)水原一平の病気と政治の病気

2024-05-21 09:32:29 | 社会問題

 閉塞感の強い今の日本に夢を与えているのが、野球界の大谷翔平と棋界の藤井聡太だ。エベレストと富士山のようなもので、誰もかなわない、地殻変動でもない限り孤高の才能を発揮し続ける存在だ。その大谷翔平に泥を塗ろうとしたのが通訳水原一平。大谷の人気にあやかって彼も一時は称賛の的であった。それが、一変して、違法賭博で、大谷の預金から使い込んだ。すでに司法取引をして、罪を認める代わりに刑期を短くしてもらい、ギャンブル依存症の治療を受けることも承諾している。

 ギャンブル依存症の医学的定義は、アルコール依存症の治療で名高い久里浜医療センターによれば、ギャンブルの衝動を抑制できない衝動を持つ病気だという。水原のような桁外れたギャンブルでなければ、日本はちょっとしたギャンブル依存症の国ともいえる。パチンコ屋は居酒屋よりも流行る。ただし、かつてほどではない。90年代に総務庁が発表したパチンコ業界の規模は30兆円だったが、現在では、レジャー白書によれば15兆円弱で、コロナの影響も大きいが、パチンコ玉の総量規制(射幸心をあおる大量の出玉を規制する機械の設置)なども原因であろう。

 筆者が働き盛りの90年代では、新橋で、飲み会には来ない連中が一斉にパチンコ屋に向かっているのを見た。翌朝、しばし、その会話が行われる。「もうけた」「すった」。時には35万儲けた話も出てくる。パチンコプロを自称する人からは、景品を売った金の小遣いで生きていると自慢していた。ほとんどは、年間換算では、マイナスになるとのことだったが。そのころから、女性も見かけるようになったし、中には、子供を負ぶったままパチンコに興じているお母さんもいた。

 終戦後の白黒映画の中で、笠智衆が「パチンコが流行る日本は、もう終わりだ」とささやくシーンがあったけれども、戦争に駆り立てられボロボロになった日本国民の小さなレジャーは終わらなかったどころか、発展して国民的遊戯になった。しかも、一定の範囲で遊んでいる限り、パチンコは、飲酒や喫煙と変わらぬ嗜好品だ。一部で日本はこれを以てギャンブル大国という意見もあるが、それは違う。日本には、今のところ、ラスベガスやマカオのようなカジノはない。2018年にIR実施法、つまり、カジノを含む統合型リゾートの開業を許す法律が成立したが、横浜、長崎など候補地でも、未だに賛否両論があり、リニア新幹線と同様に遅々として進まない。

 競馬、競輪、競艇もファンが多く、テレビ放送の番組もあるくらいだが、カジノに反対する人が多いのは、日本人がギャンブルに偏見を持っていることを表している。しかも、世相は男性の50歳時未婚率が3割を超え、4割に向かっていることが明らかな中で、子育ての責任を負わない独身男性が余剰をギャンブルに使い、やがて世話の焼ける独居老人になっていくことに眉をひそめる人も多い。ギャンブル嫌悪は女性に多いだろう。なぜなら、広報誌「厚生労働」によれば、ギャンブル依存症は、男性8.8%、女性1.8%(全体は4.8%)で男性に多いからである。

 さて、話を水原一平にもどそう。彼は、ギャンブル依存症の治療を受けることを明らかにしている。ギャンブル依存症は、薬物やアルコール依存と同じく、精神疾患とされているので、治療法が確立している。しかし、薬物でも、アルコールでも、再発が多く、完全な治癒はない。精神疾患は、治癒という言葉を使わず、寛解という言葉を使うが、再発の恐れのある病気に用いられる。一般の病気においても例えば糖尿病も治癒はなく寛解である。薬物依存症も治癒ではなく、使われる言葉は回復である。よく芸能人が「今度こそ薬物を断ち、立ち直ります」と会見しながら、また繰り返すことを我々は見ている。

 水原は、依存症が回復しようがしまいが、大谷の口座から盗んだ26億円余を一生かかっても返すことはできまい。大谷は、26億の損害をものともしないだけの富豪ではあるが、それ以上に、さばさばと野球に向かっている姿が彼の偉大さを語る。水原は千載一遇のチャンスを得て、大谷を食いちぎったのである。そのような事件は世の中にいっぱいある。島倉千代子や江利チエミなどは、親族から金を奪い取られ、生涯を借金返しで過ごすことを余儀なくされた。有名人は、あっという間にセレブの階段を駆け上がった人が多く、その足元に金食い虫がまとわりついていることを知らないで過ごす。

 政治資金規正法の議論の中で、政策活動費を全面的に明らかするかどうかが焦点になっているが、自民党がこれを潔しとしないのには訳があろう。とんでもない足元の金食い虫に与えねばならないカネが必要なのだ。選挙のために使わねばならない虫たちの餌代だ。選挙事務所に集まってくる有象無象の中には金食い虫がつきものだ。この際、選挙依存症で、金食い虫を退治できない議員を治療したらどうか。こちらは簡単だ。歳費を国民の平均所得までに落とすことだ。「選挙で当てれば大金持ち」だから、金食い虫がついてくるのであって、真実に政策議論で日本の方向を決めていく集団を選ぶのであれば、虫食いは起こらず、日本の未来はもっと明るくなる。

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日本の社会と社会政策(10)コロナで暴露された公衆衛生の遅れ

2024-05-14 09:32:39 | 社会問題

 社会政策とは、社会問題を解決するための公的な手段、方針というのが最も簡潔な定義であろう。このシリーズの冒頭に、海外では、教育政策や住宅政策も入れた社会政策関連の統計があるが、日本では、社会保障、社会福祉、労働政策が主であることは間違いない。憲法25条には、健康で文化的な最低限の生活を営む権利と社会福祉、社会保障及び公衆衛生への国の努力義務が規定されている。まさに厚労行政の分野が中心となることは間違いない。

 その厚労分野の中でも、憲法25条も謳う公衆衛生は、今般のコロナ騒ぎがなければ忘れられた分野ではなかったか。終戦後は公衆衛生分野の結核対策が国を挙げて行われ、当時の厚生省の花形であった。抗生物質の普及や国民の栄養状態の向上などで、結核は撲滅に近いところまで沈潜し、公衆衛生対策は、ガンなどの生活習慣病対策にとって替わられた。生活習慣病は、公衆衛生の分野ではなく、その名のとおり個人の自己責任が問われ、国の役割は医学・医療の発展にあった。近年では、超高齢社会を反映して、認知症やフレイルなどの老年医学が盛んになり、その対策が国民的課題である。

 この状況の中で、新型コロナの世界的流行は、日本の公衆衛生行政に打撃をもたらした。2002から03年に中国を起点として流行ったSARSは、日本では流行することなく、やり過ごすことができたのだが、そのために2020年のコロナパンデミックへの対応に多くの間違いを引き起こした。SARSは新型コロナとは姉妹関係にあるウィルスであり、SARS対策を経験したシンガポールや台湾は速やかな対応をしたのに対し、日本は、「眠れる公衆衛生」を起こすのに時間がかかった。しかも、民間病院が圧倒的に多い日本では、対策の前線に立つ病院が少なく、ワクチンは、医療先進国でありながら全て海外からの購入に頼らざるを得なかった。

 感染症法による重篤性の高い2類に位置付けられた新型コロナが5類に引き下げられたのは昨年2023年5月。この間、ワクチンは全国民に対し、ほぼ強制的に接種され、一人当たり7回の8億8千万分のワクチンが輸入された。ワクチン接種業の予算は20,21年度で4兆2千億円、うち6割はワクチン確保費(輸入)である。一人7回も打った人はいないとみられるので、兆単位のカネが捨てられたことになろう。第一次湾岸戦争で、日本が1兆円以上のカネを投入したにもかかわらず、湾岸諸国、アメリカから何の感謝もされなかった事実を思い出す。国の無駄遣いのトップクラスだ。

 カネを出したが感謝されないよりも重要なことがある。ワクチン接種後の後遺症の事例が報告されているにもかかわらず、国がその検証に乗り出していないことだ。死亡例もあるが、コロナ死と記録されることはなく、合併症の病名を以て死因としているので、コロナとの関連が表面化していない。コロナワクチンは緊急性があって、国内で治験の行われていないワクチンを全国民に対し接種したのだから、少なくとも、緊急性のなくなった今、学問的な追跡が必要ではないか。追跡の結果が、子宮底ガンワクチンのように、科学性の乏しい後遺症であると堂々と言えるならば、国民も安心するであろう。しかし、後遺症が後を引いている状況が続いている。

 スウェーデンは、ワクチンではなく、感染して自然免疫獲得の方法をとった。インドは、人口が膨大でワクチンは間に合わないことから、結果的に自然免疫獲得に委ねた。インドは相当数の死者を出したが、いずれも、コロナは治まった。筆者は、80年代にインドで、UNICEFの予防接種事業に関わったが、ワクチンは人口7-8割の接種で、感染の経路を断ち、すべての人をカバーできるという理屈で行っていた。学問的に疑問視する科学者もいるが、実践では、功を奏してきたので間違いとは言えまい。麻疹は罹患した人の免疫は強いがワクチンの場合は弱い。マラリアは「マラリアに掛からなければ男じゃない」とインド人に聞かされたように、実は誰でもかかる感染症。体力が十分な者は治癒する。戦時中日本兵の多くがアジアでマラリアに掛かって死亡したのは、栄養失調だったからである。コロナでも、ワクチン一辺倒の日本の発想は弱かったのではあるまいか。

 スウェーデンは、医療も福祉も整った国であるが、その医療で、特効薬や抗生物質などは、やたらに処方しない。今回のコロナでも言えることだが、薬やワクチンには害毒の側面もあり、効能だけを見て使用するものではない。小林製薬の紅麹事件がそれを語っている。真の国民の健康を考えるときに、日本の対応は良かったと言えるか。何事もスウェーデンの方法を真似る日本ではあるが、この点では大いに違っている。日本では、患者が薬を欲しがる傾向は確かにあるが、出来高払いの医療保険制度では、医師が処方箋を書いて収入を得る仕組みになっていることが大きい。

 筆者の経験を話そう。筆者は2022年、コロナ陽性になった。診察時に大量の一般薬を渡され、その上に治験の済んでいない特効薬があるが希望するかと問われた。筆者は、無症状であり、薬は毒との考えだったから、断った。さらに、大量の一般薬もいらないと言ったところ、「歯が痛いときとかに使えるし、常備薬としてお使いください」と言われた。実は、駐車場まで看護師が追いかけてきて「あなたは、医療関係者ですか」と聞いた。違うと言うと「特効薬を断ったり、コロナワクチンもしていないのは、情報を持っている医療者だけですから、聞きました。でも、あなたは正しいと思います」

 

 

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