大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

2045年の浦島太郎(1)終戦の日

2023-05-30 09:44:07 | 社会問題

 私は、丹波の国の寒村に住む漁師だった。1945年8月15日、私は15歳。海は産湯のようなもので、幼少から波と遊び、抜き手を切って沖に出る日々を過ごした。15歳には既に立派な漁師で、父を上回る稼ぎ手でもあった。この日は昼頃網元の家に集まり、玉音放送を聴いた。何を言っているのかはよく分からなかったが、とにかく戦争が終わったことだけは分った。老いも若きも「これでもう心配もせずに夜も眠れる」と喜んだ。一人だけ、昔軍人だった爺さんがぽろぽろ涙を流していた。「大日本帝国もこれまでか。陛下がお気の毒だ」。

 私は、戦争が長引けば、いずれ自分にも赤紙が来る日があろうと恐れていた。漁師の仕事は死と隣り合わせだけれど、海に抱かれて死ぬのと人為の弾に殺されるのは大違いだ。いつから人は殺し合いを始めたのだろう。私は学問はないが、人が殺しあわない、毎日が静かで平和な日々を送れるような人生を求めていた。私は、村では紅顔の美少年と言われていた。今でこそ、日焼けし筋肉隆々になってきたが、生まれたときは色白で愛らしかったと母が常々言っていた。その私が思いを寄せるのは幼馴染で同い年の亀ちゃんだ。

 私は、玉音放送が終わると、ひとり浜辺に出た。そういえば、亀ちゃんは集まりに来ていなかったな。海辺にいるのかなと思いつつ歩いていると、照り付ける真夏の太陽の下で、少し頭がくらくらし、よしずの小屋にもぐりこんで、そのまま、まどろんだ。まどろみつつ、夢か現か不明な中で、波打ち際にいる亀ちゃんが私を呼んでいるのに気づいた。亀ちゃんの後ろに小舟があって、どうやら亀ちゃんはこの舟に一緒に乗ろうと私を誘っているようであった。私がふらふらと小舟にたどり着いて舟に寝っ転がると、亀ちゃんは舟を漕ぎだした。私は薄目を開けて亀ちゃんの様子をうかがっていたが、不思議なことに、亀ちゃんの着物の裾から見えていた白い美しい脚が次第に海亀の足のように変化していったのである。

 しかし、これは夢かもしれないし、特に気にせず、私は、亀ちゃんの漕ぐ気持ちのいい小舟に揺られて、ずっと長い間眠りについた。「着いたよ、太郎ちゃん」と亀ちゃんの声で目覚めたとき、我々は大きな門の前にいた。門には竜宮城の名が掲げられていた。「亀ちゃん、ここはどこ?」「太郎ちゃんは、戦争が終わって常しえの平和な国に住みたいと思っていたんでしょ。ここがその国のお城よ」。小舟を下りると、門には多くの魚が迎えに出ていた。「乙姫様、お帰りなさい」と一斉に声を上げた。「大切ない客さんをお連れしたよ」と亀ちゃんが答えた。

 早速、宮殿の豪華な大宴会場で浦島太郎の歓迎会が開かれ、金銀宝石を散りばめた椅子に座らされた太郎は、見たこともないご馳走や、タイやヒラメの舞い踊りを供された。「おなかがすいた。わあ、おいしい。贅沢は敵と言われてきたから、こんな経験は初めてだ」。亀ちゃんは舟をこぐときは自らの亀の足を使っていたが、乙姫様の姿に変身し、息をのむほどの美しさを放った。太郎は、亀ちゃんと一緒ならこれでいいやとばかり、享楽の毎日にはまっていった。

 それでも、太郎は亀ちゃんに聞いた。「ここは丹波の国から遠いの?」「亀ちゃんは丹波のおうちに帰りたくないの?」。亀ちゃんはよどみなく答えた。「ここは、昔、蝦夷の最も栄えた国が天災で海に沈み、海底都市をつくったのが起源。丹波から日本海沿いに北上して、太郎ちゃんが寝ている間、一か月かかって到着した」「俺は一か月も寝ていたの」「そうよ。もっとも、亀の小舟に乗ったとたんに、時間の観念が変ったから、太郎ちゃんには短く感じたでしょうけど」「亀ちゃんは本当は亀なの、人間なの」「かぐや姫も人間の形をした異星人、人魚姫も人間の形をした異星人、私も異星人。異星人の時間と空間は人間社会とは異なって歪んでいて、普段は存在が見えないだけなのよ。人間に分りやすいように海亀の形をとっているの。物理学を勉強するとわかるよ」「小学校卒の俺にはわからない」。

 太郎は「そうだ、日本に平和が訪れたら、俺も学校に行って勉強しよう。日本は必ず戦争に勝つとか、漁師は魚を取っていればよいとか教えられて、何も考えずに生きてきたもんな」「それにしても、お父さんお母さんは心配しているだろうな」。太郎は亀ちゃんに言った。「何も勉強していない俺だが、君に忠、親に孝だけは家訓で親に教わった。天皇の日本、我が両親のことは考えなくちゃな。ね、亀ちゃん」「おやめなさい。日本は今後百年、いったん浮上するけど、その後没落し、間接の戦争に何度も巻き込まれていく。竜宮城のような暮らしは不可能だよ。ここでずっとこの暮らしをしようよ、太郎ちゃん」。

 竜宮城での暮らしは、ただ珍しく、面白く、月日の経つのは夢のうちだったが、人間には飽食するという性癖もある。遊興生活には限りがある。谷崎潤一郎だって永井荷風だって、耽美主義を貫き、色事遊びに酔いしれたが、それは文学を遺すための手段だったからではないか。「遊びをせんとや生まれけん」は子供時代のことであって、長ずれば「志持ちて生業を営む」ことが人の宿命であることが自明になって来る。

 

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読者の皆様

2023-05-23 09:59:58 | 社会問題

 十か月にわたり人口問題に挑むシリーズ42話をご高覧頂き、有難うございました。

 岸田首相が情熱をかけた広島サミットが終わり、早速、首相は「少子化政策は消費税を引き上げない、歳出削減で対応し、社会保険料を上げる」と発言している。政策内容は94年のエンゼルプラン以来、質的変化を伴わない陳腐なものと見受けられる。しかし、岸田首相だけの責任ではない。むしろ30年間、為政者が効果ある政策に舵を切らなかった結果、先送り体質が表面化しただけの話だと筆者は考える。野党も効果的な反論ができなかったのだから、責任は同等に取らねばなるまい。

 人生百年時代と政府は喧伝してきたが、実際には百年生きるのは今でも例外的だ。しかし、親世代から学んだ20-30年の間接経験を加えると、優に百年人生を生きることになる。筆者の例で言えば、日中戦争の最中、上海の特務機関で4年半を過ごした父、塩の専売事業に関わった祖父の子として台湾で育った母の人生の歴史は、確実に戦後生まれの我が人生に組み込まれている。もっと言えば、太平洋戦争と52年までのアメリカ支配が我が人生の原点である。父が幼少時の大正デモクラシー時期に流行った歌を口ずさんでいたように、筆者は終戦後の歌を無意識に口ずさんでいる。

 幸いに筆者は子を持ち、子の世代と共に人生を過ごしてきたが、筆者の死後、子の世代が遭遇する30年の人生については、筆者が共有できるものではない。それどころか未来の30年は想像を絶する。筆者は団塊世代のアイデンティティを持つが、団塊ジュニアとその前後の世代(70-82年生まれ)は最も割を食った世代だ。団塊親から学歴をつけられ、習い事をし、物質的にも恵まれたが、社会に出ようとするときに就職氷河期に遭遇した。日本が長いデフレ不況に突入し、彼らの多くが非正規雇用、引きこもり、そして生涯独身を余儀なくされたのである。「古き良き時代」を逃げ切った団塊世代の死後、団塊ジュニアたちは少ない年金、度重なる異常気象、子孫の無い無聊さを嘆き、何の手立てもしなかった団塊世代を呪うであろう。

 現在、宇宙開発、チャットGPTや自動運転など高度AI技術の向上、食糧生産の新技術が世界で競われ、21世紀半ばの世界の変容について多くの情報が放たれている。しかし、21世紀の半ばの人々の結婚や教育や職業などは科学技術の発展ほど予測は付かない。20世紀に世界大戦に駆り出された世代、第二次世界大戦後の幸運・楽観世代(団塊世代を含む)、ロストジェネレーションと呼ばれる世代(団塊ジュニア世代を含む)のように、世代ごとに異なる経験と人生が観測されるが、21世紀に生まれたZ世代は、今世紀半ばにどんな社会経験、どんな感情を以て生きているのかはテクノロジーほど明らかにはならない。

 筆者は、いずれ人口問題に挑むのテーマの再編を記すつもりであるが、箸休めに、「2045年の浦島太郎」と題して、太平洋戦争終結から百年経たその日の人々について挑戦し書きたい。

 暫時の準備期間をおいて、再び読者の皆様のご高覧をいただければ幸甚に存じます。大泉博子                                 

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人口問題に挑む(42)21世紀の日本、人口、家族(最終回)

2023-05-16 10:16:55 | 社会問題

 10か月近くにわたって書いてきた当該テーマを今回で最終としたい。明治以降の人口エピソードや海外の状況など、エッセイ風に書いてきたが、筆者は政策論者である。情報を、官僚として政治家としてどう政策につなげるかが人生の目的であった。だから、決して学問的深さはない。情報処理に当たっては、自らが描く未来が必要である。21世紀の日本の未来を予想し、あるいは理想化し、20世紀からの来し方に学んで行く末である未来を実現しようとの意図がある。その未来とは?

 現在ちょうど岸田総理がTIME誌の特集で取り上げられ、首相の目指すところが「長年の平和主義を捨て、軍事大国にする」と評定された。首相の描く未来が一つ明らかになった。いかに首相が「それは違う。広島出身で、祖母から原子爆弾の悲惨さを教えてもらったことが私の原点だ」と主張しても、インタビューの中身からは、客観的に首相の論理が軍事大国を目指すことは明らかであり、少なくとも海外メディアにはそう映る。ただし、GDP世界3位の大国が軍事においても大国にふさわしい国であるべきとのTIMEの捉え方は間違っていないが、それが「軍国主義」に結び付くとは考えられない。中国の脅威を対象に軍事大国を目指すのであれば、現在でもGDPが中国の三分の一である日本が、どんなに重装備の軍事化したところで叶うわけがない。それこそ、核による抑止力でも使わない限り、だ。

 筆者は、防衛について知ることが少ない。というより、平均以上に情報を持っている分野は、厚生行政30年から得たもの、山口県での地方自治から得たもの、国連機関ユニセフ・インドの経験、アメリカとオーストラリアの大学院で学んだ学問に加え、茨城県での選挙区におけるほぼ全数調査に近い地域社会の実態である。その限られた情報の中で、筆者が描く未来は、無論軍事大国ではありえないし、国際比較を交えながら、日本の人々が思う近未来に相似する。GDPも人口も一定レベルを維持し、世界に発言権を持つ国として残るのが理想だ。

 その未来は過去のつながりと関係する。筆者が生きた戦後の社会で、日本は、アメリカに追いつき追い越せの時代からグローバリゼーションに巻き込まれ、足の速い少年だった日本は、中年太りし、多くの新興国に抜かされつつある。ついて来いよ、と命じたアメリカは依然先を走っている。こうなるまでに、日本は多くのものを捨てた。あるいは勝手に消滅してしまったものもある。その一つが昭和家族であり、お父さんが大黒柱、お母さんが専業主婦、子供二人の家族はかつて全世帯の4割(1990)だったのが25%までに激減し、一人世帯の数に負けた。

 90年代以降、初頭には世界一位だった一人当たりGDPは順位を下げ、現在では20位である。ソ連が崩壊し、アメリカ一極のメガ競争時代に日本はことごとく負けた。ITもバイオも。それまで褒められてきた日本型経営(終身雇用、年功序列、企業別労働組合)も崩壊の途にあり、保障の少ない非正規雇用と組織率の低い労働組合の国になった。昭和家族同様、昭和企業も捨てられてきた。日本が、戦後、アメリカに与えられたデモクラシーを標榜しながら維持してきた日本的な家族、日本的な企業は崩壊し、同時に、地域社会も崩壊した。地元での就職も、祭りの要員も諦めるしかない。

 世代で考えると、戦後の変化した社会で、一番割を食ったのは、団塊ジュニアである。団塊世代が生んだ1971-74生まれを団塊ジュニアと呼ぶが、文化を共有する前後世代を含めて、拡大団塊ジュニアとは概ね1970から82年生まれを想定する。この世代は、90年代に就職すべく育ったが、日本がデフレに突入し、就職氷河期の犠牲になった世代そのものである。ちょうど1910年代、つまり大正デモクラシー時代に生まれた者が日中戦争、太平洋戦争に出兵すべく生まれてきたのと同じだ。悲運の世代なのである。

 団塊ジュニアは人口学の研究で、団塊孫を生む、つまり団塊第三波を生む世代として予想されていた。団塊世代の人口学的影響は百年に及ぶと観られていたのである。ところが、現時点でも、正規雇用率が54%のこの世代は、結婚しない、あるいはできないまま、既に出産年齢を過ぎてしまった。90年代には、そこそこに成功している親の団塊世代のパラサイトシングルになったり、最悪の場合は引きこもりとなったりで、独身を選択した者が多かった。2020年の50歳時未婚割合は、まさに団塊ジュニアの世代に当たるが、男の3割、女の2割が未婚であることを示している。団塊世代の同じ数字は、男の1割、女の5%が未婚であった。

 「こんな男に誰がした」「こんな女に誰がした」と問えば、確かに、グローバリゼーションの高波に乗り切れなかった政治の責任であり、彼らに安定した雇用をもたらすことができず、ましてや国の借金を増嵩させて、将来、彼らに押し付けることまでやっている。今、労働力としては社会の中枢にある彼らが「子供はいない、将来年金をもらえるか分からない」の不安の中で生きているのである。

 政治の責任は重いが、ミクロで見れば、団塊世代の子育て失敗も責任を負わねばならない。貧しい幼少時代から豊かな青壮年時代を過ごした彼らは、子供を甘やかした。学歴をつけ、習い事をやらせ、物を豊富に与えた。団塊ジュニアは、公や国という哲学を親から学ぶことはなく、なぜなら親世代は哲学に欠けていたからであり、ミーファースト人間を多く作った。自己保存するのが精いっぱいというのは、自分という個の人生で精一杯で、子供を育てるまでに及ばないということになるのだ。

 かくて日本は本格的な少子社会を迎えた。政府が楽観していた団塊第三波は来なかった。日本の団塊世代が欧米の戦後ベビーブームに比べ極端に短かったのは、1948年立法の優生保護法が堕胎を合法化したからであり、団塊ジュニア世代も四年で終わったのは、1972年ローマクラブの報告書「成長の限界」に呼応して「厚生省後援」の人口大会で「子供は二人」の宣言をするなど各種イベントが行われた影響だ。団塊三波が来なかったのは、デフレ政策の過ちだ。このデフレ政策の過ちは、まさに政治責任であり、少子化の責任を国に問うてよい。

 残念ながら、不幸な団塊ジュニアの出産時期は終ったので、21世紀生まれ、Z世代を中心とした世代に照準を当てる方向を取らねばならない。昭和家族も昭和企業も消えつつある今、家族や会社を当てにすることは止め、個を対象とした社会保障と政策に舵を切り、Z世代の要望を十分に受け入れる必要がある。大学の淘汰を前提に教育費の無償化、若者の雇用優先、フランスのPACSのような緩やかな婚姻制度や夫婦別姓の実現など、軍事大国を望むなら、同時に、Z世代大国のための異次元少子化政策を実行しなければ日本の未来はない。

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人口問題に挑む(41)少子化議論の潮流

2023-05-09 11:07:54 | 社会問題

 岸田政権が異次元の少子化政策を打ち上げてから、マスコミやユーチューブ等で少子化話題の情報が増えた。殆どすべてが「異次元」にふさわしくない内容と酷評し、政策の照準がぼけているとの指摘である。さらに、防衛費との比較で、少子化は財源が不確定で、現在有力な保険料財源であるとすれば、若い人が自らのタコ足を食うような形での少子化政策であり、これも批判の対象となっている。1994年のエンゼルプラン以来、政府の対応は、一貫して消極的であり、財源問題では常につまずいてきた。

 少子化政策の議論は4潮流ある。一つは、政策論である。90年代からの取り組みの失敗の原因を明らかにし、今後の取り組みに活かそうというもの。二つ目は、現状を続ければ、少子化が日本社会を崩壊させるとの脅迫論である。2015年の増田リポート(半数の自治体が消滅する)、2017年の河合雅司による著書「未来の年表」がその例である。これらは、最も単純な従来の伸び率を掛ければ事態はこうなる、の類のもので、「なんの手段も取らなければ」「経済社会が一定ならば」の前提のものとに人々を驚かす。当を得ているものもあるが、増田リポートなどは学術的に疑問が生じ、今ではお蔵入りした。この類の少子化政策は、未来の数値に重きを置いたので、政策的に乏しい内容になりがちである。

 第三番目に、少子化議論に盲点となっているフェミニズムと家族の議論がある。第一の政策論では経済学をベースに語られることが多いが、「非正規雇用が増加して、経済的に結婚ができない」は、多くは男性である。このマクロの議論に、女性の低賃金や女性の結婚観が関係していることを十分に取り上げていない。実は歴史が浅いはずの明治民法のイエ意識に日本社会は今もってとらわれ、戦後の一時期にできたいわゆる標準家族にとらわれた女性の存在が少子化を引き起こしていることを議論の前面に押し出していないのである。女性の視点、崩壊した標準世帯に代わる21世紀の家族はどうあるべきかは、今後の少子化政策の土台を提供しなければならない。

 最後の四番目は、数理人口学そのものであるが、確率微分方程式の世界であり、人口に膾炙しない。筆者も論ずる能力がない。結局は、数理人口学者が分析した結果を用いて、社会科学が上記三議論を組み立てることになる。だから、完全に科学ではなく、定義していない言葉や、単なる思い込みや、イデオロギーが入り込む余地が大きい。麻生太郎が「少子化の原因は晩婚化にある」と言って叩かれたのは、「女性の責任にするのか、政治が悪いからだろう」という世間一般の考えと乖離があったからだ。学問的には、晩婚化が少子化の原因の一つであるのは正しいが、旧弊にまみれた世襲議員が昔は良かったの思い込みを晒したように思われ、反発を招いた。少子化関連用語には、公が家族に介入することを好まぬ日本人の様々の思想が込められているのだから、容易には使えない。

 筆者がこの欄に40回以上にわたって書いてきたのは、第一番目の政策論の立場である。筆者は政策に携わる官僚出身であり、政治家としてはまさに政策が仕事であった。政策論者は、学者ではなく、表層的で、表層の下にある地雷に気付かないことが多い。今にして思えば、90年代、少子化問題の端緒であるエンゼルプラン策定時期に、大きな地雷が存在していた。それは、団塊ジュニアの存在である。団塊ジュニアは、71-74年生まれだが、言うまでもなく、巨大な人口層の団塊世代が生み出した二世である。団塊世代出生が年270万人に対し、やや小さくて年210万人生まれた。しかしそれでも人口置換率より上(2.08に対し2.14)であった。

 団塊ジュニア出生の最盛期、1972年に、ローマクラブが「成長の限界」を発表し、世界を震撼させた。人口がこのまま増えると。食料も化石エネルギーも不足するという見解だ。日本でも、これを意識してか、人口問題を掲げるイベントが開催され、中には当時の厚生省後援の大会もあって「子供は二人が望ましい」が宣言された。功を奏したか、75年から出生率は下がり始め、以降今日まで下降線一途を辿ってきた。団塊世代が戦後ベビーブームに見舞われた欧米とは異なり3年でブームを終えたのは、1948年の優生保護法が原因であると考えられる。GHQバックアップで出来たこの法律は49年に改正され、経済的理由での堕胎を合法化し、50年以降一時は百万に登る堕胎が行われるようになったからである。

 話を団塊ジュニアに戻そう。団塊世代も戦後世代として共有文化のある世代を含めて議論されるが、団塊ジュニアも、ピークの4年間だけではなく、文化を共有する70-82年を対象に考えたい。この世代の特徴は、就職氷河期である。貧しさから高度経済成長期に至った団塊世代は、ジュニアを蝶よ花よと育てた。学歴、習い事、豊富な持ち物は、自分たちが必ずしも与えられなかったから、リベンジするかのように与え続けた。しかし、ジュニアが就職するときには、就職氷河期である。親の子育てから得た「ミーファースト(自己中心)」「自己保存」は、ジュニアをパラサイトシングル、刹那主義へと向かわせた。もっと重篤なのは引きこもりになった。

 貧しさから豊かさに向かった団塊世代と豊かさから貧しさに向かった団塊ジュニアとではどちらが幸せだろうか。実は、「貧乏自慢」という言葉があるように、貧しさからはい出した経験の方がはるかに幸せである。一家の大黒柱の死や旧家断絶などのように、その後の人生の斜陽経験ほどつらいものはない。この団塊ジュニアが20代に入り、少子化政策が国の課題となったとき、国は楽観した。「今、出生率が低くても、団塊ジュニアが第三波の団塊孫をつくって、一気に回復してくれる」。しかし、既に出産年齢期を過ぎた彼らの人生を現在見れば、結婚しない、子供を産まないままが大量にできた。2020年の50歳時未婚率(団塊ジュニアがこれに当たる)は男3割、女2割が未婚のままだ。90年代から今日にかけて出生率は1.3前後であり続けた。そう、この団塊ジュニアこそが90年代の地雷だったのだ。

 政策論者としては、90年代に地雷の存在に気付き、団塊ジュニアに照準を当てた少子化政策に集中すべきであったことを悔やんでならない。だが、今や遅しだ。地雷は炸裂して、日本は人口減少と共に経済的に転落しつつある。これからはZ世代、つまり21世紀生まれに照準を当てて、経済的豊かさと子を持つ夢とを実現する社会をつくらねばならない。いや、少なくとも、日本が先進国として存在し続けたいのであれば、だ。

 

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人口問題に挑む(40)新しい形の家族

2023-05-02 09:35:29 | 社会問題

 エマニュエル・トッドは、核家族は家族の原型であり、そこから発達して、共同体家族や直系家族などができたと言う。筆者の知るかぎりでは、大方の家族社会学の教科書には、近代社会の工業化の過程で、生産に適合した核家族ができたのであり、農業社会のように、土地を維持するための直系家族や狩猟のような共同作業を必要とする共同体家族は、やがてマイノリティとなったと書かれている。

 確かに、現実では、筆者が80年代、インドに住んでいたころ多く見られた拡大家族(数家族の血族共同体)は核家族化しているように見受けられる。筆者はトッドの学説がどれだけ普遍的なのかは寡聞にして知らずであるが、生物界では、成長すれば親元を離れ、生殖相手を見つけて、対になるか、ハーレムの一員になるか、種によってルールがあることを知る。親元に帰ることはなく、老いた親を面倒見る動物はいない。生物界は核家族、即ち一代限りの雌雄関係、親子関係であることを教えてくれる。だとすれば、トッドが説くように、原始、人類は核家族であったのは納得できる。

 トッドによれば、何世紀にもわたって擁してきた家族形態は、政治体制と結びつき、社会と文化を創出する。直系共同体型の中国やロシアは、全体主義、権威主義型の社会に馴染む。完全核家族のアングロサクソン、つまり、アメリカやイギリスはイノベーションに強く、個人主義に馴染む。直系は血族を成すわけだが、中国やインドは男子のみの直系であり、直系が絶えないように、男兄弟が父親の下、平等に扱われ共同体家族を成し、子孫は末広がりになる。だから、孔子の子孫が山東省に十万人もいることになる。

 チベットも男系であるが、筆者がユニセフの仕事で滞在したラダックでは、男兄弟がたった一人の嫁を取り、農地の分散は防ぐが、父親の下共同体家族を形成している。一人の嫁は兄弟の共有物だが、兄弟に上下関係はなく、生まれた子供は形式上長男の子として扱われる。山間の高地で耕地面積の少ない土地柄を活かした家族の有り様だ。地理的に見て、中国のバリエーションと言えるのではないか。

 日本は、律令制度、農耕、仏教、文字などありとあらゆることを中国から受け入れたが、明らかに孤立した島国独自の文化を生み出している。先ずは、貴族社会では通婚、複数の男が女性の下に通う形式がとられた。「蜻蛉日記」にあるように、藤原道綱の父は、やがて母の元へ来なくなる。子供は、父系母所、父の名を取るが母の元で育つ。養育責任は外戚のおじいさんにある。実質の母系社会である。庶民にも広がり、日本がマザコン社会であるのは、古からの文化であった。

 明治民法が1898年に施行されたとき、人口にして9%の武家社会のルールが取り入れられた。武士は闘うのが職業であるから、男子直系を採用していた。この時家父長制度が敷かれたわけだが、戸主が家族全員の生殺与奪の権を握ることになった。しかし、東北地方の姉家督に見られるように、庶民の文化は必ずしも男子継承ではなかった。この時できたイエも歴史上存在していたものではなかった。明治の日本は欧米化に突き進みながら、他方で家族は封建制度の形態を採り入れ、ある意味では、殖産興業、富国強兵の勃興に対し、戸主の下に結集し国家に協力する人民をつくり上げた。

 中でも、鎌倉時代から女子の財産相続が認められていたはずが、女性の財産管理権を奪い、無能力者となった女性が一番の貧乏くじを引いた。財産を持たず、戸主の決めた結婚をしなければならなかった。ただ、中国やインドと異なるのは、男子直系へのこだわりがなく、子供が女性だけの場合には養子縁組、婿取りができた。吉田茂や岸信介は婿入り婚であるが、吉田は、婚家の財産を家督相続してあっという間に使ってしまったとのエピソードがある。男冥利に尽きる制度だったと言えよう。

 日本の場合、イエ制度は結果的に半世紀も続かなかったわけだが、制度はいったん社会に根を下ろすと、にわかには根絶されない。今もなお、選択制夫婦別姓への反対や「嫁」や「長男」の地位が霞のように残存し、このことが団塊ジュニア以降の世代の結婚に見えぬ障害となっている。終戦直後の婚姻率(人口千に対する婚姻数)は12組で過去最高、70年代団塊世代の婚姻率は10以上で、実数は年百万、これに対し、現在の婚姻率は4.2で実数50万代、史上最低である。独身男女とも調査では6割が適当な相手が見つからないから結婚していないと回答しているが、ようやく見つけた相手と結婚できるのは少数で既に「エリート」であり、さらに子供に恵まれるとなれば教育費高騰の中、超エリートとも言えるのが現今の家族である。

 人口問題の解決には、家族の在り方が関わっているのは明らかである。もとより母系社会で男女関係が緩やかな日本であり、庶民に適用された武家社会のルールは歴史上短期間に終わっているのだから、若い世代に霞のような旧弊の残滓を取り払って、「新たな結婚」の形を捧げなければならない。それは取りも直さず、若い人たち、就中女性が求める形でなければならない。若い女性が求める男性像は、さまざまの雑誌の調査によれば、「優しい人、気配りができる人」「でも、お金は稼いでほしい」だ。女性側も大黒柱は男という伝統にとらわれているようだが、少なくも、男らしい人、リードする人が求められているのではない。対等でありたい欲求は何よりも強い。そのことは男子の脱毛やメイクを好意的に受け入れる姿勢に現れている。

 自分のパートナーにお金を稼いでほしいとの要求は、必ずしも「金持ち男」がいいというわけではない。もし、現在、男性一般労働者の給与100に対し、女性が75という数字を改められれば、対等に稼いで家族として収入が豊かになればいいと女性は考えるだろう。この春は賃上げラッシュであったが、女子賃金に重点を置けば、少子社会政策にも役立ったはずなのだ。女性の中には、ダイヤモンドやきらびやかな服が欲しい人もいるかもしれないが、多くは、謙虚で、男性と対等に稼ぎ、家事や子育てには安価で買えるサービス産業が整い、姓を変えずに自身の両親の介護をし、実家の墓に入る、そんな安定した人生を望んでいる。たったそれだけのことを制度的保障のみならず、「異次元少子化政策」と謳った中に項目として入っていないのは、あまりにも無知な為政であろう。

 新たな結婚の在り方を提示することこそ、少子社会政策の肝となろう。

 

 

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