大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

日本の社会と社会政策(32)キズモノ医療制度

2024-10-15 09:44:52 | 社会問題

 今年のノーベル物理学賞は、AI機械学習を劇的に発展させたアメリカとカナダの科学者に決定した。物理を情報科学に応用し、新たな物理学賞を事実上設けたこともニュースになった。ニュース自体は喜ばしいものであるが、AIの発展を伝えるとき、必ずつけられるコメントが「人類がAIの能力に負ける日を恐れる」である。AIは過去のデータをもとに回答を出す技術であれば、未来に向けて間違いなしとは言えない。しかし、それでも、AIは人間の能力を短期間にはるかに超えていくことは間違いない。

 そのことで一番影響を受けるのは誰であろうか。専門職の方々であろう。医師と弁護士が代表格だ。診断と法律的見解がたちどころに下されることになれば、専門職そのものの存在意義が低下する。AIをチェックする存在としてのみ残るのかもしれない。従来、医療は、患者を平等に扱うべきとする社会主義的な医師会と医療財政の許容する範囲内での医療制度を守る行政側との争いであった。行政側は、医学の進歩を評価しつつも、その対価を払う企業と国民に配慮せざるを得ない。医療の公定価格を決め、医療へのアクセスを自由にした日本の医療保険制度は、社会主義的傾向があり、他方で、先進医療の促進や採用については必ずしも有効にできてはいない。

 ドラッグロスの言葉で表される、先進治療薬が世界で出来ていても日本で医療保険が採りこまなければ活用できない事実がある。医師の承諾があれば、その薬を個人で輸入し、使うこともできるが、自由診療だから莫大な金がかかる。医療は、ある部分においては、命を金で買うのも受け入れなければならない。1961年、国民皆保険ができる前は、おばあさんの入院のために田畑を売ったり、あるいは医者にかかれずに死を迎えたりは珍しいことではなかった。また、藪医者という言葉があって、自分のカネを払うのだから、患者は医師を選び、見立ての良くない医師をそう呼んで避け、倒産するクリニックもあった。

 制度的な医療はそもそも、8世紀の悲田院や施薬院に始まる。光明皇后が創設したとされるが、貧者や病者を救うための施設である。すなわち、福祉としてスタートした。医療が福祉から分かれたのは、時代を経てより専門性を要求されてきたからである。現在でも、医療に関する資格は、医師、看護師、放射線技師など業務独占の資格を得なければ従業できない。社会福祉士、介護福祉士などの福祉の資格は業務独占資格ではなく、つまり、資格がなくても従業できるところが異なる。福祉にも医療と同様のプロフェッショナリズムをもたらそうと、1989年に国家資格として創設されたが、資格を持たねば施設の経営ができないというような仕組みを作らないかぎり、専門性が低いとみられる。

 医療の専門医においても、国家資格ではなく日本専門医認定機構が認定する資格で、研修と試験で取得するものであり、いわゆる業界資格という、やや低い地位にある。開業医も権威付けのために、専門医や医学博士をとる場合が多く、しかし、その業務はむしろ、風邪や足腰の痛みへの投薬・注射、患者のカウンセリングに費やす時間が多い。困難な病気は病院を紹介する。身体に投薬や注射などの異物を入れるのは、医療でなければできず、福祉では手の出せない領域である。よく精神科医と心理療法士の違いを聞かれるとき、投薬の決定ができ注射を打てるのが精神科医と説明される。だが、日常的な風邪ひき腹痛の類の病気は、福祉サービスと大きな違いはない。

 たびたび議論される、風邪など軽い病気は保険の範囲外にし、医療財政を保とうとすると、医師会は真っ向から反対する。理屈は、軽い病気から重病につながる恐れがあり、軽いときに医師にかからないと後で取り返しがつかないことになるというものだ。患者側も、売薬よりはるかに安い処方薬を手にして喜ぶ。だが、本年4月、行政側は一つの決定をした。自治体の検診で、高血圧判定の基準を緩和したのである。高血圧学会の厳しい基準を使えば、やたらに患者が増える。検診患者群を取り込み、医師は喜ぶが、医療財政は負担を増やす。この背景には、厳しい基準で患者群を作っても、基準を超えた患者に脳卒中や心筋梗塞が増加する事実はないとの論文が書かれるようになったからである。行政と医師会のせめぎあいは、今後も様々の分野で起こると考えられる。

 命の値段についても語っておこう。先進薬を輸入して、確かに、ある程度命を長らえた事実を筆者は知っている。筆者は70年代、アメリカ・ミシガン大学大学院に留学したが、病院経営学の中で、生体腎臓が一つしかないときに、子供、金持ち、高齢者、学者などの中から、誰が移植の優先順位を得るか決定せよという宿題をもらった。多くの学生は子供と答えた。金持ちや学者は社会への貢献が大きいが、子供は未知の可能性を持ち、何よりも最も長く生きる存在だからである。当を得ている、と筆者は思う。日本では、平等の医療保険制度の下で、突出した先進医療を受けられるのは、金持ちだけである。

 日々の医療は福祉に近く、先進医療は金持ちのものであり、新型コロナで露呈した、日本の医療体制の脆弱さ、ワクチン研究などの後進性は、世界一の医療保険日本を誇ってきたこれまでの成果を台無しにしたのではないか。

 

 

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日本の社会と社会政策(31)なぜ霞が関は地盤沈下したか

2024-10-08 09:33:15 | 社会問題

 厚労省は今でこそ歳出予算の三分の一を担う巨大官庁であり、国民の関心が最も高い社会保障を担当している。筆者が入省した1972年頃は、厚生大臣は伴食大臣と言われ、閣議での役割は、閣議メンバーと一緒に会食するだけと揶揄され、地位と役割の低いことを表していた。もともと厚生省は、1938年に、おそらく戦争準備の必要性があって内務省から独立していたのであるが、戦後、GHQが戦犯行政機関の最たるものとして、内務省を5分野(自治庁、建設省、厚生省、労働省、警察庁)に分割した時から、名実ともに、独立した省として認識されるようになった。ちなみに、もう一方の権力官庁である大蔵省はそのまま継続し、戦前は内務省と大蔵省が拮抗して物事が決められていたのが、圧倒的で唯一の権力を持つ大蔵省に霞が関の支配を許すことになった。それが今日まで続いている。

 厚生省と労働省は戦後別々の道を辿ったはずが、2001年の橋本龍太郎首相が固執した省庁再編で、再び合併させられた。霞が関の巨大官庁が出現したわけだが、行政の間口が広くて多様であることから、一人の大臣では処しきれないと、発足当時から今日まで、元に戻すべきだとの意見が噴出している。省庁再編は厚労省だけの問題ではなく、文科省も、精神を扱う教育行政と唯物論の科学技術庁の合併に異論があったが、ギクシャクしながら行政をしてきた中、科学技術庁系のホープを事務次官にするのを阻止したと思われる不祥事件(ホープの息子の医学部入学便宜を密告した事件)が起きたりした。戦後の高等教育では、頭脳の良い者は科学を学び、教育を学ぶ者は消極的選択だったのを反映し、文部省は科学系の支配を恐れた。科学技術庁のような弱小官庁に軒先貸して母屋を取られる大御所文部省のあがきが感じられる。

 実は、省庁再編は、2014年に発足した霞が関幹部人事の一元化を図った内閣の人事権と共に、霞が関の地盤沈下をもたらした二大要因の一つと筆者は見ている。再編時、旧来のまま変わらずに存続した外務省と大蔵省(ただし、名前は財務省に変えられた)は高笑いした。他の省庁は、たすき掛け人事、つまり、順番に元省庁の事務次官を出す方式をとったり、事務次官級ポスト、局長級ポストを用意して、これまでと変わらぬ数の幹部職を用意したりなど、結果的には、公務員は一人も減らない方策をとった。減ったのは大臣の数だけである。結果から言えば、橋本首相が何を狙ったのか全く不明な改革となった。下手すれば、彼の官僚に対する積年の恨みを果たすためかもしれないし、政策通と言われながら、政策の業績は小さく、時宜をわきまえぬ消費税引き上げでデフレ脱却を長期化した失政もあって、ナタを振りやすい官僚組織の改革で「業績」を果たした感もある。

 事務次官級、局長級、課長級など、ラインではない独立官のようなものをいっぱい作り、それは評論するヒマ人をいっぱい作ったと同じで、官僚のやる気が起きるわけがない。官僚組織というものは、そもそも上下関係があって成り立つものであり、忠誠心も育つものである。グシャグシャの組織の中で、しかも、幹部になれば官邸詣でをして「御覚えめでたく」しなければ昇進しないとすれば、職業倫理にも欠けてくる。しかも、政治家の「やった感」政策として、内閣の外局に消費者庁だのこども家庭庁だのを新設して、いくつかの法律を移管し、真の責任の所在を曖昧模糊としてしまっては、官僚も働き甲斐がない。健康なら厚労省、教育なら文科省というように、都道府県を動かし、研究機関を持ち、最終責任を負う体制を持たぬ「つまみ食い官庁」に出向させられれば、誰しも左遷としか思えない。だから、ますます仕事への意気は下がるのである。

 これらの例を見ても、官僚組織を弱体化させたのは政治家の責任だ。縦割り行政の是正を政治家は掲げて組織改正を行ってきたが、縦割り行政のどこが悪いのだ。それは、専門性の主張であることを知らぬのか。政治においても、中選挙区から小選挙区に代わって、同じ政党の議員同士が戦う必要がなくなり、自分の得意を掲げる族議員もなくなった。勉強しないでいい、選挙に勝てさえすればよい、総理の顔が選挙向けであればよい、公認されれば万々歳で、あとは何もいらない、やらない。与野党ともそんな議員ばかりになったことを反省すべきだ。縦割りが象徴する専門性の欠如は、国会質問を観れば明らかである。基礎学力にも欠く議員が多い。職業経験ゼロの議員も多い。小選挙区は、族議員という名の縦割り集団を廃し、グシャグシャの組織の有象無象たちが選挙だけを目当てに生きている議員を産んだ。永田町の地盤沈下も甚だしい。

 筆者は、さりとて、官僚組織を昔に戻せとは考えない。若者の中で、霞が関があこがれの職業でなくなって久しい。1970年代、筆者が留学していた頃のアメリカでは、官僚はただの普通の職業で、どちらかと言えば褒められる類のものではなかった。政治任命の高官は憧れの対象であったが、普通の公務員になるよりも、ビジネス界で成功することがアメリカン・ドリームにつながった。現在の日本もそれに近い状況になってきている。問題は、日本のビジネス界が、アメリカのように若者を自由存分に活躍させる場を作れるかということだ。今のところ、大学で優秀な性先を修めた者は外資系の企業を選ぶ。だとすれば、日本はビジネス界にも問題があると言わざるを得ない。

 

 

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日本の社会と社会政策(30)現代老人とは何か

2024-10-01 09:28:21 | 社会問題

 先日、敬老の日に発表された高齢者推計人口(65歳以上)は3625万人、全人口の29.3%である。国内外で過去現在ともに最高の数字となった。65歳以上の就業者数は13.5%で、年金だけではない、働いて食べている高齢者も10年前の2.4倍となった。翌2025年が明けると、団塊世代全員が75歳以上の後期高齢者に至っている。日中、道を歩けば、棒ではなく老人に当たるという経験をする。

 1980年、世界婦人会議がデンマークで行われたとき、筆者は日本政府代表団の一員として2週間をコペンハーゲンで過ごした。そのとき、街を歩けば、文字通り老人だらけだった。その頃は北欧の高齢化は日本をはるかに超えていた。ショッピングアーケードでウインドウショッピングをしているのは皆老人だった。店の人に敢えて聞けば、高いミンクコート(現在では売っていない)を買えるのは老人しかいないとのことだった。それは老人の豊かさを表すとともに、反面、若い人の失業率の高さや高齢者のための負担を語っていた。

 美しく着飾った老人の姿を眺めつつ、しかし、街に活力は感じられなかった。世界から、北欧の老人福祉を観にくる人のため、福祉見学バスが流行っていたが、瀟洒な立派な老人ホームの中では、清潔で明るい広い部屋で老人たちが編み物をしたり、和やかに語らっている姿を見ることができた。ほどなく、この福祉バスは廃止されることになった。北欧の方針が施設ではなく、地域で住み慣れた家で、老後を過ごすような施策に変更されたからだ。しかも、世界中から殺到した福祉バスで見た光景は、「やらせ」だったとさえ言われた。老人ホームで老人は決して幸せではなく、きれいで安心というだけでは、望まれる老後ではなかったのである。

 その後の北欧諸国では、住み慣れた家で、近隣や友人と交流しながら暮らせるように、多くの工夫が行われた。車いすで過ごせる段差のない家、認知症になってもアイコンを押すだけでかけられる電話、火を使わず自動で止まるキッチン機器、カギをかけ忘れても逆にかけっぱなしにしても、本人ならば開閉できるドア等々、一人暮らしが何不自由なくできるような家の作りに、筆者は感動した。しかし、それでも、徘徊を始めた老人を探すのに警察は時間を費やし、「こんななら、施設の方がましかも」という意見も多かったと聞く。

 さて。日本は、1950年の社会保障制度審議会の総理大臣諮問に対する答申で、戦後の社会保障の根幹は社会保険制度によることとし、イギリスのベバリッジ報告を念頭に置いた社会保障制度の構築が行われてきた。年金や医療は、国全体の画一的な制度が構築されたが、福祉はさまざまの対象に合わせて給付を決める必要があり、社会保険制度に馴染まず、税金で行われる分野となった。後年、介護を福祉から切り離して社会保険制度に移行したのは、大英断だったと言える。社会保険が権利としてサービスを受け取るのに対し、福祉は、その時々の政府の考え方で、大きくなったり小さくなったりする。その福祉の方針は、イギリスではなく、福祉先進国の北欧に学ぶことが求められた。

 1963年の老人福祉法成立以来、日本はことごとく北欧の福祉施策の動向に着目してきた。脱施設の発想もその流れの一つだが、日本では、あまり成功していない。なぜなら、日本家屋は車椅子で過ごせるようにできていないし、集団疎開や会社ぐるみの付き合いなど没個性の集団生活に対し、欧米人ほど苦痛を感じない老人が多いからである。それでは、せめて施設の中での近代化を図ろうと、北欧に学んで採り入れられたのがユニットケア方式である。寝るときは個室で、昼間は、一定人数のグループで食事をしたりリクリエーションをしたり、リビングで一緒に過ごすという方式で、90年代に現場で取り入れられ始め、2002年には厚労省がユニットケア方式に補助金を計上するようになって、新規老人ホームはほぼこの方式で建てられた。

 個室があって同時に共有の場での生活は、北欧では当たり前だが、日本の老人の中には、個室を嫌う人もいた。また、全員一緒の大部屋は、施設経営者にとっては効率がよく、スタッフも少なくて済むが、ユニットは疑似家族集団を作るため、夜勤なども含め人手を多く必要とし、さらに、入所者数を多くとることが難しい。郡部の地域では、特養の待機者が多いのだから、大部屋制に戻せという意見も上がった。しかし、ユニットケアを採り入れるときの議論では、やがて団塊世代が後期高齢者に至れば、個室志向が延び、ユニットケアの必要性が高まると考えられていたのである。

 その団塊世代がついに来年明けて全員が後期高齢者になり、これからしばらくは老人社会の中心になる。同時に、老人ホームの中心にもなってくる。ただ、団塊世代である筆者の感覚では、子供部屋を与えられた個室主義の世代は団塊世代より少し後ではないかと思う。筆者も、大学に入るまで自分の部屋を持たず、勉強はもっぱら図書館で、夜は雑魚寝の生活だった。20代でアメリカに留学した時に、学生寮でも個室とプライバシーが守られ、「こうでなければ民主主義なんて発想は身につくはずがない」とまで思った。

 老人社会の中心となるべき団塊の世代は、教育こそ大量生産大量消費を支えた金太郎飴的な概念教育に終わったが、日本経済が最高潮の時に就職し、多くは右肩上がりの人生を当たり前として辿ってきた。その上の世代に比べ、楽観的で新しもの好きで、趣味は多い。福祉制度で考えれば、その上の世代は措置老人(税金で給付される上から下への施し受給者)であり、窮乏・飢餓も経験し、欲しがりません勝つまではの精神も備えているが、団塊世代老人は、介護保険による権利としてのサービスを当然として受け取り、病気を治しながら、独自の健康法を語り合いながら(独善的)、できるところまで自立した老人となろう。

 筆者がかつてデンマークで見た豊かで寂しい老人の街と異なる風景が日本国中に広がりつつある。

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日本の社会と社会政策(29)南北問題とは何か

2024-09-23 16:50:29 | 社会問題

 筆者の私事になるが、十代の頃の夢は、中根千枝さんのような文化人類学者になることだった。日本でたった一人スワヒリ語を理解し、開発途上国で現地の人と交流しながら研究生活を送る人生に憧れた。しかし、憧れたのは外形的な部分であって、文化人類学という学問に魅了されたわけではなかった。大学に入って、早速、文化人類学入門書を読んだが、退屈極まりないのを覚えた。時は、全共闘運動のまたっだ中で、東大紛争が始まり、6月にはストに入って、授業はなくなった。筆者は、ノンポリというか、むしろ社会問題に稚拙な見識しか持たず、討論会に出ても一言も発言できなかった。

 専門課程に進学するときには、学際的学問をやるために戦後創られた教養学部教養学科の文化人類学分科を選ばず、より就職に直結する教養学部国際関係論分科を選んだ。学問よりも社会経験を優先しなければならないと考えた末である。当時、女子学生の就職は限られていた。その中で、国家公務員上級職を通り、厚生省に面接に行った。当然のことながら、「なぜこの役所を選んだのですか」と聞かれる。筆者は、正直に「本当は、南北問題をやりたかったのですが、女性が海外に出る仕事は門戸を閉ざされているので、日本国内の南北問題をやりたいと思っています」「南北問題?」「はい。貧困の国を離陸させて発展に導くように、貧富の差を縮めるような仕事ができるのではないかと」。面接官の失笑を買ったのを忘れはしない。また、その時、別の面接官である人事課補佐のT氏から「将来結婚しますか」と聞かれ、「いいえ、しません」とも答えた。

 後日談として、尊敬するT氏からは、わが結婚式に出席していただき「結婚しないはずではなかったのか」とスピーチで笑われた。また、後年の人事課長である某氏は、人づてに筆者の入省理由を聞いて「変な奴もいるもんだと思った」と嘲笑した。今にして思えば青臭いの一言であるが、筆者は、自分の生き方にこだわっていた。文化人類学をやめても、開発途上国と関わる経済発展論を勉強しようと国際関係論分科においても、三学期連続で、川野重任先生の経済発展論ゼミをとって、グンナー・ミュルダールやW・W・ロストウの経済発展理論を勉強し、その中で、インドの緑の革命についても学習した。そのことが後年、インドのユニセフに出向する原因をつくった。

 私事が長くなったが、我々の時代、中学や高校でも教えていた「南北問題」は、80年代、90年代になるとその言葉自体すら消えていった。ノーベル経済学賞をとったクルーグマンは、1990年代に開発経済学は終わったと評したそうだ。なぜなら、70年代の二度の石油ショックは、先進国も開発途上国も同様に影響を被り、ロストウの言うような、「離陸」したら、先進国に追いつけるという経済学は成り立たないことが自明になったからだ。つまり、先進国の上から下目線で、我々のようにやりなさい、我々が助走を助けるから、その勢いで離陸し、我々のような産業構造を以て繫栄しなさい、は役に立たないことが分かったのだ。開発途上国は、概ね自力の市場原理で成長を遂げる方法を選び、その中で、NIESすなわち新興工業経済地域が登場し、韓国、台湾、香港、シンガポール、ブラジル、メキシコ、それにヨーロッパでも、ギリシア、ポルトガル、スペインがカテゴリーに入れられた。それに続いて、中国やインドという大物も成長を遂げた。

 この事実は、先進国の開発援助の理論だった開発経済学(筆者が学んだ頃は経済発展論の言葉が多く使われていたが)という特別な経済学があるのではなく、一般の経済理論が成長を説明するのだということをクルーグマンが指摘したものと思われる。ただし、現在使われているグローバルサウスは、もしかしたら、南北問題の名残なのかもしれない。筆者が厚生省に入省した1972年には、南北問題は誰もが知るテーマではあったが、逆に、日本国内に「南北問題」なるものが存在するはずはなかった。1968年にはGDP世界2位に達し、国民の8-9割が中産階級意識を持っていた時代である。だから、国内の南北問題とは、マルクスの言う階級闘争を想像させ、学生運動時代の稚拙な若者の発言が失笑を買ったのも致し方なかろう。

 しかし、である。現在はどうか。日本の社会は、所得階級100万円以上400万円未満40.3%、1000万以上は4.9%(2021年)という構図を観れば、まさにかつての南北問題を彷彿とさせるではないか。社会が二極化しているのは数値上も明らかである。南北問題という言葉は消滅したが、今なら、「二極化した所得構造の社会の解決のために厚生行政をやりたい」と言っても失笑を買われることはないだろう。トマ・ピケティは、相続税や資産課税で所得の再配分をすべきと主張したが、厚生行政ならば、福祉給付をより貧困層に多く、教育行政ならば、誰にでも学費を無償にするというような「南北問題」の解決こそが今求められているはずだ。

 国内の南北問題の解決に問題があるとすれば、上から下目線の方法にクレームがつくということだろう。しかし、国々のように、自力で這い上がれる人ばかりではない。機会の平等のための施策をやったうえでも、結果不平等に対してもまだやるべきことはあるはずだ。それは「上」である政府の役割だ。

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日本の社会と社会政策(28)健康日本21の行く末

2024-09-17 10:18:03 | 社会問題

 2000年に厚生省が行政指導を始めた「健康日本21」は2002年に健康増進法の立法に及び、現在では第三次健康日本21に発展している。介護保険法の施行と同時のこのプロジェクトは、介護人口を増やさないために、生活習慣病の是正など健康意識の高揚を狙ったものである。そもそも健康づくりという考え方は、1978年、WHOとユニセフが共催した旧ソ連のアルマ・アタ宣言に発している。当時、厚生省公衆衛生局長だった大谷藤郎はこの会議に出席して魅了され、宣言で強調された「プライマリーケア」の推進に情熱を燃やした。仕事をする珍しい?厚生大臣渡辺美智雄の下で、健康づくり対策の予算化を果たした。

 1961年の国民皆保険、1972年の児童手当法の後、最も画期的な社会政策は2000年施行の介護保険法であるが、介護に行きつくまでの生活をいかに健康に送るかの指針を示したのが、2000年に策定されたこの健康日本21である。各都道府県に普及させるため、都道府県レベルでの健康○○県21がそれぞれ作られ、歩く習慣や歯周病の予防、菜食の勧めや喫煙の抑制など、今日全国に普及している健康法が進められた。その後内容を改正して現在第三次にまで及ぶが、国民の健康意識の高まりという点では、相当に成功した施策である。その核となる健康増進法もでき、結核撲滅以来低迷していた公衆衛生行政を盛り上げる役割を果たした。余談だが、2002年立法時の健康局長は高原亮治であり、医系技官で異端と言えるほどの知識人だった。彼なればこそこの法律が日の目を見た。

 健康増進法はその後、食品表示などのPR部分を消費者庁に移管した。しかし、最近の紅麹問題などを観れば、健康の知見を持たない消費者庁に機能性食品の表示の責任を持たせるのは疑問であり、政治家が「やった感」を出すために創った消費者庁の存在意義を問わねばなるまい。それは文科省が参加したなかったこども家庭庁が縦割行政の是正という目的を果たさず、これまた政治家の「やった感」だけの組織になったのと同じだ。そもそも縦割りを諸悪の根源とするのは、政治家の浅い知識によるものであり、各省の専門性の間で議論を戦わすことによって行政が進歩することも考えなければならない。

 昨日の敬老の日、65歳以上の高齢者は、3625万人と発表された。国民の三分の一に迫る勢いである。昔は、高齢者の老化は、「歯、目、マラ」と言われた。この順番で老化する。厚生行政や社会は長らくがん対策に力を入れてきたが、高齢者人口が膨大になるにつれ、より多くの人の問題である「フレイル、認知症、血糖値・血圧」が研究分野でも多くなってきた。フレイルは骨肉の減退現象のことである。遺伝子レベルの研究も多いが、同時に運動療法の研究も進んでいる。一般的に高齢者に勧められる生活習慣とは、社会参加し、体を動かし、検診で数値の把握をするということだ。

 しかし、国保の特定健康診査のように、自治体で行っているものは、多くの高齢者を網に引っ掛ける役割となっている。つまり、高齢者が血糖値や血圧が高いのは普通であり、学会が決めた基準値を超える場合が多い。それを患者として取り込んでしまうというシステムが出来上がっている。そこから、高齢者は、血糖値と血圧のための薬を永遠に飲むことになり、その後、腎臓や他の臓器が悪くなればその薬も加わって、高齢者の集まりは食後の「おクスリタイム」が必要になる。本当にこれでよいのか。一方で「健康日本21」の生活を勧められながら、他方で、数値がはずれたたら、すぐさま「患者リスト」にアップされ、薬という飼料を与えられる家畜に堕する。

 この風潮に抗する学者もたくさん存在し、本屋には、「薬を飲まないで治す方法」「数値に騙されるな」といった著作が並ぶ。それなりの論理があって、結局は人々が自分の健康は自分で決めるという原則に立ち返ることになる。また、同じ本棚には、○○健康法が並ぶ。テレビの通販でも多いが、これ一つで、元気、歩行が楽、あの苦しかった自分が噓のよう、と宣伝する。こちらは、フードファディズムといわれるもので、扇動してその効用に夢中になり、摂取し続ける現象だ。こういうのこそ消費者庁が取り締まらねばならぬはずである。一つの化粧品で美しくなるはずがないのと同様、一つの薬や一つの食品まがいで、健康が約束されるものではない。

 百歳まで生きる確率は、現在0.06%。それなのに「人生百年時代」と政府は掲げる。なぜなのか。年金支給年齢を上げるためなのか、もっと働けという意味なのかと勘ぐる。さまざまの慢性的な病気は、薬よりも、ストレッチや運動が和らげてくれる場合が多いと筆者は感じているが、一方で、介護人口を減らすための健康日本21を勧めながら、他方で、自治体の検診で患者を捕まえ薬漬けにする公衆衛生行政の大きな矛盾をなぜ誰も指摘しないのか。もしかしたら、それは、医療の利益団体の圧力のせいか、健康にかかわる行政庁のレベルの低さか。

 さはさりながら、健康日本21の次のステップに注目したい。

 

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