私は、丹波の国の寒村に住む漁師だった。1945年8月15日、私は15歳。海は産湯のようなもので、幼少から波と遊び、抜き手を切って沖に出る日々を過ごした。15歳には既に立派な漁師で、父を上回る稼ぎ手でもあった。この日は昼頃網元の家に集まり、玉音放送を聴いた。何を言っているのかはよく分からなかったが、とにかく戦争が終わったことだけは分った。老いも若きも「これでもう心配もせずに夜も眠れる」と喜んだ。一人だけ、昔軍人だった爺さんがぽろぽろ涙を流していた。「大日本帝国もこれまでか。陛下がお気の毒だ」。
私は、戦争が長引けば、いずれ自分にも赤紙が来る日があろうと恐れていた。漁師の仕事は死と隣り合わせだけれど、海に抱かれて死ぬのと人為の弾に殺されるのは大違いだ。いつから人は殺し合いを始めたのだろう。私は学問はないが、人が殺しあわない、毎日が静かで平和な日々を送れるような人生を求めていた。私は、村では紅顔の美少年と言われていた。今でこそ、日焼けし筋肉隆々になってきたが、生まれたときは色白で愛らしかったと母が常々言っていた。その私が思いを寄せるのは幼馴染で同い年の亀ちゃんだ。
私は、玉音放送が終わると、ひとり浜辺に出た。そういえば、亀ちゃんは集まりに来ていなかったな。海辺にいるのかなと思いつつ歩いていると、照り付ける真夏の太陽の下で、少し頭がくらくらし、よしずの小屋にもぐりこんで、そのまま、まどろんだ。まどろみつつ、夢か現か不明な中で、波打ち際にいる亀ちゃんが私を呼んでいるのに気づいた。亀ちゃんの後ろに小舟があって、どうやら亀ちゃんはこの舟に一緒に乗ろうと私を誘っているようであった。私がふらふらと小舟にたどり着いて舟に寝っ転がると、亀ちゃんは舟を漕ぎだした。私は薄目を開けて亀ちゃんの様子をうかがっていたが、不思議なことに、亀ちゃんの着物の裾から見えていた白い美しい脚が次第に海亀の足のように変化していったのである。
しかし、これは夢かもしれないし、特に気にせず、私は、亀ちゃんの漕ぐ気持ちのいい小舟に揺られて、ずっと長い間眠りについた。「着いたよ、太郎ちゃん」と亀ちゃんの声で目覚めたとき、我々は大きな門の前にいた。門には竜宮城の名が掲げられていた。「亀ちゃん、ここはどこ?」「太郎ちゃんは、戦争が終わって常しえの平和な国に住みたいと思っていたんでしょ。ここがその国のお城よ」。小舟を下りると、門には多くの魚が迎えに出ていた。「乙姫様、お帰りなさい」と一斉に声を上げた。「大切ない客さんをお連れしたよ」と亀ちゃんが答えた。
早速、宮殿の豪華な大宴会場で浦島太郎の歓迎会が開かれ、金銀宝石を散りばめた椅子に座らされた太郎は、見たこともないご馳走や、タイやヒラメの舞い踊りを供された。「おなかがすいた。わあ、おいしい。贅沢は敵と言われてきたから、こんな経験は初めてだ」。亀ちゃんは舟をこぐときは自らの亀の足を使っていたが、乙姫様の姿に変身し、息をのむほどの美しさを放った。太郎は、亀ちゃんと一緒ならこれでいいやとばかり、享楽の毎日にはまっていった。
それでも、太郎は亀ちゃんに聞いた。「ここは丹波の国から遠いの?」「亀ちゃんは丹波のおうちに帰りたくないの?」。亀ちゃんはよどみなく答えた。「ここは、昔、蝦夷の最も栄えた国が天災で海に沈み、海底都市をつくったのが起源。丹波から日本海沿いに北上して、太郎ちゃんが寝ている間、一か月かかって到着した」「俺は一か月も寝ていたの」「そうよ。もっとも、亀の小舟に乗ったとたんに、時間の観念が変ったから、太郎ちゃんには短く感じたでしょうけど」「亀ちゃんは本当は亀なの、人間なの」「かぐや姫も人間の形をした異星人、人魚姫も人間の形をした異星人、私も異星人。異星人の時間と空間は人間社会とは異なって歪んでいて、普段は存在が見えないだけなのよ。人間に分りやすいように海亀の形をとっているの。物理学を勉強するとわかるよ」「小学校卒の俺にはわからない」。
太郎は「そうだ、日本に平和が訪れたら、俺も学校に行って勉強しよう。日本は必ず戦争に勝つとか、漁師は魚を取っていればよいとか教えられて、何も考えずに生きてきたもんな」「それにしても、お父さんお母さんは心配しているだろうな」。太郎は亀ちゃんに言った。「何も勉強していない俺だが、君に忠、親に孝だけは家訓で親に教わった。天皇の日本、我が両親のことは考えなくちゃな。ね、亀ちゃん」「おやめなさい。日本は今後百年、いったん浮上するけど、その後没落し、間接の戦争に何度も巻き込まれていく。竜宮城のような暮らしは不可能だよ。ここでずっとこの暮らしをしようよ、太郎ちゃん」。
竜宮城での暮らしは、ただ珍しく、面白く、月日の経つのは夢のうちだったが、人間には飽食するという性癖もある。遊興生活には限りがある。谷崎潤一郎だって永井荷風だって、耽美主義を貫き、色事遊びに酔いしれたが、それは文学を遺すための手段だったからではないか。「遊びをせんとや生まれけん」は子供時代のことであって、長ずれば「志持ちて生業を営む」ことが人の宿命であることが自明になって来る。