社会福祉を学ぶ人の教科書では、社会保障制度と社会福祉は別のカテゴリーであり、また、生活保護は福祉に入らない。しかし、世の中の常識では、これらすべてが一括して福祉ととらえられている。なぜカテゴリー化されたか。社会保障制度は、所得保障である年金、医療保障である医療保険を柱に国民皆保険制度が出来上がっているのに対し、個別の需要に応じた制度が福祉の制度である。国民の需要に応じて、戦後、必要性の高いものから、先ずは、生活保護(困窮者)、児童福祉(孤児・浮浪児)、身体障碍者(傷痍軍人)の立法がなされ、経済が回復してから、老人福祉、母子寡婦福祉、精神薄弱者(知的障害者)福祉が続いた。
生活保護を一般の福祉とみなさないのは、全額が公助で行われているからである。それ以外の福祉は公助、共助、自助の組み合わせで成り立っている。2000年に施行された介護保険は、社会保障制度である。保険料は全国民ではなく40歳以上だけに義務を課し、もともと老人福祉法の措置制度で行われていたサービスなので、福祉的要素を持っている。しかし、分類は単なる頭の整理であって、福祉とは、要するに、人々の生活を成り立たせ、困難を極力排除し、憲法25条に定める生存権を守るあらゆる手段のことを言うとした方がよい。
社会保障制度は国が責任を以て運営に当たるが、福祉については、90年の福祉8法の改正から、2000年の社会福祉法の施行に至るまで、市町村の役割が負担割合を含め拡大してきた。同時に、福祉サービスの供給主体は、公立から社会福祉法人へ、場合によっては株式会社まで移行してきた。社会福祉法人は、戦後、市町村だけでは福祉の運営が追い付かないため、「準市町村」という考えで社会福祉法人が設立された経緯がある。憲法89条が、公の支配に浴せざる宗教団体、慈善団体の事業に公金を支出することを禁じているため、民間でありながら準市町村と位置付けられた社会福祉法人をつくったのである。
今では、公立の福祉施設は少数であり、社会福祉法人が主体となっている。よく比較される医療においても、民間病院が8割を占めるのが日本である。もっとも、福祉においては、日本が追いかけてきた欧州でも、公から民への経営に移行する傾向が強い。日本では、2000年の社会福祉法と介護保険法の施行により、高齢者福祉などが措置制度から利用制度に変わり、市場を介した福祉サービスの事業主体は民間が望ましいと考えられる。
では、民間サービスとしての福祉は成功しているのだろうか。医療は、新型コロナの受け入れ病院が公立または公的病院にほぼ限られたため、病床数が少なく、逼迫した需要に耐えられずに「医療崩壊」が起きると叫ばれた。福祉はどうか。高齢者の入所待機、保育所はピークは過ぎたもののひところの待機児童問題が社会問題となってきた。超高齢社会と少子化対策を掲げる自治体により、一昔前には考えられないピカピカの立派な特別養護老人ホームや保育所が林立するようになった。そのため、にわか社会福祉法人が多く設立されたが、福祉分野とは縁のなかった経営者が公金で運営できる「つぶれない企業」に進出してきたという見方もできる。
福祉が国民皆保険の制度の狭間にあるさまざまの需要に応えるためのものであるならば、利潤を求める企業とは別の理由で運営されなければならないはずである。しかし、にわか社会福祉法人の登場や、施策の必要性から、養老工場や保育工場と呼んでもおかしくない施設が出てきた。それが、老人虐待や、送迎バス置き去りなどで児童の死亡に至るような事態を産んでいる。そもそも福祉事業を始めるときには、福祉への思い、理解が欠如してはならない。経営者がそうであれば、現場を預かる担い手にもモラルの低下を招く。
筆者は、厚労省に入省した1972年、初任研修で、ある重症心身障碍児の施設を訪れた。理事長は私財を投じて施設を作り、毎朝、朝礼で職員全員に彼女の信仰する新興宗教へのお祈りを行っていた。筆者は「福祉の経営は宗教化せず、近代化しなければならない」というレポートを書いたが、半世紀以上たった今は、少し違う考えに至っている。後年、児童養護施設の担当課長になったとき、そのほとんどが戦前の社会事業を継続してきた施設であったが、キリスト教系と仏教系に分かれていた。なぜ宗教?と始めは面食らったが、福祉を実践するのには、愛とか慈悲とかの確固とした思想から出発しないと現場が揺らいでいくことも感じ取った。ユニセフのインド事務所に出向した時も、公立の孤児院に比べ、欧米の宗教系慈善団体の経営する孤児院の方が明らかに水準の高い福祉を実践していた。
養老工場や保育工場、それに、誰もやりたがらない障碍者のための事業に、公費で「安定運営できる」ことをメリットとして素人が入り込んできている。落選時の収入源として政治家が運営しているのも少なくない。しかし、近年の性的暴行を含む虐待があらゆる福祉事業の中で増えてきているのは、福祉事業の経営理念を欠くことが最大の問題ではないのか。福祉は医療同様「公定価格」の世界である。事業者は、役人にペコペコし、それ以上に地元の政治家を使って補助金申請等の必要に役立てる。そこには、福祉の思想の決意はない。
若き日の筆者は福祉の近代化合理化を望んだが、近代化の過程でむしろ異なる悪が蔓延してしまった。経営者の資格を問い、現場の従事者の所得を上げ、共有できる理念を語らせることによって、福祉を変えていかねばならない。