大泉ひろこ特別連載

大泉ひろこ特別連載です。

日本の社会と社会政策(20)福祉は近代化されたか

2024-07-23 09:31:04 | 社会問題

 社会福祉を学ぶ人の教科書では、社会保障制度と社会福祉は別のカテゴリーであり、また、生活保護は福祉に入らない。しかし、世の中の常識では、これらすべてが一括して福祉ととらえられている。なぜカテゴリー化されたか。社会保障制度は、所得保障である年金、医療保障である医療保険を柱に国民皆保険制度が出来上がっているのに対し、個別の需要に応じた制度が福祉の制度である。国民の需要に応じて、戦後、必要性の高いものから、先ずは、生活保護(困窮者)、児童福祉(孤児・浮浪児)、身体障碍者(傷痍軍人)の立法がなされ、経済が回復してから、老人福祉、母子寡婦福祉、精神薄弱者(知的障害者)福祉が続いた。

 生活保護を一般の福祉とみなさないのは、全額が公助で行われているからである。それ以外の福祉は公助、共助、自助の組み合わせで成り立っている。2000年に施行された介護保険は、社会保障制度である。保険料は全国民ではなく40歳以上だけに義務を課し、もともと老人福祉法の措置制度で行われていたサービスなので、福祉的要素を持っている。しかし、分類は単なる頭の整理であって、福祉とは、要するに、人々の生活を成り立たせ、困難を極力排除し、憲法25条に定める生存権を守るあらゆる手段のことを言うとした方がよい。

 社会保障制度は国が責任を以て運営に当たるが、福祉については、90年の福祉8法の改正から、2000年の社会福祉法の施行に至るまで、市町村の役割が負担割合を含め拡大してきた。同時に、福祉サービスの供給主体は、公立から社会福祉法人へ、場合によっては株式会社まで移行してきた。社会福祉法人は、戦後、市町村だけでは福祉の運営が追い付かないため、「準市町村」という考えで社会福祉法人が設立された経緯がある。憲法89条が、公の支配に浴せざる宗教団体、慈善団体の事業に公金を支出することを禁じているため、民間でありながら準市町村と位置付けられた社会福祉法人をつくったのである。

 今では、公立の福祉施設は少数であり、社会福祉法人が主体となっている。よく比較される医療においても、民間病院が8割を占めるのが日本である。もっとも、福祉においては、日本が追いかけてきた欧州でも、公から民への経営に移行する傾向が強い。日本では、2000年の社会福祉法と介護保険法の施行により、高齢者福祉などが措置制度から利用制度に変わり、市場を介した福祉サービスの事業主体は民間が望ましいと考えられる。

 では、民間サービスとしての福祉は成功しているのだろうか。医療は、新型コロナの受け入れ病院が公立または公的病院にほぼ限られたため、病床数が少なく、逼迫した需要に耐えられずに「医療崩壊」が起きると叫ばれた。福祉はどうか。高齢者の入所待機、保育所はピークは過ぎたもののひところの待機児童問題が社会問題となってきた。超高齢社会と少子化対策を掲げる自治体により、一昔前には考えられないピカピカの立派な特別養護老人ホームや保育所が林立するようになった。そのため、にわか社会福祉法人が多く設立されたが、福祉分野とは縁のなかった経営者が公金で運営できる「つぶれない企業」に進出してきたという見方もできる。

 福祉が国民皆保険の制度の狭間にあるさまざまの需要に応えるためのものであるならば、利潤を求める企業とは別の理由で運営されなければならないはずである。しかし、にわか社会福祉法人の登場や、施策の必要性から、養老工場や保育工場と呼んでもおかしくない施設が出てきた。それが、老人虐待や、送迎バス置き去りなどで児童の死亡に至るような事態を産んでいる。そもそも福祉事業を始めるときには、福祉への思い、理解が欠如してはならない。経営者がそうであれば、現場を預かる担い手にもモラルの低下を招く。

 筆者は、厚労省に入省した1972年、初任研修で、ある重症心身障碍児の施設を訪れた。理事長は私財を投じて施設を作り、毎朝、朝礼で職員全員に彼女の信仰する新興宗教へのお祈りを行っていた。筆者は「福祉の経営は宗教化せず、近代化しなければならない」というレポートを書いたが、半世紀以上たった今は、少し違う考えに至っている。後年、児童養護施設の担当課長になったとき、そのほとんどが戦前の社会事業を継続してきた施設であったが、キリスト教系と仏教系に分かれていた。なぜ宗教?と始めは面食らったが、福祉を実践するのには、愛とか慈悲とかの確固とした思想から出発しないと現場が揺らいでいくことも感じ取った。ユニセフのインド事務所に出向した時も、公立の孤児院に比べ、欧米の宗教系慈善団体の経営する孤児院の方が明らかに水準の高い福祉を実践していた。

 養老工場や保育工場、それに、誰もやりたがらない障碍者のための事業に、公費で「安定運営できる」ことをメリットとして素人が入り込んできている。落選時の収入源として政治家が運営しているのも少なくない。しかし、近年の性的暴行を含む虐待があらゆる福祉事業の中で増えてきているのは、福祉事業の経営理念を欠くことが最大の問題ではないのか。福祉は医療同様「公定価格」の世界である。事業者は、役人にペコペコし、それ以上に地元の政治家を使って補助金申請等の必要に役立てる。そこには、福祉の思想の決意はない。

 若き日の筆者は福祉の近代化合理化を望んだが、近代化の過程でむしろ異なる悪が蔓延してしまった。経営者の資格を問い、現場の従事者の所得を上げ、共有できる理念を語らせることによって、福祉を変えていかねばならない。

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日本の社会と社会政策(19)社会政策の役人と組織が守る自民党

2024-07-15 21:36:02 | 社会問題

 55年体制以来、自民党は強い政党であり続けた。93年、リクルート事件後の政治改革に失敗した宮沢内閣の後、2009年、リーマンショック後の経済運営や年金・後期高齢者制度などの社会政策で国民を不安に陥れた麻生内閣の後、二度だけ政権交代が起きた。だが、政権交代したものの脆弱な政権ゆえにすぐさま自民党に政権が戻るという「レジリエンス(回復)」を成し遂げてきた。レジリエンスを可能にした原因は、野党の脆弱さ、政策遂行能力の無さが常に挙げられる。しかし、本当にそれだけなのか。

 今回の政治資金をめぐる騒動は、前二回の政権交代劇の時よりもはるかに国民の自民党離れが明確である。衆議院補選、都議選にみる自民党の凋落ぶりは、レジリエンスを許さぬ状況を呈している。ただし、立民を筆頭に野党の脆弱ぶりも甚だしく、選挙民は受け皿を探して、政治を放棄するか、最後まで新たなリーダーの存在を待ち望むかの状況に至った。都知事選は選挙民の思いを投影した。石丸氏の健闘は、新たなリーダーへの期待の表れである。石丸氏のデジタルの使い方ばかりを取り上げる傾向があるが、違う。自民でもなく、野党でもない、新たなリーダーを、救世主を、選挙民は待ち望んでいたのである。石丸氏がそれだった。

 では、なぜ、人々の石丸氏への思いが高まったにもかかわらず、実質自公の応援を得た小池氏が当選したのか。隠れて応援するステルス作戦とはいえ、自公の組織票が今まで通りに動いたからだ。立民と共産党が連携して出した候補が、傷ついた鳥にしか見えない蓮舫さんだったので、「ならば、これまで通りとしましょう」と組織は動いた。都民の自民への怒りも、「間接自民」の下に許されてしまった。

 では、その組織票とは何か。55年体制から長い長い間、経団連、医師会などの利益団体をはじめ、政権の意向によって利するかどうか明確な膨大な数の団体が持つ票である。政権の意向で利益を得るのは財界とは限らない。社会政策の関係も政策が右を向くか左を向くかで事業団体の運命は決まる。社会政策の事業主体である医療法人、社会福祉法人、環衛業者、医薬品業界などは、政権政党を応援してきた。政権政党との付き合いで、あるいはさじ加減で利するかどうかが決まるからである。

 官僚組織は、制度上は特定の政党を推進してはならないはずだ。国民が選択した政党の下で働くのが官僚だからだ。しかし、55年体制以来、ほぼ70年も自民党が政権の座にあったとすれば、官僚側も、「親分の顔」はしみついている。ほんの一瞬政権交代があった政党を忖度することはできない。官僚も自分の出世のためには「継続する親分」の顔色で動くようになっているのである。だから、官僚こそステルス作戦で、傘下の団体に「今回も我々の親分を頼む」と選挙を取り仕切っているのである。

 財務省や経産省は、政治家の輩出も多いうえ、政治家の扱いがうまく(俺たちの方が頭がいい。頭の悪い政治家はおだてて木に登らせるだけだ)、共産党を除けば、野党でもほどほどに付き合って、いわば「保険をかける」ことをやってのけるのだが、旧内務省系(総務、国交、厚労、警察)はその組織自体が自民党になってしまっている。官僚組織が自民党というのは、明らかにおかしいはずだが、自民を応援する選挙を長年やってきてて習い性となってしまったし、今の野党が応援に値する価値もないことが原因のひとつをつくっていよう。

 役人が実質的に組織票を動かしているのは、国だけではなく、地方政治においても同じだ。都知事選では、明らかな学歴詐称が響くことなく、組織票ががっちり固められたのは、組織からの「推し」が疑義を挟むことなく実行されたからだ。この事実は、今般、自民党が一人一人の有権者において底を極めた現状においても、総選挙をやれば、組織票のおかげで、そこそこに生き残ることになりそうだ。まして、傷ついた鳥「蓮舫氏」のイメージそのものの立民では、組織票をもてあそぶ役人たちの意識を変えることはできない。利益団体の組織そのものも、みそぎを怠った民主党のDNAを有する立民に加担することはなかろう。そして、その利益団体の組織には、本来ならば立民を応援するはずの連合、労働組合も入っているのだ。連合は経営者と呉越同舟を決め込んでいる。

 社会政策を担う行政マンやその傘下で事業を行う組織の人々が、理想を語らず、例えば「診療報酬で医師の技術料だけ上がればいい」という発想で、政治と付き合い、日本の発展を慮らなければ、政治は変わらず、日本はますます下り坂を滑っていくだけであろう。筆者は当該テーマの第16話において、社会政策のジハードと称して1983年、医療保険改革の「鬼」となって戦った官僚について語った。利益団体と渡り合い、政権トップを根回しし納得させた兵(つわもの)がかつてはいたのだ。社会政策を業とする官僚組織にも、経済官庁のごとく、政治家を掌に載せて政策を実現してきた人物が存在したのだ。

 今の政権与党も、今の野党も、今の官僚も、これまで通りを唯々諾々と続けるのはやめよ。良くも悪くも都知事選に石丸氏が出現したように、次の総選挙までに、新たな所からジハードを戦う勢力が出てくることを願う。それがなければ、社会政策の発展も絶望だ。

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日本の社会と社会政策(18)いつか来た道

2024-07-08 09:46:35 | 社会問題

 ナルギス・モマンド・ハッサンザイ元カブール教育大学教授が来日している。2021年8月、米軍の撤退後アフガニスタンを奪還したタリバン政権の下で、女子は初等教育までしか受けられず、十代で結婚させられる女性の状況を変えようと欧州で活動している。ノーベル賞受賞者であるパキスタンの女子教育推進運動家マララ・ユスフザイさんと同じ立場にある。ナルギスさんは、すでにアフガニスタンでリーダーとして活躍してきたという点では異なる。

 女は保護される、子孫を産む動物であり、教育や社会的活動は必要ないとされている。少なくともタリバン政権はイスラム教をそう解釈する。そのイスラム教を冒涜したと、少女マララさんは頭を撃たれ、英国の病院で奇跡的に助かり、国連を舞台に女子教育推進の活動を始めた。ナルギスさんは、祖国での身の危険を逃れ、ドイツで活動をしている。女性は女性の医師にしか身体を見せることができない国で、女性医師の養成もできないならば、どうやって子孫を増やすのか。字も書けない女性が母親で、衛生観念や栄養の知識がなくてどうやって健康な子供が育てられるのか。ソ連の侵攻以来四十年以上も戦火の中にあったアフガニスタンが自ら発展の道を閉ざしているのではないか。

 女性の地位については、いち早く近代化した欧米でも、遅れじと欧米の民主的制度を採り入れた日本でも、そう遠くはない昔は似たような考えだった。日本は戦争に負けて始めて、勝者アメリカの力で、憲法に男女平等が採り入れられた。参政権も、両性の合意のみに基づく結婚も戦後の産物である。均分相続で、女子に財産分与が明確にされたのもそうだ。憲法に基づいて、家庭、教育、労働の三分野で男女平等を達成すべく法的整備が図られた。女性を呪縛するイエ制度の廃棄を明らかにした民法。教育基本法で、女子に平等の教育が行われるべく高等教育の開放。そして、労働については、労働基準法に当初、男女平等を書き込む予定であったが、深夜労働など女子の保護規定があるため、書かれなかった。したがって、戦後、家庭や教育の男女平等が先行し、労働については、女子差別撤廃条約署名から5年かけ男女雇用機会均等法が1985年に成立し、遅れていた労働市場での女性の進出を可能にした。

 しかし、民主主義が与えられたものという考えや憲法はアメリカに作られたものという考えが一部にあるように、戦後80年近くたっても、男女平等を自らの文化とみなし受け入れたとは言えない。その証拠がジェンダーギャップ指数は世界118位で、先進国最低を続けているだけではなく、中国や韓国の下にもなっている。主な原因は、女性の政治参加が低いところにある。健康や教育では男性を上回る数値も多いが、労働分野では、上場企業経営者数などが低く、これを反映して政治参加が低くなる。家庭では、家事の依存率が女性に偏重し、教育は、戦後かなりの間は女性の高等教育と言えば文学系だったのが実学系に移行してきたので進歩は見られる。しかし、司法試験合格者の 25%、医学部卒の3割が女性という数値はまだ十分とは言えない。

 社会政策においても、かつて厚生年金の支給年齢は男性よりも5歳若かったのが改正され、離婚時の年金分割も可能になった。しかし、女性の優遇措置である被扶養者収入の上限までは保険料を支払わずに受給権を得ることや、いわゆる3号被保険者と呼ばれる保険料なしの基礎年金を受け取る権利などは温存され、逆差別とみられている。また、女性だけが遺族年金を受給できる逆差別は、最近解消された。女性への保護主義の行き過ぎは社会を停滞させる。総じて、戦後社会が変化を遂げている中で、未だに男性大黒柱の残滓が制度から払拭されていないのは、為政者の怠慢か、非合理な男女不平等が当たり前という文化が残っているかのどちらかである。

 非合理な男女不平等という意味では、世界で唯一女性の選択制別姓を認めないことや、女性・女系天皇を排除することも挙げられる。海外の人はこの事実を驚いて観ていることを日本人は自覚すべきだ。セクハラや性暴力の被害については、かなりの進歩がみられても泣き寝入りが多く、女性が女性の権利を堂々行使する社会に至っていない。男女の「本当の」平等はあるのかどうかわからないが、少なくとも制度的壁は切り崩すべきである。

 話をアフガニスタンに戻そう。我々は、敗戦して、アメリカの手を借りて男女平等を唄う憲法を擁すことができ、数々の進歩を得た。日本は、今、アフガニスタンに何ができるであろうか。中村哲医師は、生きている人を診る医者だから、生きるための灌漑が必要だと砂漠の中を滔々と流れる用水路を作り、ブドウ畑ができた。日本政府から身代金をとるためという賊の勝手な理屈で、中村先生は凶弾に倒れた。中村先生のような仕事は、土木工事の勉強と修得をした先生の知性や、人が生きるためには貧困を放置できないという先生の情熱と同じものを我々が持つことは不可能だ。

 だが、日本のいつか来た道を思い起こし、せめて、アフガニスタンからの難民を大きく増やし、社会が受け入れ、将来アフガニスタンを立て直す人材の育成に力を出すことはできるだろう。今、社会政策は、日本国憲法の制定から進歩を遂げてきたことが痛いほどわかるようになった。まずはナルギスさんの活動を支え、女子教育の推進から始めることだ。日本国憲法の前には、戦前の硬直した「抵抗勢力」はひとつひとつ消滅してきた。筆者には、80年代、ユニセフインド事務所の仕事で訪れたカシミール峡谷に住むイスラム教徒の女性たちが、人種的に近いアフガニスタンの女性に重なって見える。若い女性がユニセフ援助の刺繡を学ぶ横顔は息をのむほど美しかった。色白で、鼻筋が通り、湖のような眼をしていた。そして、彼女たちは誰もが同じことを言った。「少しでも、お金ができたら、子供を学校にやりたい」。

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日本の社会と社会政策(17)社会政策か海外援助か

2024-07-02 09:25:34 | 社会問題

 岸田首相がウクライナをはじめ、海外に出かけた時には他国援助をお土産にぶら下げていくのを国民は必ずしも賛成していない。国内の実質賃金の低下や所得格差の問題が顕在化しているときに、「問題は外ではなく内にあるだろ」が理屈である。この理屈は、戦後間もなく始まった海外援助に常に付いてきた反論である。しかし、円安の状況下で、現在、日本はアメリカ、ドイツに次ぐ世界三位の援助国になっている(OECD開発援助委員会)。1989年以降しばらく一位だったこともあるが、国際政治の道具として、海外援助の有用性は変わらない。

 1974年、田中角栄首相が東南アジアを歴訪した際に、各地でデモや火炎瓶を投げつけられる事件が起き、戦前は植民地化しようとし、戦後は輸出品の攻勢で経済侵略をしている日本に悪感情があることを身をもって知った。帰国するや、これらの国への援助や東南アジア青年の船事業(日本とアジアの若者を乗船させて交流を図る)が始められることになった。また、日米同盟の証として第一次湾岸戦争では1兆円以上を負担し、ウクライナ支援はこれまでに1兆7千億円にのぼる(開発援助のカテゴリーではない)。さらに、戦前の賠償を求めなかった中国に対してはODA(政府開発援助)として2021年度に至るまで援助し続けたし、インドが日本の友好国である大きな理由は高速道路をはじめインフラへの援助が大きい。海外援助はまさに政治の道具であり、必需品であることは間違いない。

 日本は、国として、国民の生活を守らねばならないと同様、国際社会の一員として政治的合理性のある海外援助を行わねばならない。どちらか一方はない。日本が一人当たりGDPの数値を下げている今日においても、G7先進国の一国として、国際社会での地位を保ち、平和と平等パートナーとして国際社会に貢献するためには、海外援助を否定することはできない。国内か海外か、そのバランスをとるべきとの案も、国家予算が100兆円を超える昨今、政府開発援助は2兆円を切っていることからみても、国の財政を圧迫しているとは言い難いであろう。

 問題なのは、同時に国内の二極化対策を明快に推し進めること、そして援助の効果を問うことだ。二極化対策が明快でないから、不満が海外援助に向けられるのだ。バラマキをやるのではなく、教育や住居の現物給付で固定的な安寧の対策ができなければならない。援助についても、日本に効果をもたらすことを狙わねばならない。第一次湾岸戦争での1兆円コミットは、何ら感謝されず、米国務省の知日派アーミテージ副長官に「地に足を付けた援助をしろ」と言わしめた失敗がある。この失敗が良くも悪くもPKOや集団安全保障の積極解釈に繋がっていったのだが、確かに生活保護予算を何とか削ろうとしていた当時、無駄な1兆円があるなら国民に使うべきの議論も正しいと思われた。

 社会政策においても海外政策においても、単なる金額の多寡ではなく、質が求められる。質とは、簡単に言えば、人材の養成、人を使うサービス業の向上である。防衛費が増額されて米国の武器を買うだけでは意味がない。インテリジェンスサービスを整え、情報を自ら信頼のできる体制にすべきであり、自衛隊員のスキルアップとキャリア形成に注意を払うべきだろう。社会政策においては、公教育で十分な教育と就職につながる実践教育の制度を確立すべきであろう。医療については、孫正義氏が提唱するAIの活用で高度医療の普及をするだけではなく、風邪ひき腹痛の類をパターン化して医療費増嵩を防ぐこともできよう。

 今、カネを使うべきなのは、国内においては人材とそれを活かすシステム作りだ。「日本はモノづくりの国」を主張するのもよかろうが、対象は宇宙、深海、新エネに伸びている。従来技術も、まさに政府開発援助でアジアの国々に新幹線整備やダム建設をするなど、大きな仕事がある。筆者が80年代、ユニセフ・インド事務所に奉職していたころ、インドでは二層式便所づくりが一つの仕事だった。今も、モディ首相の下で「すべての家庭に便所を」が掲げられているが、その昔日本に多くいた二層式便所の技術者は、80年代にはまったくいなくなっていた。日本は優れたモノづくりの歴史を持ちながらロストテクノロジーが多すぎる。古い技術の活かし方は今、一番が開発途上国での普及だ。ロストテクノロジーを守ることもしていかねばならない。

 社会政策における質の向上は、年金額を引き上げることの困難を前提として、シルバー労働市場への拡大とアクセスを求めたい。かつて国庫補助まであった老人福祉センターや一時敵視までされた公民館を見直し、ここに高齢者が集まり、おばあちゃん保育や、子供への実践教育や相談などに活用されるようなシステムがほしい。低廉な労賃を払い、高齢者の生活の質を上げ、複数の高齢者がいるならば子供を預ける側も大きな心配はいらない。

 社会政策も海外援助も、人材の活用方法とそのためのシステム構築が要る。もしかしたら、このことは何十年も言われてきたことだが、選挙しか考えない政治家の耳には入ってこなかったのかもしれない。

 

 

 

 

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日本の社会と社会政策(16)社会政策のジハード(聖戦)

2024-06-25 09:42:50 | 社会問題

 筆者がユニセフのインド事務所で仕事をしていた1980年代半ば、同僚でスリランカ出身の水道技術者ワヒッドと親しくなった。スリランカは、仏教徒が多く、次いでインドのタミールナドゥ州から来たヒンズー教徒、少数だが、キリスト教徒とモスレム(イスラム教徒)が存在する多様性社会である。ワヒッドはモスレムで、彼の話の多くは、いかにイスラム教が他の宗教に対して優れているかを語っていた。

 絶対神のアッラーの下、コーランに記された信徒としての義務を懸命に守るのがモスレムだ。「イスラム教以外は邪教なり。悪なり」とワヒッドは私を諭した。しかし、居住するインドはヒンズー教という多神教であり、イスラム教もキリスト教も受け入れ、仏教については「兄弟だ」と言って親しみすら表していた。16世紀から19世紀にかけてインドを支配したムガール帝国はイスラム国家だったが、治世者はヒンズー教に寛容で、モスレムの皇帝の下、藩王はそれぞれのヒンズー教の神々を守り、異教徒として阻害されることはなかった。ということは、イスラム教の解釈はひとつではないと考えられる。

 しかし、インド独立後、80年近くにわたって、イスラム教のパキスタンとヒンズー教のインドは、カシミール州の帰属をめぐって大量の血を流してきた。パキスタンのモスレムのジハードは終わりがない。21世紀になって、中東でイスラム国が創立され、イスラム原理主義に沿って、異教徒を懲らしめるジハードを展開した。欧米の力も借りて、その拠点地は奪回されたというが、イスラム国のジハード集団がなくなったわけではない。世界中どこでもジハードのテロがありうる状態で、世界は恐れている。

 ジハードは悪を許さぬ原理主義者の戦いである。戦いによる死は殉死であり、来世での神からの祝福が約束される。この考えは普遍的にあるか。ある、と言えよう。キリスト教福音派、マルクス主義(というより、スターリン主義、毛沢東主義というべきか)、優性思想、身分制社会肯定、・・・論理を凌駕し、他の考えを攻撃するものすべてだ。実は、資本主義の修正や平等実現の役割を果たすべき社会政策においても、ジハードはあった。

 1983年、吉村仁厚生省保険局長は「医療費亡国論」を著し、国内総生産よりも高い伸び率で高騰する医療費が早晩国の財政破綻をもたらすことを警告し、医療保険の大改革を進めた。それまでの医療保険行政は、美濃部都政から引き継いだ老人医療費の無料化や、ケンカ太郎の異名をとった武見太郎医師会長の開業医優遇で、モラルと財政破綻の危機を目の当たりにしてきた。患者負担を採り入れ、保険料を改訂し、医療保険制定以来の改革を吉村は行った。まさに誰をも寄せ付けないジハードだったのである。吉村自身は、その後事務次官になり、退任後まもなく死亡した。ジハードのために放置していた肝臓がんが原因だった。「俺はこの改革のために鬼にもなり、蛇にもなる」と豪語した吉村の命を奪ったのはガンという鬼だった。壮絶な殉死であった。

 2009年、筆者が医師会の支援を得て衆議院選挙に勝ったとき、医師会は「医療の諸悪の根源は吉村だ」と言ってはばからなかった。筆者は、支援団体に対して口を閉じた。心では、吉村を尊敬していた。吉村以降、厚生省にこれだけの男が現れなかったのは事実だ。政治家の間を根回しして歩き、医師会長とケンカしながら多忙中の多忙の中、吉村局長に呼ばれて行ってみると、「君の書いたこの記事の数値、間違っているよ」と、若輩の筆者が業界紙に書いた記事について教示してくれた。確かに間違っていたし、若輩者の記事にまで目を通すその余裕に驚いた。しかも、叱るのではなく、優しい目つきで、書くときは真実に迫らねばならないことを教えてくれた。

 吉村の評価は賛否両論と言われることが多いが、制度改革を通して、医のモラルを医師にも患者にも糺したのは彼ではなかったか。産業の少ない県の高額所得者の上位は常に医師であり、めまいや風邪気味で頻繁に救急車を呼ぶのは患者であり、公がプールした金は痛みなく使われやすい。吉村が改革に乗り出す前のいわゆる3K赤字(コメ、国鉄、健保)時代には、医のモラルは地に落ちていたと言える。はしご受診や社会入院は権利としてとらえられていた。今も、そのモラルが完全になったとは言いがたいが、吉村が投げかけ、当時、医療財政キャンペーンによって社会に働きかけなかったら、もっとひどい状況をもたらしたのではないか。今から40年前の仕事が流れを変えたと筆者は確信している。

 霞が関には、本来黒子であるはずの官僚で名を遺した剛の者がいる。古くは、城山三郎著「官僚たちの夏」に描かれた通産官僚の佐橋さんに始まる。戦後の経済復興は経済官僚たちの業績であり、厚生省などの旧内務官僚も、筆者の若いころは、旧帝大出で、内務省入省の上司の多くが燦然と輝く仕事をした。しかし、疑う余地もなく、永田町に合わせたかのように、昨今の霞が関の地盤沈下は甚だしい。剛の者は外資系に奉職し、官僚は身を守るタイプの者に代わる。もう、霞が関からのジハードは起こらない。むろん、永田町発のジハードがありえないことは、もっと痛く、もっとつらい。

 

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