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俳句雑記帳

俳句についてのあれこれ。特に現代俳句の鑑賞。

「馬醉木」10月号(徳田千鶴子主宰、東京)

2014年10月21日 | 俳句

 

     爽秋や見つけられさう青い鳥  徳田千鶴子

 「青い鳥」という季語はないが、もしあったらどの季節がいいだろうか。人によって、と言うよりも年代によって違うだろうと思う。若い人は春だと言うだろうし、中年の人は夏だと言うかも知れない。歳をとれば秋となるのではなかろうか。冬と言う人はいないのではないか。
 折からの爽やかな秋である。青い空を眺めていると、どこからか青い鳥が舞い降りてきそうな気がするのである。特に不満があるわけではないが、そのことが青い鳥を求める心につながるのだろう。

     忘れし名ひよつこり浮かぶ夜長かな  同

 昼間に会った人の名をどうしても思い出すことができなかった。その人は親しげに挨拶をしてくれたのに、どうしても名前を思い出せずに別れることとなった。こんなことは年齢に関わらずよくあることなのだが、そんなことがあったことも忘れている。秋の夜長に椅子から立ち上がったときに、ふとその人の名を思い出した。なんだあの人だったのか、とひと安心。作者のように多くの人に会う機会のある人には、良くあることなのだろう。

    吾が子にも本音は言はず芙蓉の実  同

 上五七まではよくわかるけれど、なぜ芙蓉の実なのかがわからないので考えさせられる。芙蓉の実は毛で覆われているので、本音は隠れている種子にあるということか。本音の正体は何なのか不明だが、わが子にも言わない本音とは芙蓉の実のみぞ知る。


「半夜」10月号(谷下一玄主宰、堺市)

2014年10月16日 | 俳句

 

        突き出され風の色して心太  谷下一玄

 風に色はないが、心太のように透明なものは「風の色」と言われるとぴったりだと思わざるを得ない。食べ物の句は、まずおいしそうであることが大切である。作者はそれを心得ての作であろう。風の色の心太は涼しそうでもある。

      時間まで人堰とめてゐる茅の輪  同

 茅の輪が立っている。いつでもくぐれるのではなく、開始まで人々は待たされているのだ。時間が経つと共に待つ人の数は増えていく。茅の輪は人をせき止めるためにあるような光景となる。人々は何を待っているのだろう。茅の輪をくぐった後も変らない顔で過ぎて行く。

     昨日より今日長く鳴く朝の蟬  同

 昨日の朝も蟬が鳴いていた。今朝も蟬が鳴いているが、それは昨日よりも長く鳴いているように思える。蟬の命は一週間ほどと聞くが、この蟬はいつ生まれたのだろう。もう後がないのかもしれない。短い命を惜しんでせいいっぱい鳴いているのだろうか。


「柿」10月号(高石幸平主宰、松山市)

2014年10月09日 | 俳句

     水の傘たたみ噴水停りけり  高石幸平

 噴水は棒のような水の軸があって上端では折れるわけだが、工夫された噴水では傘のように広がるものもある。これを水の傘と捉えたのだろう。もちろん、折れた水が飛び散る様子を水の傘と言ってもさほど無理ではない。噴水が停まるときはまるで傘をたたむようだと捉えたところが面白い。

    狙はれてをりし金魚の掬はるる  同

 金魚すくいの一景である。金魚すくいをする人は無意識に行動しているようだが、見ている人にはどの金魚を狙っているかがわかるのであろうか。無意識に遊んでいると思われる金魚すくいの子供を、勝負をしているように大げさに捉えている。

    掬ひたる金魚のすぐに落着きぬ  同

 金魚すくいに掬われた金魚はさぞや暴れるかと思ったら、すぐにおとなしくなったと言うのである。金魚にとってはただ掬われただけだから大したことではないのだろう。人間のほうは金魚が観念しておとなしくなったのだと思い込んでいるのだろう。


「斧」9月号(吉本伊智朗主宰)

2014年10月05日 | 俳句

 

         みひらけば泥に染まりし鯰かな  吉本伊智朗

 鯰は日本での繁殖期は5-6月が中心である。この時期になると群れをなして水田や湖岸など浅い水域に集まり、雄が雌の体に巻きつくという独特の繁殖行動の後、水草や水底に産卵する。卵の大きさは約3mmで黄緑色をしており、およそ2-3日で孵化する。
 上のくは「泥に埋まりし」ではなくて「染まりし」と言ったところがポイントである。泥地に育つ鯰であるが、その泥に染まってしまうという柔らかな性質を見つけたのである。

        つくづくと長寿の相の鯰かな  同

 日本人は鯰というのは長生きするものだと思い込んでいるようだ。実際に鯰の寿命は50年とも70年とも言われる。飼育した人の話では、少なくとも10年以上は生きるということだ。もともと長寿と思われている鯰だが、よくよく見ればやはり長寿の相が現われていることに作者は感心しているのである。こういう相を見ると自分もあやかりたいと思うのだろう。

       一墓石囲み雨よろこびの人  同

 日照りがつづいて田畑が乾き草木もなえてしまうようなときに降る雨を喜雨と言うが、人間の側から言えば雨喜びである。喜雨が来て喜び合っている人々が墓場に集まっているのであろうか。墓に入っている人にも水が必要であるし、何かにつけて人が集まるところが墓場であったのだ。

 

 

 


「末黒野」10月号(小川玉泉主宰)

2014年09月25日 | 俳句

季語の説明はやめることにした。歳時記の解説で十分だと思う。手元にいただいている俳誌を見てみよう。

    眼を病むやトマトの皿の縁二重  小川玉泉

 五年ばかり前に私も同じ経験をしたので納得する句である。私の場合は山の稜線が二重に見えたのだが、眼科へ行ってもよくわからないと言われた。それから三ヶ月ほどして脳梗塞をおこして入院した。ものが二重にみえるときは脳に関係することがあるらしいから注意が必要だ。作者の場合は脳とは関係なかったようだから一安心である。

    金亀子襖へ三度体当たり  同

 金亀子は世界に17000種も生存すると言われる。闇の中を光を求めて飛んでくることが多いが、この金亀子は襖に向かって突進するというのである。三度も襖に体当たりしても懲りない。襖の向こうに何があるというわけではなかろう。体当たりすることが目的なのだろう。悲しい虫だ。

    紫陽花の真白や雨のカフェテラス  黒滝志麻子

 真白な紫陽花というのはなんとも清々しいものである。紫陽花と雨は付き物ではあるが、カフェテラスから眺める白紫陽花は格別であろう。一人で沈思黙考のひとときなのであろう。

    妻留守の机に匂ふ朴の花  田中臥石

 外出から帰ると妻はいない。どこかへ出かけたのであろう。部屋に入ったとたんに朴の花の匂いがするので見ると机の上に朴の花が活けてあるではないか。どうやって手に入れたのかわからないが、すばらしい香りに妻の心遣いを感じているのである。  


法師蝉(つくつく法師、つくつくし)

2014年08月16日 | 俳句

 森林に幅広く生息する。基本的にはヒグラシと同じく森林性(湿地性)であり、薄暗い森の中や低山帯で多くの鳴き声が聞かれる。この発生傾向は韓国や中国でも同様である。成虫は特に好む樹種はなく、シダレヤナギ、ヒノキ、クヌギ、カキ、アカメガシワなどいろいろな木に止まる。警戒心が強く動きも素早く、クマゼミやアブラゼミに比べて捕獲が難しい。
成虫は7月から発生するが、この頃はまだ数が少なく、鳴き声も目立たない。しかし他のセミが少なくなる8月下旬から9月上旬頃には鳴き声が際立つようになる。
 鳴き声は「ジー…ツクツクツク…ボーシ!ツクツクボーシ!」と始まり、以後「ツクツクボーシ!」を十数回ほど繰り返し、「ウイヨース!」を数回、最後に「ジー…」と鳴き終わる。

         伊勢は津でもつとつくづく法師蝉  鷹羽狩行

 毎年9月に伊勢神宮で守武祭が行われる。これは俳諧の祖と言われる荒木田守武の忌を修する催しである。この句はたぶんこのときの作であろうと思われる。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」とは伊勢音頭の一節であるが、それに引っ掛けて法師蝉を持った来た。「つくづく」もツクツクシに掛かっている。言われてみればツクツクボウシは音頭のように聞こえなくもない。伊勢へのやや手の込んだ挨拶句と言えよう。

        ふと声のつづきを待ちぬ法師蝉  稲畑汀子

 つくつくぼうしの鳴き声は最後に「ジー…」と止るので、まだ続きがあるような感じが残ることがある。作者も法師蝉の声の続きを待っている自分に気づいたのだ。「ふと」が微妙に効いている。油蝉やクマゼミではこうはいかない。法師蝉の特徴をみごとに捉えている。


蜩(ひぐらし、かなかな、日暮)

2014年08月09日 | 俳句

 蝉の一種であるが鳴き声は美しい。夏にも鳴くがその声の清涼感から秋に分類される。カナカナカナと鳴く声は聞く人によっていろいろと想像が膨らむようである。何かを訴えているようでもあり、悲しんでいるようであったりする。朝とか夕方に鳴くことが多い。

            ひぐらしや点せば白地灯の色に  金子兜太

 たぶん旅の宿にいるのだろう。一風呂浴びてくつろいでいると蜩が鳴き始めた。もう日も暮れるころなので、女中が明りを点けてくれた。やや黄色を帯びた色の明りである。その明りが点くと着ていた白地がその明りの色に染まったというのである。かなかなの鳴き声とその灯の色はなんとなくぴったりと合うような気がする。果たして白地を着ているのは誰であろうか。作者であろうと思うが、女性であるような気もする。

           夕ひぐらし煙草止めたる夫とゐる  城 孝子

 蜩が鳴くのは朝か夕方が多いのだから「ひぐらしや」でいいと思うが、この句が面白いのはその取り合せである。たぶんヘビースモーカーであったであろう夫と今いるのであるが、煙を出さない夫を見て複雑な気持なのであろう。蜩は日暮しに通じるが、煙草を吸う日常とは違う日常が始まっているのである。なんとも不思議な光景である。


八月

2014年08月06日 | 俳句

 いつの間にか八月になっている。このブログもずいぶんごぶさたしてしまった。俳句のブログはたくさんあるが、こんなに投稿数の少ないブログも珍しいだろう。申し訳なく思っている。
 八月は重たい季語が並ぶ月である。原爆も戦争も季語とはならないが、それが終われば日付が季語として残る。
      八月の六日九日十五日
 以前にも書いた記憶があるが、この句の作者は確か九十歳の老婦人だったと思うが名前は忘れた。日を並べただけの句なのに、読む者にずしりとこたえる内容である。類想もあるだろう。「八月や」という句もあったと思うが、詠嘆ではないし、八月の中の出来事なのだから「や」で切ることもない。「の」だからこの句は生きるのだ。

      てのひらをにぎれば拳原爆忌   神蔵 器

 原爆の威力は中心部では2万度もの高温で一瞬にして蒸発してしまった犠牲者もいたという。とにかく原子爆弾はそれまでの知識では想像もできないような威力を人々に見せ付けたのである。「てのひらをにぎれば拳ができる」という簡単なことが、なんの疑いもなくできるということさえ幸せに思えるのである。日常では気づかないような小さな幸せが、原爆に対する激烈な反対意識となって盛り上がるのである。

     一杯の飯の白さや終戦忌   宮入河童

 今の若い人々の中には、日本がアメリカと戦争をしたことすら知らない人がいるという。それはむしろ喜ぶべきことではないかと思う。いつまでも敵であったという意識を持つことはよろしくない。「昨日の敵は今日の友」という言葉もある。しかし、思い出せば戦後の食糧難はひどいものであった。私は田舎で育ったのでさほど食料には困らなかったような気がするが、米だけは手に入らなかった。高校に入学したとき、麦飯の弁当を持って行って大いに恥をかいた。私以外は全員が白飯だったのである。この記憶は今でも消えることはない。白飯が食べられることはありがたいことなのである。  


雷(いかづち、はたたがみ)

2014年06月27日 | 俳句
 夏に特に多いので夏の季語となっている。積乱雲によって起こる空中の放電現象で、稲光、雷鳴がすさまじい。放電が起こると周りの空気は熱せられて超高温に達する。高温によって空気は急激に膨張しその速さは音速を超えてしまう。この衝撃波が爆発するのが雷鳴である。音は秒速340mで伝わるが、光は秒速30万kmとはるかに速い。したがって、雷光が見えてから雷鳴が聞こえるまでには、距離によって差が生じることになる。

雷鳴やはづしてひかる耳飾り  木下夕爾

 雷鳴が続いている。女は耳飾りを外して卓上に置いた。そのとき稲光がして卓上の耳飾りがきらりと光ったのである。描写されているのはそれだけのことであるが、ここには様々なドラマが感じられる。読者はどのような場面であってほしいと思われるだろうか。想像の通りのドラマがあったのである。

     雷の近づく如く遠ざかる  稲畑汀子

 遠くでゴロゴロと鳴っていた雷が、だんだん近づいて来る気配がする。それは稲光と雷鳴の間隔の長短でわかることである。光るのとほぼ同時に音がすれば雷は極めて近い。ゴロゴロではなくバリバリである。一度でもこの音を聞けば縮み上がる人は多いだろう。そんなことを知っているから、いよいよバリバリだなと思っていたら、どういうわけか遠くの方でゴロゴロと鳴り出した。近づいて来ると思って恐怖に耐えていたら、雷はいつの間にか遠ざかって行ったのである。簡単な表現だが心理描写がうまい句と思う。

青嵐(あおあらし)

2014年06月06日 | 俳句
 青々とした草木の中を吹き渡る爽快で明るい風であるが、葉がちぎれるほどの強さもある。嵐と言っても台風のような風ではなく、むしろ薫風と同じような風と考えてよかろう。薫風は「薫る」「匂う」に重点を置いたところが特徴である。この語は「せいらん」とも読めるが、そうすると晴嵐と間違われるのであまり使われないようだ。

     みどり児の香が先にくる青嵐  加藤知世子
  
 向こうから赤ん坊を抱いた母親がやってくる。そこへ風が吹いてきて幽かに乳の匂いがするというのである。「香が先にくる」という捉え方がうまい。実際には風が先に届くはずだが、風に混じった乳の匂いが先に届いたように感じたのである。

     青嵐もつとも朴を吹き白め  富安風生

 風が吹いてきて朴の花に当る。朴の花は白いから葉が動くと白がよく目立つようになる。その様子を「白め」と言ったのである。ここでは朴の花のことは言っていないが、もちろん朴の花は咲いているのである。ただ、作者が言いたいのは、風が吹いて葉が動くにつれて花の白が現れたり消えたりする面白さであろう。白を強調している。