にいはんは周回遅れ

世間の流れとは違う時空に生きる

せめて三日坊主と言いたかった

2007-10-09 | オーマイニュース


オーマイニュースPRESENTS 『ほぼ毎日が講演会』


これは、オーマイニュース(以下OMN)が10月4日から開始した(はずの)新企画です。ほぼ毎日という実施サイクルや、ニュース特集・企画に独立したコーナーを設置したことを考えると、鳴り物入りでスタートした企画とみていいでしょう。

このコーナー、当初の予定では、今日10月9日に第3回が行われる予定でした。

ところが、演題や日時、場所に参加費用といった詳細の全てが未定のまま当日を迎え、結局講演会が行われたかどうかは定かではありません。おそらく、何らかの事情で中止か延期となったものと思われます。

告知記事では、23時現在でも今日の予定は未定となっています。仮に決行するならば詳細の告知があるはずです。また、大雑把にでも一度告知した以上、中止や延期の場合には事前に何らかのアナウンスをするのが普通の企業の対応ですが、OMNはそれを怠りました。

常識的に考えて、演題を始め、詳細が全く決まっていない講演を目当てに人が集まるとは思えません。そういう意味では、わざわざ中止や延期のアナウンスをしなくても、表面上はOMNや市民記者・一般読者への影響はないでしょう。しかし、何かをやるはずだった予定をそのままにしておくのは大変見苦しいものがあります。今日行う予定だった講演は一体どうなったのか、このままなかった事になってしまうのでしょうか?

これまで、OMNにはやるといった企画や構想をいつの間にかなかった事にした実績が多数あります。期限を切って行うと発表した企画が何のアナウンスもなく後ろにずれ込んだ事も同様に多数あります。そういったものも含め、編集部からのアナウンス不足がOMNの慢性的な課題となっている事は周知の事実といってもいいでしょう。

そういったOMNの実績と現状を思うと、スタートしたばかりとはいえ今回の企画の行く末が心配になります。この企画も第3回を待たずしてなかった事になってしまうのでしょうか?

もしかしたら、編集部では現在進行形で企画の見直しが進められているのかもしれません。撤退するか、開催サイクルを見直して継続するか、あるいは今日の件はアクシデントとして現行のままで継続する可能性も考えられます。

ただ、どういう形になるにせよ、編集部からのアナウンスは必要です。もし検討中ならば、その旨だけでも明らかにした方がいいでしょう。アナウンスがないまま企画がなかった事になれば、やはりOMNはそういう組織なのかと市民記者や読者に何度目かわからない印象付けがされてしまいますし、実際今日行うはずだった講演は宙に浮いてしまっています。

今日の講演はどうなったのか?企画はどうなるのか?OMNは事の真相を自ら明らかにしましょう。


やると言った事はきちんとやる


予定が変わったらその旨きちんとアナウンスをする


出来ない事は最初から言わない


当たり前の事です。


実は今回の企画が見切り発車でしたというオチがありませんように。


【関連エントリ】
拙ブログの各所に散らばっています。


なぜ市民記者は辞めてしまうのかへの異論への異論(5)

2007-10-09 | オーマイニュース

なぜ市民記者は辞めてしまうのかへの異論への異論(4)からつづく

記事に対するコメントに対し、当初個別に対応していた藤倉記者は、その後コメント欄45~47番で自信の立ち位置等について改めて説明を行いました。おそらく前のエントリに書いたような理由から説明の必要性を感じたものと思われますが、記者なりに論点を整理した上で、その後の議論を行いたいという気持ちもあったのではないかと推測しています。

ところが、同日、木舟氏がコメント欄56~57番で編集委員MLを引用して反論を行い、そこに記事が平野次長の依頼であったとしか読み取れない表現があった事で、藤倉記者は釈明のコメントを出さざるを得なくなりました。本人は意識していないかもしれませんが、その内容から藤倉記者の立ち位置や姿勢が示されている箇所がありますので、引用していきます。(引用部分はイタリック体で表示、フォント変更・太字は筆者)

なお、この木舟氏の反論を受け、平野次長も記事で反応しています。藤倉記者のコメントによれば

 執筆の経緯や原稿のやりとりに関する時間経過は、平野さんの説明記事(筆者略・当該記事url)に書かれている通りです。

とありますので、平野次長の記事からも必要箇所を引用します。

提示する資料の不思議

藤倉記者は、コメント欄にこのように書きました。

 平野さんは「編集部による反論記事」のつもりであり、ぼくは「自分で勝手に書いた」つもりだった、という認識のズレがあったとすれば、それは双方の連絡不足として、ぼくと編集部がともにお詫びすべきところだと思います。

木舟氏によれば、平野次長は編集委員MLでこのように書いていたとの事です。

・平野さん→編集部員ML(9/28夕刻)
>編集委員のみなさま
木舟さん記事に対するレス記事は、藤倉記者に書いてもらっております。土曜日、林さんの記事と同じタイミングで掲載しますので、少々おまちください。

藤倉記者の記事イコール編集部の反論記事であるとしか解釈しようがない内容です。ここだけを読めば認識のズレは明らかでしょう。従って、その後お詫びがあるかと思いきや、藤倉記者は平野次長を擁護しながら謝らない方向に話を持っていきます。

 ただ、平野さんは説明記事で、

> 「私の手元にある藤倉記者の原稿がもう間もなく完成し、掲載されます
> ので少々お待ちください」とお知らせする意味で書いております。

 と説明しているので、認識のズレというよりも、MLにおける平野さんの表現の問題のような気がします。

認識のズレではないので、お詫びする必要はないという主張です。藤倉記者は、その後の文章で木舟氏に謝ってはいますが、それはコメント欄できつい反応をした件についての謝罪で、いわば全くの別件です。

そして、藤倉記者は、ここでは平野次長の記事を引用してMLの表現が誤解を与えたというように主張しています。記事を読めばMLで言いたかった事は伝わるといった感じですが、平野次長の記事はいわば後付けの言い訳です。木舟氏がMLを持ち出して反論してから出てきた記事だということを考えれば、平野次長が当初からそのような意図でMLに書いていたかどうかは疑問が残ります。

MLの文章からはどうひっくり返して読んでも記事に書いたような意図は感じられません。そこには触れず、後付けの言い訳があるから問題なしとする様子は、藤倉記者の市民記者に対する姿勢とは違うものを感じます。

また、その後には以下のような表現があります。

 ただ、MLの内容から少し想像を膨らませるともしかしたら、ぼくの原稿を読んだ上で「藤倉記事があれば、編集部として別の反論記事を出す必要はない」と考えていたのかもしれないという気はしました。

自らの書いた記事から読者が感じた印象を指摘したところ、強い口調で反論した人と同じ人物の言葉とは思えません。冒頭の部分は、MLに書かれていない平野次長の意図を汲み取ったと読む事もできます。そういえば、田村氏を批判する際には木舟氏の記事から受けた印象をそのまま使用していました。結局、自身の主張を補完する内容であれば、行間や文脈を積極的に読むというだけの事だったのかもしれません。

さらに指摘すれば、平野次長の意図はMLの内容から想像を膨らませるまでもなく、記事にしっかりと書かれています。

 そして藤倉記者のインタビューに応じると同時に、編集部としてはコメント欄で対応することにしたわけです(記事を書く時間が物理的に取れず、本当に申し訳ありません)。

この場合、編集部というのは平野次長とイコールと考えていいでしょう。それなのに、ここでは記事ではなくMLの内容を元に平野次長の意図を想像しているわけです。記事の中に編集部としての対応が書かれているにもかかわらずそれを無視したのは何故でしょう?直前では平野次長の記事を引用していますので、藤倉記者はその記事を読んでいるはずなのですが。

記事を引用すると、平野次長が「藤倉記事があれば、編集部として別の反論記事を出す必要はない」と考えていたことが確定します。そうなると、藤倉記者と編集部(平野次長)の間に見解のズレがあったことが明らかになります。必然的に藤倉記者と編集部は謝罪しなければならなくなります。それを避ける為にここでは記事を引用できなかったとみるのは想像力が豊かに過ぎるでしょうか?

記事を書けば行間や背景を読まれるのは当たり前

コメント欄65番では、藤倉記者自身によってその立ち位置が説明されています。

 ぼくは編集部から原稿料をもらって記事を書いています。

コメント欄45番で述べていたそれより、よほどわかりやすい立ち位置です。改めて言うまでもありませんが、藤倉記者は1本ナンボで編集部に記事を買ってもらっているプロのライターです。そのライターが内輪ネタである編集部に関連した記事を書く場合、編集部の意向に沿った内容の記事を書く事は、依頼の有無を問う以前に極めて自然な行為です。平野次長の記事から、執筆に至るまでの経緯を抜粋してみましょう。

 さて、どうしたものかと思案しているところに、週明け25日(火)に藤倉記者がやってきて、「僕、あのデータから全然違ったことを読み取ったので、それ書きますよ」と助け舟を出してくれました。渡りに船だったので、「ぜひ、お願いします」と言いました。

藤倉記者が読み取ったのは、木舟氏とは全然違ったことだったそうです。木舟氏の記事は編集部を批判する内容でしたから、それとは全然違うものといえば、編集部を擁護する内容になるでしょう。また、藤倉記者の記事にあったインタビューのやり取りから、平野次長が木舟氏の記事に不満を持っていたこと、木舟氏に対して不快感を覚えていたことは、プロならば当然感じ取ったものと思われます。

そして、実際藤倉記者が書いたのは、木舟氏のデータの読み方に異を唱え、記事の書き方をこき下ろし、返す刀で田村氏を一刀両断に切り捨てる記事でした。単に編集部を擁護するだけではなく、木舟氏や田村氏への批判も含まれていたのは、これまでに書いた通りです。

編集部から原稿料をもらって記事を書いているプロ記者が、編集部批判を行った市民記者の記事を批判する。その記事がどういう意味を持つのかは明らかでしょう。それ以外の意図があるのなら、それは記事に明示しなければ読者には何もわかりません。

本当に私的な立場で書いたと主張したかったのなら、今回の記事はオーマイニュース(以下OMN)に書くべきではありませんでした。個人ブログにでも書いて、木舟氏の記事のコメント欄にurlを貼り付ければ、興味がある人には読んでもらえたでしょう。それをせずに、他の記事と同じ手順でOMNに記事を書いた時点で、それが私的な立場で書いたという主張は説得力を失います。もともと説得力がない主張ですから、それを周囲に認めさせる為には何度も同じ主張を繰り返さなければならなくなるのは、ある意味当たり前の事です。

念の為に付け加えておくと、当該記事に他の記事と同じように原稿料が支払われるかどうかは、藤倉記者がコメント欄45番を記述した時点では確定していない模様です。この記述が事実だとすれば、この記事は原稿料が発生するかどうかを確認しないまま書かれた記事という事になり、その状況でも原稿を執筆するというのが、藤倉記者と編集部の信頼関係を示しているようにも思えます。

さらに、コメント欄65番ではOMNの良さと平野次長のMLの表現を擁護する記述がかなりの長さで語られています。これも藤倉記者の立ち位置を説明しているといっていいでしょう。

このように、行間や背景には記者が読み取って欲しい事だけではなく、スルーしてもらいたい事も自然に出てくるものです。この記事でいえば、上から目線で木舟氏や市民記者を小バカにしているという批判が私以外からも出ています。しかし、藤倉記者は自分が上から目線だとも、木舟氏や市民記者を小バカにしているとも記事には書いていません。それでも全体の雰囲気や言葉遣いがそういった空気を感じさせるのです。

それを不満に思うのも結構ですが、そういう印象を与えたのも逆の意味で文章の持つ力です。プロとしては意図と違った読み方をされて心穏やかにはいられないかもしれませんが、そのような記事を書いたのは誰だったか、もう一度思い返してもらいたいものです。

人はそれを上から目線という

3日前、HNよりぞう氏の問いに答えた藤倉記者のコメントには、それまで語られなかった木舟氏の記事に対する評価が書かれていました。少し長くなりますが引用します。

 ぼくはぼくの基準を満たさない記事がすべてダメだとも思っていませんが、木舟記者の記事については、ぼくの評価基準から言えば比較的高い方です。
 数字をめぐる考察は浅かったと思いますが、数字を調べて論じようという姿勢自体は素晴らしかった。その点では、最初から新たな数字を示す気がなく「異論」を書いたぼくの記事より積極性を持った記事だと言っていいと思います。
 また、木舟記者は、OMNの数字をそのまま「辞める理由」へと飛躍させずに、具体例を示して論点を展開させました。その具体例が、ぼくはあまり適当ではない事例だったと思っていますが、それでも「自分」のことを書くのではなく別の市民記者の実例を示しています。筋の通った記事展開で取材して書くというプロセスを踏む意思と能力が、あの記事には見られました。

驚きました。HNよりぞう氏も書いていますが、記事からは木舟氏の記事をそのように評価している事がこれっぽっちも読み取れなかったからです。記事全体から木舟氏への敬意が感じられないのですから当然といえば当然ですが、考えてみればこの記事の要点や主張したかった事に、木舟氏の記事に対する評価は含まれていませんでした。藤倉記者が感じた木舟氏の記事への評価を行間ににじませてくれれば、今回の記事はこれほど批判を浴びる事はなかっただろうと思うと、少々残念な気がします。

これほど評価しているのなら、わざわざ批判記事を書く必要もないだろうという気がしますが、その後にはこのような文章が続いていました。

 だからこそよけいにぼくは、「だったら、編集部コメントをとらないのはヘンだろ」と思っちゃったわけですが、いずれにせよ、あまりにダメダメな記事だったら、気の毒で批判できなかったと思います。

藤倉記者は自分でこのコメントを読み返して何か違和感を覚えないのでしょうか?

「俺様の批判を受けたかったらこれぐらいの記事を書いてみろバカヤロー!」

アントニオ猪木調に意訳するとこのような感じになります。なんという上から目線。

おふざけはさておき、自分を高みに置いている事がよくわかるコメントだと思います。おそらく藤倉記者は、現在のOMNには自分が批判するに足りない記事が多数あると考えているのでしょう。それでは多くの市民記者は救われません。そして、このコメントを読んだ木舟氏は、藤倉記者の批判を受けたことを光栄に思わなければならないのでしょうか?

公的か私的かといった議論とは別に、これも記者の立ち位置の一つです。批判されたければそれに値するだけの記事を書かなければいけない。そのように考えるプロが、その殆どが素人である市民記者とともにOMNを盛り上げていく事ができるのかどうか、甚だ疑問に感じます。このような意図を持って書かれた記事をそのまま掲載する編集部にも、同様の疑問を感じます。

コメント欄は何の為にあるのか

今回のエントリは、記事本文について3回、コメント欄での議論については2回を要しました。

コメント欄での議論について2回を要したのは、議論そのものが長くなったこともありますが、藤倉記者のコメント欄での対応に、記事本文に勝るとも劣らないツッコミどころが満載だった事が最も大きな理由です。

個人的には、コメント欄は記事本文を補足する為に設けられているものだと考えています。OMNでは、コメント欄でのやり取りで記事の質が向上する事は決して少なくはありません。時間に限りがあり、記事執筆に慣れていない市民記者が多数を占めるOMNには必要不可欠な場所でしょう。

しかし、コメント欄がそのように活用される為には、執筆者を含めた市民記者、プロが集まっている(はずの)編集部双方がその意識を持つことが必要です。

その中には、執筆者にとって耳に痛いものも当然あります。記事本文に大きな穴が開いていれば、それだけ多くの批判も届くことでしょう。しかし、そこでキレてしまったり、言った言わない論やディベートに持ち込んで自己正当化を図れば、それは記事の質向上の妨げでしかありません。

編集部員やOMN所属のプロライターの方々は、なるほど文章を書くのはプロでしょう。そこでは紙媒体での経験もかなり役立つものと思われます。ですが、コメント欄への対応に関しては編集部員もプロライターも市民記者も同じように素人なはずです。批判されたり記事の不備を指摘されていい気持ちがしないのはプロも市民記者も同じだとは思いますが、プロにはプライドがある分だけ、市民記者と比較して総じて批判に対する耐性が低いのではないかと思われる事がよくあります。

プロでも今回のようにツッコミどころ満載の記事を書く事はあります。一度掲載した記事は基本的にそのままですから、記事の不備を補う場所はコメント欄しかありません。そこでさらにツッコミどころを増やしてしまってはプロの名が泣きます。

これまで経験がなく、難しいことかもしれませんが、プロを名乗る人にはコメント欄の対応もプロらしくあってもらいたいものです。


(おわり)