じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

捕まったが最後… 

2006-01-21 | 随想(essay)
 99年1月、愛媛県宇和島市の女性が自宅から通帳と印鑑が盗まれているのに気づき、50万円が引き出されていたことが判明。県警宇和島署は翌2月、防犯ビデオに映った現金を引き出す男に「似ている」という証言から、男性を任意同行して逮捕した。男性は窃盗罪などで起訴されたが、結審後の00年1月、高知県警が別の事件で逮捕した男が盗みを自供。同年2月、男性は約1年ぶりに釈放された。検察側は同年4月、無罪論告をして法廷で男性に謝罪。愛媛県警も会見して謝罪した。翌月、松山地裁宇和島支部で無罪判決が出て確定した。(毎日新聞・2006/1/13)
 「無罪」でよかった、と手をたたいてる場合じゃありません。盗りもしないのに逮捕され、あろうことか、有罪判決。それも、一年以上も拘置されていたのです。
 罠にかけられた男性が起こした賠償請求訴訟の判決が18日に松山地裁でありました。裁判長は「供述の強要や誘導などはなく、捜査に違法性はなかった」と、男性の請求を棄却したのです。(どうして「なかった」といえるのか)(見上げたもんだよ、屋根やのふん・・。)
「犯人でもないのに、犯人にさせられた」からには、そこに強制的な捜査があったとみるのは「合理的」です。にもかかわらず、この化石裁判長は請求を棄却したのです。ああ無能。
 警察側は「男性は自ら進んで“自白”しており、強要はなかった。(盗んだ金の使途や隠し場所などの)裏付け捜査も十分」と、これまた不可解な陳述。なんのこっちゃ。
 進んで自白し、進んでムショにはいりたがる、そんな奇特な人間がときにはいるけど、「(盗んだ金の使途や隠し場所などの)裏付け捜査も十分」とは、どういう意味か。犯人になるために、この男性は自分で「偽装」したとでもいうのでしょうか。(いくら偽装ばやりの世の中だといえ、それはないよ)
 捕まったが最後、この国(警察や検察)では白を黒、それも真っ黒に塗りたくる。そして、「わたしは白です、やってない」という人間に対して、「警察(検察)が真っ黒だというのだから、きっとお前は大黒だ」と一刀のもとに斬りすてられる。これを鸚鵡返(おうむがえ)し、または鵜呑(うの)みという。(湯飲みじゃない)鸚鵡返しや鵜呑みがいやに幅を利かせてますね。
 病院にいけば「ホントとの病人に仕立てられる」学校に入れば「人間を壊される」人権侵害を訴えた警察では「もっとえげつない人権侵害を受ける」かかる「理不尽は許さない」と裁判にすがれば「お前が訴えた側(病院や学校や警察)には落ち度はない」と裁判長はふんぞり返る。大時代の法服を着て、高所から意味不明の呪文を唱え、「請求は却下する」だって。
 さて、どうするか。なにより肝心なのは、他人に頼らないこと。それにかぎります。病気にならない、なったら、自分で治す。治る力は自身にあるのだから。本当に学ぶためなら、学校に行かない。いけば、興味のないことを強制される。さらに、心も体も傷つけられる。学びたいものを見つけて、じっくり自分で自学・自習する。そうすれば、学んだものはきっと自分の栄養(力)になる。教師に頼るという甘ったれた根性がまちがいのもと。(教師のまねごとをしている人間がいうのだから、まんざら…でもないでしょ)
 専門家がそれらしい顔をして、素人を見くだすような時代が長くつづきすぎました。他人を軽蔑し、見くだしたいがために専門家になるのかな。だとすると、動機はじつに不純だし、第一、その了見が卑しい。もちろん、専門家のすべてがそうだというのではありません。だとすれば、専門家になりきれぬ半ちく専門家がなけなしの権威(あるいは特権)をふりかざして、庶民を苦しめるということか。見苦しい風潮ですが、巻きこまれないように。(南無三)