じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

知事謝罪 仙台二高同窓会で共学化の経緯説明

2006-01-14 | 教育(education)

 「ご理解いただけないと思うが、本当に申し訳ない」。村井嘉浩知事は13日、仙台市内のホテルで開かれた仙台二高の「同窓会PTA合同新年懇親会」に出席し、県教委が最終決定した全県立高校の男女共学化を了承した経緯を説明した。別学校存続を掲げた昨年10月の知事選を振り返り、公約を実現できなかったことをわびた。▼村井知事は、全県立高が2010年度までに共学校となることに触れ、「皆さんの力添えで知事に就任したが、最終的には教育委員会が決めること。県議会も(共学化推進の)請願を採択し、後ろ盾がなくなった」と説明した。▼「相当なおしかりを受けると思って参った」と知事。(略)▼仙台二高は07年度に共学校になる。「まだ終わっていないぞ」と残念がる同窓生もいたが、「よく頑張った」とねぎらう声も。知事の表情は終始硬かったが、同窓生有志が「フレーフレー村井」とエールを送る場面もあった。(河北新報・2006/01/13)

 その出発点において、初等教育以降の学校教育は女子に対してかたくなに門を閉じていました。大学の門戸が女性に開かれたのは、ようやく戦後になってから。したがって、旧制中学校(戦後の高校)は特権階級の子息にのみ許された特権教育でもあったのです。今でも●●女子高等学校というが、■■男子高等学校といわない道理です。言うひと葉がなかったから。ところが時代は移り、どういう風の吹きまわしか、この数年のあいだに「男女共学」の流れが勢いをもってきたのです。

 そんな折、「共学は絶対に阻止します」とかなんとか、口からでませを言って票をかき集めたまではよかったが、結果として知事の権力をもってしても教育委員会の威光にはおよばずというのですから、宮城県は「民主的」なんだと「驚愕」を覚えた次第(警察は別)。(実際はどうなのか)「相当なおしかりを受けると思って参った」といえば、「よく頑張った」といかにも阿吽(あうん)の呼吸。美しくない八百長の一場です。でも伊達政宗時代に比べれば、知事や県民の政治性は高まったと言えそうです。一時は天下を視野に入れながら、いま少しの運(勇気でもある)がなかったためか、正宗はこちこちに固められて銅像になってしまいましたが、さてこの先、強運の知事が描く政治的野望の図はどこまで広がるのか。

 学校とは、すべからく「男女共学」でないとダメだとは思わないし、「男女別学」であるべしとも考えない。いろいろな形態の学校があるといいねえ、という程度。でも、ある立場の人にとっては、共学(それは、ジェンダーフリーか)は死を賭しても阻止しなければならない、由々しき事態なのでしょう。可哀相にと思うばかりです。世の中には男性と女性だけしかいないというのは昔々の神話、伝説、寓話、物語です。男性と女性の間に無限の●■性がいるはずだし、いたほうがいい。でなければ、男子たるものは、女性というものは、と四角四面の性差(~らしさ)が性懲りもなく押しつけられるばかりですから。

 学校という空間は奇怪な、かつ不自然なところです。だからこそ、できるだけ自然状態に近づけるように配慮したらどうですか、といいつづけてきましたが、いっかなダメなんですね。ある高等学校に頼まれて授業に行きました。300人をこえるみなさんが、いかにも晩秋の寒々しい体育館に集められて、ふるえていました。(ぼくが話をする前ですぞ)そのとき「学校ってどうして、こんなに冷たいんだ」とそこにおられた校長に文句をいったことがあります。そんな経験はなんどもしています。寒さに耐え、暑さに負けぬように精神を鍛える道場みたいですね。いやはや。

 生徒集団、生徒諸君という塊(かたまり)は目にはいるけど、固有名(感覚や感情)をもった一人の人間はまるで眼中にないかのようなふるまいが、何の疑問もなくできてしまうのが学校のおそろしいところ。越えなければならないのは共学問題だけではないぞ。(千三)