じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

堕落論

2006-04-01 | 教室(classroom)
 <私は放校されたり、落第したり、中学を卒業したのは二十の年であつた。十八のとき父が死んで、残されたのは借金だけといふことが分かつて、私達は長屋へ住むやうになつた。お前みたいな学業嫌ひな奴が大学などへ入学しても仕方なからう、といふ周囲の説で、尤も別に大学へ入学するなといふ命令ではなかつたけれども、尤もな話であるから、私は働くことにした。小学校の代用教員になつたのである>
 坂口安吾が1947年に書いた「風と光と二十の私」の書き出しの一部です。「代用教員」とは免許状をもたない無資格教員のことで、身分も期間も不安定な臨時雇いの教師でした。
不良少年が教師になる図です。
 「私は性来放縦で、人の命令に服すといふことが性格的にできない。私は幼稚園の時からサボることを覚えたもので、中学の頃は出席日数の半分はサボつた。教科書などは学校の机の中へ入れたまゝ手ぶらで通学して休んでいたので…田舎の中学を追ひだされて、東京の不良少年の集まる中学へ入学して、そこでも私が欠席の筆頭であつたが…」などと「望ましい中学生」像からは大きく逸脱していた。「凡そ学校の規律に服すことのできない不良少年が小学校の代用教員になるといふのは変な話だが、然し、少年多感の頃は又それなりに夢と抱負はあつて、第一、そのころの方が今の私よりも大人であつた。私は今では世間並みの挨拶すらろくにできない人間になつたが、その頃は節度もあり、たしなみもあり、父兄などともつたいぶつて教育家然としてゐたものだ」
 彼の人間観察はたしかなもので、それは「堕落論」や「日本文化私観」でつとに証明されています。
 「本当に可愛いゝ子供は悪い子の中にゐる。子供はみんな可愛いゝものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもってゐるので、あたゝかい思ひや郷愁を持つてゐる。かういふ子供に無理に頭の痛くなる勉強を強ひることはないので、その温かい心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるやうな性格を育てゝやる方がいゝ。私はさういふ主義で、彼らが仮名を書けないことは意にしなかつた」
 「小学校の先生には道徳観の奇怪な顛倒がある。つまり教育者といふものは人の師たるもので人の批難を受けないやう自戒の生活をしてゐるが、世間一般の人間はさうではなく、したい放題の悪行に耽つてゐるときめてしまつて、だから俺達だつてこれぐらゐはよからうと悪いことをやる。…俺のやるのは大したことではないと思ひこんでゐるのだが、実は世間の人にはとてもやれないやうな悪どい事をやるのである」
 「自主的に思ひ又行ふのでなく他を顧みて思ひ行ふことがすでにいけないのだが、他を顧みるのが妄想的なので、なほひどい。先生達が人間世界を悪く汚く解釈妄想しすぎてゐたので、私は驚いたものであつた」
 今に変わらぬ「教師像」が活写されているようです。教師は聖職者だということがそもそもインチキであって、そんなきれい事でつとまる仕事ではないというところから出発しなければ、
たちまちのうちに倒れることは請け合います。
 安吾の一側面です。「私はその頃太陽といふものに生命を感じてゐた」「雨の日は雨の一粒々々の中にも、嵐の日は狂ひ叫ぶその音の中にも私はなつかしい命をみつめることができた」
「私と自然との間から次第に距離が失はれ、私の感官は自然の感触とその生命によつて充たされてゐる」
 最後に「堕落論」からの一節。「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(「教師よ、堕ちろ!」)