じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

ガンバレ ガンバル ガンバラナイ

2006-04-08 | 随想(essay)
 「がんばる」ということばは「しっかりやる」という意味ですね。「がんばりなさい」とか、「がんばります」とか、そういうふうにことばを交わすことが多いでしょう。…
 ところがです。わたしの子どものときには、そうではありませんでした。それは、よくない意味でした。押し通してはいけないことを、むりむり押し通そうとする、強情を張る、そういうふうな意味なんです。…ですから「がんばる」っていうことばには罪悪感のようなものがあります。悪いことってしみついています。やめなくてはいけないことの、まあ、仲間にはいっていることでした。ですからわたしは今でも、「がんばる」ということばを自分から使いたくありません。皆さんにも「さあがんばって」と言わないのに気づいていますか。「しっかりやる」とか「よくやる」とか「終わりまでやる」とか、そんなふうにほかのことばで言っていて、わたしはどうしても皆さんに、「がんばりなさい」という、そういうことばが出ないのです。三つ子の魂みたいに、「がんばる」ということを恐れる気持ちを持っているのです。…それが今は人を励ますことばになり、「あの人はがんばりがある」と言われれば、ほめたことになるとは、ほんとうにことばは移り変わるものだと思います。(大村はま)
大村さんが亡くなられたのは昨年の四月十七日、九十八歳でした。まもなく一年です。
 亡くなられてから、いまさらのように大村さんからいろいろなことを学んだなという実感がふくらんできます。「がんばる」などもその一例といっていいかもしれません。
 大村さんの「姿勢」(言語感覚)をどう思われますか。
 ぼくは小さいころから、すこしも「がんばらない人」でした。「がんばる人」をみるとゾッとしたもので、その気持ちは今もまったく変わっていません。「がんばりまーす」ということばに出逢うと「なんでや?」と、いぶかしく思ったものです。たしかに「がんばる」は努力する、「がんばって!」は励ますというふうに使われるのでしょうが、根っ子の部分で、「がんばる」ということばには、我を張る(我ん張る)という根性がしみついているのではないか。自分を押し出す、他人を出し抜いて競争に勝つ。そこまでいわなくても、なにか悲壮な決意みたいものが見え透いています。
 だれかれなしに、四六時中この「ガンバル」を使っています。無意識に使っているようです。「がんばって、この本を読みます」「来週までに、がんばってやりとげます」そのたびにぼくは「がんばったらあかん」とい自戒するのです。学生の方でも「ガンバッテ、レポートを書きます」と口癖のように言ってくれます。レポートはゆっくりと、自由な雰囲気で書かれてほしいね。ここで自由っていうのは、疑いの心、揺らぎの姿勢を指します。そうであれば、「がんばる」というのは「不自由な」状態をいうのでしょうね。
 がんばって戦争などされたらたまらない。でも、そのようになんでも「がんばる人」こそ、学校では評価されるんだ。がんばる教師にがんばる生徒。ガンバリズムの蔓延。誤解されそうだけど、真面目はほんとに怖いということを経験してきました。まちがうのも真面目なんだから。「遊び」がないというのは、自由ではないという意味で、それは「精神の貧困」をいうのではないでしょうか。「どうしてお前はがんばらないんだ」「もっと真面目にやれ」いやになるくらいこういわれてきた結果、ぼくという不真面目人間が作られたのだろうと自省します。教職は聖職だという観念の根底にも「真面目にがんばる」というイデオロギーが根づいているようです。だからこそ、「ガンバル」辛さから逃走する教師や子どもたちが続出するのではないでしょうか。(ガンバラナイマン)