7月12日(土)、宿毛市で公開授業(市役所主催)をしてきました。以下は、その際のレジュメまがいです。
「金子ふみ子という女性を知っておられますか。もう一人の金子(みすゞ)さんはいまなお有名ですが、こちらの金子さんはどうでしょうか。学校に自分をあずけられなかった人間が、どのように生きて死んだかをたどってみる、そこからどんな生き方が見えてくるか。学校に行くのが当たり前だとされる時代に生きているわたしたちには、学校に行かなかった、行けなかった人の心情を想いはかることはとてもできそうにありません。反対に、学校に行かなかった、行けなかった人の側から見れば、いったい学校ってなんだろうという疑問がすけてみえるかもしれない。
金子ふみ子(1903~1926)という女性は、「教育」さらには「学校」というものを深く「学びなおす」きっかけを与えてくれたという意味で、わたしにはかけがえのない存在でありました。本から学び、教師から教えられて、彼女は何かの知識を得たのではなかった。まったく自己流に、自分流の学び方で生きた人、それがふみ子という女性の生涯でした。それ以外に生きる余地はなかったからです。彼女の歩いた道、それが彼女の思想になった。
ある本の中で、ふみ子さんは次のように述べています。
「私はその時もう七つになつて居た。そして七つも一月生れなので丁度学齢に達して居た。けれども無籍者の私は学校に行くことが出来なかつた」
「何故私は無籍者であつたのか。表面的の理由は母の籍がまだ父の戸籍面に入つていなかつたからである。が、何故母の籍がそのまゝになつて居たのか。それについてずっつと後に私が叔母からきいた事が一番本当の理由であつたやうに思ふ」
「叔母の話したところによると、父は初めから母と生涯をつれ添ふ気はなく、いゝ相手が見つかり次第母を棄てるつもりで、そのためにわざわざ籍を入れなかつたのだとの事である。…兎に角、さうした関係から、私は七つになる今までも無籍者であつたのである」
(金子ふみ子『何が私をかうせたか』)
学校にはほとんどいけず、肉親の愛情を浴びることもなかったひとりの女性が二十三年の生涯をどのように歩きつづけたか、今では想像を絶する「生き方の流儀」だったと思われます。家庭からも学校からも捨てられたとき、人はいかにして生きていこうとするのか。時代の波をかぶり、時代の波に棹さす(時流に乗る)ことをしないで生きていこうとするとき、人はどこまで自分を追い込んでしまうのか。
学校教育の階梯をいちだんずつ昇っていくことが人生の大事なら、誕生の瞬間において、そこから外れてしまうというのはどういうことか、金子ふみ子の生涯をたどりつつ、わたしはいつでも同じところにたちすくんでしまうのです。
親からも教師からもいろいろと教えられる、また、たくさんの本を読んでものを知る。それが学ぶことの常道であるとするなら、その方途を奪われた人間にはどのような学び方が残されているのだろうか。彼女は人からも書物からも教えられなかった。一面ではまことに不幸であったが、他面では、だからこそ自力で歩くしかなかったともいえます。
宿毛の地で、白昼堂々と「生きる」という問題を考えようというのです。」
「金子ふみ子という女性を知っておられますか。もう一人の金子(みすゞ)さんはいまなお有名ですが、こちらの金子さんはどうでしょうか。学校に自分をあずけられなかった人間が、どのように生きて死んだかをたどってみる、そこからどんな生き方が見えてくるか。学校に行くのが当たり前だとされる時代に生きているわたしたちには、学校に行かなかった、行けなかった人の心情を想いはかることはとてもできそうにありません。反対に、学校に行かなかった、行けなかった人の側から見れば、いったい学校ってなんだろうという疑問がすけてみえるかもしれない。
金子ふみ子(1903~1926)という女性は、「教育」さらには「学校」というものを深く「学びなおす」きっかけを与えてくれたという意味で、わたしにはかけがえのない存在でありました。本から学び、教師から教えられて、彼女は何かの知識を得たのではなかった。まったく自己流に、自分流の学び方で生きた人、それがふみ子という女性の生涯でした。それ以外に生きる余地はなかったからです。彼女の歩いた道、それが彼女の思想になった。
ある本の中で、ふみ子さんは次のように述べています。
「私はその時もう七つになつて居た。そして七つも一月生れなので丁度学齢に達して居た。けれども無籍者の私は学校に行くことが出来なかつた」
「何故私は無籍者であつたのか。表面的の理由は母の籍がまだ父の戸籍面に入つていなかつたからである。が、何故母の籍がそのまゝになつて居たのか。それについてずっつと後に私が叔母からきいた事が一番本当の理由であつたやうに思ふ」
「叔母の話したところによると、父は初めから母と生涯をつれ添ふ気はなく、いゝ相手が見つかり次第母を棄てるつもりで、そのためにわざわざ籍を入れなかつたのだとの事である。…兎に角、さうした関係から、私は七つになる今までも無籍者であつたのである」
(金子ふみ子『何が私をかうせたか』)
学校にはほとんどいけず、肉親の愛情を浴びることもなかったひとりの女性が二十三年の生涯をどのように歩きつづけたか、今では想像を絶する「生き方の流儀」だったと思われます。家庭からも学校からも捨てられたとき、人はいかにして生きていこうとするのか。時代の波をかぶり、時代の波に棹さす(時流に乗る)ことをしないで生きていこうとするとき、人はどこまで自分を追い込んでしまうのか。
学校教育の階梯をいちだんずつ昇っていくことが人生の大事なら、誕生の瞬間において、そこから外れてしまうというのはどういうことか、金子ふみ子の生涯をたどりつつ、わたしはいつでも同じところにたちすくんでしまうのです。
親からも教師からもいろいろと教えられる、また、たくさんの本を読んでものを知る。それが学ぶことの常道であるとするなら、その方途を奪われた人間にはどのような学び方が残されているのだろうか。彼女は人からも書物からも教えられなかった。一面ではまことに不幸であったが、他面では、だからこそ自力で歩くしかなかったともいえます。
宿毛の地で、白昼堂々と「生きる」という問題を考えようというのです。」