じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

なんのための教育?

2006-06-10 | 随想(essay)
 …学生が馴れ馴れしい口調で教員に話しかける時、あるいは浮浪者のような格好でやってくる時、また、あるいは授業中にキスをする時に、―その他に何をしているのか知りませんが―、彼らは何を行っているのでしょうか。ブルジョワ的な生活を構成する幾つかの要素、我々があたかもそれが当然のことであり、人間の本性=自然の表現であるとして受け容れているそうした要素をパロディ化しつつ、嘲笑することでないとしたら、学生は何をしているのでしょうか。授業中にキスをすることが「良俗に反する」のは、我々の教育システムすべてが若者のセクシュアリテの排除を含むからです。またいかなる権利によって、我々は学生にブルジョワ的な服装を命じるのでしょうか、もしそれが、教育というものがブルジョワ社会の行動様式を伝達するものと見なされているからでないとしたら。  (ミシェル・フーコー)
 ある対話(conversation)におけるフーコーの発言です。
 それは人間の本性、つまり自然の表現なのだからとブルジョワ的な価値観を受け容れる、そんな態度を彼は文化的保守主義といいます。多くの人は政治的保守主義に対しては敏感ですが、この文化的保守主義にはいたって鈍感、というよりは、それこそを自らの信条とさえなっている、そんな場面にどこでもで遭遇しませんか。学校という場所、教育というシステムは、ことにこの文化的保守主義を標榜しているのではないでしょうか。それは当然だという、その姿勢こそが文化保守主義なんですよね。
  では、教育とはブルジョワ社会の行動様式を伝達する、というのはどういうことでしょうか。
 フーコーはフランスの大学生に関して、しかもある特定の時代の学生に限定してこのことをいっているのです。でも私たちの学校全体にもそれは妥当するように思えるのですが、いかがですかね。十数年前から私はサイレントレボルト、という言葉でこのことを指摘してきました。「静かな(無気力という)反乱」といったところです。子供たちは意識しているかどうかわからないけれども、からだがいうことをきかないんですね。学級崩壊だの家庭崩壊だのと騒がれるが、崩壊に瀕しているのはブルジョワ社会の生活様式であったり、その行動様式じゃないのか。あるいは文化的保保守主義そのものが揺り動かされているのではないでしょうか。
 学校は一つの装置です。人工的で見せかけの社会だといっていいかもしれません。そこでは、今日の世界の多くの要求や問題とはなんら関係ない知識が限りなく伝達(注入)されることによって、学生・生徒は「社会に有利なように無力化され、政治的にも社会的にも、安全なもの、能力を欠いたもの、去勢されたものとされる」ともフーコーは指摘しています。何年間も学校に閉じ込められ、隔離され、立派に去勢され、そのあげくに社会から受け容れられるんですよね。
 「我々は慣例化している事柄の仮面を剥ぎ、それをその本来の姿において、すなわち我々のブルジョワ的な生活に結びついた完全に恣意的なことがらとして、顕れさせる必要があるのです」(フーコー)
 文化的保守主義が固守しようと躍起になっているのは「完全に恣意的な」事柄なんだということを見抜くこと、これが大事なんだといいたいね。(偽善者)