【葵 祭 シリーズ】
葵祭と巡行について......... (五月十五日)
京都には三大祭りと言われている祭りがあります。
春の葵祭・夏の祇園祭・秋の時代祭で、千二百余年の都としての歴史を誇る京都には、年間三百を越す祭りが市内随所であります。
三大祭りは近年になって言われ始めたことで、三百を越す祭りがあっても京都の祭りといえば、かっては平安中期の宮廷貴族の間では、「葵祭」のことでした。
葵祭の起源は飛鳥時代にまでさかのぼり、天災を天皇が祭礼を行ったところ、風雨が治まり五穀豊饒になったとされる。
欽明天皇の世に凶作が続き、賀茂神の祟りを鎮めるため、お供え物を捧げ、古の祭に習って双葉葵を飾り、馬に鈴を付けて走らせたことに始まる。
この祭、もともとは京の先住民族ともいえる賀茂氏の祭りで、現在の上賀茂神社と下鴨神社という賀茂の神社で五穀豊穣を祈願する祭りが、平安遷都(七九四)を境に国家的な祭りへとなっていきました。
さわやかな新緑匂う皐月のころ、葵の花で飾られた牛車や輿に乗った斎王代を中心にした華麗な行列が、御所を出て下鴨神社から上賀茂神社までの約八キロを巡幸するこの祭り、平安時代をそのままに都の雅、そのものを展開する一大王朝絵巻を繰り広げます。
京都人は「今年は何処で見ようかな」と御所や鴨川堤など見物場所に気をもみながら華な平安絵巻と新緑を共に楽しめるのもこの祭りならではのこと。
祭りの主役〔斎王代〕はそもそもの始まりは平安初期、八一〇(弘仁元)年、嵯峨天皇は伊勢神宮の斎王にならって、賀茂の社にも斎王を置き、この初代斎王、有智子内親王から鎌倉時代はじめの礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで、約四百年にわたり賀茂の斎王は続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府との政変、承久の変で途絶えてしまいました。
それを昭和二十八年に祭りの復活後、行列を華やかに盛り上げるため、斎王代を中心にした女人列を加えて今日に至り、斎王代は民間の未婚の女性が選ばれることになっています。ちなみに今年で五十六代目を数えます。
古くは別名 賀茂祭・北の祭とも言われ、葵祭と言われるようになったのは、江戸期の元禄七(一六九四)年に再興されたころからで、御所車、勅使、供奉の者、牛馬まですべてフタバアオイの葉で飾るところから「葵祭」の名になりました。
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