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【京 の 歳 時 記】:【最 近 の 話 題 : 出 来 事】をお知らせします

おいないの京都最新情報

2008年08月26日 10時33分16秒 | 【最 近 の 話 題 : 出 来 事】
【今日の情報 : 歳時記・催し・話題・出来事】

★伏見区・醍醐の醍醐寺で八月二十四日未明、西国三十三か所観音霊場の第十一番札所で知られる准胝堂が火災で全焼した。
八月二十三日午後十一時前、准胝堂のある「上醍醐」で落雷があり、境内で出火前に落雷が原因とみられる停電があったことから、落雷で出火した可能性が高いとみられている。
この火事で、准胝堂に安置されていた本尊の准胝観世音菩薩も燃え、東隣の休憩所(木造平屋約五十平方メートル)も全焼した。
醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山で一九九四年に世界文化遺産に登録された。
三宝院や国宝の五重塔がある「下醍醐」と、准胝堂などが立ち並ぶ「上醍醐」からなる。
醍醐山の山頂近くの准胝堂は、一九三九年に山火事で焼失し、六八年に再建された。
周りには国宝の薬師堂や開山堂があるが、被害は免れた。

★ 京の真夏日 連続五十三日で止まる
七月一日から京都市内で続いていた真夏日(最高気温三十度以上)が、八月二十三日に途絶えた。五十三日連続の真夏日は、京都地方気象台の観測記録が残る一九六三年以降で、八十五年七月十一日から九月十日までの六十二日間が最も長く、次は九十年の五十九日間に続く、三番目の長さにあたる。




おいないの京都最新情報

2008年08月25日 11時50分34秒 | 【最 近 の 話 題 : 出 来 事】
六斎念仏

鉦や太鼓ではやし、念仏を唱えながら踊る民俗芸能で、平安中期、空也上人が一般庶民に信仰をひろめるため始めたと伝えられる。もとは六斎日(月に六日ある忌み日、精進潔斎日)に行われたのでその名がある。しかし室町中期頃から能、狂言がとり入れられ、大衆化して六斎日にかかわりなく、お盆前後に行われている。市内では次の六斎がよく知られている。

◇中堂寺六斎念仏(八月九・十六日 壬生寺)
◇西方寺六斎念仏(八月十六日 西方寺)
◇小山郷六斎念仏(八月十八日 上御霊神社・八月二十二日 上善寺)
◇桂六斎念仏(八月二十二日・二十三日 桂六地蔵)
◇嵯峨野六斎念仏(八月二十三日 阿弥陀寺)
◇梅津六斎念仏(八月二十五日 梅宮大社)
◇吉祥院六斎念仏(八月二十五日 吉祥院天満宮)
◇久世六斎念仏(八月三十一日 蔵王堂光福寺)

【今日の情報 : 歳時記・催し・話題・出来事】   

★吉祥院天満宮の「六斎念仏踊り」

学問の神様・菅原道真を祀る天満宮は全国で一万以上数えられるが、この吉祥院天満宮は道真誕生の地で、境内には道真のへその緒を埋めたと伝えられる胞衣塚(えなずか)がある。少年時代をこの地で過ごしたが、やがて政争に巻き込まれて遠く大宰府に左遷され、死してのち天神となり、天神信仰は全国へと広がった。
八月二十五日の夏期大祭に奉納される六斎念仏は、平安時代に空也が念仏を広めるために始めた踊り念仏が起源とされる。
その後、長唄、歌舞伎などを取り入れて現在の形となる。
京都では祖先供養と結び付き、お盆前後に各所で行われる。
鉦や太鼓をたたいて踊る民俗芸能「六斎念仏踊り」は「発願」に始まり、締めくくりの「回向」まで、曲目が移りながら演じられます。国の重要無形民俗文化財に指定されている。

★右京区京北・小塩町で八月二十五日夜、燃え上がる炎に火よけや五穀豊穣を祈る「小塩の上げ松」が行われる。
愛宕信仰の火祭り、上げ松は京都の各地で行われている。
高さ約十五㍍のトロ木と呼ばれる柱の先端に付けられた「もじ」という直径二㍍の「大松明」の火受けに向かって、小さな松明を次々に投げ上げる「上げ松一番」の妙技を競います。
やがて、スギの葉などで作ったもじに火が移り、火柱となって夏の夜空を松明の火の粉が弧を描き、祭りも最高潮に達した。 京都府登録無形民俗文化財の伝統行事。
参考画像は http://blogs.yahoo.co.jp/oinaijp/folder/279901.html まで

おいないの京都最新情報

2008年08月24日 11時49分11秒 | 【最 近 の 話 題 : 出 来 事】
【今日の情報 : 歳時記・催し・話題・出来事】    


★雲ヶ畑の松上げ
愛宕山への献火として行われる。
加茂川の源流で知られる林業の集落・雲ヶ畑。
山上に割り木を運び松明としそれを二つの文字にかたどり櫓にくくりつける。
この文字は毎年異なり点火直前まで秘密。
この地の愛宕山山頂二箇所に松明が同時点火され、愛宕明神に火災予防と五穀豊穣を祈願します。

★広河原の松上げ
花脊・雲ヶ畑と同じく愛宕山への献火として行われる火祭りで、火災予防、豊作などが祈願される。
下之元町の灯籠木場(とろぎば)に約千五百本の松明が焚かれ、威勢のいい掛け声とともに小松明(放り上松)を投げ上げて、高さ約二十メートルの灯籠木の先の笠に点火する。
松上げの後、「やっさこさい踊り」が奉納される。

★左京区・久多に伝わる風流灯籠踊り「久多花笠踊」が八月二十四日に近い日曜日(今年は二十四日)に行われる。
洛北とはいえ、京都市内から車で一時間半はかかる久多。しかしそれだけに古い伝統や行事が今でも残っており、毎年八月十四日に盆行事の施餓鬼を終えてから花宿と呼ばれる家で極めて精巧な花笠を制作する。
当日は、花宿の床に、志古淵社、上の宮社、大川社の軸を掲げて灯りを花笠灯籠に移し、太鼓や鐘に合わせて踊る五穀豊穰のお祭り。
三つの神社を巡りながら心静かに踊りを奉納する。
灯籠が点じられると、闇に静かに浮かびあがり、大変美しいものです。




おいないの京都最新情報

2008年08月23日 10時56分48秒 | 【最 近 の 話 題 : 出 来 事】
【今日の情報 : 歳時記・催し・話題・出来事】

★嵯峨・化野念仏寺で京都の夏を送る「千灯供養」が八月二十三日と二十四日夜、営まれる。
境内の無縁仏の精霊に灯明を灯して供養する地蔵盆の行事。
独特の節回しの回向が流れる中、幽玄な雰囲気が漂う。
約八千の石仏にろうそくを灯し、闇が深まるごとに炎は大小形もさまざまな石の表面から仏を浮かび上がらせ、先人を偲ぶ幻想的な光りに照らされて、思い思いにゆかりの人を偲び、冥福を祈った。
小倉山山ろく一帯の嵯峨・化野周辺は昔、風葬が行われた土地として知られる。
弘法大師空海が無数の無縁仏を供養するために開創したのが寺の始まりで、 後に法然上人が念仏道場を開き、今の寺院名になりました。
明治時代に、境内で出土したおびただしく散在していた多くの無縁石仏や石塔を同寺に集め供養したのが千灯供養の始まりとされ、地蔵盆の行事として灯明をささげている。
近年、観光スポットとして注目を浴び、以前は入寺には予約が必要としたが、二〇〇六年から予約は不要となりました
ちなみに化野念仏寺は数多くのTVドラマや映画の撮影場所として登場しているのは周知の通り。 この日も京都は残暑の続くなか、辺りは清澄な空気に包まれ多くの人出で賑わう。

★化野念仏寺の千灯供養に合わせて、境内に続く参道は伝統的建物群保存地区に指定されている嵯峨鳥居本地区で、「愛宕古道街道灯し」を愛宕神社一の鳥居から嵯峨・祇王寺に至る一.五キロの旧愛宕街道沿いに、お地蔵様に見立てた手作りのジャンボ提灯や灯ろうが灯され、古い家並みが残る奥嵯峨地域一帯は幻想的な雰囲気で、柔らかな光に包まれた空間で、癒しのひと時を過ごされては......。
瀬戸内寂聴さんの点火で八月二十三日・二十四日:午後七時~九時まで。

参考画像は http://blogs.yahoo.co.jp/oinaijp/folder/279901.html まで



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2008年08月22日 09時41分05秒 | 【最 近 の 話 題 : 出 来 事】
歳時記・催し・話題・出来事】

★京の六地蔵めぐり

京の六地蔵尊像は人皇五十五代、文徳天皇に仕える参議左大辮、従三位小野篁(たかむら)の作と伝えられ、七十七代、後白河天皇は深くこの六地蔵をご信仰になり、宝祚長久、王城守護、厄病退散を祈願し、また都を従来する旅人たちの路上の安全を願い、また広く一般庶民に二世福楽の利益結縁の御心から、保元二年、平清盛に勅令し、清盛は西光法師に命じて都街道の入り口六ヶ所に六角堂を建てて、一体づつ御尊像を分置された。これにより京の宗教行事として広く庶民に親しまれ、その起源となるのが八百余年の伝統をもつ京の六地蔵めぐりの風習が起こったと伝えられている。
鞍馬街道:鞍馬口地蔵 (上善寺)・周山街道:常磐地蔵(源光寺)・丹波、山陰街道:桂地蔵(地蔵寺)・西国街道:鳥羽地蔵(浄禅寺)・東海道:山科地蔵(徳林庵)・奈良街道:伏見六地蔵(大善寺)
それぞれの寺で頂く六色のお幡は御守りとして家の入り口に吊し、一年中の厄病退散、福徳招来の護符とする。
例年八月二十二・二十三日の両日にはこの六カ所を巡り、罪障消滅・家運繁栄などを祈願するならわしがあり、また新亡の初盆には水塔婆供養し、三年間巡拝すれば六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の苦を免れると言われる。

* 同じ日浄福寺では上鳥羽六斎念仏、地蔵寺では桂六斎念仏、上善寺では小山郷六斎念仏が奉納され、六地蔵めぐりと両方楽しめる。

※ 夏の終わり、京都の風物詩、京の町々で子供を中心に賑わう地蔵盆が盛んに行われるのも六地蔵信仰に起因します。

上御霊神社・例大祭、小山郷六斎念仏

国の重要無形民族文化財に指定されている六斎念仏の中で、これは公家六斎と呼ばれるもの。小山郷六斎念仏保存会による念仏踊りがにぎやかに行われます。
江戸時代中頃は干菜寺(ほしなでら)系でしたが、その後芸能六斎に変わり、 江戸後期から明治にかけて空也堂から免状を受けるようになったとされます。