2016年 12 月 31 日(土)
【おことわり】
小生、十四日に極度の貧血に見舞われ病院に駆け込み、即入院とのことで私用は勿論パソコン関係も開けっ放しで何の対処もできずに入院しました。その間いつも読んでいただいている皆様には大変ご迷惑をおかけし、深謝いたします。
昨日(三十日)無事退院しました。
十四日以降の情報を思い出しつつ順次記述していこうと頑張りますが、何分八十三才の年齢で何かとご不便をお掛けすると思いますが、体力・気力の続く限り情報発信を書き続けようと思って頑張ります。
※おいないのブログ(京都最新情報)をご愛読頂いている方々、宜しくお願い致します。
昨日(三十日)無事退院しました。
十四日以降の情報を思い出しつつ順次記述していこうと頑張りますが、何分八十三才の年齢で何かとご不便をお掛けすると思いますが、体力・気力の続く限り情報発信を書き続けようと思って頑張ります。
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[お知らせ]
★表千家と裏千家、初釜取りやめ 京都、代わりに稽古始め開く。
茶道裏千家は、千宗室家元の夫人容子さんの父、三笠宮さまの逝去に伴い、新年恒例の初釜式を来年は取りやめる。
表千家も、千宗左家元の弟、左海祥二郎さんが昨年八月に亡くなったのを受け、初釜式を行わない。
例年、両千家とも京都と東京で政財界などから多くの招待客を招いて和やかにもてなし、年始の風物詩となっていた。
初釜式に代わり、裏千家は京都で一月七~十日と東京で十六~十八日、表千家は京都で十一~十三日と東京で十六~十七日に、社中の稽古始めを行う。
茶道裏千家は、千宗室家元の夫人容子さんの父、三笠宮さまの逝去に伴い、新年恒例の初釜式を来年は取りやめる。
表千家も、千宗左家元の弟、左海祥二郎さんが昨年八月に亡くなったのを受け、初釜式を行わない。
例年、両千家とも京都と東京で政財界などから多くの招待客を招いて和やかにもてなし、年始の風物詩となっていた。
初釜式に代わり、裏千家は京都で一月七~十日と東京で十六~十八日、表千家は京都で十一~十三日と東京で十六~十七日に、社中の稽古始めを行う。
【今日の情報 : 歳時記・催し・話題・出来事】
★東山区・ 泉涌寺即成院で彼岸法要が行われる。
泉涌寺ゆかりの塔頭。寺名から「ぽっくり信仰」の寺、極楽往生祈願の寺として、また那須与一ゆかりの寺としても知られています。
源義経の家来であった那須与一は、義経の命を受け京に向かう道中、突然の病に倒れました。
伏見で療養していた際、与一は、熱心に即成院の阿弥陀さまを信仰したそうです。
そして、その霊験で病も癒え、「屋島の戦い」では、平家の船上に掲げた扇の的を見事一発の弓矢にて射抜くという素晴らしい武勲を立てたとされております。
与一はその後、即成院の阿弥陀さまの仏徳を感じ、京都に凱旋して戻り、すぐに出家し、残りの後半の人生を「源平の戦い」で、亡くなった方々の菩提を弔うという人生の選択肢をとり、京の地で平穏に暮らしましたが、最終的には即成院の阿弥陀さまの前で亡くなりました。
「長わずらいをしない」ことから信者も多く、法要は地方信者のため泊まり込みの法要として行われるものです。
御詠歌に始まり法要、法話が続きます。二十二日には中風除けの竹皮御仏飯が授与されます。
泉涌寺ゆかりの塔頭。寺名から「ぽっくり信仰」の寺、極楽往生祈願の寺として、また那須与一ゆかりの寺としても知られています。
源義経の家来であった那須与一は、義経の命を受け京に向かう道中、突然の病に倒れました。
伏見で療養していた際、与一は、熱心に即成院の阿弥陀さまを信仰したそうです。
そして、その霊験で病も癒え、「屋島の戦い」では、平家の船上に掲げた扇の的を見事一発の弓矢にて射抜くという素晴らしい武勲を立てたとされております。
与一はその後、即成院の阿弥陀さまの仏徳を感じ、京都に凱旋して戻り、すぐに出家し、残りの後半の人生を「源平の戦い」で、亡くなった方々の菩提を弔うという人生の選択肢をとり、京の地で平穏に暮らしましたが、最終的には即成院の阿弥陀さまの前で亡くなりました。
「長わずらいをしない」ことから信者も多く、法要は地方信者のため泊まり込みの法要として行われるものです。
御詠歌に始まり法要、法話が続きます。二十二日には中風除けの竹皮御仏飯が授与されます。
★伏見区・御香宮神社では、ろうそくの明かりの下で伝統芸能を鑑賞する「御香宮神能」が九月二十二日夜上演され、観客を幽玄の世界へといざなう。
御香宮神能は豊臣秀吉が伏見城の守り神とした神社、鳥羽伏見の戦いでは、薩軍の屯所にもなった御香宮の能舞台での能と仕舞、狂言で、室町時代から神事として続いており、毎年秋に境内の能舞台で、ろうそくの柔らかな光りが舞台を包み、虫の音が響く中、開かれている。
能楽が猿楽と呼ばれていた六百年以上前から催されている。
神能は、日没になると本殿と向かい合う形で設けられている御香宮能舞台で、舞台の回りのろうそくに灯が灯され、奉書紙を通して漏れる柔らかな光が舞台を照らし、ろうそくの明かりで演じる「蝋燭能」として親しまれている。
今年の演目 能 観世流 源氏供養 : 天鼓 弄鼓之舞
狂言 大蔵流 清水
御香宮神能は豊臣秀吉が伏見城の守り神とした神社、鳥羽伏見の戦いでは、薩軍の屯所にもなった御香宮の能舞台での能と仕舞、狂言で、室町時代から神事として続いており、毎年秋に境内の能舞台で、ろうそくの柔らかな光りが舞台を包み、虫の音が響く中、開かれている。
能楽が猿楽と呼ばれていた六百年以上前から催されている。
神能は、日没になると本殿と向かい合う形で設けられている御香宮能舞台で、舞台の回りのろうそくに灯が灯され、奉書紙を通して漏れる柔らかな光が舞台を照らし、ろうそくの明かりで演じる「蝋燭能」として親しまれている。
今年の演目 能 観世流 源氏供養 : 天鼓 弄鼓之舞
狂言 大蔵流 清水
★歴史ある木屋町・高瀬川の魅力を伝える「高瀬川舟まつり」が九月二十二日行われた。
木屋町二条下るの高瀬川には、江戸時代に使われた平底の舟(長さ十三.四メートル、幅二メートル)が新調復元されて、新しい高瀬舟の三代目の船体が新造され, まつりに合わせて岸から板を架けて乗り込めるようにされた。
舟まつりは、江戸時代に豪商角倉了以が開削し京都~伏見間の重要な物資輸送路となった高瀬川を、より多くの人に知ってもらおうと、高瀬舟の復元を機に、一九九一年から毎年行っています。今年で二十五回目
見物客は先斗町の舞妓が乗り込んだ高瀬舟に移ってお茶の接待や川面の風情を楽しんだり、舟を舞台に落語やささ舟に願い事を書いて流す催しが披露され、昔の水運の様子を描いて満喫。
なお、「高瀬舟」で知られる「一之船入」とは、高瀬川の水運の起点辺りを言います。
[今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]
★新緑の京を彩る先斗町の舞踊公演「第一七九回鴨川をどり」(五月一日~二十四日)の衣装合わせが中京区の先斗町歌舞練場であった。
芸舞妓があでやかな舞台衣装を身にまとい、プログラム用の写真撮影に臨んだ。
今年の演目は、第一部が「源氏物語-葵(あおい)」で全四場。おなじみの源氏物語で、光源氏と葵の上、六条御息所による愛憎渦巻く場面を取り上げ、生霊の登場が見どころとなる。第二部「道中双六(すごろく)-東下り」は全六景。京の都から江戸を目指して東海道を下る芸妓が各宿場で道中記を繰り広げる。
演目に出演する芸妓らは、貴族の王朝絵巻を表した源氏物語の登場人物になりきって色とりどりの衣装でポーズをとり、カメラに向かっていた。
各日午後0時半、二時二十分、四時十分の三回公演。二三〇〇~四八〇〇円。
芸舞妓があでやかな舞台衣装を身にまとい、プログラム用の写真撮影に臨んだ。
今年の演目は、第一部が「源氏物語-葵(あおい)」で全四場。おなじみの源氏物語で、光源氏と葵の上、六条御息所による愛憎渦巻く場面を取り上げ、生霊の登場が見どころとなる。第二部「道中双六(すごろく)-東下り」は全六景。京の都から江戸を目指して東海道を下る芸妓が各宿場で道中記を繰り広げる。
演目に出演する芸妓らは、貴族の王朝絵巻を表した源氏物語の登場人物になりきって色とりどりの衣装でポーズをとり、カメラに向かっていた。
各日午後0時半、二時二十分、四時十分の三回公演。二三〇〇~四八〇〇円。
[今日の情報・歳時記・催し・話題・出来事]
★上京区の北野天満宮で二十一日、正月の縁起物「大福(おおふく)梅」の土用干しが始まった。
セミの鳴き声が響く境内で、巫女(みこ)や神職が梅の実をむしろに広げると、甘酸っぱい香りが漂った。
境内にある約一五〇〇本の梅の木から、六月に約二トンの実を収穫した。この日、塩漬けされた実をたるから取り出し、約一カ月かけて天日干しする。
時折夏の太陽が顔をのぞかせる中、本殿前の中庭では職員らが額に汗を浮かべながら、梅の実が重ならないよう丁寧に並べた。大福梅は事始めの十二月十三日から授与され、元旦にさゆに入れて飲むと無病息災で過ごせるとされる。
セミの鳴き声が響く境内で、巫女(みこ)や神職が梅の実をむしろに広げると、甘酸っぱい香りが漂った。
境内にある約一五〇〇本の梅の木から、六月に約二トンの実を収穫した。この日、塩漬けされた実をたるから取り出し、約一カ月かけて天日干しする。
時折夏の太陽が顔をのぞかせる中、本殿前の中庭では職員らが額に汗を浮かべながら、梅の実が重ならないよう丁寧に並べた。大福梅は事始めの十二月十三日から授与され、元旦にさゆに入れて飲むと無病息災で過ごせるとされる。
【祇 園 祭 シ リ ーズ】
★祇園祭の八幡山は、山の飾り房一式を新調した。
あさぎ色の涼しげな色調と、鮮やかな朱色の房が山を彩る。
新調したのは、山の前方に取り付ける金幣(ぺい)に掛ける朱色の房2本と、山の胴体の四隅を上段、中段、下段の3カ所で飾る房十二本、見送りの下部に付ける房七本。これまで使ってきた房の制作年は不明だが、退色して劣化も著しく、巡行の揺れでほつれも出ていたため、約一二〇万円かけて新調した。
宵山(二十三日)まで会所飾りで見られる。二十四日の後祭(あとまつり)の巡行で使用する。
あさぎ色の涼しげな色調と、鮮やかな朱色の房が山を彩る。
新調したのは、山の前方に取り付ける金幣(ぺい)に掛ける朱色の房2本と、山の胴体の四隅を上段、中段、下段の3カ所で飾る房十二本、見送りの下部に付ける房七本。これまで使ってきた房の制作年は不明だが、退色して劣化も著しく、巡行の揺れでほつれも出ていたため、約一二〇万円かけて新調した。
宵山(二十三日)まで会所飾りで見られる。二十四日の後祭(あとまつり)の巡行で使用する。