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「死んだらどうなるのか」(3)永遠無限全能について

2011年08月31日 | 死んだらどうなるのか
前回は、現代日本人は、言葉で理解することを理解の総てにしてしまっていて、それが「死んだらどうなるか」に無関心になる原因であるとお話ししました。
これをさらに詳しく実証しなければならないとすると、検証は第三者である言葉以外の方法でなければ、被告が裁判官になるような不当で公平を欠く事になるのですが、しかし、ここはブログで、言語の場なので、例えば昔人の「色即是空 空即是色」ように、論理的には矛盾の表現でお話しすることになるかも知れないのです。つまりこれからの展開は、少し面倒な展開になって行きますが、少しご辛抱下さい。

でははじめに、仏教で理解とは何かをお話ししたいと思います。

仏教と、一神教であるキリスト教、イスラム教との違いは、仏教では、個人が、全能である仏になる。つまり成仏する事が最終目的ですが、キリスト教では、全能の絶対者である神の身許で永遠の命を授かる。であり、自らが絶対者になる事ではありません。

つまり、仏教で理解とは、全能である仏の持つ理解能力を身につけることになります。それは、全能の能力を身につければ仏になれることを意味しますが、五面観音や千手観音像の五つの顔や千の手は、その全能の一部をビジュアルイマジネーションしたもので、修行とは、そのイマジネーションを手掛かりに、瞑想と祈りを使い、人間に備わる全能力をあげて、感覚、意識、無意識、心で感じ取り、仏の全能の力を、自らの肉体上に実現することにあります。

しかしこれは、我々の常識では、永遠に不可能を意味するのではないでしょうか。また、絶対者を頂く一神教、キリスト教、イスラム教からは、不遜、神への冒涜と言われかねません。
仏教では、この「永遠に不可能」を、輪廻を繰り返し、何世にもわたり修行を続けなければ成功しないと、つまり成仏しないと言い、この時間的長さが、仏教時間となっています。

つまり仏教では、永遠や無限の意味は、現代日本人が思っている内容とは違っています。
我々の永遠無限は、測定不能や理解不能を言うのですが、仏教では、それを感知できるものと考え、その感得取得を修行と呼んでいます。

永遠無限全能を感知し、また取得する為には、自己の肉体、感覚、心を、永遠無限全能なものにしなければ不可能であることは、全人間の共通認識です。キリスト教イスラム教の一神教においても、全能の絶対者、神を理解するには、自らが全能でなければ不可能であるので、全人間共通の論理認識と言えます。
また言語思考では、「永遠無限全能」と言葉としてラベリングしますが、それで理解したつもりになって、それに「命」のラベルを加えて「永遠の命」としますが、それで永遠の命が、見えたり匂ったり触ったりできるようになるわけではありません。
また科学では、言語ラベリングを借りて、∞の記号でラベリングしますが、その意味をそれ以上追研しようとしません。というより、科学は、限られた局所的真理のみを対象にする学問なので、永遠無限全能を科学に求めることは間違いなのかもしれません。

つまり、「死んだらどうなるか」は、常識的には、言葉の上では、人間にとって永遠のテーマになりますので、神の身許で永遠の命を得ることで満足ならそれで良いのですが、永遠のテーマを知りたいのであれば、今のところ永遠無限全能を感知できるものと考える、仏教の方法を取らざるを得ないのではと思います。

次回は、仏教で、永遠無限全能とは何か、どう考えているのか、また、その取得の方法についてどう考えているのかをお話ししていきたいと思います。


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