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野町和嘉「写真」を巡って。

「死んだらどうなるのか」(5)仏教・キリスト教・科学

2011年10月03日 | 死んだらどうなるのか
これまでは、仏教の視点側から「死んだらどうなるの」を見てきました。今回は、 科学を信じて、そんなことは分からないのが常識と思っている、多くの現代日本人の側から、なぜそう思うのかを見てみたいと思います。

それは、科学が、西洋のキリスト教から生まれたことと関係しています。
キリスト教では、先ず、神(GOD)が世界の総てを創ります。そして科学の役割とは、神が創った世界の摂理を観察し探究することになります。神に代わってこの世を創り出すことではありません。神の真理である永遠無限全能ではなく、その中の局所的真理のみの探究を行います。ですから、宇宙誕生ビックバンの前は何から始まっているの。と、科学に問うと、それは神が創った世界から始まるというのが、キリスト教社会の科学では、暗黙の了解になっています。

つまり、キリスト教では、「死んだらどうなるの」は、死んだら神の御許へ、天国へ続く道があると教えられています。つまり科学を信ずることは、天国へ続く道があることも信じることになってしまうのです。

では、どうしたら、我々は神の御許へ行くことができるのでしょうか。
現世では一生をかけ、神の教えを真に理解し、守り、実行し、神から使わされたキリストに最後の審判を仰ぐことになります。 神の御許へ。のためには、主を愛し神の御心にかなう努力をしなければなりません。神とは全知全能つまり永遠無限全能の存在ですから、神の御心を理解することとは、その永遠無限全能を理解することになります。先に、仏教の成仏について、「仏になるには、永遠無限全能の存在にならなければならない」と言いましたが、キリスト教徒も、それと同じ努力を目指すことになります。

例えば、キリスト教の教えに、旧約聖書出エジプト記「モーゼの十戒」があります。

1.わたしのほかに神があってはならない。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4.あなたの父母を敬え。
5.殺してはならない。
6.姦淫してはならない。
7.盗んではならない。
8.隣人に関して偽証してはならない。
9.隣人の妻を欲してはならない。
10.隣人の財産を欲してはならない。

1から4戒までは、神に対して守るべき戒めです。これに対して、5から10戒は人との関係で守るべき戒めです。この戒めを守り実践すれば、最後の審判で、神の御許へが赦されます。キリスト教徒には、このように「死んだらどうなるのか」が分かる方法が示されています。

つまり、 1から4戒までは、全知全能の主の御心を知るための、心の有り様への教えであり。5から10戒は、主の御心を理解する平穏な日々のために、生活と社会を安定に維持する。そのための教えです。そして、 今日のキリスト教社会では、この戒めが、道徳、倫理、法律、社会的習慣などの総ての規範に反映され、個人として、社会的人間として生活するための基礎になっています。

一方、仏教の教えとは、最終目的は「成仏する」ことですが、そこに至るためには、キリスト教と同様に、さまざまな教えや戒があります。

モーゼの十戒の 5から10戒と同じものが仏教にもあります。

例えば在家が守るべき五戒には
不殺生戒 - 生き物を殺してはいけない。
不偸盗戒 - 他人のものを盗んではいけない。
不邪淫戒 - 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。
不妄語戒 - 嘘をついてはいけない。
不飲酒戒 - 酒を飲んではいけない。

など、さらに僧侶が守るべき戒なども含めると仏教には他にも多くの戒が有ります。

以上のことから分かることは、「モーゼの十戒」の5から10戒に説かれている社会規範としての戒は、仏教とキリスト教はほぼ同じであることがわかります。もしこれが違っていたとしたなら、宗教発生からこれまで、約2000年の歴史の間、二つの世界では、人間の知性、感性、社会の道徳、倫理、法律、社会的習慣などは、大きく異なっていただろうし、お互いが他を完全に抹殺するまで戦う、途方もない大戦争もあったであろうし、今日、民主主義が、地球全体の僅かを除いて総てを覆い尽くす、曲がりなりにも平和な時代も来なかったであろうと思われます。

しかし「モーゼの十戒」の1から4戒までで違いはあるのでしょうか。
人は神にはなれないキリスト教と異なり、仏教の最終目的が「成仏する」ことですから、全く違ったことになります。

「モーゼの十戒」の、
1.わたしのほかに神があってはならない。
は、仏教では、自分が仏になるのですから、加えて、私もあなたも全員が仏になることを願いますから、多くの仏(神)が存在することになります。

2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
は、仏教では仏になるために、仏とは何かを真に理解するために「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏」など、仏の名を唱え、仏の永遠無限全能を現す種々の仏像を拝し、仏の様々なイメージを積極的に思い描きます。

3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
は、密教では、本尊(神)の姿や能力を瞑想し、本尊の眼の中の血管一本一本までをも瞬時に想起できる修業をしたりします。
丁度、磔刑で十字架に打ち付けられたキリストの、釘が刺さった掌の傷の細部までも想起しようと努める敬虔なキリスト教徒と同じ様にです。

ここまで両者を比較して考えてきました。そして「モーゼの十戒」の5から10戒の社会規範としての戒は、言葉上では、仏教もキリスト教も同じと言ってきました。しかしどうも、1から4戒がキリスト教と仏教とでは違いがあるのなら、5から10戒も、違うのではないだろうか。戒の目的が、二つの間では違うのではないかと。

そして、現代日本人が「死んだらどうなるの」に無関心な理由が 、ここにあるように思うのです。





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