写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

何故「死んだらどうなるか」を考えるのか?(2)

2012年02月12日 | 死んだらどうなるのか
先に、65歳を過ぎると次の世のこと、つまり「死んだらどうなるか」を考えるようになると言いました。つまり、余命の約20年より、もっと長い、来世のことを考えた方が合理的であるからです。
ですから、普通には、年老いたら、死が訪れるのを心静かにして待つ。が、年寄りの理想などと言われていますが、しかしその先の「死んだらどうなるのか」が分からなくて、どうして心静かにしていられようか。
幸せになりたい。 健康になりたい。豊かな生活がしたい。と、最近まで懸命に願い努力して来た者が、「死んだらどうなるのか」の答えが、皆目わからないことに、我慢ができるものなのだろうか。 死が訪れるのを心静かに待つ老後とは、 真剣に探求しても「死んだらどうなるのか」なんて、分かりっこない。だから諦めなさい。という、その諦めの心静かなのでしょうか。

宇宙の誕生や死には、どうやらビックバンが絡んでいると、科学が解明したようなのですが、それが分かったのなら、人の「死んだらどうなるのか」についても、政治は科学に予算を付けて、研究開始の勧告をして欲しいものだ。

でも、ひょっとして宗教では「死んだらどうなるのか」はもう解明されていて、例えば、密教というつまり秘密にされていて大ぴらには明かしてはいけない教えがあるので、そこにはもう答えがあるのかもしれない。何かの理由で秘密になっているのなら、情報公開法を適用してもらえないものだろうか。昔の漢語やサンスクリット語チベット語で書かれてあるなら、現代語に翻訳して、誰でもが見られ誰でもが理解できるようにして欲しいものだ。

私はいま老境を迎えているので、若者と比べると時間的には、死は早くやってくることになっている。私の祖母はこの歳には「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏 」と念仏を唱え成仏を願い極楽に往く準備をしていた。 南無阿弥陀仏と念仏を唱えると、来世には仏になれるので、つまり今の私より「死んだらどうなるのか」を分かっていたことになる。死の不安を和らげるカウンセリングの癒しなど他者から求めようとせず、自ら心を整え死と向かい合っていたことになる。

でも、今の無信心の現代日本人は、 南無阿弥陀仏と念仏を唱えると成仏できることを、科学は証明していないので、つまり「死んだらどうなるのか」が分かっていないので、 当面の死に向かう不安を和らげてもらうために、私も含めて、カウンセリングを受けるような、肉親や宗教者などの他者からの癒しを求めているのではないでしょうか。
でもその癒しで、死の水際、わずかな生の間際の不安は薄れるかもしれませんが、死んでしまった後も、その癒しやカウンセリングの効力は持続すると、科学は証明してくれるのでしょうか。

よく観察してみて欲しい。私の祖母のように、「南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏 」と念仏していたのは、当面の死の不安を癒すために念仏を唱えているのではありません。成仏して極楽に往く目的のために念仏を唱えているのです。成仏すると苦しみも悲しみも無くなるので、癒しなど必要なくなると知っているからなのです。

仏教は、死に向かう不安を和らげる癒しやカウンセリングではありません。死そのものを成仏に変え、無効にしてしまおうとする合理的な考え方なのです。

何故「死んだらどうなるのか」を科学は考えないのでしょうか。それを考えないでいて、心理カウンセリングや終末医療、あるいは心情的、感情的な癒しでなどで、 当面の死に向かう不安を和らげることだけを考えているように思います。
科学は、長年研究を尽くして努力したが、「死んだらどうなるのか」は分からなかった。とは結論してはいません。ただ、怠慢なだけなのです。
だから科学を信じる現代日本人は「死んだらどうなるのか」など分からない。と諦めてはいけません。


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