写真の未来。

野町和嘉「写真」を巡って。

野町和嘉『写真』とは(4) ー空は、無限遠  ー

2019年02月28日 | 野町和嘉『写真』
もし、あなたが画家だとして、空を描くとしたらどう描くでしょうか?。
青空なら、青の絵具で空のスペースを塗りつぶし、そこに白い雲をいくつか浮かべる。
曇り空なら、白の絵具にグレーの絵具を曇りの具合で混ぜて、太陽の近くは明るく、グラデーションで描くのではないかと思います。

多くの人々には、空とは、晴れの時は青色の幕が、曇りはグレーの幕が、背景のように空全体を覆っていて、その幕を描くと空が描けると思っているようなのです。

しかし、そうとは考えない画家がいます。
空には、遠く果てなく広がる無限遠の空間があって、空を描く場合、その空間が、無限遠の拡がりに感じとれる描き方をしなければならない。と、考えるのです。

その画家の先駆は、レオナルド・ダ・ビンチです。
(写真はクリックで拡大します)




上掲の5作品以外にも、キリスト関係のレオナルド・ダ・ビンチ作品のほとんどでは、背景には空が描かれています。
その空の描き方は、遠くの山々は、遠ざかる程に青味を増し霞ませる空気遠近法で、手前には、濃い色の山々や木々を描くことで、その背後の空が、無限遠が広がっていると感じさせる方法です。空の面積は絵の中では小さいのですが、その方法でも十分に無限遠の空間を暗示させていて、単に、青や灰色の幕が空に掛かっている描き方ではありません。

この時代の、あるいはギリシャ時代にまで遡るのかもしれませんが、キリスト(又はギリシャの神々)を主題にした絵画では、背後に空が必ず描かれています。その空の役割とは「聖」の暗示であり、ほとんどは幕のよう空で、多くは、装飾記号的に描かれ機能させられていて、レオナルド・ダ・ビンチのように丁寧な技法を施す必要もなく、空=聖なるもの。と既視化されればよく、描かれた空に、仔細な意識をむけたり、思わずそこに思いを傾けてしまうような深い絵の魅力は、あまりありません。
現代の表現でもキリスト像の背後には空が無造作に描かれ、そこには天使が浮かんでいるなど、空の表現は、多くの絵画で、記号的な「聖」の装飾であり続けています。
神があって聖があるのか、先に聖があって神が生まれたのか。人間にはまだ自分の事を十分には分かっていませんが、それどころか現代人の無限遠の「空の空間」への好奇心は、「聖」とは無関係に、宇宙旅行や星雲、ブラックホール、暗黒物質、また約138億年前のビッグバン直後に生まれたファーストスター発見の興味などに変化してしまい、このような変化は、科学と宗教(一神教)との対立に、新たな混乱を招きかねず、本当にどんな影響を与えることになるのでしょうか。?

では、レオナルド・ダ・ビンチは、何故このような描き方を、ほとんどの作品で施したのでしょうか。
空は、当時キリスト主題の絵画を描く際の決まり事なのですが、しかし、ダヴィンチが描く、空の無限遠の空間には、仔細な意識を向け、いつまでも探っていたくなる特別な未知の魅力があります。そして、例えば上掲の「岩窟の聖母」の絵では、奥の遠くに空の無限遠の空間があり、その手前の空間には空気遠近法で描かれた、遠く霞んだ山々と濃い色の山々が重なり、その前に奥行きのある洞窟、中には聖母、キリスト、ヨハネ、ガブリエルの四人。ここまで空間が重なり続いてくると、遠くの空の空間は宇宙空間であり、山々から洞窟と四人までは、地球であり、地上の出来事を描いると感じてしまいます。
そして、それを眺める我々も同様に、地上の住人であり、レオナルドのような天才の絵画から、空の無限遠の空間を意識させられると、宇宙の無限遠な空間の下に、我々が立つ地上がある。と、自分達の立ち位置をも思い起こされてしまうのです。

これは三次元、又は時間を含めた四次元のリアルを、絵画の二次元に置き変える、レオナルドの方法なのです。空の無限遠の空間さえ描いてあれば、地上には何が描かれていてもリアルに見える、生きているように見えると言うことでしょうか。

そうするとそれは、さらに、洞窟の四人が居る空間と、我々鑑賞者が居るリアルな現実空間とが、地続きにつながっているようにも感じてしまうのです。キリストの頭上に光輪(ハーロー)を描くことを拒否し、リアルを求めざるを得なかった、レオナルドの画力の深さが伝わってきます。そして、我に帰り振り返れば、この我々の地上空間の背後にも、当然に、絵の中と同じ無限遠の空間が広がっているのです。

レオナルド・ダ・ビンチは、リアルを求め、当時流行の遠近法を取り入れました。現代でも、自然の空間表現とは、遠近法が正当と思われているところがあり、その代表は「写真」です。
レオナルドは遠近法を描く方法として、のぞき穴から単眼で、前に置かれたすりガラスに映る景色、その輪郭を写し取れば、簡単に遠近法で描くことができると、方法図を残しています。
これは、すりガラスの前にレンズを置き、眼球の焦点の代わりをさせるカメラの原理と同じで、カメラでは、誰でもが簡単に、景色を遠近法で描くことが出来ます。
しかし遠近法は単眼ですが、現実の人は双眼であり、自由に立ち位置を変えられ、意識には注視という機能があって、興味のあるものには脳内でクローズアップが出来て、あたかも高性能レンズを自在にチェンジするように、空間を拡大縮小し認識することが出来ます。東洋では、逆遠近法、つまり遠くのものを前景より大きく描く、例えば我々でも、夕日や富士山など、写真に撮ると小さく写りガッカリするのに、印象を絵にすると大きく描いてしまうこんな経験があると思います。しかしこの経験には、これは間違いであって、遠近法こそ科学的真実であると思い込まされている現代人も共にいるのです。

『新古今集』冬に
「田子の浦に うち出(い)でてみれば 白妙(しろたへ)の 富士の高嶺(たかね)に雪は降りつつ」山部赤人(4番) 
の歌があります。

田子の浦の海岸に出てみると、前には青い海の水平線が孤を描き広がり、青空には白雲を置き、景色が視界に広々と展開している。振り返り背後を仰ぎ見ると、天空には冬の太陽、巨大な富士が裾野を左右に広げ聳えている。山頂には、あたかも今まで雪が降っていたかのように、真新しい白雪を被っているのが見える。

壮大な自然を詠んだ歌である。遠近法に収まってしまうような現代日本人の里山の自然空間ではなく、中世日本人の原初の空間感覚です。
写真で言うと、海岸では広角レンズ、太陽は望遠レンズ、富士山には広角から望遠のズームレンズ、頂上は超望遠レンズで眺めるという風になる。こんな見え方とすると、遠近法こそ科学的定説としてきた現代人の矜持はどうなるのだろうかと思う。事実、海岸では、写真で撮ると、空は遠くにあっても大きく写っている。手前のものを大きく写す広角レンズでも、空は更に更に大きく写ってしまう。これでは、逆遠近法で写っている。と言うことになります。
こうなるのは、地球上は閉じた空間であり、空はつまり宇宙は、開いた空間だからなのですが、海に浮かぶ遠くの船は、小さく見え、遠くの雲も小さく見える。しかし背後の空は大きく見える。地球上は閉じた空間であると言うのは、例えば、赤道上で、二人が平行に左右に広く離れ、それぞれ経度線を北に向かい初めは直線平行に歩き始めたとしても、北極点では、交わってしまう空間を言います。雲の場合は、飛行機に置き換え、二機の飛行機を平行左右と地上平行にして経度線上を飛べば、地球を飛び出さず(飛び出せない)、やはり北極点上では交わってしまいます。一方、宇宙空間は空間が開いているので、つまり平行線は遠方では広がっている、交わることなく双曲線として広がっている。だから空は反対に大きく逆遠近に見えるのではないでしょうか。
膨張宇宙論では、宇宙は閉じているのか開いているのか?、閉じているとビッグクランチで収縮を始めるので、宇宙の寿命については様々議論があります。しかし地球上で写真を撮ると空は広がって写るので、人間の心理、本能として宇宙は広がっているのではないかと思うのです。

そうすると、空を逆遠近に写す写真は、宇宙物理の真理を写しているのかも知れません。

レオナルド・ダ・ビンチに戻って、モナ・リザの絵のことを見てみましょう。
モナ・リザの絵の構図を写真で撮るとすると、どんなレンズになるでしょうか。
モナ・リザは、35mmカメラで90mm〜105mmのポートレートレンズなら美しく撮れるでしょう。しかしそうすると、遠くの背景の景色は、最大に絞ってもピントが外れボケるのではないでしょうか。レオナルドのモナ・リザの絵画では、空気遠近法で空気の層の透視で景色は霞んで見えます。しかし、ピントが外れている訳ではありません。なぜなら、モナ・リザを描くレオナルドの眼には、景色は空気層の透視で霞んではいるけれど、ピントは合っていてボケずに見えています。人間の眼は、意識の注視により、どんなに遠くでもピントを合わすことが出来るからです。
写真で、モナ・リザの構図と同じものをワンショットで撮るとするとどうなるでしょうか。先にピントが合った背景だけを撮って大きなプリントにし、彼女がスタンバイした背後に背景紙として垂らす方法があります。勿論、二つには別々のライティングが必要です。スタジオ撮影で、モナ・リザには主ライトを前左上から背景には漏れないようにセット、背景紙には、左右から挟み込んでの均一ライティングをします。そうすれば背景の景色とモナ・リザとの距離が近くなり両者にピントが合い、モナ・リザの絵のような写真が撮れます。
ここまで考えると、モナ・リザの絵画は、遠近法ではなく、むしろ東洋人の私には、逆遠近法で描いているように見えるのですが…、しかし逆遠近法とすると、背景の景色がもう少し左右に広がっていなければバランスが悪いような気もするのですが…。そのためか反対に、ハミ出た背景が虚像のように見えてきて落ち着かない気もしてくるのです…。

こうなってくると、写真は、物理的真理に目くらましをしてから写しているのかも知れません。

お気づきかも知れませんが、モナ・リザにも、遠くの空の無限遠の空間が描かれています。調べた限り、レオナルドでは、空の無限遠の空間表現は、決まり事の「聖」の暗示として、キリスト関係の絵画にしか描かれていません。しかしモナ・リザは一般人ですから、「聖」の暗示は必要ありません。他の一般人を描いた絵では、背景はシンプルな暗色で描かれています。何故モナ・リザだけに、背景が明るい景色があるのでしょうか。
この絵は死の間際まで手元に置き、筆を入れていましたから、モナ・リザは、レオナルド・ダ・ビンチの性格や生き様から、画業の集大成と言うことができます。
多分それは、背景の遠くに、空の無限遠の空間を入れることで、その前方に描かれた人や物体がよりリアルに見えるようになる。そんな効果の発見があったからなのではないでしょうか。背景に景色を入れると決めたのは、あの空の無限遠の空間を描くためだからなのではないでしょうか。

前に、野町和嘉『写真』とは(2)で、
レオナルド・ダ・ビンチは、究極には、対象を写し取り描くのではなく、紙やキャンバス上に、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創り出したいと願う画家の一人とお話ししてきました。
そして、背景に遠くの空の無限遠の空間を描くと、前方はリアルが増してくるこの描画法は、スフマーフ技法と共に、キャンバス上に「リアルな存在や物体」を描くレオナルドの方法の一つになったのではないでしょうか。

モナ・リザについては、前述のさらに詳しいブログをご覧ください。
永遠のモナ・リザ(1)(2)(3)

そして、同じ描画法を使う画家が、その後にも現れています。
レオナルド・ダ・ビンチを研究していたルーベンスは、多くの絵でレオナルド流の空を描き、効果を確信しています。
近代では、ルソー、ダリ、キリコにその効果が見えています。
背景に空の無限遠の空間さえあれば、地上には何を描いてもリアルに見えるから構わない許される。と、本能的にそれを知る画家がいたのだと思います。
ルソーの絵は、あの空が描かれているからこそ価値があるとすら思えます。ピカソには、その直感とセンスがありませんでした。だからピカソは、キリコを恐れ、晩年までルソーの絵を手元に置いて眺めていたのだと思います。
是非、彼らの作品を、新たな目で見直してみてください。よく分からなく好き嫌いが極端な画家達ですが、そこに空の無限遠の空間を感じれば、きっとすべての皆様が好きになると思います。
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さて、そこで野町和嘉『写真』です。
2019年春、最新写真の場所は、アイスランドです。
その中の一枚です。
(写真はクリックで拡大します)



高解像度カメラ(Canon EOS R)は、氷のクリスタルな質感をリアルに捉え、氷のアップから空までの長い距離の深度も、高解像度と広角レンズとで、全面シャープなピントを実現しています。

寒い空間。薄明の海岸で氷河から流れ出てくるクリスタルのような三角形の氷、そして波、地球の丸見が見える青い海と黒い海岸大地、そして雲の背後には、あの遠くの空の無限遠の空間が見えています。
あの無限遠の空間があると、海と波と海岸とクリスタルな氷は地球上の物体であると知らされ、それらを余すところなく捉えようと、カメラを構えている野町も地球上の人である事が分かってきます。

レンズの自由意志は、撮影者の注視や意思を越え、撮った積もりもないものも、レンズに映るものは全て写してしまいますが、同時に撮影者の意思もくまなく捉え写してくれます。レオナルド・ダ・ビンチがしたように、遠くの雲間に見える空の先には無限遠の空間が続いている。と撮影者が意識すれば、鑑賞者が見てもそう感じるように、カメラは写してくれる。日常的に無意識にでもその感覚があると、カメラはその無意識をも捉えて、カメラを構え空を写すだけで、そう写ってしまう。それがレンズの自由意志の振る舞い方であり、撮影者の才能であり、撮影「勘」なのです。

写真家 野町和嘉は、世界の辺境を巡り、そこで生きる人々の姿を撮影してきました。辺境では宗教が必ず生まれていて、人々を撮るとは、宗教の祈りで生きる人々を撮る事になりました。原始宗教、イスラム教、キリスト教、ヒンズー教、仏教、道教など、様々な姿を追い求め行くうちに、それはとうとう世界中の辺境を巡る撮影旅行になってしまいました。宗教に生き祈る人々を撮るとは、その生活や宗教発祥の舞台となる、辺境の雄大な過酷な風景奇景も撮影することになります。キャリアのスタートが、サハラ砂漠の砂丘との鮮烈な出会いなので、野町和嘉には人々への興味の前に自然風景への渇望があります。辺境の自然を撮影して行くうちに、ファインダーの中に祈る人も映り込んできて、そのまま自然と同類に人々の営みをも撮って来たというのが、野町和嘉の写真スタイルなのです。
キャリアを50年近くも重ねると、興味が、祈る人々から、過酷で奇景な美しい自然へ、あのサハラ砂漠との初恋のような心に戻って来ていて、前掲のアイスランドや南米そして世界遺産などの最新の写真では、地球自然への愛しさと懐かしさに溢れ、見る人に、自分も自然の一部であると気づかせる至福の癒しを与えてくれています。
前に、写真には、祈る人々も風景の撮影にも、野町の無意識の意思として、重力の感覚(地球の中心に垂直)のみを写りこませ、後は、レンズの自由意志に任せている。とお話ししたのは、この才能から発していることなのです。

過去の作品を見ると、野町和嘉の無意識の撮影勘には、初めからそれが確かにあります。そして今、高解像度カメラを得て、その撮影勘がますます鋭くなっているように感じます。

ここから、画面上に「リアルな存在や物体」を創る可能性が、写真でも見えてくるのではないか、と感じられるのです。
これまで、野町和嘉『写真』とは(1)(2) (3)で、
絵画の紙やキャンバス上で、「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創るとは何か、を考えてきました。

写真でもそれが実現できないものだろうか。

デジタルカメラとデジタルプリンターの急速な発展で、大画面で高精密な画像の写真が創れて、それを使い実現できるのでは…。
後は、撮影者が、画面上に「リアルな存在や物体」(一つの命を得たかのように生きたもの)を創ろうとする意思さえ持てば、それをレンズの自由意志が創ってくれるのでは、と考えるのです。

これまで、対象を写すとしか考えなかった写真撮影を、「リアルな存在や物体」を創る。に進化させるには、どうしたら良いのだろうか。何が必要なのか。

大きな変化になりますが、次回は、そんな無謀な可能性を考えてみたいと思います。

野町和嘉「写真」オフィシャルホームページ