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最近の動向(2023.7)ー成仏の方法(14)

2023年07月23日 | AIについて

最近の動向(2023.7)

 

2022年11月の自然言語処理AI(生成AI)の登場で、言語の思考処理がレベルアップし、その処理能力により、ロゴス思考がさらに活性化されようとしています。しかし反対にその窮屈さと限界もハッキリ見えるようになり、同時にロゴス思考の振る舞いの特徴も顕著に現れるようになりました。

言語と社会はロゴス思考をベースにしていますが、この生成AIの登場により、これまでも発生していたがよく見えなかった社会の混乱と変化のイメージも人々の心に浮ぶようになってきました。

 

この変化は、私が予想していたよりも早くやって来ていて、これまで、このブログ「成仏の方法」で、くどくどと悪口のようにお話ししてきたロゴスのノロマな特性と限界について、AIもこのノロマ性から生まれて来てはいるのですが、次回お話しする予定の「AIの新しい方法」の前に、更に詳しくこの特性をお話しておいた方が、より理解も進むと思いましたので、このお話しを挟み込もうと思います。

 

ヌーラルネットワークであるOpenAIによって開発初公開された、大規模言語モデルであるChatGPTは、2021年9月までに得られたネット上の膨大なテキストデータをもとに、事前学習とデープラーニングで作成されました。2023年現在の我々は、2年前の過去の文字情報を眺めながら現在を測っていることになります。(その後、リアルデータに対応したモデルも多数登場しました)

これらは、過去と現在を俯瞰しそこから未来を予想するというロゴスの通常の思考方法で行われていて、我々はそれに従い、それ以外の方法があるなどと思ったりもしていません。ですから当然、AIにもその方法が黙認され、そこからさらに進化した結果を求めようとしています。

 

今後の展開は、リアルタイムな情報入力、例えば人体にCPUを埋め込んで人体データや脳波を直接にリアルタイムに収集する。人工衛星で地球の天候、地理、人、動物、物のリアル活動データをリアルタイムに収集する。もちろんネットの中のリアルタイムデータも収集しながら、これら広義のIoTの方法に、さらにコンピュータのシンギラリティを加えると、過去とリアルタイムの二者のデータ結合にスピードと緻密さが増し、これで更に正確に未来の知性を見通せるのでないか?。とロゴスのAI科学は思っているのです。

 

このようすれば、ロゴスが思う未来の知性は確かに予測できるかも知れません。しかし、その程度の知性は見通せても、人の心の内面や身体、社会や自然環境、そして全宇宙まで人類を取り巻く状況は多種多様で、そんな変化は、AIでは思うようには見通せないだろうとも人々は思っています。

だからロゴスは、つまり我々「言葉での理解が理解の全てになっている」現代人は、自らの思考のノロマ性を今こそ理解する必要があるのです。

このことを、ずっと言い続けて来ましたが、次に例を上げてみます。

 

社会の正義を、人類は、裁判制度や三権分立そして多数決などで担保して来ました。裁判制度は第三者で中立であると認めた者達を判断者として、その正否、正誤、有罪無罪を審理し判定させる方法です。三権分立と多数決も、さまざま差異や異議がある者達や集団を対決させ、多数をフェアーと見なし、社会の判定として結果を得ようとする方法です。

 

これらシステムは曲がりなりにも第三者や他者を中立(なかだち)にしていますが、しかし、ロゴスが自身を評価分析する場合、例えば、哲学や心理学、科学などでは、思考に第三者を立てず、これらと同類のロゴス思考(言葉)のみで判断し社会的分析評価(論文審査など)をする方法をとっています。弊害の排除策を講じていると言いますが、ロゴス同士ならこれは泥棒が裁判官になることと同じではないでしょうか。

この弊害は有志以来、様々な分野で問題と停滞を発生させています。ロゴスの最先端思考である量子力学の量子もつれやシュレディンガーの猫など、様々なパラドックス問題として発生させているのもそれが全ての原因です。

人間の知性や意識・思考の分析に、正統な第三者に自身を評価判定させず、極端には、ロゴスが統べる宗教などでは、精霊や霊魂など有りもしない架空の第三者を立てたりなどして、分かった積もりになって来たのが原因です。人類の未来のためには、真の自身を知り目覚めることがAIが登場した今、ロゴスには必要なのです。

ロゴスのノロマ性を知るには中立の他者に自身を分析してもらうことから出発する。これがこのブログを書いて来た一つの目的でもありますが、AIもロゴスそのものなのですが、調べてみると、AIにはその第三者の役目を務めることができる機能があるかも知れないと思う部分があって、そこをとにかく考えてみようというのが、AIの分析を始めた目的でもあります。

 

このブログ、特に「成仏の方法」では、人の意識には「粗雑な意識」=ロゴス、と「「繊細な意識」=レンマがあり、そのロゴスに対自する意識としてレンマを立てて、現実意識であるロゴスの特性と限界をお話しして来ました。

知性・意識・思考に二種類があることは、中沢新一著「レンマ学」の説明から、ギリシャ時代には知られていたことであり、同著にはレンマが何でありどんな動作をしているかが、ロゴスの方法(言葉)で詳細に語られいるので、読めばロゴス思考にもわかるようになっているので、その説明をもとに同ブログでも、改めて「繊細な意識」をレンマに。「粗雑な意識」をロゴスに。として記述を始めることにしました。(参考)

 

また、この分類は、チベット仏教のゾクチェンの悟りを得る(成仏)方法を語るために用いられた方法でもあります。現実意識とは「粗雑な意識(ロゴス)」から生じていて、その「粗雑な意識(ロゴス)」をクローズアップさせるため、裁判官のポジションを「繊細な意識(レンマ)」にしてお話ししているものです。

お気づきのように、これはレンマに習熟すれば成仏への道が開けてくるとの教えでもあります。

 

ロゴスの歴史

仏教では、人の意識・思考には数種類あり、それらの下層にはアラーヤ織があり、そこではレンマが主となっていてロゴスや他の意識・思考はそのサブとして機能していると言っています。

 

人類(ホモサピエンス)は、約30万~20万年前にアフリカで誕生したと言われます。約3万8千年前の後期旧石器時代初頭には日本列島に登場したと言われます。その頃の人類は、生物学的には現代人と変わりがなく、頭脳には知性があり、そして意識の下層にはアラーヤ織があったと思われます。

 

その頃の主なコミュニケーションの方法は、レンマが中心で、話し言葉、ジェスチャー、以心伝心などでコミュニケーションが行われていたと思われます。しかし、やがて「文字」が登場し、現代の我々は、書き文字の思考が主となり、話し言葉のサポートによって「言葉での理解が理解の全て」になった、高度に進歩したロゴスの時代を生きています。そのため古代人の遺跡の発掘もロゴス思考の科学的方法を用いますので、レンマのが残したロゴスの理解を外れた痕跡は見落とされがちになっています。

旧石器時代から下って、縄文時代は約16000年前に始まり約3000年前に終わったと言われています。しかし、その約13000年間も続いていた全国に何万ヶ所もある遺跡の発掘調査を行っても、その方法がロゴスの科学的調査であるために、ロゴスの思考範囲を超えた成果を得ることが出来ません。縄文人の意識・思考と同じ様に、レンマを中心にロゴスをサブにして思考すれば、更に多くの発見が可能になるのではないかと思うのですが、そうすれば、一番の謎、縄文時代の約13000年間は戦争が無い平和な時代であった理由も解明できるのではないかと思われます。

 

何故、縄文時代をレンマの時代と言うのか?。

それは縄文では話し言葉が、現代では書き言葉が思考や理解の中心だからです。話し言葉は常にリアルタイムで、録音機がなければ過去の記録は存在しません。文字は書かれた直後から記録に変化し過去になってしまいます。過去を類推する現在から未来を連想する現代人のロゴスの方法はここから発生しています。

 

常にリアルタイムとは、物や事は刹那であり、時間に縛られず常に非時間と言えます。(理事無碍法界=中沢新一著「レンマ学」を参照)だから縄文はレンマ的なのです。レンマの中にはサブとしてロゴスも含まれますから、縄文はロゴスでの思考も行なっています。印や絵や記憶などの記録で時間性と線形性の思考を行います。それは現代人と変わりはないのですが、主なる思考がレンマなのでレンマが先導する生活を営んでいます。その結果、現代人とは営みが異なり、ロゴス思考の考古学では全てを発掘できないのは当然なのです。

 

現在の我々は、話し言葉と書き言葉の「文字」の時代を生きています。歴史、哲学、法律、規則、SNS、メールなど主な思考は「黙読」の「文字」でおこなっています。

この「文字」で思考する時代は、文字が登場した約3500年前から始まります。パピルスやカメの甲羅に文字を刻み、やがて木版や活字、紙への印刷、そしてモニター表示へと進展してきました。これは文明発展の礎と言われていますが、記録された文字の字面を眺めて思考を巡らし判断する。この方法で行う法律や契約書、さらには読書、手紙、SNS、メールなどは、人間と社会の固有の認知・学習行動であり、AIもこの一連の流れから誕生しています。

この様なロゴスが中心の時代は、古代の旧約聖書、新約聖書、コーランなど、始めに言葉(ロゴス)ありきの文字で書かれた教義のみを唯一の真実とする、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教思考から始まりました。

しかし、人類の歴史で、文字から一神教が登場し、全世界に敷衍され、人類の営みがロゴス中心の時代になったのは、たかだか3000年程前からにしか過ぎません。

 

何故、ロゴスが思考の主導権をもつようになったか?。

古代では、レンマとロゴス、二つは初め競っていましたが、ロゴスには科学が芽生えてきて、その有用性と効率が人気となり、やがて世界中を席巻し、現代では、すべての分野で「言葉(ロゴス)での理解が理解の全て」と言われるようになってしまいました。そしてレンマはその科学(哲学、心理学、医学)によって無意識の位置に追いやられることになりました。

しかし、レンマの直感と比べロゴスの意識・思考の伝達速度は劣るのに、なぜ人類はロゴスとその社会を選んだのでしょうか?。

レンマの縄文時代は13,000年間続きました。しかしロゴス優位の歴史は、たかだか3000年です。我々は、選んでしまったこのロゴス時代をこの先何年続けられるものなのでしょうか。

 

しかし先述のように、この3,000年間人類は「文字で書かれた教義のみが唯一の真実である」や「言葉での理解が理解の全て」の思考を現実に実行して来たのですが、その間、このロゴス優位の時代は、争い(紛争、戦争)や諍いが絶え間なく、レンマから見ると、人間にとって、何かしら欠けた部分があるのではないかと感じられるのです。

 

対称性の思考

その何かしら欠けたものの一つ。ビッグバンの前は何なの?と、ロゴスの「超越的第三者の眼差し」が、この疑問を常に投げかけています。この疑問に対して科学の宇宙論は、次の理論を考え出しました。

存在空間とは、対称性が破れ、ビックバンの激しい対生成、対消滅の末、反物質が消え物質だらけになったのが今の我々の宇宙である。と、つまり、何かの理由で前宇宙の対称性が破れ、非対称性になったのが今日の世界の有り様なのです。仏教の縁起で言うと、先に対称性の世界(原因)があり、そこにビッグバン(縁)が起きて今日の非対称の宇宙(結果)ができたと言う説明になるのでしょうか?

 

この非対称性は、何をもたらすのでしょうか

ロゴスの一方向に進む線形性や時間性は、レンマの非時間性や非線形性と異なり、非対称性がもたらす思考の典型です。

それにより人の心には、物事(過去)を他(今)と比較して考える事で差異が生じていて、常に不足や過剰が生まれています、そこに欲望が働き、それが累積し、怒り妬み恨み劣等感優越感などが生じます。この有り様をキリスト教では罪と言い、仏教では煩悩と言います。

またここから生まれる状況は、人に、いつまでも尽きることがない永遠無限(♾️)の出現を特長にしています。

過去のデーターを集積しデープラーニングしてから現在や未来を予測するという、AIの最先端の線形性思考もその同じロゴスの性質から来ています。

 

何故、科学は「対称性と非対称性」という、ロゴスの線形性や時間性では理解や表現が難しい概念を持ち出すのか。

1,2,3,4,…無限に数えられる「♾」は、そんな差異の有り様を表現していますが、無限とは存在として切りがないと言うことであり、一方、科学の数学の「0」は、物や事の存在が未生であるという反対の状態を表しています。

科学は「対称性」(前宇宙)の根拠をここに求めたのでしょうか?。この「0」の採用で、宇宙論ではビックバンが始まる前の無(真空)の未生状態を表すことが出来ますが、数学では0を乗算すると全てが0(未生)になり、仏教では「空」になるのでしょうか。それとも「無」になるのでしょうか。

などなど、ロゴスの「超越的第三者の眼差し」は次々に疑問を発してきていて、いつまでも決着がつかない状況を孕んでいます。それを止める必要からか、社会では、裁判制度、三権分立、多数決、3シグマ管理、あるいは神、そして最新はブロックチェーンなどの疑問停止の方法を取っています。

しかし、この停止の了解事で、社会の様々な分野で頻発する、疑問を一時は止められたとしても、個々人の心にあるアナーキーなロゴスの「超越的第三者の眼差し」は決して許してはくれません。歴史と未来を眺めると、憎悪にまで膨らんだ個々人の感情が集まり、法律、倫理、道徳、社会通念を超えて最悪の場合、紛争、戦争、革命などで解決を迫っている様子が想像できます。個人では、犯罪や嘘、空虚、裏切りが発生します。一神教では神が赦しで「超越的第三者の眼差し」をなだめたりしますが、それは神を信じる人にのみ恩恵が与えられるもので、すべての者が信者ではない現代社会では解決にはなりません。

これら諸々発生する物事は、物質や精神、知性、意識・思考、つまり宇宙の全部が、すべて非対称で存在しているから生ずる。とするのが「対称性の考え」なのです。

 

「対称性」には二種類あります。

一つは、点や直線を挟んで左右が反対の形の図形が対自する幾何学的対称性や代数的対称性、時間的対称性などの、相対的な対称性。また、自由平等なども出自は対称性思考がベースなのかも知れません。

そして、二つ目は、高度に数学的中立や量子もつれの量子論的対称性など、です。

この二つは、共にロゴスから生まれていて、後者は近年の科学の発展、特に量子論の登場により、対称性に新たな意味が付加されたものです。

 

一方、レンマにも対称性の思考があります。

レンマもロゴスも共に非対称を生きていますから、似た部分が多くあります。

仏教では、人が成仏して仏になる。現世の対称にある極楽に行く。などの仏と人間の成仏的対称性が言われています。

ロゴスの科学と異なるところは、科学は非対称に留まりますが、レンマの仏教は人と仏が合体する成仏や極楽に行くを目指す事です。

 

しかし、このレンマの理解は、ロゴスの言葉に、例えば仏教経典などのかたちに翻訳され理解されるので、ロゴスの理解のレベルに留まっていて、レンマの非時間性、非線形性などの意味は、ロゴスにとっては理解も表現も難しく、成仏や悟り、色即是空などの造語で理解を深めようとしますが、現代ではその造語ももう古くなっている様です。

 

何故人は、「対称性」という思考を持つのか。

ロゴスとレンマ、本来は違うと認識しているのに「対称性」という似た意識・思考を持つのでしょうか。

これらから感じられることは、人間が抱く「対称性」への憧れのように思えます。憧れとは、今のままでは非対称だから何かが欠けていると薄っすらと感じてしまう。ここから離れて、充足した対称性へと向かいたい。この移行が日常に客観性と最終の癒しをもたらすのではないか?、と。

レンマは人類発祥時から感じていたのですが、ようやく現代になって、ロゴスは宇宙論や量子論の登場で、共通の意識・思考を共有できるようになったのかも知れません。

これは、「対称性」と発すると、ロゴスでは宇宙論の対消滅・対生成や量子もつれを、レンマでは成仏や極楽往生を連想すると言う様にです。