全能神教会映像|キリスト教映画「敬虔の奥義:続編」
何十年も主を信じてきた老伝道師である林伯恩は、終わりの日におけるキリストである全能神を受け入れて以来、彼は反キリスト勢力である牧師や長老たちに罪に問われ、退けられ、宗教界から追放されてしまった。しかし林は、攻撃されたり濡れ衣を着せさせられてもひるむことなく、彼の信仰はますます堅くなっていき、ついには宗教界の牧師や長老たちの偽善的な正体を見抜くまでになった。同時に、キリストだけが真理であり、道であり、命であり、人を救い、清め、完成させることができるのだと知って彼に従い、真の証人となるため、キリストに証し、可能な限り真理を追求し、自身の性情を変えることを決意したのである。刑務所から釈放され、信仰を棄てて更生するどころか東方閃電を信じ、「全能神が主として再臨された」と行く先々で証する林を中国共産党は指名手配し、逮捕しようと追い回す。林は家を追われるが、道中で終わりの日における全能神の働きについて証し、誠実で良心的な信者を数多く神様へと導くことに成功した。このビデオは、福音を広めて神様に証する林伯恩の実話である。
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東方閃電|全能神の発表「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」抜粋5
神の働きのどの段階も、人間のために行われるもので、それはすべての人間のためなのだ。それは受肉した神の働きであるが、それでもすべての人間を対象とする。神はすべての人間の神であり、すべての被造物とそうでないものの神である。受肉した神の働きは限られた範囲のものであるし、この働きの目的もまた限られているが、神が働きのために受肉するたびに、神は、その働きの対象として究極的な代表を選ぶ。神は単純で平凡な集団を働きの対象とはせず、肉の働きの代表となるだけの能力ある集団を選ぶ。この集団が選ばれるのは、神が受肉して行う働きの範囲が限られているためで、受肉した神のために特に用意され、受肉した神の働きのために特に選ばれるのである。神が働きの対象を選ぶのは、根拠のないことではなく、原則による。働きの対象は、受肉した神の働きに有益なものでなければならず、また、すべての人間を代表する者でなければならない。たとえば、ユダヤ人はイエス自らによる贖罪を受け容れることで全人類を代表することができた。また、中国人は受肉した神自身による征服を受け容れることで全人類を代表できる。ユダヤ人が全人類を代表したことには根拠がある。また中国人が、神自らによる征服を受け容れることで全人類を代表することにも根拠がある。ユダヤ人の間で行われた贖いの働き以上に贖いの意義を示すものはない。また、中国人の間での征服以上に征服の働きの完全性と成功を明らかにするものもない。受肉した神の働きと言葉は、少数の集団にだけ向けられているもののように見えるが、実際は、この小集団のもとでの神の働きは全宇宙の働きであって、その言葉は全人類に向けられたものなのだ。受肉しての神の働きが終わった後、神に従う人々は、自分たちの間で神が行った働きを広めることとなる。受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類への正確な心を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営(救いの)計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救済の働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊ではなく、受肉した神の働きの結果なのだ。神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや漠然とした不可解なものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。神が肉体をもってその働きを広めると、神に従う人々は、神が受肉して行った働きをすべての教派、分派に伝え、その言葉全部をすべての人間の耳に伝えるだろう。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実で、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、事実であって、噂ではない。こうした事実は神がその働きを広める証拠であり、また、その働きを広めるために用いる道具である。事実がなければ、神の福音はすべての国々、あらゆる場所に伝わらない。事実なしで人間の想像だけであれば、神はけっして全宇宙を征服する働きを行うことはできない。霊は人間には理解のできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質は、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。神はこの段階まで働きを実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神が受肉して直接行った働きは、すでに経営(救い)全体の働きの90%を完了している。この肉体は神の働きすべての良き始まりと神の働き全部のまとめを提供してきたのであり、神の働きすべてを広め、この働き全体に最終的かつ周到な付け足しをした。だから、もう神の働きには、また神が受肉して行う第四の段階はなく、三度目に受肉した神が驚くべき働きを行うこともない。
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Ⅰ
数多く変転してきたこの広い世界で
歴史が始まるずっと前から
人を導く者は誰もいなかった
全てを支配する神以外は
人の必要を満たすため
苦労し備える君主はいない
人を輝く未来へ導き
不正から解き放つ者はなかった
神は人の将来を嘆き
堕落し引き返せない人のため
どれだけ悲しむことか
人は神に背きその心を引き裂き
喜んでサタンの悪の道を行く
立ち止まり人類の行く末を見極める者はいない
Ⅱ
立ち止まり神の怒りを感じるのは誰か
そばに来て喜ばせるのは誰か
その悲しみと痛みが解かる者はどこか
神の呼ぶ声を聞いても
恵・真理・見守りから
それた道を人は歩み続ける
彼らは進んでサタンに身を売る
彼らは進んでサタンに身を売る
Ⅲ
反抗的で神を退ける者に
神はどう対処するのだろうか
神の呼びかけと警告の後には
恐ろしく耐えがたい災いが来るだろう
それは人の肉体と魂を罰する
神の計画を無にし声を無視する時
どんな怒りが蓄えられているか誰も知らない
初めて経験した怒り これは類なき災いである
最初であり最後である
神はたった一度の創世と救いを計画した
心で感じる者は誰もいない
人を救うための神の悲痛な愛と情熱を
『言葉は肉において現れる』より
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全能神教会 |堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」抜粋4
受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が証しする受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きではなく、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうしたことばについての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。それがどう評価されるかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目の受肉した神はその経営(救いの)計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上にふさわしいものはいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。受肉して普通の人間性をもった神は、直接人間の不義を裁くことができる。これが神本来の聖さ、すばらしさである。神だけが人間を裁く資格があり、その地位にいる。神には真理と義があるから、人間を裁くことができる。真理と義のない者には他人を裁くことができない。この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深い働きであり、神の働きの三段階のうちの最も大事な部分は、受肉による働きの二つの段階である。人間の甚だしい堕落は、受肉した神にとって大きな障害である。とりわけ、世の終わりの人々に対する働きは極めて困難で、敵意に満ちた環境で、どの種類の人々の能力もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、とどこおりなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神の働きの三つの段階は、受肉した神が終えられるだろうし、そうでなければならないのだ。最も重要かつ肝要な働きは受肉した神が行い、人間の救済は神が受肉して自ら行わなければならない。人間はみな、受肉した神が人間と関わりがないと感じるだろうが、実際は、この肉体が、全人類の運命と存在に関わっているのだ。
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全能神教会映像|5月28日、招遠市で起きた事件の裏に隠された真相を暴く
中国のマクドナルド支店で起きた殺人事件の中に潜む世界を震撼させた陰謀
「5月28日、招遠市で起きた事件の裏に隠された真相を暴く」中国のマクドナルド支店で起きた殺人事件の中に潜む世界を震撼させた陰謀 2014年、中国共産党は、家庭集会を徹底的に弾圧するための世論の基盤作りに、山東省で、悪名高き「5月28日招遠市事件」を意図的に捏造しました。また全能神教会を糾弾し、誹謗しようと、嘘を全世界に広めました。その結果、真実を知らない人々は、はからずも中国共産党のプロパガンダによって騙されました。このプログラムでは、あなた方のために、中国共産党の嘘をひとつずつ詳細に分析し、その事実を解明し、世界に向けて山東省招遠事件の背後にある真相を徹底的に暴くため、この事件を取り巻くいくつかの大きな疑問が明らかにされるでしょう。
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東方閃電|全能神の発表「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」抜粋3
人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救済が必要だ。神の救済の対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救済と、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。そうして、神は二つの問題を一度で解決する。神は肉において働き、肉において語り、すべての働きを肉において行う。人間とよりよく交わり、よりよく征服するためである。この神の最後の受肉において、世の終わりの神の働きは肉において完了する。神は受肉したままですべての人間を種類によって分け、すべての経営(救い)の働きを終え、また、肉における働きをもみな終える。地上での働きがすべて終わると、神は完全な勝利者となる。受肉して働いた神は完全に人間を征服し、人間をすべて自分のものとしている。これは、神による救済の計画がすべて終わるということではないか。神が肉における働きを終えるとき、サタンを完全に打ち破り、勝利するので、サタンには、もはや人間を堕落させる機会がない。神が最初に受肉したときの働きは、人間の罪の贖いと赦しであった。次の働きでは、人間を征服し、完全に自分のものとし、サタンがもはや働けないようになって完全に敗れ、神が完全な勝利者となる。これが肉の働きであり、神自身が行う働きなのだ。神の三段階の働きの最初のものは、霊が直接行ったもので、肉によるものではなかった。しかしながら、神の三段階の働きの最後のものは受肉した神が行うもので、霊が直接行うものではない。中間段階の贖いの働きもまた、神が受肉して行った。全経営(救い)の計画を通して、最も重要な働きは人間をサタンの影響から救う働きである。重要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への崇敬の念を回復し、正常な生き方ができるようにする、つまり、神の被造物として正常な生き方ができるようにするのだ。この働きは最も重要なもので、経営(救い)の働きの核心である。救済の三段階の働きのうち、最初の段階の律法の働きは、救済の働きの核心から遠いものだった。ただ救済の働きをわずかに現したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは、霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったからであり、律法の時代の働きは、人間の性質の変更はほとんど伴っておらず、どのようにして人間をサタンの領域から救うかという働きとは、さらに関わりがなかったからだ。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関わらない段階の働きを終えた。この段階の働きは、経営(救い)の核心にほとんど関係がなく、人間救済という公式の働きとはあまり関係がなかった。だから、神が自ら受肉して働く必要がなかった。霊の行った働きは隠された、測り難いものであり、人間には恐ろしくて近寄りがたいものであった。霊は直接救済の働きをするには適していないし、直接人間にいのちを与えるにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることで、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きをするということである。これには、神が受肉して霊の代わりに働くことが必要であり、人間のために神が働くのに、これ以上ふさわしい方法はない。こうした三段階の働きの中で、二つの段階は、肉体によって行われたが、その二つの段階は経営(救いの)計画の中の肝要な部分である。二回の受肉はそれぞれ補い合うもので、補完的である。神が最初に受肉した段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、これは、神の二回の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は全経営(救い)の計画の中でまことに重要なものであるため、神が受肉してこの二つの段階を実行する。こう言ってもいいだろう──神の二回の受肉の働きがなければ、経営(救い)の計画全体は停止し、人類救済の働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、また、恣意的に行われたことでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神の働きの背後にある真実である。とりわけ、神自らが受肉して人間の間で働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そこで、神の知恵と神の存在すべてがあらゆる行為、考え、働きの構想に反映されている。これは神のより確固として体系的なありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間には想像しにくく、信じ難いし、そのうえ、知ることも困難だ。人間の行う働きは一般的な原則によるもので、それは人間には極めて満足のいくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは規模が壮大であるが、その陰には人間には想像もできないような多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階までもが原則に則っているだけではなく、人間の言語では表現できないようなことが数多く含まれている。そして、そうしたものは、人間には見えないものなのだ。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働く時、神の目的を伴っている。神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変える時)は、それ以上に目的があってのことである。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなくて、どうして進んで卑しくみなされ迫害される人になるのか。
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