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~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

エトランゼ

2007年05月28日 | sub-culture

外を歩いていると、どうしようもなく絶望的な事柄に気がついてしまう事がついついある。
別にコントロールして自己防衛しきれない事ではないのだけれど、だが現実にそれが目の前に現れたとき、私としては抗いようを知らない。

人は価値を付けてゆく生き物である」と誰かが言っていたが、これも偏向し過ぎるとただの害悪になるとも言っている。勿論、私もそれに言を同じくする。
だがそれが「価値付け」云々でなく、「随意」、若しくは「不随意」という事柄に置き換える事が出来ると、そこには人間社会の相克が見えてくるような気がする。

また仮に、この「随意」と「不随意」を、「思考」と「反応」とに変えてみる。するとかつて、ロシアの賢者が書いていた事が露になる。
例えばそれは、道行く人の中に自己をおいたとき、彼らの中にそれを見出す事がある。彼らの多くが夢を見ている事が分かる

勿論、その中でも、起きている人は確実に存在する。私という最小単位では、それら起きている人に出会う確立というのは希少だが、敢えて彼を「」と呼ぼうか。
だがその「侍」も、絶望的な状況にいる「」である。またそうである限り、人々という濁流に流され続けるだろう

ちなみにこれは没個性の話ではない。それは没個性というのが、字義的なイデオロギーにしか過ぎないためであり、アイデンティティーそのものは誰もが用いる特性であるからである。

ときに人体について、それが優れた機械である事は誰もが認めうる。だがそれだけでは、パソコンのマシンスペックの話と変わらない。
だがそれが魂の領域に至ったとき、趣は違ってくる。

例えば、前に友人に誘われて人体標本の展示会に行った事があるのだが、私としては検体となった胎児の標本よりも、手の毛細血管の標本、そして異様左の顔が引きつった皮膚を剥がれた男性の立ち標本の方が衝撃的だった。
何故なら、それらには確かに、生前その人達が如何様に己の体に魂を刻んできたかがよく分かるものだったから。

だが実のところ、そこにどんなものが刻まれていようとも、その人間が夢の放浪者であったか否かかは言い切れない部分がある。というのも、その「刻み」が「思考」かそれとも「反応」のものか、誰も言い切れないからだ。

ともあれ、こうような事柄は、人が肉体という識域に存する限り続くものだと思う。それはきっと、人という存在が滅びるまで続くのであろうが、その時まで絶望は終わらないのだろうと思う。
また仮に、神人という存在が現れようとも、本質的に変わる事は無いだろう。


忌み名

2007年03月04日 | sub-culture

今はほぼ死語であるが、「忌み名」という語がある。
これは両親と本人しか知らず、これでもって他に呼ばれた場合、決して答えてはならないといったように、ちょっと怖い名前の事である。
これの本来の意義としては、その人の神聖さというのを守るための、一種の避難呪術、若しくは防衛の魔法と捉える事が出来る(参照)。

だが先にも述べた通り、この伝統は廃れ、語も死語となっている。
多くの人たちはルーターをかましていないPCといったところか。
こういう事は、歴史的に見て非常に珍しい状況なのだろうと思う。


寝ている時に見る夢

2006年01月05日 | sub-culture

寝ている時に見る夢というのは、ときに不可思議なものである。
かく云う私も、この不思議に魅入られている人でもある。
しかしながら、この興味というのは、ある面では危険なものである。
今回はそれを匂わせる夢のメッセージについて語ろう。

大学の頃である。
私は勤勉な学生ではなかったが、サブカルな関係の本に夢中になった。
これは高校の頃から心理学に対して少なからず興味を持ったという伏線もあるが、また薄気味の悪い霊を見ることが出来るという、こまった知人に相対するための理論武装という面もある。

ともあれ、最初に手にした本はコリン・ウィルソンの「オカルト」であった。ウィルソンは「アウトサイダー」で一躍時の人になった人だが、「オカルト」も当時の私にとっては驚くべき書物であり、しかもサブカルと疎まれる事柄を見事な文章で書き表わしている(勿論、翻訳者:中村保男氏の能力によるところが大であろう)ところに好感を覚えた。

オカルト・・・昨今、この言葉は陰鬱なイメージを抱く人が多いだろうが、本来の意味は「神秘」である。

そしてその中で、特に興味を覚えたのは、やはり心理学であった。因みに、ウィルソンはユングという学者に関しては、ユング小伝とも云えようか、丸々一章使うほどにそのページを割いている。また夢に関する記述も豊富にある。

ところで、心理学的にといえば大きなテーマでもあり、フロイトやユングの夢判断が広く知られたものであろうか。と書くのも、実は正確ではないかもしれないが、当時の私にとって心理学は、動物機能的な反応には興味が薄かった(それは現在でも同じである)。またフロイトよりもユングに興味を覚えた。

因みに、私のこのような偏向というのは、フロイトとユングの夢の捉え方の違いにあると思う。

例えば、フロイト流の夢判断の帰結としては、一般的に動物機能的なものが多い。それはすなわちSEXに関わるものであるが、フロイトの場合、行為の衝動のみに限定される。そしてそこから導き出されるものは、私には人を獣に貶めるもののように思えた。

逆にユングの場合、SEXを儀式的な側面として捉える場合が多い。つまり衝動の本来の目的というのは、生産的衝動であり、そこから人が向かって行く方向を考えて行けるように思えた。また更にそこからいえるのは、人はオカルト的な存在でもあり、ある種、芸術創造的な意味もある存在でもある。

ともあれ、これをきっかけにして、夢への興味が確実なものとなったことは間違いないだろう。そして興味深い事に、その時を境にして不思議な感覚の夢を見る事も多くなっていった。そしてそれにはユングの指摘する集合的無意識元型的なシンボル(archetype)も多々あった。

だがこのような夢を見たからといって、自分が本当に集合的無意識に触れたかというと疑問が残る。それはユング派の学者の指摘にもあるように、嘘の元型を見せる夢の機能である(引用元は忘れた)。というと、元型的シンボルの指摘すら危うくなるのであるが、夢を見る機能にはこのようなパラドックスもあるという事だけは押さえておく必要があるのかもしれない。

さてここでいくつか、私の見た元型的シンボルの夢のエピソードを語ろうと思う。

”夜、私は下宿の窓からを見ている。それはあまりにも美しかった。
すると、当時の学友が「イギリスの月は青い」という。
私はそれに感嘆するが、しばらくするとアナウンスのような声が聞こえてくる。
「これ以上みると精神の異常をきたす」というような内容だった。”

”夜、私は下宿の前にある道路を歩いている。
目の前に、美しい光をたたえた木が立っている。
私は余りの美しさにその木を目指して歩いてゆく。
すると複数の暴漢が現れてそれを邪魔する”

”夜、商店街を歩いている。
空には美しい月が上がっている。
その月をよく見ると、中に幾何学的な文様が見える。
私はもっとよく見ようとそちらに走って行くが、ガスマスクをした兵隊が降りてきて私を撃つ”

以上、他にもあるのだが、元型的夢のエピソードはこれまでにしておく。

因みに、これらの夢を通して見えるのは、元型的イメージの美しさにある。それはどの夢にも共通のものである。またそれを求めて行こうとすると、必ずともいって良いほど邪魔者の存在が現れるところも興味深いものである。

また、邪魔者に関してなのだが、これを時間経過として見ると、ある種の整合性が見えなくも無い。というのも、先のエピソードの最初の部分では邪魔者はアナウンスであり、これは注意・警告とも捉えれる。また次のものでは実力行使に至り、更に最後は処刑という方法をとっている。

※下2エピソードに関してはどちらを先に見たかは憶えていない。

だが思うに、そのような実力行使は、もしかしたら私の見たイメージというのが人の精神的な重要事に関わってくるとしたら、うなずけるものがある。つまり、崇高なものは守るべきなのだ。そう考えるとこのアナウンス、暴漢、兵隊は私の夢の友なのかもしれない。

散文的になったが、ともかく夢の魅力というのは、かくも不可思議でそして危険な匂いのするものである。またこのような夢を見ることが出来たのは、ある面で人である事に感謝すべきものであろうか。

ともかく、人は眠るたびに、このような精神的な側面に触れる事が多々ある。その時にどうそれを捉えるかによって、自分の精神的動向が見えて来る事は確かなようだ。


最後の竜に捧げる歌

2005年11月29日 | sub-culture

○『最後の竜に捧げる歌』全二巻(原作手塚一郎 JICC出版局/コミック版 作:外薗昌也 宝島COMICS)(※1)という作品をご存知だろうか?

これは私の世代の人間なら読んだ人もいるかもしれない。剣と魔法、そしてその背景に生きる人々と竜との関係について語り、更には私達文明人に対してもメッセージを投げかける、壮大なファンタジー作品である。

ときに私は、この作品をコミック版しかコンプリートしていなかったのだが、今になってこのテーマに関してよく思う事が多くなった。一つはである。

○思うに、私は幼い頃から竜が大変好きだった。またそれは、この作品に描かれてあるような西洋のトカゲ竜でなく、水墨画などに描かれているような胴長の神竜であった。

また竜は、幼き時の私にとっては、あらゆるイマジネーションのモチーフでもあったし、別に宗教ではないが、最強の神でもあった。事実、私の実家においてある過去の絵などのモチーフに竜は出てくるし、また発想においても「日本列島は竜の形をしている。だから竜がここに眠っている」というような、後に驚くようなシンクロニシティ(※2)もあったりする。

他にも、私の地元に恐竜博物館があったのだが、幼き頃にそこに行き浸りだったのも、ある意味では竜への飽くなき憧れからだったのかもしれない。

○因みに、竜は、神道的には幽界の住人であり、自然霊であるという。またそのために人間界に強く影響を与え得る(その逆も当然あるだろう)存在であるらいしい。

余談だが、私の地元でも水神さん」(清水富士見町:水神社)という神様が祀られているが、この神もその自然神であるのかもしれない。また興味深い事に、この神様のお祭りの時は決まって雨が降った。きっと水神さんが喜んでいるのだろう。

○ときに、竜のエピソードとして大変感慨深いエピソードがあるので、それを紹介しておく。

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・・・十九歳の夏のことだった。私は香川県高松市の摺鉢山不動院というところで、真言密教の法を学んでいた。そこには「白滝不動」と呼ばれる滝行場があり、「白滝龍王」が棲んでいると言われていた。

ある晩、深夜の滝行も終わり、白衣を着込んで参籠堂に座し、不動真言をず唱していると、突然、何かに乗り憑られる感じに打たれ、あれよあれよという間に深い世界に引きずり込まれてしまった。

ぼおっと展開する景色は、あたかも雲海の中に座っているようだった。

やがて灰色の肌にベージュの鱗をした巨龍が見えてきた。その白龍は私をじっと睨んでいる。息も止まらんばかりの驚きに、私の身はすくみ、ただじっとしているばかりであった。

しばらくすると白龍は、

「我はこの滝の龍王である。汝の来る日を待つこと久し、まさに前世以来の宿縁である。これを見るがよい。汝の今生は五回目の再誕である。これから見せるものは、汝が四回目の生涯である」

と語った。

それは、「秋葉小三郎義重」という名の武士で、南北朝相克の時代に、北畠顕家に味方して、足利尊氏討伐に力を注ぎ、歴史的大激戦であった「阿倍野の戦」(一三三八年)に大功をたてたが、総大将顕家の戦死とともに敗れて負傷し、泉佐野のあたりから犬鳴山を越えて紀州粉河寺に逃げ延びようとして、犬鳴山中に息絶えたという生涯であった・・・。

『神道の神秘~古神道の思想と行法~』(著:山陰基央/春秋社)
140項1行~141項4行


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さてこのソースを見て、私自身思うのは、この竜という生き物がどれほど人の営みに関して関心を示してきたかにある。勿論、竜も含めて、高級な神霊になればなるほど、穢れを嫌う訳であるが、それでも人に自然の恵みを与え続けているのは感謝するに仕切れないものであろう。

○だが逆に、私たちはそれに関してどれほどの関心を持っているだろうか?
ここで「最後の竜に捧げる歌Ⅱ」を要約し、引用してみる。

”魔法世界の終焉を予感した竜達は、世界の次なる担い手として、人に希望を託し、仲間達と世界樹に乗って宇宙に飛び立つ。だが全ての竜が宇宙に飛び立ったのではなかった…。

ある竜がいた。その竜は、魔法力の衰退により荒廃したある町を見た。竜は、そこで苦しみ生き長らえる民を、哀れに思った。そのため竜は、己を犠牲にして町の地下に住み、魔法力を与えた。そのお陰で、再び民達の暮らしも豊かになった。

だがしばらくして、竜は疑問を感じるようになった。それは、民達の心や行いが日に日に悪くなって行くように見えたからである。竜は、その事を大変悲しく思ったが、民達を棄てて、仲間の下に飛んで行く決心もつかなかった。その間、彼の体は、民達の節操もない魔法力の連発にどんどん衰えていった。”

(コミック「最後の竜に捧げる歌Ⅱ」より)

因みに、この竜が住まう町は、その名を「真実の町」という。なんと象徴的な名前ではないだろうか。

思うに、真実の町の地下に住まう竜は、自然そのものである。そしてそれを糧にして生活する民というのは、私達をそのまま表したものである。

だがそれも、人の心や行いが歪んで、節操も無く喰らい尽くせば、竜は穢れてしまうばかりである。これは今の私達の行いを表していよう。

○ときに、最近ではよく「自然を大切に」とか「エコライフ」という言葉を耳にする事がある。だが、これはある人が言っていたが、自然に対して余りにも傲慢な言い方ではないだろうか。

人間というのは極めて近視的な生き物である。更に、崇高なる志を持ったものでも、己の思う形にあこがれて、結局我を失う事は多々ある。またそれが落後者となって、竜を穢してゆく事もある。そしてその集合体というものが、ある意味国家や企業などというものになろう。

またこれは、私達のような一般人にとって深刻な問題である。世界規模の問題は、決して私達一般人にだけに押しつけられるものではないのだ。結局のところ、こういったものの指導層が改心する事、またはその志のあるものがリーダーシップをとるようになる事が、一番の問題解決の近道であるような気がする。

○とまあ、今回もテーマを大きく書いた訳だが、最後に自然の畏怖というものを感じるに、興味深い記事を紹介しておこう。

チベット上空に竜?』【大紀元日本8月16日】(中国語版又は英語版はこちら)

ここには見事な竜の姿が写し出されている(写真)。勿論、これはたまたま雲がそのような形に見えたとか、または画像ツールなどによる装飾かもしれない。

だがこれに興味を覚えたのは、私にとってタイミングが良かったというのもある。それに関しては、今後機会があれば書いてゆこうと思うが、ともかく、私の竜への憧れは、今となっても尽きないものである。


※1:この作品は小説、漫画とメディアミックス的展開を見せていた。
※2:私の感性に近い方の記事を見つけた→参照


「アゴにケツ」から「落後者」へ

2005年11月19日 | sub-culture

本間氏の『ボロ市』でアゴの話に触発されて、氏の愛情表現のそれとは全く趣旨自体が異なるが、書こうと思う。

○中学の頃、テーブルトーク・プレイングゲーム(以下TRPG)というものがささやかに流行っていて、私もそれをプレイする事が多々あった。因みに、このゲーム、今ではTVゲームで主流のRPGのオリジナルである。プレイヤーはゲームブックのルールに従い、ゲームマスター(云わばシナリオを創る人)の口頭で進めるストーリーに、ダイス(サイコロのこと)を用いてプレイするというものである。

そしてそのゲームをプレイするのに、自分の用いるキャラクターの能力を記入する用紙があるのだが、そこで忘れる事が出来ない事柄があった。その用紙にはキャラクターの用紙を描く事の出来る欄があるのだが、私は私の思う戦士の姿を描いて見せた。

○ときに、このキャラクターの用紙というのは、ゲームマスター含め、他のプレイヤーとのイメージの共有のために、別にルールにあるわけではないが、皆でお披露目することがある。そしてそこである出来事があった。

「アゴにケツ」

誰かがそう言ったのである。それは直ぐにも他のプレイヤー達にも伝染した。更には「しんえもんさん」なるあだ名もつけられた。

因みに、こう名指されたキャラクターとは私のものであった。それは私の画力の無さが祟ったのか、それとも元々私をからかう為に言ったのか分からない。だが当時の私には大変ショックだった。

というのも、当時の私には、男らしい戦士の顔というものが、彼らのいう「アゴにケツ」にあったのだ。勿論、今でもそのような風貌の人には、男女問わず、セクシーさを感じる。

○思うに、このような現象というものはどこにでも付きまとう。だが心無い他人に、これほどまでに自分の感性を貶められるというのは悲しいものである。勿論、その貶めには、当時の私の人格にも関わってくると思うが、しかし純粋に「アゴにケツ」を笑う者がいるとすれば、それは明らかにそのような特性の人間に対する嘲笑ではなかろうか。

それとも違う何かがあるのか?

○これを考えるに、興味深い小説を用いようと思う。芥川龍之介の「鼻」である。

この小説の要約としては次のようになる。

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ここには禅智内供(ぜんち・ないぐ)という高僧の話が描かれている。

この高僧は、「長さは五六寸あって上唇の上からアゴ()の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い(腸詰)のような」鼻をしていた。

また内供は職業柄、人々の関心を得る事が多かった。そのために、人々はその特徴的な鼻を、善意悪意にもなく責める事があった。内供はそのような仕打ち自体に心をやんだ。

そして内供は、鼻を短くする事でそのような仕打ちが収まる事を望んだ。だが実際、鼻が短くなってみても酷い仕打ちは収まらなかった。内供はこれを短くなった鼻のせいだと思った。

結局、彼の鼻は元の長さを戻すが、内供はこれでもはや鼻を笑うものは無いと思うわけである。

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○ときにこの話、ただの人の顔に関するコンプレックスを語ったものではない。確信としては、何故俗人は内供を馬鹿にしたのかにある。その事を芥川は次のように指摘する。

”――人間の心には互に(矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。

所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に(陥れて見たいような気にさえなる。

そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。”

更には、

”――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない”

また内供が、「傷つけられる自尊心のために苦しんだ」とも書いている。

○これらの事を見るに、つまりこの僧は、鼻が他人よりも際立って醜いと感じたものでは無い。寧ろ、それによって馬鹿にされる事が「自尊心を傷つけられる」ことであり、それを恐れていたのだ。言うなれば、逆に馬鹿にされる事が全く無ければ、内供は悩む事は無かったとも云える。

だが現実に鼻が元に戻った後でも、内供は馬鹿にされ続けたと思える。それも芥川は暗に示している。

”「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」”

内供にはそれに答える明が無かったと書いているが、内供が醜かったのは鼻では無かったのだ。というよりも、内供は落後者となってしてしまったという事だ。

○内供は高僧である。そのため俗世から離れた崇高な存在であった事には違いないだろう。それと同時に高慢であったかもしれない。だから人々は、そんな内供を許さなかった。そのため彼の特徴的な鼻を責める事によって内供を俗に貶めたのだ。

また内供が、

”「――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。」”

と締めくくられている部分などは、真に落後者に成り下がった様をよく表していると思える。

○さてまとめとして、「アゴにケツ」から「落後者」に至った訳であるが、俗人というものは、やけに先頭に立とうとするものに冷淡な性質を持っている。勿論、そうでなければ、ある種の社会秩序が守られないという面も持っている。だが、問題なのはそれが落後者を生み出す仕組みにつながっていく場合である。

思うに、俗人のこのような面というのは、よく怪談などにある「怨念が自分とは全く関係の無い人を呪い殺す」というようなものにも近いような気がする。そう、怪談は別にオカルトではないのだ。

しかしながら、これがある種の試練なのだろうとも思う。内供も、馬鹿にされる鼻から愛される鼻になっていれば、彼は落後者にはならなかったように思える。それと同じく、私のそのキャラというのも、嘲笑される「アゴ」でなく愛される「アゴ」であれば、良かったのだ。


「別次元へのシフト」。結局、人が目指すべきはここなのだろう。


戯劇

2005年11月15日 | sub-culture

”世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。”

『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』 第一話~公安9課~より

※『攻殻機動隊』・・・原作:士郎正宗
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『バカの壁』(養老孟司著)が話題になってから、しばらく経った。この本は読んだ人、読まなかった人にとっても、何ともインパクトを感じたタイトルではなかっただろうか?

因みに、私の読んだ感想としては、大体の筋において、少なくとも、あらゆる読者のレベルを超えた著書であると思った。勿論、読む人を想定し、分かりやすく書いてある事は間違いないが、はっきり言って、誰も理解し得ないのではないだろうか。

というのも、それは人が鏡無しには自分の顔を見れないからである。そしてその鏡とは、ある意味、自分を取り巻く、他人を含めたあらゆる事態であり、又は”世の中”である。

○他人を含めたあらゆる事態とは、人が認識者である限り、人によって演じられるものであろう。そしてその事態とは、人の相克によって演じられる戯劇とも捉えられる。

そうなると、自己以外の他人等は、ある意味、自己と同じくバカの壁を築いており、そのために鏡としての輝きも曇っていると考える事も出来る。言うなれば、バカの壁を築いている人がバカの壁を読んでいるわけである。

勿論、養老孟司はそのような人々に対する啓蒙として、この本を捧げたつもりかもしれない。いや寧ろ、そういう事態にバカの壁という名前をつけ、自分のバカの壁を皆に見せる事によって、多くの人にその事態を伝えたと言った方が適当であろう。

○では人はバカの壁を超えられるか、という本質的な問題が残る。これは思うに、人がそれぞれ世の中という戯劇の中の役者である限り”No”である。因みに、この役柄は政治家、医者、弁護士、芸術家からニート、果ては浮浪者まで多岐に渡る。

またこれらの役者は、各々の役柄に従って己を演じようとする。更に、「各々人が主張する事は全て正しい」(知人の談)のである。だとすれば、やはり人がバカの壁を超える事は不可能であろう。

○しかしながら、逆にバカの壁を超える方法があるとしたらどうであろうか?

人は人である限りバカの壁を越える事が出来ない。だが人でなければバカの壁を超える事が出来る。

このロジックは、ある種のカタルシスを含んでいるとも云えよう。また太古より、涅槃を求めて精進した求道者は、全てこの領域を目指していたに違いない。

ときに、冒頭の作品の主人公は、結果的に冒頭文の考え方を捨て、上部構造へ自分をシフトする事で、己のカタルシスを得る事になる。言い換えれば、広い世界と自分を同一視する事で、世界とは距離をおいた存在として、涅槃の領域に自分を高め、新たな感覚を得たといった方が良いか。

○最後に、現代は自分を機械のように、世界の一部と限定したり、また逆に世界を自分のものにせしめようとして事態を悪化させ、それを見てあきらめようとしている。

これはまた「あきらめが人を殺す」(~HELLSING~より)のでは無く、人があきらめを生みだしているとも云える。そしてこれは不思議なくらい、多くの人に伝染している。だがら自ずと、世界は狭くなってゆく。

このような事態に逸早く気がつき、行動できる人はどれほどいるだろうか。そしてもし、これが出来るようになれば、人はもっと寄りよく自分を、または他人を活かす事になるかもしれない。


イワンは本当に大馬鹿だ

2005年11月11日 | sub-culture

「シーザーを理解するのにシーザーになる必要は無い」

この言葉を知ったのは、押井守監督のアニメ映画『イノセンス』からである。そしてこの台詞の後には、「誰も聖人の水準で生きることは出来ない」というように続く。

そうだとすると、シーザーは誰にも理解されないということになる。勿論、普通の隣人同士も、そうする事は不可能であろう。

ではシーザーを産んだ母親はどうであろうか?

これも答えは"No"だ。それは他の聖人君子の例から観ても、聖人は凡人より産まれるが、その異能ぶりから皆、孤独に過ごすことになる。またその孤独が、彼らにとっては最上の友であり、彼らの非凡な能力を培うのに役に立つ

しかしながら、興味深い事に、凡人は、聖人を理解する能力は皆無だが、聖人を堕落させることに関しては卓越して優れている。これは最も驚くべき凡人の能力である。またその堕落者に、聖人、またはその落後者が交わった時、人間社会には大きな災いが訪れる事になる。

その最も良い例として、磔されるイエスが挙げられよう。イエスもやはり、凡人より産まれ出でし聖人である。だが彼は、責めるべきものを持たないのに磔にされた。
何故だろう?

それは彼の事を誰も理解できなかったからだ。また彼に従ったものも、結局彼を理解していたわけではない。その証拠として、誰も彼を救えなかったではないか

そしてこのイエスの磔というのは、すなわち、理解できないものに対する、最も強引で野蛮な堕落の方法である。また換言して、理解出来なければ貶めればよい、という凡人の心理が見事に表されている事例ともいえる。

更に、後のキリスト教に見られる、聖母マリアは、ある意味、聖人を完璧に堕落させるのに役立ったのかもしれない。それはイエスの母マリアが凡人だったからである。となると、シーザーの母と同様、イエスを理解できたとは思えず、また"聖母"の事例は、凡人(俗人)による、ある意味、堕落を決定的なものにしようとするものであろう。

最後に、今世の中は、自分の将来について躍起になる事こそが美徳とされているが、それよりも世界の未来について最も躍起になる事こそが真実の美徳では無いかと思う。そう考えると、このような聖人を堕落させようとし、落後者が跋扈する世の中というのは、非常に不健康である。

我々の世界の上には女神の世界がある。それはこれから創ろうと思う、私の作品のテーマの一部だが、それだからこそ、私には去勢された世界には興味が無い。


ダブルの人生

2005年09月09日 | sub-culture

昨日のブログに引き続き、またオカルト系話。だって昨日のヒットラーの書き込みに、タイミングよくTVで、細木数子が「神懸り」だって言うのだもの。

ときに、この「神懸り」、実は単身では危険な面もある。そのために、伝統的な神道では「審神」という、「神懸り」した人の神が本物かどうか、というのを確かめる役割がある。そして今回は、その「審神」について書いてあるページを紹介したい

こちら

先に「人か家畜か」と書いたが、こういう事ではないかとも思う。また自分にもそういう節があるところが、何となく恐ろしいところである。勿論、サブカルチャーな切り口ではあるが。

また下世話な話だが、ふと細木数子という人の神懸りも、こういった面で非常に興味がわく話である。

因みに、「ダブルの人生」とタイトルを書いたのは、「誰も二人の主人に仕える事は出来ない」という話から触発された。


啓示(パズルのピース)

2005年07月27日 | sub-culture
今回はちょっと自分の内面的な話。

先日、地震の後、本屋に行って偶然にも民俗学の面白い本に出会った。この本の詳細については、今後エッセイにも書こうと思うが、その出会いが地震の後だっただけにさらに印象深かった。

何というか、あの地震は、私にとってその後の知的衝撃を予感させるものだったのかもしれない。と書くと、トンデモなく怪しまれるだろうが、つまりはさまざまな事柄が一つにまとまってゆくような事である。

先日、TV番組のCMで「アハ」体験なるものの紹介がされていたが、まさにそれである。
因みに、「アハ」体験とは、心理学者の巨人ユングの唱えた説でもあるが、これはある意味、無意識に蓄積された事柄が、なんともない出来事、例えば道を歩いていたらどこかの家庭の晩御飯のシチューの匂いがしてきて、それでより多くのことに気が付いた、というようなものである。

つまりこのような体験が、私のパズルのピースをはめたような気がするのである。知的興奮というのは、このような形でやってくる場合もある、そんな出来事であった。またこういうのは、なかなか共感出来ないだろうな、と寂しくも思う。

黒の法衣

2004年11月20日 | sub-culture
果たして、人は人を裁くことが出来るだろうか? そのような問いは、裁判官の法衣の色が教えてくれるかもしれない。  

因みに、裁判官の法衣の色は「黒」である。「黒」は、如何ようにその問いに答えるか?

法衣の色を黒としたのは、黒というものが「何者にも染まらない」という事に由来する。これは言い換えれば、それ自体が裁判官の意思表示であるとも云える。 

だが人が人を裁く際、果たして人であること排除し得るのだろうか。

○人が人を裁く根拠については、これまでも多く議論されてきた。ここでその議論について多くを語ることは出来ないが、大まかに云えば、現実の社会システムに拠るものか、それとも超自然的に拠るものか、二つに大別出来る。 

ここで私の立場を明らかにしておくが、私は前者を採る。理由としては、法というものが、常に力のある為政者のものであるということからである。言い換えれば、法とは、力ある者の押し付けにも似たようなもので、殊更それを運用する官僚システムなどはその顕れのように思える。 

勿論、直接私たちに秩序をもたらす法益を否定する訳ではないが、だが法が現実的に私達に根付くものでなく、私達の中に培われた倫理観などを利用、又はそれ以外のものを押し付けようとしていると考えると、それはやはりより強力な国家などの組織のものと思えなくもない。 

○だが逆に、それとは異なった性質を感じさせるのが裁判官の黒の法衣である。 一般的に法衣というものは、宗教的な権威者の衣装であるといえるだろう。また古代の政治が、宗教的権威者と同一であったことも踏まえると、その意義としては現在にも通用するものがあるように思える。 

しかしながら、宗教的な権威、殊更「神の代理人」、「神の影」としての面をみると、少し意味合いが違ってくる。 因みに、現在は三権分立や政教分離が徹底されており、太古のような影響力は排除されているように思える。

だが逆に、依然として裁判官が法衣を纏うというのは、ある意味、そのような影響から抜けきれない部分があるのではないかとも思う。 

結局のところ、裁判官の黒の法衣は宗教的権威の表れである。そして色を黒としたのは、神(光)の力を反映した色なのではなかろうか?すなはち、黒の法衣を纏う裁判官とは、神の影であるという事である。

○このように見ると、人が人を裁くことに関する根拠というものが、如何に難しいことが見えてくるであろう。現在日本では、主に現実的な根拠を基にして、裁判システムを運営しているように思えるが、結局のところ、どちらともいえないのである。 

勿論、裁判そのものに根拠を求めること自体、もしかしたら愚問であるかもしれないが、それでも、我が国の裁判官が黒の法衣を身に纏うのは、別の意味で、その難問を未だに抱えているようにも見えないだろうか?

魔術

2004年05月07日 | sub-culture
○魔術・魔法と聞いてそのイメージの暗さに訝る人は多いと思う。またその反対に、悪魔主義や反体制的な感覚にニヤリとする人間も多いのではないかと思う。

しかしながら、歴史的に構築されていったこの暗きイメージに対し、実際はそうではない面もあったりする。またこれは、現世利益を切望する者にとっては、面を食らってしまうような表現かもしれない。 

因みに、私は魔術を「その人の本質を、人間としての質的方向を問うような学問」と定義する。それは多くのオカルトの文献が物語っているように思える。

次に幾つかエピソードを挙げてみる。 

○まずはある魔法の体系の実践者の話である。※1

”当時の彼は金銭のやり取りにこまっていて、そのために丁度習いたての魔法を使うことにした。しかし、彼が思うような魔法の効果は現れず、逆に泥棒が彼の家に入り、状況はさらに悪化したように思えた。” 

”ところが、彼の用いた魔法力は驚くべきところで発揮され、彼は魔法による恩恵を得る事になる。それは彼の下宿が保険をかけていたため、しかも盗まれたものの価値以上の金銭を受け取ることが出来たという。” 

”そして彼は、金銭を受領したと同時に魔法力を扱うことの危うさを知った。また、「もしその泥棒が普段は善良な市民だったとしたら?これが魔法力によって誘引されただけの人としたら?」と思った。”


※1:実践カバラ―自己探求の旅」(大沼忠弘著/人文書院)の一部を要約。

○他にも魔法力の危うさを語る上で良いエピソードがある。※2

”ある民族が敵国の侵略を恐れていた。侵略されれば、どのような悲劇的な結果がもたらされるか、明白であった。” 

”そして、いよいよ侵略が現実になろうとする時、彼らは民族の長老たちにお伺いを立てた。長老たちは自らの民の願いを聞き入れ、一晩かけて神に祈りを捧げた。すると侵略の矛先は、ある他の国へ向けられた。


ときに、ここで思索をめぐらさなければならないことがある。それは、結果的に侵略の矛先がどこに向けられたかである。結局のところ、その民族は生き残る事が出来たが、じゃあ実際侵略された人たちはどうなったのかと・・・。 

※2:出典は忘れた。
 
○まとめとして、魔法というものはこれまで様々な定義づけがなされてきたが、 最後にW.E.バトラー「魔法修行」大沼忠弘訳/平河出版社の言葉を引用したい。 

もしその探求の結果が奉仕に用いられるとすれば、真実の探求ということこそ、価値のある動機である。「私は奉仕するために知りたいのです」。これが「密儀」参入に許される唯一の動機なのである。”(17項3行~同項6行) 

このバトラーという人物は、西洋の秘教、「カバラ」の伝統を背景にする人物であるが、私たちのような凡人にも、「なるほど」と感じさせられるところがないだろうか。 

やがて明らかになるであろうが、われわれは今、物事の道徳的な局面にふれているのである。だから次のことでぜひ君に強調しておきたい。それは、「密儀」における道徳的規律の励行は最も厳格に行われるということである。この訓練によって得た力は、善くも悪しくも使う事ができるからである。(同項6行~9行) 

この文章は、また次なる課題についても示唆しているように思える。それは、道徳的な局面に触れるという事は、同時に魔法力どう定義し、またどれほどの範囲に広がるかを考察しなければならないという事である。 

これらの事から魔法というものが、「その人の本質を、人間としての質的方向を問うような学問」であるように思えないだろうか?