本間氏の『ボロ市』でアゴの話に触発されて、氏の愛情表現のそれとは全く趣旨自体が異なるが、書こうと思う。
○中学の頃、テーブルトーク・プレイングゲーム(以下TRPG)というものがささやかに流行っていて、私もそれをプレイする事が多々あった。因みに、このゲーム、今ではTVゲームで主流のRPGのオリジナルである。プレイヤーはゲームブックのルールに従い、ゲームマスター(云わばシナリオを創る人)の口頭で進めるストーリーに、ダイス(サイコロのこと)を用いてプレイするというものである。
そしてそのゲームをプレイするのに、自分の用いるキャラクターの能力を記入する用紙があるのだが、そこで忘れる事が出来ない事柄があった。その用紙にはキャラクターの用紙を描く事の出来る欄があるのだが、私は私の思う戦士の姿を描いて見せた。
○ときに、このキャラクターの用紙というのは、ゲームマスター含め、他のプレイヤーとのイメージの共有のために、別にルールにあるわけではないが、皆でお披露目することがある。そしてそこである出来事があった。
「アゴにケツ」
誰かがそう言ったのである。それは直ぐにも他のプレイヤー達にも伝染した。更には「しんえもんさん」なるあだ名もつけられた。
因みに、こう名指されたキャラクターとは私のものであった。それは私の画力の無さが祟ったのか、それとも元々私をからかう為に言ったのか分からない。だが当時の私には大変ショックだった。
というのも、当時の私には、男らしい戦士の顔というものが、彼らのいう「アゴにケツ」にあったのだ。勿論、今でもそのような風貌の人には、男女問わず、セクシーさを感じる。
○思うに、このような現象というものはどこにでも付きまとう。だが心無い他人に、これほどまでに自分の感性を貶められるというのは悲しいものである。勿論、その貶めには、当時の私の人格にも関わってくると思うが、しかし純粋に「アゴにケツ」を笑う者がいるとすれば、それは明らかにそのような特性の人間に対する嘲笑ではなかろうか。
それとも違う何かがあるのか?
○これを考えるに、興味深い小説を用いようと思う。芥川龍之介の「鼻」である。
この小説の要約としては次のようになる。
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ここには禅智内供(ぜんち・ないぐ)という高僧の話が描かれている。
この高僧は、「長さは五六寸あって上唇の上からアゴ()の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い(腸詰)のような」鼻をしていた。
また内供は職業柄、人々の関心を得る事が多かった。そのために、人々はその特徴的な鼻を、善意悪意にもなく責める事があった。内供はそのような仕打ち自体に心をやんだ。
そして内供は、鼻を短くする事でそのような仕打ちが収まる事を望んだ。だが実際、鼻が短くなってみても酷い仕打ちは収まらなかった。内供はこれを短くなった鼻のせいだと思った。
結局、彼の鼻は元の長さを戻すが、内供はこれでもはや鼻を笑うものは無いと思うわけである。
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○ときにこの話、ただの人の顔に関するコンプレックスを語ったものではない。確信としては、何故俗人は内供を馬鹿にしたのかにある。その事を芥川は次のように指摘する。
”――人間の心には互に(矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。
所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に(陥れて見たいような気にさえなる。
そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。”
更には、
”――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない”
また内供が、「傷つけられる自尊心のために苦しんだ」とも書いている。
○これらの事を見るに、つまりこの僧は、鼻が他人よりも際立って醜いと感じたものでは無い。寧ろ、それによって馬鹿にされる事が「自尊心を傷つけられる」ことであり、それを恐れていたのだ。言うなれば、逆に馬鹿にされる事が全く無ければ、内供は悩む事は無かったとも云える。
だが現実に鼻が元に戻った後でも、内供は馬鹿にされ続けたと思える。それも芥川は暗に示している。
”「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」”
内供にはそれに答える明が無かったと書いているが、内供が醜かったのは鼻では無かったのだ。というよりも、内供は落後者となってしてしまったという事だ。
○内供は高僧である。そのため俗世から離れた崇高な存在であった事には違いないだろう。それと同時に高慢であったかもしれない。だから人々は、そんな内供を許さなかった。そのため彼の特徴的な鼻を責める事によって内供を俗に貶めたのだ。
また内供が、
”「――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。」”
と締めくくられている部分などは、真に落後者に成り下がった様をよく表していると思える。
○さてまとめとして、「アゴにケツ」から「落後者」に至った訳であるが、俗人というものは、やけに先頭に立とうとするものに冷淡な性質を持っている。勿論、そうでなければ、ある種の社会秩序が守られないという面も持っている。だが、問題なのはそれが落後者を生み出す仕組みにつながっていく場合である。
思うに、俗人のこのような面というのは、よく怪談などにある「怨念が自分とは全く関係の無い人を呪い殺す」というようなものにも近いような気がする。そう、怪談は別にオカルトではないのだ。
しかしながら、これがある種の試練なのだろうとも思う。内供も、馬鹿にされる鼻から愛される鼻になっていれば、彼は落後者にはならなかったように思える。それと同じく、私のそのキャラというのも、嘲笑される「アゴ」でなく愛される「アゴ」であれば、良かったのだ。
「別次元へのシフト」。結局、人が目指すべきはここなのだろう。