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~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

現人神

2008年04月15日 | sub-culture
合氣道の稽古で最も興味深いのは女、子供との稽古である。
それは”柔能く剛を制す”といった意味でだが、私のようなガタイの良い男子が投げ飛ばされる事は、自分自身、滑稽で愉快である。

しかしながら、このような出来事が起こりえるというのに、日常、多くの人々はよく他人を縛り、自分を縛るものである。
例えば、私は「お前はカタイ」とか言われる事があるが、最近、私は「いや、全然柔らかい。硬いはずが無い」と反論する。
勿論、それで言い合いになる事もあるが、それ以上の真実は私自身には起こりえないので、そう言うしかないのである(※1)。

思うに、世間というのは概して、人を操るに躍起になっているようである。
それは所謂、支配・被支配の意識に基づく”支配の構造”であると思うのだが、そうやって人の神聖さを貶めるというのは、全く以って馬鹿馬鹿しい限りだ。

最近、私はつくづく、天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降られた意義、そして尊よりもたらされた十種神宝について思いを馳せるのである(※2)。

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※1:「幼女が持ち上がらない件について」でも語ったが、身長130cm、体重30kgにも満たない少女が自分で「持ち上がらない体」と思うだけで、大の大人が彼女を持ち上げられないのである。
勿論、その状態にいる少女は、どっからどう見ても持ち上げられそうな可愛らしい少女でしかない。
しかし、この体験を通して、彼女自身についてはさながら神の如き力が働いていた事が実感出来たのである。
是非とも、”オンリー・パワー”な連中に、この少女を持ち上げられるか試してもらいたい。

※2:ときに、天照大御神岩戸隠れについて、この岩戸を誰が動かしたのかといった事はあまり話題にあがった事はない。
それは、天照大御神が岩戸にお隠れになる際、近習数名を従えて、これを塞いだといった説明も出来ようが、私としてはご本人がお一人でそれをなさったというように思える。
勿論、力自慢の手力男神(タヂカラオカミ)で無ければ空けられない程の岩戸であるのに、女神がそれを一人で動かせるものか、と思うかもしれないが、「持ち上がらない少女」の件以来、そう思うようになった。

並列化がもたらすもの

2008年04月10日 | sub-culture

並列化(※1)に関して、それはあたかも、国や人種を超えた共通の価値観を型作るように外から見えるのだが、これは人類史上、さながら霊学のような神話的出来事のような大胆さで以って、現実に現れている。
勿論、その弊害としては、多くの人間が平均的な情報を取得し得るところ、またそれを処理するハードウェアの性能差に幾分か(ときには全く時代遅れな)隔たりがあるところであるが、だが全人類の知恵や知識の底上げが起こっていると考えれば肯定的に解釈する事は大いに出来る。
またそこから導き出されるものは一種、”悔い改める”現象に似ているように思えるが、それに対して、その反応をいやしく思う人間はそれ以上に卑しいとも思える(※2)。

しかしながら、この並列化に当たって留意しなければならない事は、ある事柄に関する真意がどこにあるかについてであろうか。
ネット社会における、コピー&ペースト文書の如き、オリジナリティを欠如し、更にはそれについての理解も全く無いとすれば、それは只の反応でしかなく、さながら軽作業の反復継続に勤しむロボットである。
だがそれも、ある種の適応反応として考えれば、さながら肉体存在の置かれる文化状況の完成へと向かっているとも思えてならない。
勿論、それは太古よりなされている訳だが、現代は加速度的に影響が広まっている。

ときに、また映画「攻格機動隊」を観直したのだが、草薙素子が新感覚を獲得した際に降臨する天使の像というのは、やはり印象的なものだと思える。
しかし、それが現実の人類にもたらされるためには、現在あるような怨念の想意といったものを、全力を以って排除する事も必要になるのかもしれない。

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※1:これに当たっては、昔なら口伝に著される伝承(吟遊詩人のものなど)、近代に至っては書籍・文書、現代においては総合してマスメディア、そしてマスメディアの衰退に到っては、文書・映像機能を備えたネットがその代価機能、若しくは補償を成しているように思える。

・並列化の例
ペリリュー島のサクラと神社~
米国公刊戦史の讃えるもの

この事柄に対して、少なくとも2種のハードウェアは好意的に解釈している。
あと共産主義に関しても、殆どが独裁・暴君的性質を持つに到っているが、例えば、キューバと中国を比べてみたとき、資質的差異というのが顕著に現れる。

※2:我国ではこれを右傾化と称する輩もいるが、経験上、そういう人間の多くはアナーキーである。またその者たちは、怨念で以ってしか自己の確立を出来ないところに悲哀さが満ちている。加えて、最近見られるようなニヒリズム的な、相手を貶めるような競争方法というのも、この世代独特の反応でもある。


クベさん

2008年03月05日 | sub-culture

歴史というものの再評価が行われた場合、それまで貶められてきた人が返り咲く事というのは往々にしてある。
まあそれは、日本や中東、ヨーロッパの国々の持つ長い歴史においては稀なものかもしれないが、しかしながら、それによって多少なりとも価値観のディテールが変る事があるとしたら、それには興味深いものがある。


さて最近、「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」の16巻を読んだのだが、実に感激した事がある。
それはこの作品自体がオリジナルのリメイクという形をとった再評価をしているためであるが、今回のマ・クベ氏のありようというのは本当に納得の行くものであった。


※クベさんがこれだけフィーチャーされているのは珍しい

最初のガンダムを知っている人にとって、マ・クベ氏というのは、イメージ的に骨董好きの陰険な野心家、核を使った地球の汚染も辞さない大悪人としか写っていなかったように思える。
だが、大人になってから思うのだが、そんな人物で且つ大佐程度のクラスの人間が、どうして地球連邦のお偉方と比肩しえ、果ては重要拠点の総司令として地位を得たのか疑問だった。

しかしながら、今回のリメイクにおいて、そういった疑問符は全て払拭された。
まずマ・クベ氏の階級は中将とされ、そしてその階級に見合った文化的思想の持ち主となり、また気高く、一人の人間としてキャラのたった描かれ方をされている(※1)。

最後に、思ったのだが、富野オリジナルとこのリメイク版を見比べたとき、ある種の対象関係を見る事が出来るのではないかと思った。
それは、富野版というのが善悪二元論を求めるスポンサーの示威が含まれていて、その逆、リメイク版の方は純粋に(空想)戦記としての描かれ方をされているという事である。
仮にそれを単純に言い表すなら、


・富野版(連邦側の歴史

・リメイク版(どちらかと言えば中立的な歴史家の史観)(※2)

といったところか。
まあ、やっぱりガンダムは面白いのである。

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※1:ちなみに、リメイク版でのマ・クベ氏の人柄を知りうる台詞は以下のようなものがある。

○近習から連邦軍旗艦への戦術核攻撃が失敗した後、全ての連邦重要拠点へ手持ちの戦略核を打ち込むという、本国からの計画を示唆されたとき

”愚かだなウラガン、君も・・・私に言わせたいか?”

”ジオニズムの理想なぞ、私にとって白磁の名品一個にも、値しないのだよ

ここから、文化通としての人柄が窺え、智将としての片鱗が見える。

○本体を撤退せんがため、に自ら専用のモビルスーツ”ギャン”を繰り、最初の台詞

”ウラガン・・・これは使えるぞ。ジオンのMSは、やはり連邦を圧倒している。
この差がある限りジオン公国は不滅だ”

”しかし、(ギャンの)量産はさせるな。”

”マ・クベの名はギャンと共に
記憶されるべきだ!!”

大局の責任を全て負いつつ、撤退戦の殿に自ら望みうる処からも、大将軍としての器を感じる事が出来る。

○撤退戦において、ギャン一機となったとき

”ふふん、容られなかったか・・・
ジオンきっての文明の理解者たる私も結局、この世界には・・・”

”だが、まだ終わらぬ。
ジオン国民も、まだまだ戦うだろう。
宇宙は広いからな。確かに、この地上よりは・・・”

マ・クベ、撤退する自軍のHLVを見上げ、

”ウラガン、あの壷は間違いなくキシリア様に届けてくれよ。
あれは、いい、ものだ”


※2:ザクやジムなどの兵器としての脅威がリメイク版は秀逸に描かれている。
あと富野版では、レビル将軍が温和な智将として描かれていたのに対し、リメイク版では威風堂々とした生粋の軍人として描かれ、恐ろしさを感じる
また「負け将軍」と揶揄されるのも、リアルな描かれ方であると思う。


何と無くスピリチュアル

2008年02月29日 | sub-culture

昨日、たまたま「金八先生」を見る事があった。
本当に久々に見たが、金八さんが良い感じに草臥れていて、逆に若い頃イケイケ過ぎたので好感を持った。
まあ流石に、女子生徒との下りは、如何にも下種な脚本家の書きそうな事で気に食わなかったが、それはさておこう。

しかし驚いたのは、金八さんが何と無くスピリチュアルな話題を出していたところか。
まあキャラが牧歌的なので許せるが、現代の風潮にある「何と無くスピリチュアル」は疑いをさしはさむ余地がある。
何というか、芯が無いように思えるからだ。

芯が無いという事は、ガタガタなのだ。ガタガタだから間が空く。
そしてその間には「魔」が入り込む余地がある。
だから昔の人は「剣」を鍛えたのだと、突拍子も無い事を思いつく。

 

ところで、気はどのように出すか最近、何と無く分かってきた気がする。
答えとしては、常に気が出ているのであって、それを最も効果的に、適正に出すために修験の道(武道)があるのであるという事か。

ときに、統一合気道の創始者である藤平光一氏には戦時中、敵兵の弾に一発も当たる事無く、80名近くの部下と共に無事に生還したという話がある。
またこれは、藤平氏が混雑している街中で一人もぶつからずに歩く事が出来たといったエピソードにも近いものがある。

ちなみに今日、渋谷~新宿の雑踏の中、以上の事に関し、一種の実験めいた事を思いつき試してみたのだが、これが藤平氏の言いたかった事なのかと感心した。
ヒントは剣である。

 

日本神話における「剣」のエピソードには秀逸なものがある。
西洋ではこれを「龍」と呼ぶらしいが、イメージとしては似たようなものであろうか。
そして先の話も何の事は無い、「剣」を用いるのである。

昔、さる古武道の道場で修養していたとき、宗家に一太刀も当てる事が出来なかったのが不思議だったが、今思うと、それこそ秘伝なのだなぁとつくづく思う。
そして今私は、その秘伝について再び考える局面にあるのだ。
しかしながら、この「剣」とは本当は一体何であろうか?

日本においては「一霊四魂」の考えがあり、それは人という存在が多層構造の存在であるという事を示しているが、それはつまり、私達が普段、自身の体と感じているものは、結局のところ、多層構造の一部分でしかないのかもしれない。
そして「気」というものは、もしかしたら、その不可視、不感覚の部分であると考えるに、興味深いものがある。
そしてそれが「剣」に関わるものであるとしたら、ますます以って、興味をそそられるのである。


天上天下唯我独尊

2007年12月17日 | sub-culture

聖闘士星矢で唯一、原作者の哲学的側面を見る事が出来るキャラといえば、乙女座のゴールドセイント・シャカであろうか。
彼の云う「天上天下唯我独尊」という台詞は以後、彼のキャラクターの方向性を完全に決めてしまう程の威力を持っていたといえる(※)。

この「天上天下唯我独尊」とは、オカルト的な側面から云えば、己の霊の貴さこそ個々人が気が付くべき命題であり、また他の言葉を借りれば「汝の欲するところを為せ」という事であろう。
日本では「己貴(ナムチ)」であろうか、偉大な神をこのように称するのは興味深く、また日本の精神文明というのが、流派こそ異なれ、出雲のこのような伝統を継承してきたというのは驚きである。

ともかく、それら全てが示す事柄とは「Let it be」な訳であり、人が本来持ちうる資質、あるべき生き方を知るべきであるという、言うなれば天上から与えられた使命といえる。

ときに前回、「人は如何様にしてロボットになり得るか?」で、人は幸福についての意味感を実感すべきであると書いたが、これははっきり云って全ての人々に強いるのは不可能である。
それは個々人の資質的問題からであるのだが、こういった事を考えた場合、彼らを導く導師の存在の必要性を感じてくる。
愚かな人の類にはそれを「救世主」といった終末的宗教思想に集約するが、そのような捉え方は悪循環以外の何者でも無いと思うところがある。
また導師に関しても、冒頭作品におけるシャカの一時の失敗のように、天狗となり得る危険性も大いにあるのである。

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※・・・事実、作中において彼は最も神に近い存在になっていった。原作者としては、元々キャラクターの個性化を図る上で、単に仏教的モチーフを用いながら、自己の思想の一部代弁をさせるつもりだったのだろうが、それは自らが創作した黄金聖闘士シャカという架空のキャラクターによって裏切られたといえるかもしれない。
また見方を変えるならば、原作者の神の部分が本人に語りかけてきた例とも云えるかもしれない。

 


コンビニのPOP写真に写ってた農家の某氏が中山きんに君に似ていた事について

2007年10月13日 | sub-culture

タイトルは、前に近場のコンビ二でふと気が付いた事であった。その事をレジで店員のお嬢さんに話したところ、何故か彼女のツボを突いたらしく、始終笑っていた。

とまあ、それはさておき、筋肉である。

人間の肉体とは、一種の電磁体であると云っても過言では無いと思う。
その証拠に、人と云うのは時として、気やオーラ力と云った物理的作用に影響する。

だがそれが筋肉によるものであると考えた場合、一気に電磁体としての意味合いを喪失する。
そのときの身体というのは、ただの有機的構造物の態様であり、一力に対して一力の作用しか及ぼしえなくなる。

ちなみに、外国人は後者の方に思考が拠るようである。
だが勿論、彼らの伝統の中にも”己を神殿として神おわします”ものが在るというのに、それに気が付く事は無いのが悲しいところである(※)。

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※…昔、さる奥義者が、外国人が日本の伝統を学ぶ場合、その真剣さと成長には目覚しいものがあると仰っていた。だがある一点、例えば本当にその体型を理解できるかと云うことに関しては、それは絶対に無いとも付け加えていた。
これは別に人種的な偏見でも、また日本人である事の優越性を説いた言葉でなく、その土地にあるものがその土地のものを一番理解できるという、至極当然の事柄を語ったものに過ぎない。
またこれは、西洋のヨガに関して、W.E.バドラーが語った事にも符合する。


河豚料理とオーバー・テクノロジー

2007年09月04日 | sub-culture

私は小学校3、4年の頃、貰い物の河豚の干物を死ぬほど食べた事があった。
当然、ちゃんと処理してあるとは知っていたが、始め口にする時には抵抗があり、覚悟を決めてそれを食した。それは思いの外、美味であった。

思えば思うほど不思議で堪らない、河豚料理。
あんなものを食べようとした先達の気が知れない。
一体、何人、何百人の犠牲者が出た事か・・・。

だが最近、それについてふと思う事があった。
それは「本当に河豚料理というものはそのような犠牲の末、成立していったのだろうか?」という事である。

例えば、毒の部位を順次取り除き、それを実験的に食してゆくという方法は、ある意味誰でも思いつく事である。
だが実際には、河豚毒の中和法はそれだけに至らなく、もっと驚くべき方法で以って為される事もあるのである。
その代表例に、石川県の郷土料理に「河豚の卵巣の糠漬け」というものがある。
私は昔、NHKでこの産物のレポートをやっているのを見て驚いた事があったが、最近になってこの方法が未だに以って謎が多いらしい事を知ってまた驚いた(※1)。

ときに今現在、人類に伝えられている伝統的な産物の由来については、全て現在の歴史観による解釈が施されている。
それは云わば、自然科学的であり、唯物的な論理説明であるといえる。
しかしながら、全ての産物が系統発生的に順を追って発生したとは限らないと見れる場合もある。

例えば現在、国防において最もポピュラーな兵器のひとつに「ミサイル」がある。
これは第二次世界大戦中、ヒトラーが考案したものであるが、その発生についてはかなりオカルト的な側面が強いと指摘する人がいる(※1)。
またヒトラーについても、彼が秘教の訓練を受けた事のある人間であるという説もあるが、この秘教そのものについても、系統発生的に順次発達していったとは捉えがたい側面がある。

ちなみに、秘教に関してカバラというものがあるが、これは「天使から伝えられた」という者もいる。
つまり、秘教(すなわち原宗教)は人類のオリジナルでないという事になる。

ともあれ、現在ある驚くべき産物に関して、私達は特に発生の原因に関して、それが一体何であるかという唯物的な論理説明をするのには限界がある。
また、仮に説明がつかないものでも、過去から伝えられた遺物の恩恵を、何の抵抗も無く受け継いでゆける事は、驚異である(※2)。

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※1…勿論、ロケットのアイデアそのものはヒトラーのオリジナルではない(参照:ロケット・ミサイル技術の年表)。だがその有効性について一番知っていたのは彼であるという説もある(参照サイト:「ヒトラーの予言(完全バージョン)」-”ロケットかミサイルの出現を見通した予言”を参照。)

※2…前にコナミのPS2メタルギアソリッド2をやったとき、テクノロジーや遺伝子に関する情報の受け手に対する盲点を指摘している箇所があって驚いた事がある。
メタルギアシリーズは、特に最近、陰謀説に基くストーリー展開を成しているが、これはもはやファンタジーを超えた論題になり得ると思った。


エロスの本性

2007年09月02日 | sub-culture

性とは、非常に深く、多角的に捉える事の出来る最大のテーマである。

渋澤龍彦エロスの解剖』 (河出文庫)には、大変に知的好奇心をくすぐられた。
特にその中に、ゾウリムシの交配について(※1)の記述があったが、これは単性生殖の生物のセックスというテーマにおいて、それが遺伝子交配以上の意味合いがあるという生物学的な物的抗弁のようにも思えた。

またジョルジュ・バタイユは、ジル・ド・レ論』(二見書房)において、「戦争」を中毒性の強い遊びであると定義し、ジル・ド・レの凶行はその代謝現象であると見ている。
またここで重要なのは、侯爵が少年の腹の上に陰部を擦り付けていた事なのだが、ホモセクシャルの問題はさておき、交配の際のその行為というものは生殖以外の何かに代謝されうる可能性を示唆している一例であるとも云えよう。

他にも、男性誌のグラビアに見られるような乳房の豊かな女性への需要云々に関しての論評があったが、現代の男性がこれに焦がれる理由は、ただ単純に母体回帰の願望であるとは言い難い。
ちなみに、これについての私見を述べれば、乳房というものが乳幼児にとってのはじめての食物であるとすると、巨乳の女性というのは、人の深層心理においてはその食物の含有量のポテンシャルを多分に含んでいると見る事が出来るかもしれない。

更にグルジェフという賢者が、人に本来備わっているエネルギーの帰結点を「センター」と称したが、その中で最も特筆すべきものとして「性センター」(※2)を挙げている。
この「性センター」は本来、生殖そのものに使われるべきものであるが、他のそれと比べて特にエネルギーの含有率が高く、そのために他のセンターにエネルギーを転換する事が出来、思うにここに「性エネルギーの誤用」の可能性があるとも云える。
尚、誤用については、先のバタイユの例を挙げれば理解に容易いかもしれない。

ともあれ、これらから見るに性というのは様々な形に変容するようである。
またこのような変化がエロスの本性であるとすると、日常我々が接している性に関しての見方も変わってこよう。

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※1…ゾウリムシのリンク先「生殖」の項を参照。

※2…参照サイト:[グルジェフの「超人思想」の謎]…「性センター」の制御──性エネルギーの誤用を改める


リッチー・ブラックモアは神になったのか?

2007年08月31日 | sub-culture

大学の頃、当時の友人とアンプを買いに小田原から厚木に向かう小田急線の中での出来事である。

友人と歓談していると、突然、隣に座っていた女性が「(~の)地下ではダビデを作っているのよ!!」と聞こえるような声で呻きだした。
突然の事に2人とも驚いたが、友人がニヤけて私に顔を向けても、当時はさもありなげな表情でさらりと受け流したが、今考えてみると、あれは実は煩雑な病理の症状でないのかもと思うところがある。
それは以前、大沼忠弘氏の著作、『実践 魔法カバラー入門~女神イシスが授ける古代の密儀~』(出版:学習研究社)を読んでいるという事を書いたが、それを読み終えてからの感想である。

氏の著作を通じて思った事の一つに、現代社会において、このような秘伝を受けたものは少なくとも存在するかもしれないというのがある。
特にイギリスに於いては秘密結社の伝統が根付いており、誰がどの結社に属しているか、また秘伝を受けているかどうかでさえ、表面的には分かりにくいようである。
例えば、大沼氏の著作には、友人にアレイスター・クロウリーの流れを組む結社に所属する女性が著されているが、彼女の本職は警官と至極、秘教とは程遠い職業を生業としていた。

さてここで表題のリッチー・ブラックモアの話になるが、彼は言わずもがな、超人気ロックバンド、ディープ・パープルを作り上げた、多くのギタリスト達にとっては神的な存在である。
だが同時に、彼の奇行ぶりも神がかり的な伝説となっており、それは現在にまで至る。
例えば、ある大きなステージでの土壇場キャンセルは、同じ天才でもイングウェイ・マルムスティーンに皮肉られるほどのものだが、どうしてそのような事が平気で出来たのかは、ただの我侭ではなく、それがリッチーが本当に神になってしまったのかもと思う事で、私としては納得出来るものがある。

つまり私が云いたいのは、リッチーは西洋の精神文化の秘伝を受けた人の一人ではなかろうかという事である。
勿論、修養の段階がどの程度であり、また且つ、達人の域に達しているとは云い難いが、こういう事は神人合一の体系の中にはよく陥りやすい事だという。
またこういった状態を「天狗」とも言う事が出来るが、天狗というのが、修養の世界に入って己が存在を誇大に見せたがる人が陥るところが天狗道であるという話もあるから、話は面白くなってくる(※実際、テングという妖怪は、その正体は神仙の一種であるという話もある)。

ともあれ、神というのが時として気まぐれであるという事は、この事からであろうか。
世界というのは、限りなく立体的に広がっているのであると思う、今日この頃である。


サブカルチャーの面白さ

2007年08月09日 | sub-culture

インターネットに目を向けたとき、真っ先に思いつくのが「サブカルチャー」という言葉である。
サブカルチャーとはメインカルチャーの実質、反対語とも云えるが、このムーブメントというのは左・右などの思想傾向に左右されない一種の昇華現象であるとも言える。

昔のギャグ漫画で、「サブカルチャーというのはメインカルチャーになり得るか?」というのを読んだ覚えがあるが実質、メインカルチャーから逸脱したものである限りは、それと変わる事は無いだろう。
だがある特定のサブカルチャーがメインカルチャーより派生した擬似的な問題提起の形としてあわられた場合、もはやメインカルチャーの様相を呈してくる。

ちなみにネット社会に関して云うならば、ネットというのは先端技術である事を再確認すべきである
現在では、よくネットは現実逃避の道具と内外問わず考えている人は多いと思うが、それは木を見て森を見ず、便利さに有益性を忘れてしまうのである。

仮にネットの可能性の最も顕著な点としては、情報発信の容易さにある。
そのために「第2のマスコミ」という名も称されるようになったが、この現象自体は今後20年間、その分野での開拓を進めたもの勝ちになってくるだろう。
ただ、どれだけ信用のあるソースを提供できるかが問題にはなるだろうが。


最後に余談だが、「チャンネル桜」は面白い。
世間的には右翼的番組と称されるようだが、それは誤認である。
寧ろ、いわゆる保守派の番組であるが、排他的様相を見せる事も無く、云わば現在の左派(マルキシズム的、若しくは特ア寄り)でない、伝統的左派(議会制民主主義における改革派)の様相も伺える。
その点では『たかじんのそこまで言って委員会』も似ている。
まあともあれ、一度は見て置く価値のある番組ではある。


ガンダムが見た時代

2007年08月01日 | sub-culture

機動戦士ガンダム』は、我々30代~40代世代にとって、賞賛すべき作品である事は、今更書く必要は無いかもしれない。
何故なら、我々の世代ではこの話をするだけである種の共感を必ず得る事の出来るモチーフであり、その範囲は現実社会を考察するにまで至る至極の作品だからである。
ちなみにさっき、ソ連崩壊後、そこに組していたさまざまな民族の本来祖国に対する想いを映し出しているNHKの特集を見ていたのだが、ふとここに富野由悠季氏が描き出した世界観がダブって見えてきた。
政治的・思想的な各論は多岐に至り、そして重きに資するので、あまり詳しい事は書けないが、一つ『ガンダム』と共通の言葉として『連邦』という言葉を上げよう。

アニメ『ガンダム』の世界では、現実に国家の行く末として地球連邦構想が背景にあったように思える。
そして現在、我々民主主義を基調とする国の価値観で以って円満に成立し得るというのであれば、その構想自体、世界平和を目指す理想論として捉えるのならそんなに抵抗はない。
だがこの作品が、共産主義勢力が健在だった時代に書かれてある事に着目するに、作品の『地球連邦軍』というのは、ある種の共産主義的思想の影響も垣間見る事が出来るかもしれない。

その特徴の一つに、『強制移民』という事柄がある。
この問題に関して、ガンダムでは『宇宙移民』政策として語られている。
『宇宙移民』に関しては、数々多くの民族が強制的に宇宙に上げられ、巨大シリンダー型コロニーに移住されている。
この主たる理由としては、言わずもがな、現在盛んになった資源の保全、地球環境問題と食糧難に関する紛争の解決策として求められたものなのだ。

しかしながら、万能とも思えるこの『地球連邦政府』の政策は、それ自身の堕落によって崩壊する。
それは宇宙移民者に対する圧制の結果であると見る出来るが、一つにはこの移民者のアイデンティティーの確立による、本来祖国(地球)に対する憧憬が根幹になっているように思える。
そしてここにも現実社会と『ガンダム』とのリアルな繋がりを見る事が出来る。

ときに、この『ガンダム』と現実社会を見比べて見た時、最も驚嘆させられるのはやはり作者の富野氏のリアリスト眼というところであろうか。
私の見るところでは、理論的天才というところでなく、イメージを構築し、それを的確に訴える事のできる観念・想念的な天才だと思う。

さておき、ともかくこの作品自体、先述の創作時代の背景を見ると、現在に至るまでのこの作品の先見性の明には驚くばかりである。


注目すべきか

2007年07月30日 | sub-culture

つい先頃、大沼忠弘氏の著作である『実践 魔法カバラー入門~女神イシスが授ける古代の密儀~』(出版:学習研究社)を購入した。
氏の著作に関しては、以前よりダイアン・フォーチュンやその弟子W.E.バトラーの著作の翻訳書、そして氏の著書『実践カバラ―自己探求の旅』などに触れてきたが、どれも読み物としては不昇華な感じがしていた。
勿論、それは私自身がその世界の価値観を共有するに至らないせいでもあったが、読み始めてまだ冒頭であるにせよ、今回の著作は非常に興味深いものであるといえる。
ともあれ、近いうちにそのレビューを書いてみたくなった。


光り輝くは太陽にあらず、人なり

2007年07月05日 | sub-culture

この話を読んでもらいたい(※1)。

昔々、永遠に光り輝く国があった。
そこには多くの民に愛されていた王とその妃がいた。
王は愛に溢れ、空飛ぶ船を繰り、世界の平和のために外交を繰り返していた。

しかし、世界にはその王を憎む王達も居り、彼らはこぞって輝く国の王に戦争を仕掛けた。
輝く国の王は、最後まで争いを避けようと外交に尽力した。
だが輝く国の王を憎む者達は、魔術と太陽の如き武器を用い、これを無駄にしようとした。

これを知った光り輝く国の王妃は、光り輝く国と王と全ての民のために、同じく魔術と太陽の如き兵器を持ち出し、これに対抗しようとした。
状況はもはや取り返しのつかないところに行くことになる。

世界は魔術と太陽の如き兵器によって荒廃した。
中でも最も酷かったのは、太陽の如き兵器の撒き散らす毒であった。
その毒によって、敵味方関係なく殆ど多くの民は死に、また輝く国の王族、ましてや王妃までもその影響を受けた。

力尽くし切って光り輝く国の王が帰還したとき、王妃は毒のために病の床にあった。
その姿は焼けただれ、かつての美しい王妃とは思えないほどに醜く変容していた。
王はその姿に大変悲しんだが、愛する妃のために必死に看病をした。

王妃はそのとき、王の子供を宿していた。
これまで王妃は沢山の子供を産んで、王国を栄えさせてきたが、最後の子は王妃の命と引き換えに、もはや人とも云えぬ容のまま産まれてきた。
王は産まれてきた子供を大変哀れに思い、己が剣によって命を断った。

王も毒の影響を受けていたが、黄泉へと降り、死した妃を取り戻さんとしたが、もはやその姿は生者にあらず、王妃に激しく呪いをかけられながらも、王は世界の復興を誓い、現世に戻って身を清める事により快癒した。
そして、その術を自分の子供達にも施し、子供達も高みの存在へと昇り、荒廃した世界を立て直していった。

その後、その末裔達は丸鏡に己を映して、「悪の宗主国」(※2)とならないようにと、祖先に思いをめぐらせり。

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※1…竹内文書九鬼文書に関する、とある書籍にあった主張からインスパイアーされ、脚色したストーリーである。

※2…平野貞夫の「昭和天皇の極秘指令」


神話は妄想を打ち破れり

2007年06月27日 | sub-culture

光市母子殺害事件に関する報道を見ていて、ふと思った事がある。
それは被疑者の主張の一部に関してだが、これを神話的に見た場合どうであろうかと考えてみた。

神話というものは、現代人にとってはただの妄想の産物のように見えるだろう。
だがそれは不適当な評価であると云える。何故なら、それには象徴的な意味合いが込められていて、更には数学的解釈が出来る事からである。

例えば、日本神話の場合、ウケモチの首を刎ねた月読神のエピソード(※1)というのは、史学的には開拓者の論理として受け取られるだろうし、また月というものに置き換えれば、生産と繁殖という、古くからのモチーフに附合してくる。
また精神医療学的には、ユングが集合的無意識と神話の関係(※2)を主張していたが、現在それは有力説の一つである。ともあれ、神話は数学的なのだ。

では被疑者の主張は、神話的にはどう解釈しえようか?
例えば、被疑者の「精液を注いで死者を蘇らせようとした」という主張を象徴的に解釈しようとすると、神話では精液で以って死者が蘇った例は皆無である。
勿論、似たような事例として、イシス(妻)が死したオシリス(夫)の精を受けホルスを産むというのがあるが、その逆は無い。

あと、先述の日本神話のエピソードは、首を刎ねる(=その者の権威を奪う)事によって、ある種の目的を達成しようとするものとも受け取る事も出来る。
そこから、被疑者の屍姦行為は、自分が耕した土地に種を蒔くという、象徴的な説明がつけ得る。
つまり、殺害→屍姦という一連の流れは、征服の意思を伴った行為である訳であると解釈できる。

だが問題は、それがマザーコンプレックスに起因した行為であったかどうかという事である。
マザーコンプレックスの場合、全てが母なるものの回帰という見方をされるが、これはフェニミズム的イデオロギー概念の用語であり、またコンプレックスというのも、それ自体、基本的に二律違反を伴う概念であるために一方的に決め付けることは難しい。
寧ろ、被疑者の行為からは征服欲求というのが象徴的に見て取れるために、エディプスコンプレックス的な、王位(若しくは権威)簒奪の感覚で以って、殺害に至ったといった方が妥当であると云える。

ともあれ、象徴的に見た場合、被疑者側の主張というものは伝統的に附合しない事が多い事が分かる。
そしてその附合しない部分というのは、この場合からも現実的に、只の身勝手な妄想であり、演出であると云えるのである。

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追記
山田風太郎の『魔界転生』について読んでおく必要があると思ったが、取りあえず被疑者が指摘した部分が如何様なものか検索してみた。
すると内容としては、死した女に精液を注いで蘇らせるのでなく、瀕死の男が秘術を受けた女と交わる事によって、男自身が再生するという秘術があるという設定だそうだ。
余談だが、この設定自体は神話のモチーフをなぞり(例えば、オシリス=ホルスと見た場合)、実に見事である。
故山田風太郎氏の、類まれなる才能と博学さに多大なる尊敬の念を感じると同時に、氏の作品を穢した被疑者及び弁護団に憤り感じざるを得ない。

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※1:Wikipedia -『ツクヨミ』 神話での記述 日本書紀 神代紀の項を参照。

~書紀第五段第十一の一書では、天照大神と月夜見尊がともに天を治めるよう命じられたが、のちに天上で天照から保食神(ウケモチ)と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って保食神のもとに赴く。
そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で撃ち殺してしまったという神話がある。
保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。天照大神は月夜見の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったという。
これは「日月分離」の神話、ひいては昼と夜の起源である。~

※2:Wikipedia -『分析心理学』のユング心理学の基本概念 集合的無意識と神話の項を参照。


無意識的識域

2007年05月31日 | sub-culture

私が、1から9の整数のうち「奇数は男」、「偶数は女」と漠然と意識し始めたのは、僅か3~5歳位の事だったと思う。保育所の木漏れ日指す部屋で、そんな事をふと思ったのを覚えている。

内訳としては次のようなものである。

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○奇数
1…(どちらかというと男の)赤ちゃん
3…子供
5…お兄さん
7…大きいお兄さん
9…更に大きいお兄さん

○偶数
2…幼女・少女
4…お姉さん(エロチックさがある・初潮の始まった歳以降)
6…?
8…おばさん、お母さん
※6は特別

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ちなみに、このような奇妙な選別というのは、人文学的にはありえる事らしく、その事を大学の頃、ある本を通して知ったときは非常に驚いた。

 

ときに、偶数「6」に関してだが、現在では次のような解釈が出来る。
それは「6」という合計数を表す式によって、その数の捉え方が変わるという事だ。

例えば、整数「6」は、

6=1+5
6=2+4
6=3+3
6=4+2
6=5+1

次にこれを、

6=1+5
6=2+4
6=3+3

という式によって表わすことが出来る。これを見るに、奇数の輪によって「6」が成立する式というのは、2つもあることがわかる。

同様に、他の整数(4~9)も比べてみる。

4=1+3
4=2+2

5=1+4
5=2+3

7=1+6
7=2+5
7=3+4

8=1+7
8=2+6
8=3+5
8=4+4

9=1+8
9=2+7
9=3+6
9=4+5

これらの関係と整数「6」を見たとき、唯一、整数「8」だけが「6」と同じく、奇数同士による和が2つも成立する事が分かる。ともなれば、整数「6」と「8」は、共に男性の性質をも併せ持つ偶数であると云える。

ちなみに、偶数「8」は「おばさん、お母さん」と表している事から、「6」も似たような性質があると考えられる、
そしてここから敢えていうなれば、偶数「6」というのは「姦通直前、若しくは姦通後の未婚の女性」とも云えようか。

ただ問題が一つある。それは整数「1~3」をどのように説明するかだ。
これも同じく式に表してみる。

1…不可能

2=1+1

3=1+2

これを見るに、「1」は整数の式で表わすことが出来ない。
また「2」に関しては、奇数の和でしか表わすことが出来ない。
そして「3」は、奇数と偶数の和で表わすことが出来る。

ここから云える事は、「3」以下というのは、基本的に性別的な要素が薄いとも云える。
それは、私が先に表したように、基本的に「幼児・女児・少年・少女」という感覚にも符号する。
そしてそれ以降の数に関してだが、特に偶数というのは、奇数の和という男性的要素によってのみ成立する事も多いようにも見える。

ともあれ、このように1から9の整数を表す方法もある事も出来るのである。

 

※これを書いた後、偶然こんなページを見つけた
↓↓↓
『ほぼ日刊イトイ新聞』
日本人の思い。-あなたはどちらかといえば、モテますか?
より

第3回設問偶数が好きですか? 奇数が好きですか?

ここで私の感覚とほぼ近いコメントをしている人がいて、感慨深いものがあった。