それは”柔能く剛を制す”といった意味でだが、私のようなガタイの良い男子が投げ飛ばされる事は、自分自身、滑稽で愉快である。
しかしながら、このような出来事が起こりえるというのに、日常、多くの人々はよく他人を縛り、自分を縛るものである。
例えば、私は「お前はカタイ」とか言われる事があるが、最近、私は「いや、全然柔らかい。硬いはずが無い」と反論する。
勿論、それで言い合いになる事もあるが、それ以上の真実は私自身には起こりえないので、そう言うしかないのである(※1)。
思うに、世間というのは概して、人を操るに躍起になっているようである。
それは所謂、支配・被支配の意識に基づく”支配の構造”であると思うのだが、そうやって人の神聖さを貶めるというのは、全く以って馬鹿馬鹿しい限りだ。
最近、私はつくづく、天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降られた意義、そして尊よりもたらされた十種神宝について思いを馳せるのである(※2)。
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※1:「幼女が持ち上がらない件について」でも語ったが、身長130cm、体重30kgにも満たない少女が自分で「持ち上がらない体」と思うだけで、大の大人が彼女を持ち上げられないのである。
勿論、その状態にいる少女は、どっからどう見ても持ち上げられそうな可愛らしい少女でしかない。
しかし、この体験を通して、彼女自身についてはさながら神の如き力が働いていた事が実感出来たのである。
是非とも、”オンリー・パワー”な連中に、この少女を持ち上げられるか試してもらいたい。
※2:ときに、天照大御神の岩戸隠れについて、この岩戸を誰が動かしたのかといった事はあまり話題にあがった事はない。
それは、天照大御神が岩戸にお隠れになる際、近習数名を従えて、これを塞いだといった説明も出来ようが、私としてはご本人がお一人でそれをなさったというように思える。
勿論、力自慢の手力男神(タヂカラオカミ)で無ければ空けられない程の岩戸であるのに、女神がそれを一人で動かせるものか、と思うかもしれないが、「持ち上がらない少女」の件以来、そう思うようになった。