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~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

客観芸術の可能性

2008年11月29日 | sub-culture
グルジェフの「ベルゼバブの孫への話」を読み進んでいて、ある一つの仮定を思い描いた。
それは「客観的良心」に関する下りであるが、これが人の本質にあるエネルギーの作用的問題として扱う事の出来る事柄であるとすれば、表現形態の一つである芸術もまたそれに似るのではという事である。
このような事柄は、それこそロバート・フリップ先生に直にお尋ねしないと分からないかもしれないが、しかし、求道に値するような気がする。
勿論、私の妄想であるとすれば、その価値は「一人称の流行歌」ほどのものでしかないが。

しかしながら、これまで器械体操や居合、そして音楽などに触れ、それを演じる人々の中に「注目すべき人」とそうでない人がいる事に気がつく事がある。
それは「オーラ」とか「グルーヴ」とか、そういった語彙でしか言い表せないが、しかし、本質に触れていると感じる時は、決してミーハーや信仰的心情、若しくは処世術的なおべっかは介在する余地は無い。
そこで思うのは、「客観芸術」の実在である。

アトランティスの夢

2008年11月20日 | sub-culture
アトランティスに関するベルゼバブの語りは想像を絶する。
勿論、それは創作における寓話、真実味のあるノンフィクション、または考古学上説明のつかない虚構と片付けても良い事柄であろうが、現在より過去への逆延長線上にそれがあるとした場合、趣は大分変わってくる。

しかしながら、今も昔もグルジェフがベルゼバブに語らせるように、またはベルゼバブがグルジェフに語らせたのか、人類は愚かしくも虚構に踊らされる獣から脱していない。
それはクンダバッファの後遺症であると言えなくもないが、ともかく、人類は大して幸福ではないらしい。

先の記事において、コリン・ウィルソンがクリトルリトル神話の序文を寄稿しているという事に触れたが、そこには太古の人類の記憶に関する事柄が書かれている。
例えば大航海時代以前、まともな地図・海図というのが無かった時代、ある海賊が現在のそれに匹敵する程の地図・海図を用いていたという話がある。
勿論、それはオリジナルのコピーであるのだが、そのような正確なものが当時の学会においては完全に素通りされていたという話は、全く以て奇妙な話である。
そういえば、現在のゼカリヤ・シッチンという権威者は、エジプトにおける神話に核戦争の匂いを感じざる得ないようだが、これは先の地図・海図に関する人々の反応とは全く異なる。
日本でも、吉村作治という権威ある面白考古学者がラムセス二世の息子の溺死の事実をテレビで紹介していたが、結構、戦慄を覚える話である。

とまあ、結局何が言いたいのかというと、人類は鳥頭だという事だ。
つまりは、ある意味、各時代、各地域の人々の営みを記したものというのは、後世の人間がどのように用いるかによって、糞にも宝石にもなる。

穢れの神

2008年11月20日 | sub-culture
最近、「魔道書ネクロノミコン」(ジョージ・ヘイ編、大瀧啓裕訳、学習研究社)を読んでいるのは、部屋の片付けの際にこれを購入したままだったのに気がついただけの事だった。
しかし、その割には読むだけで現実にシンクロニシティを引き起こしているのではないかと思えるほど(※)内容は刺激的である。

そこには「邪神」に背景、モチーフに関する追跡云々が述べられている訳だが、その一つに魔術的観点がある。
これは人文科学的観点とも言えるが、ともあれ、人類のそもそものコンプレックスに光を当てる試みにも似ている。

序文を寄稿しているコリン・ウィルソンはラブクラフトの追跡を経て、彼の父親が神秘の法に触れていた人間であるというところに辿り着いたが、それは決して息子ラブクラフト自身には制御仕切れない強烈な精神の力に触れる切欠になったと看ている節がある。
またそれ自身への解法は、コリン・ウィルソンとしてはユング派の方法に期待する部分があるようだ。

ときに、「神話」というのは形而学上の問題である。
怪奇文学としての「クリトルリトル神話集」が、これが「神話」として考察される事は些か驚く。
それはラブクラフトが夢見に作品のモチーフを求めたためであろうが、それがさながら古代のシャーマンの如き様相を露わにするとは、二重の驚きである。

因みに、本書では人類の記録である「アカシャ年代期」について触れられているが、これへのアクセス方法も、ある種、夢によるものに近い事を鑑みるに、もしかしたら、ラブクラフトは恐竜が象徴する弱肉強食の世代を見たのでは無いかと思うところがある。
しかしながら、「神話」そのものが象徴体系である事を考えると、考古学的な具体性というのは、実はそんなに重要ではない。
現代において「神話」を史学的出来事と並行して考える学問が流行のようだが、「神話」と「神話的話方」は位相が全く異なる。

例えば以前、ウケモチの首をはねる月読神の話をしたが、これは“混沌を統べ制御可能にする”と云った意味合いがあるように考えている。
そして、この「神話」というものはユング派の云う「集合的無意識」であり、また人類の「結晶化現象」の成果であるのなら、人には混沌を統べる役割があるのかもしれない。

ときに、日本神話において、「顕現の神」の使命を帯びて、イザナギ神、イザナミ神と云う神が顕れ、「修理固成」を目標に「国産み」を開始する。
しかし、この「国産み」は至極苛烈を極め、夫婦が最初に産み出した人神は奇形であり(※2)、また最後に火の神がイザナミ神を焼き殺す。
因みに、私がここに看る神話的重要性というのは、後にイザナギ神が生み出す「禊ぎ」に関わる。
つまりは、混沌を統べるというのは、それだけで穢れを背負う事であり、イザナギ神が「禊ぎ」を編み出されたのは至極当然の事に思える。

話を「クリトルリトル神話集」の神と絡めるが、日本神話の神とそれを対比すると興味深い事に気がつく。
それはクリトルリトル神話の神が「穢れ」の神であるとすると、日本神話の神は「禊ぎ」の神であるという事である。
そして、仮に日本神話の神にクリトルリトル神話の神を統べる使命があると考えると、なかなか以て興味深い物語が書けそうだ。

また、恐竜の遺体の成れの果て(石油)を用い、地球環境を汚しながら発展している現代を鑑みると、ある意味、クリトルリトルの威光をそれに看るような気もする。



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※最近、この書を携えて仕事に行くのだが、人身事故や列車故障などが多発している。
勿論、季節の変わり目、若しくは悪化する経済状況に人々が感化されているのは分かるが。

※2;この神「ヒルコ」は「エビス」となり返り咲く

最近のSiFiへの手ほどき

2008年11月02日 | sub-culture
ここ20、30年の日本のSifi(昔でいうSF)について(特にアニメに顕著だが)抑えて置くべき事柄がある。
それは「未来世界の人間が如何なるものか?」と云う事である。
それはつまり、未来世界の人間を「今の人類の延長」としてみるか、それとも「同じ人でありながら位相が異なる存在」であるかないかという事である。
これは作品の趣きを決める上で実際重要な事柄に思える。

例えば、Sifiの王道「スタートレック」や「スターウォーズ」、または「エイリアン」には、真空状態に宇宙服もつけずに沸騰しない人の描写はあらわれない。
勿論、ジーンロッテンベリーの作品には辛うじて“パラダイム”(「アンドロメダ」)や“生命体8472”(宇宙人)など、高度に進化した存在こそあるが、しかし、地球人類は基本的に今と変わらない。
だが最近の日本の作品はそれと異なるのは、今の地球人類と異なる事である(※1)。
因みに「攻殻機動隊」は同一人類でありながらテクノロジーでもって異能種を語った良作であると云える(※2)。
例えばそれからは“神道”的な解釈、他にも「アウトサイダー」や“大本”、“天理教”(※3)などの影響かと思えるようなモチーフも感じられる。

つい最近では、ゲーム「真女神転生3」で大胆にも“日月神示”がモチーフに用いられたが、ともあれ、このような傾向は、日本独自の文化的感覚として、やがて世界に波及してゆくように思える。

最後に余談だが、ついでにそれが、怪しげな「フォトンベルト」や「マヤ歴」など、終末思想を信奉(※4)する「アセッション」主義者などの改心に役に立つ事を同時に願う。



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※1;「天上人」や「歳をとらない少年」などは、ある種のリアリティを形成している。

※2;洋楽「マトリックス」はそこら辺を理解していないように思える。
またそれに対する理解は、向こうでは“神秘主義(スピリチュアリズム)”として押し込められる。
グルジェフは自分の弟子の理解力を嘆いたが、仮に今、彼が日本の作品群を観たら、戦慄する事もあろうと考える。

※3;「電脳」によるネットワークなどは、まさにオカルト的モチーフに符合する。
またそれを用いた「上部構造へのシフト」などは、所謂、“新感覚”の獲得である。
押井守の描いた「攻殻機動隊」では、電脳の光の筋が、“2501”との聖婚によって「天使」として知覚され得た表現などは、それを如実に表している(“夜は明けヌエ鳥鳴く”とはそういう事)。

※4;基本的にかような思想は病んだ思想である。
そこには問題点を未来に先送りにする卑しさを感じる。
また仮に、人類の陰謀を露わにしたとしても、そこからはアナーキズムの影響が色濃く見える。
つまり、結局、それを語る人間というのも、真っ当な社会人を気取ってもただの道化なのかもしれない。

おいお前、もっとおっぱい見せてみろよ

2008年10月27日 | sub-culture
弓なりに身体を張ったグラビアアイドルの写真はエロチックである。
胸を張るというのは、確かにその部位を強調する事に役立ち、人物をよりコケティッシュに変化させる。

しかし、敢えていうならその姿勢は、人間本来の能力を引き出す上では間違いである。
それは武道の常識である。

因みに、所謂「氣のテスト」の際、冗談のつもりで胸を張る姿勢をグラビア立ちと要求してみる。
まあテスト結果は簡単にぐらつく訳だが、ある意味、そういう姿勢を求めるというのは人のポテンシャルを殺す事に他ならないのではなかろうかと思う。

ヨガの効用

2008年10月23日 | sub-culture
先日、興味深い出来事があった。
それは合気道の稽古が終わった後、館長が右太ももに痺れがあるというので、所謂、「氣圧」の真似事にチャレンジしたのである。

実際、館長の体に触れていて気が付いたのは両脚温度の違いであった。
明らかに右太もも下部の裏側が冷たく感じる。
しかし、それが足の凝りで無い事は触って分かったので(普通、凝る位置が凝っていない)、原因は他にあると思った。

そしてもしや、腰が腹に何か悪いところがあるかと思い、腰部の負荷は内臓から来ている場合があるので、館長にお腹が悪いかどうか聞いてみた。
すると館長は確かにお腹が悪いという。

そうこうしていると、ウチの道場の名物カナダ人(1976年生まれ。私と同じ辰年)がひょいひょいやってきた。
私は館長の症状について、英語のネイティヴスピーカーの彼に日本語で説明すると、彼も拙い日本語語学力で理解して患部を探り出す。
すると、彼はまた違った表現で(「ココガウルサイネ」、つまり“ノイジー”であると)、同じく、右下腹部を気圧し始めた(因みに、彼の出自はスコティシュで、ナチュラリストなのだが、家系的にそうなのか、ちょっと違う視覚を持っているようだ)。

まあとにかく、二人の意見が一致したところで“氣圧”を続けた。
彼は腹部、私は脚部を担当したが、終わる頃には館長の問題部位に温かさが戻るのを感じた。


まあこれもヨガの一側面であるのだろうと思う。

霊的退化

2008年10月20日 | sub-culture
“大衆は豚である”と昔のある偉人は仰ったが、この人は豚がどれだけ獰猛な生き物であるか理解していただろうか?
確かに、集団でいやしく、あさましく餌を貪る姿は滑稽かもしれないが、しかし、自然界においてはよく食い、大きくなるものが強い。
そして豚はまさしくそれに当てはまる動物である。

豚になぞらえられた大衆というのは、まさしく獰猛なのである。
その顕著な例がゴシップであろうか。
それに大衆が食らいつくのはまさしく豚のようである。

また大衆は付帯条件を理解出来ない。
例えばある問題に関して、「~という説がある」といった言い方に関して、簡単に食らいつく。
そしてそれが付帯条件によって否定されたとき、「何を“信じたら”良いか分からない」とか、「政治なんて信用が無い」とか、自分達大衆が一番信用がないボンヤリとした主体である事はそっちのけで、さっきまで「大好物だ」と食らっていた餌に糞をする。

このような現象は本当に不可思議である。
因みに、ヨガの範囲、心が体を動かすための命令方法は付帯条件をつけない事にある。
そしてその事を鑑みると、大衆とは自霊によって動いていないのだと気がつく。

ガンダム遍歴

2008年10月15日 | sub-culture
私見だが、富野ガンダムを主人公で観て行くと興味深い事に気がつく。

アムロ
・・・この時代におけるアンチヒーロー。
ストーリー上、テングになったり、最後、社会的帰属により自分の居場所を発見する、学生運動の学生のようにみえる。

カミーユ
・・・理屈よりも感覚や感情を素直に表現する脅威の世代。
ある意味、彼らを理解するためにこのキャラクターを創出したのだろうが、社会的な事柄に対する素直な反応は、ある種、破綻への道へと通じる。

ジュドー
・・・この時代には珍しいエネルギッシュなキャラクター。
恐らく、作者の少年時代の生き写し、若しくはモデルが存在するように思える。
またこの作品のキャラクター描写から大人に向けて展開になったように思える。

シーブック
・・・恐らく、理想的な青少年像を描きたかったのだと思う。
またそれは、親世代としての作者視点の現れであるように思える。
ある意味では、ジュドーのゴーストかも。

ウッソ
・・・アムロ的鍵っ子の再来のように思える。
だがアムロと決定的に違うのは、人を信じやすい無垢な性格であること。
ある意味では、大甘に育った温室栽培のキャラクターともいえるが、成長の可能性を秘める存在を通して、大人達が未来に向けて何をなすべきか教示しようとしたのではと。

ロラン
・・・行動力を伴う正義感を持ったキャラクターを描く事で、恐らく、ニヒリズムに対抗出来るのは、結局はこのような存在ではないかと云ったメッセージがあるように思える。



まあガンダムは本当に名作なので、キャラクターに対しても十人十色の意見があると思う。
ここではその中の、私の随想を並べてみた。

水の結晶

2008年10月08日 | sub-culture
以前、仕事で一泊した際、所謂「予言」に関する番組をネタに、相部屋になった人と“アタマの悪い”話で盛り上がった。

その一つに「マヤ暦」の「2012」というキーワードがあったが、理系出身の彼と完全文系の私と一致した答えは、それが「計算上の問題に尽きる」と云った事であった。

似たような話、「2000年問題」というのがあったが、こういったソフトウェア上の裁量は考案、作成者に委ねられ、恐らく、古代も現代も変わらない。
裏返して云えば、古代マヤ人達はその年まで自分達の文明が続いているといった仮定でもって「暦」を作成しており、逆にマイクロソフトが2000以降存続しているのに対し、よくよく考えると悲しい物語である。

また他にも、
「太陽が何故燃え尽きないのか?」
と云うことに関して、彼は、

「よくよく考えてみると、太陽はメチャクチャだ。あれだけの高エネルギーを出し続けて、寿命が百億年というのもよく分からない。」、
「また、太陽はガス星と云われているが、そのように見えるだけで、本当はどうなのかは分からない」(※恐らく、宇宙空間では質量の小さい物質は拡散するため。コアの部分は超重量のはず)、
「あと、現在太陽光は一定のレベルで以て地球にも到達しているが、これは永い太陽期間における比較的緩慢な時期であって、それが終息した瞬間、地表は焼かれるかもしれない。」、
「他にも、太陽は宇宙空間に浮いているが、それが新星として爆発したとき、時空が歪むというが(ブラックホールなど)、実は案外、何でも無いかもしれない。」

など(ここで彼の真意を上手く要約出来たかどうかは別として)、そのような話をした。

因みに、これらの発想は、現在ある通説的見解(所謂、科学的根拠を求め得る共通認識。)の逆を行くものであるが、特に(逆の)権威主義に走らない限り、健全な発想であると云える。

ところで、昨日今日の話、日本の物理学者のノーベル賞受賞が報道されたが、これというのも、結局は、今ある科学的プロットの有効性を確認出来た事に対して与えられた栄誉に過ぎないという側面がある。
言うなれば、物差しにまた新たな使い方を発見したようなものである。
勿論、それは大変な栄誉なのだが、着想の始まりは、大概、「ひらめき」である。
アインシュタインならこれを「思考のジャンプ」と云うだろうが、このような事柄は、結構、些細な事が切欠になってたりする事もある。

だがこの閃きは、科学的根拠云々というふるいにかけると、結構、怪しいところがある。
例えば「水の結晶」に関するエピソードであるが、一応、物質的「微振動」と云った言葉を用いているが、やはりそれは疑似科学である。

ただ、これが疑似科学であるかは、実験と観測を通して始めて云える訳だが、それをせず、科学的根拠という通念を通して疑似科学的というのは、厳密に云えば間違いである(これはテレビの報道姿勢が顕著である。地球温暖化に架かる問題など、ねつ造も甚だしい)。

因みに、この「水の結晶」の話を聞いて、個人的に思うのは、やはりこれは「道徳」の話なのではと云うことである。

というのも、また以前ブログに書いた「持ち上げられない少女」の話であるが、心身統一合気道など、ヨガ的武道の分野において、理解出来る部分がある。
それは主に、人の心の持ちよう、用い方についてであるが、このような事実を知らない人々にとっては、ただ単に、荒唐無稽な話として素通りするのだろう。

巨人は如何様にして造られるのか?

2008年10月04日 | sub-culture
昨今、スピリチュアルブーム云々といわれているが、正直なところ、その流れというのは約100年近くのスパン、つまりは時代毎の性差を語るものである。
というのも、現代スピリチュアルブームの萌芽というのは19世紀末、若しくは20世紀初頭にまで遡る事が出来るからである。
つまり現在あるスピリチュアルブームというのは、ここ100年強継続中のものであり、殊更、特別なものではない。

因みに、私見として近代スピリチュアルブームの特徴としては、唯物論的システム構造に対するアンチテーゼともいえ、これまで精神性を社会システムに組み込んできた人類史において希有な時点であると考える。
それは同時に、現代というのが、精神性を求める事が、ある意味では夢見物語であり、また弱さの特徴の一つとして卑下され、サブカルチャーとして陰に入っている事を表すと云える。

まあここまでは月並みな評論であるが、しかし、そんな現代においても、精神的巨人を産み出す状況とは、昔も今も変わらないように思える。

それは一重に戦争である。
これは我国ヨガ的巨人、西洋における巨人もあまり変わらない。
その共通項として顕著なのは、例えば「従軍経験」にある。
考えてみると、前線における兵隊のおかれている状況というのは、究極的な極限状態の一つである。また兵隊が兵隊を殺傷する可能性、若しくは宿命を負っている事、また殺人に対する抵抗力を持つ人間がコミニュティにおいて約2パーセントしかいない事を考慮すれば、兵士として人間性を有し続けられるのは限られてこよう。
また戦中でなくとも、伝え聞く我国自衛隊の訓練を考慮しても、まさしく超人的内容である。

だがこれは、精神的巨人となるためには従軍すべきであるという事ではない。
云いたい事は、精神的巨人には何よりも極限状態に耐えうる「体力」が必要であるという事である。
現代スピリチュアルの萌芽を蒔いた人々は幸か不幸か、そういった状況の中で「体力」を養えた訳だが、平和な時代でもやはり「体力」は必要である。

ベルゼバブはいと高きところに昇りて、神はそれを許し給い、私の背中を撫でる

2008年08月12日 | sub-culture

背中を撫でられるような感覚というのは一種のシンクロニシティーの前兆であろうか?
それは死者のものでもあり、はたまた美しい女のものでもあるが、だが、それが本当に自身の行く末に符合したある種の誘惑であるとは限らない。


ときに「ベルゼバブ」は死者である。しかもヴィヴィットな。
この背徳的な名前というのは、すべてのキリスト者にとっての敵であろうが、その実というのは人の友である。
というのも、それはキリスト者が追放された人々と自負するのと同じく、彼も追放者であり、永らく人と共に歩んで来たことに寄ろうか。
我々の伝統から云うと、彼(もしくはYHWHと同じく女神であるかもしれないが)は豊穣の神であり、皇統に先立つ神々と同じくらいに永く、その威光を保ち続けてきた。

ときに「ベルゼバブの孫への話」というロシアの神秘主義思想家にして20世紀を代表する怪人物、そしてヨガの巨人、ゲオルギイ・グルジエフの手による著作がある。

ベルゼバブの孫の話
ベルゼバブの孫への話―人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判



ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ(Георгий Иванович Гурджиев)
1866年1月13日? - 1949年10月29日


この著作の特徴の一つとしては、まずは序文からそれを窺い知る事が出来る。
それは兎角、難解であるように書かれている事にある。
勿論、それは法律家の書く文章のように、文章そのものが実務と理解を妨げる下手糞な文章というものではなく、より多くの示唆を含ませるために、それを読むこと、そして読み解くこと事態がワーク(訳者が示す言葉を借りた)のようになっているのかもしれない。
それに関しては、私も訳者と同じく、「これはワザとそう書いている」と気がついたが、全800ページ近く、上下2段の著書(ほぼコリン・ウィルソンの「オカルト」のような本である)を100ページ強読んで、共感出来た項目と云うのは極めて少ない。
勿論、それは思想的に相容れないものである、といった嫌悪そのものでなく、理解が行き届かないといった意味においてである。
それには当然、実学たる部分が私に欠けているというのもあろうが、何故彼が、私の背中を撫でたのかは謎である。


慶喜(けいき)さん

2008年05月19日 | sub-culture
安倍晋三が総理大臣だった頃、親父と一悶着があった。
だが、そのときの親父からは、団塊世代に特有なポピュリズム日本型ポピュリズムアナーキスト的展開というのは全く感じられなかったと思える。
何故なら親父は、どういうわけか「今の政治は西国勢の政治」である事を強調するからだ(※1)。

ちなみに親父は徳川慶喜の事を「とくがわ・けいき」と言う。

徳川慶喜の肖像 その1
徳川慶喜 天保8年9月29日~大正2年11月22日 (1837~1913)
写真は恐らく晩年、公爵(サイト:「近代日本人の肖像」より)



あまりに自然に云うものだから、「”よしのぶ”だろ?」と聞くと、親父は「そうだ」と言う。
気になって「けいき」の事について調べてみると、色々と謂れがあって興味深い。
そして親父に、いつの頃から「けいき」と呼ぶようになったのか再度尋ねると、「親父(祖父)から教えられた訳でもなく、自然に」と答えた。

思うのだが、歴史の連続性というのはこういったところに見え隠れするものではないかと云う事だ。
現代では武士という階級こそ失われたが、本来の”侍”というものは今でも残っている。
またそれは表の文化的潮流とは異なり、陰の部分での正当性を保っている訳だが、それが何かしらの切欠で、不意に顔を出す事がある(※2)。
そしてまたこれが、プリンシパル(品性)の由来であると、私は思う。

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※1:そのような事を本当に”無意識に”理解して受け入れしまうところに、この話の凄さがある。

※2:余談だが、手塚治虫の「陽だまりの樹」は非常に感情移入して読んだ覚えがある。
陽だまりの樹 (1) (小学館文庫)(from Amazon)
それは主人公の一人、伊武谷万二郎の愚直なまでに侍でありすぎたところであっただろうか。
彼の最後には思わず、「馬鹿なことを・・・何故、ここで死ぬのだ、この大馬鹿者が!!」と唸ってしまった。
恐らく、手塚治虫自身も、後半に万二郎の占める割合が多くなった事を鑑みるに、それを感じていたのかもしれない。
また最後のシーンにおける、手塚良庵の後ろ姿の物悲しさがそれを物語っているようにも思える(手塚は本当に物悲しい後姿を描くのが上手いとも思う)。

※他、注目記事:”徳川慶喜という人”(「ピザンチン皇帝の部屋」より)
…これを読んでふと気になったのは、尊皇の念深い会津藩の不名誉を何とかして挽回すべきという事であろうか。

女の尻

2008年05月12日 | sub-culture
女の尻というのは、それ自体はクッションの役割を持つのだが、しかしこれが動いた時に初めてエロチックな景観を生み出す。
それは静止状態においても、それが動き出す可能性、また若しくは感触というのを期待しうるという点においても同じである。
しかしながら、実際、エロティックな女の尻というのは本当に稀なものでは無いかと思う。

それは夏のある時、駅に向かう一本道で、目の前をよたよたと歩いている女の尻を見たときに感じた感覚が、それ以降なかなか出会わないという事による。
また学生時代にもそのような事は稀にあったが、このような出来事には大概、その人の品や、そして姿勢に秘密があるのだと思える。
勿論、女の尻をつい見てしまうのは男の性なのであるが、だがあるときに感じる強烈な感覚というのは、これが只の肉体機能的な問題では無い事だと気がつく。

ところで、世間ではちょっと前に「エロ可愛い」といった具合の言葉が流れるようになった。
それはネットで発生し、某歌手の宣伝文句にも使われたものであったが、これが日本人の約半分を占める人達、若しくはその予備軍の品格の破壊に繋がったかどうかはハッキリという事はできない。
勿論、文化史的な観点から、やがて人々の性向というのは推測出来ようが、また最近では、「ビッチ・ファッション」(※)なるものも登場したらしく、もういい加減辞めてもらいたいというのが本音である。
他に、エキセントリックな美人芸人が俄かに注目を浴びているようだが、その芸風においては暗に日本の保守層を驚かせるものである。

ある意味、これらのような事柄というのは、その白雉な様からエログロの極みと云っていいのだが、攻撃性を有したこの事態は自壊の方向へ進んで行くのが自然の道理である。
そして他の道理としては、それが如何に軟着陸してゆくかが問題となろう。
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※「ビッチ」に関して、これがファッションブランド名との造語なら理解できるが、侮蔑的表現との造語であるのなら、配信元の低脳さを疑っても良いのではと、ふと思った。
また「セレビッチ(=セレブ+ビッチ)」という用法があるそうだが、後者でその意味を捉えた場合、ソフトバンクのCMほどの衝撃を感じ、自分も相当なスイーツ脳なのだなと思ったり思わなかったり。

マッチョ伝説

2008年05月02日 | sub-culture

私の地元に興味深い伝説がある。
それは三保の松原羽衣伝説だが、これはなかなかマッチョである。

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~三保の松原「羽衣伝説」~

昔々、この地に降り立った天女が、羽衣をこの松に掛けて
水浴びをしていたところ、漁夫の白龍に羽衣を奪われてしまう。
天女は羽衣を返すように欲しいと懇願するが、白龍は、
「羽衣を返すかわりに、天人の舞を見せろ」と云う。
天女は(仕方なく)、返してもらった羽衣をまとい、舞を舞いながら空へと戻っていく。


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ちなみに、この伝説にはいくつかバリエーションがあり、またそれには近江型・丹後型とあるという(参考)。

ときに近江型(一般)先の伝説を現代風に脚色すれば、

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昔々、この地に降り立った天女が、羽衣をこの松に掛けて、一糸纏わぬ姿で水浴びをしていた。
それを覗き見ていた漁夫の白龍は、良からぬ事を考え、羽衣を隠してしまう。
水浴びの後、天女は自分の素肌を隠すためのものが羽衣が無くなっている事に気がつき、激しく動揺する。
そこに白龍が現れ、羽衣を返して欲しくば自分の云う事を聞くようにと、天女をそのまま占しめてしまう。
天女はその後身篭るが、白龍の隙を見て逃げ出す。

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と、なかなかマッチョな話である。
仮に現在の創作ならフェミニスト達の非難の的になるであろう(笑)。

しかしながら、この伝説に関して、そのように解釈するのはハッキリ言って間違いといえる。
それはオリジナルにある「天人の舞」を白龍が見る事が出来た事について見落としているからである。
ちなみに、羽衣伝説の類例として、次の神話が挙げられる。

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~天使と格闘するヤコブ~

昔、長子の権限を奪ったヤコブは自分の兄と険悪な仲になった。
ヤコブはその兄との関係を修復しようと色々と奔走していた。
その最中、ある一人の男がしつこく因縁をつけてきて、それはやがて夜明けまで続く取っ組み合いの喧嘩になった。
苦戦を強いられた男は、このままではヤコブに勝てないと考え、ヤコブの太股に触れ、その関節を外した。

格闘の後、男がそのまま立ち去ろうとするので、ヤコブは自分を祝福してくれるように男に言った。
何故なら、ヤコブにとってそれが神秘的な闘いであったからなのだが、すると相手は、「あなたは、もはや名をヤコブと言わず、イスラエルと名乗りなさい。あなたが神と力を競って勝ったからです」と告げ、祝福したという
。(参考

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こちらも、何とも珍妙な話だが、羽衣伝説と共通する事柄としては、どちらも下位者が上位者に求めるというところにある。
勿論、その「求める」部分というのは、ある見方からすると当然の権利なのである。


ところで、これら神話が示すものとは何であろうか?

羽衣伝説

これに関して、重要視すべきは「天人の舞」についてである。
そしてこれを「奥義」とすると、白龍は結果的にそれを獲得したと見る事ができる。

天使と格闘するヤコブ

これに関して、力負けした天使が逆にヤコブに名を与えている事から、ヤコブが求めていたのは祝福でなくその「天使の名」を聞く事にあったと捉える事が出来る。


つまり、どちらも「奥義」の話なのである。
またそこに、一見マッチョに見える話が今日まで伝えられてきた意味がある。
そしてこのような見地は、他さまざまな事柄に関して、また違った価値観で以って物事を見る事を可能にするであろう。

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※他にも類例として、タケミカヅチ神とタケミナカタ神との国譲りの際の戦いが挙げられる。
この場合、上位者同士の戦いとなるが、ここにも同じ原理を見る事が出来る。(参考:「タケミナカタの服従」)


司祭の遺伝子

2008年04月28日 | sub-culture
人間相互における認識能力における差というのは、特に抽象的概念を用いる分野において顕著に現れる。
その抽象的概念とは、すなわち言語そのものとも云えるが、これに対する価値をどれだけ共有できるかが、現実社会において最も必要とされる事柄であると考える。
例えば、数学者や物理学者と日常会話するという事は、一見困難な事のように思えるが、相互に言語的価値観を共有する部分があれば、仮に専門的にズブの素人でも(完全にそうであるとは言い切れないが)会話は成立しうる。

ときに最近、このような能力が発揮できる人の種類というのは、次のような質問項目で見分ける事が出きるのではないかと考えている。

1、絵描が得意か?
2、書字が得意か?
3、運動が得意か?

何故、このような思いつきをしたのかは、個人的な話になるが、私の人間関係において特異と感じる人々の多くが、特にそれを習う事無く、これら3項目をクリアしている人が多い事による。
ちなみに、このような能力はシャーマン(司祭)の能力であると考えている。


このような司祭の能力に関して、日本におけるような世界でも特異な国の人にとってはあまりぱっとしないかもしれない。
何故なら、国民皆に教育が行き届き、また過去の歴史においても、名の無い農民や防人といった人々が詞を詠むなど、このような事柄はどこの世界においてもありえない事柄なのである。

しかしながら、この司祭の能力といったものは、実際は他を凌駕するのである。
その象徴というのが、まさしく”天皇”であるのだが、昨今、これを理解する人たちというのは、おそらく不遇の立場におかれているように思える。