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~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

とある、私の、シンクロニシティー

2010年02月28日 | sub-culture
[シンクロニシティー]はユングの訳書で[共時性]として紹介されている。
それは例えば、ユングフロイトとの激論の際に起こった出来事が挙げられる(参照)。


カール・グスタフ・ユング(1875年7月26日 - 1961年6月6日)


ジークムント・フロイト(1856年5月6日 - 1939年9月23日)

他にも身近な例で云えば、例えばある人物のついて強くそれを思い浮かべたとき、その人物にとってもっとも特徴的な芳香を感じたり、またそれを偶然、他人が携えてきたりすることもある。

さて、最近の私のシンクロニシティーは思わぬ処で起こっていたようである。


皆様へ、お詫びとご報告(from HOTEI Ofifical BLOG)


この記事は「悪の道」を書き込んでから偶然に発見したものであるが、折しもほぼ同じ時期に、患部は左右反対であるが、医者に懸かっていたというのは驚きである。

私のギブスが外れるころ、彼も同じくギブスを外すのであろうと考えると、背後にある女神[ミューズ]の象徴とする世界を共有しているのだなと、錯覚してしまうところがある。


ムーサ(from "ヴァーチャル絵画館")





女神

2010年02月15日 | sub-culture
アフリカでは黒いマリア、ヨーロッパのある山を見ればディアナ、富士山を見ればコノハナサクヤ姫神、そしてシナイ山を見ればY.H.V.Hが。
そう考えるのは大沼忠弘の影響が強いだろう。

そういえば昨年4月、現在かような状況に至ったある日の朝、清水港から見事な富士山を拝見したとき女神の存在を感じた。
そのときから何故富士は美しいのか、ようやく実感し得たと云える。あのようなグラマラスな突起は、まさに絶世の美女神たるに相応しい御神体である。
しばらくして、清水の家にY.H.V.Hからの使いが来た。
使いと云っても、現実はとある社会問題を起こした新興宗教の徒だが、私はこれでY.H.V.Hの意思を感じた。
Y.H.V.Hには彼らも寄り代なのだ。

ともかく、嫉妬深い女神は私の事を覚えていたようだ。

故人が教えてくれるもの

2010年02月15日 | sub-culture
ホンダのバイクに跨っていると、さながら本田宗一郎が語りかけてくれるような氣がする。


※静岡県井川の某所。後ろの岩塊は龍神か蛇神の顕現かもしれない(要:拡大)。


本田宗一郎はこう言っている。

世の中、動力が無いと進まないんだよ

思えば、ホンダの全盛期は日本バイクの全盛期でもあった。
これはまさしく、本田宗一郎が個を代表とするシンクロニシティーの典型的な現象であると云える。
また彼がそれを可能にしたのは、最もシンプルで、多くの者が見落としてしまう答えを携えてきた事からだと思う。

それなのに、当のホンダがそれを理解していない今の状況は悲しむべきである。
我々は普段「個」をして集団を象徴する。
この関係は、一霊四魂論である。ユング心理学では「元型」論である。
そしてまた、この象徴は、象徴足り得る者に、本来、自覚と才覚を与えるものである。

輪廻転生

2010年01月17日 | sub-culture
アーサー王の盟友の魔法使いのドラマがある。
イギリスのファンタジードラマだが、映像にも寓話にも富んだ、今時珍しい良作であろうか。

ときに劇中、魔法使いマーリンが老ドラゴンと対話するシーンがある。
ドラゴンはマーリンの事を前世の名で呼ぶのだが、マーリンはそれに強く違和感を感じる。
このやりとりは、私には何故か印象に残った。

それは霊魂不滅というテーマが語られているためであるが、転生以前の名で龍に名を呼ばれる事のやりとりは興味深い。
因みに以前、山陰神道の山陰基央翁のエピソードを紹介した事があったが、これは人間存在としての最大のロマンではなかろうか?

さて、大まかには、人には肉の系統と霊の系統がある。
それが可能であるのは、人という存在が複数の体によって構成されていることに拠る。
それはさながら[ウェハース]のようであるとも云える。
これを要約したものが[一霊四魂]論なのである。

転生をテーマにした場合、これは複雑に様々な実体を語る必要性が現れてくる。
例えば、前に「怨霊になった天皇」(著:竹田恒泰)という本を読んだが、この中に畏れ多くも[現在]の崇徳上皇のメッセージがある。
だが、人の死のプロセスを考えた場合、崇徳上皇自身が語られているとは考えづらいところがある。
人によっては、崇徳上皇の[和魂]と云えば分かるかもしれない。
勿論、崇徳上皇が未だ現世に近いところにお止まりになり、厳しい霊のご研鑽をなさっておられるのかもしれないが。
それは凡徒には伺い知れない事である。

そういえば、転生の複雑さを最も顕著に著した小説と云えば、西谷史先生の「デジタルデビル・ストーリー」である。
著作では、イザナギ神、イザナミ神の転生たる人物が現れるが、イザナミの転生とされる少女をイザナミ神自身が保護しようとするところは、さながら大国主命の奇幸魂のエピソードを思い浮かべる。
またここが、一般読者が理解に苦しむところであろうか。
言うなれば、ドッペルゲンガー現象なのだ。

しかし、方やイザナギ神の転生とされる少年にはイザナギ神自身が保護する事が無い。
というか、ハッキリその少年というのはイザナギ神の転生であるのかもしれない。
だからその少年自身をイザナギ神が保護する事が無かったのだ。

因みに、これを一霊四魂論で云うなら以下のようになろうか。

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○少年・中島一霊:イザナギ神奇・幸・和・荒魂: 肉の先祖、霊の系統より引き継ぐ
○少女・弓子一霊:イザナミ神奇・幸・和・荒魂: 肉の先祖、霊の系統より引き継ぐが、その後、イザナミ神の和魂と同一化。

-------

特に少女・弓子に関して、イザナミ神と同一化後、弓子が支配的人格である事を鑑みると、存命中の四魂交代の可能性が示唆されていると云えるかもしれない。

サタンを自称する者

2009年12月27日 | sub-culture
ファミコン版「女神転生」は原作のそれと違ったテーマで以て進行していた。
今回、ふと気になった事柄は、このシリーズ二作目のモチーフについてである。

二作目において、あるルートを選択する事によって、「サタン」が、ルシファーの、かつて配下の者であるという事が判明する。
そして問題は、この「サタンを自称する者」が一体誰であるかという事である。

因みに、「サタン」は固有名詞ではない。
エジプトの「セト」を示す(セト-アン)という話もあるようだが、基本は「神に敵する者」である。
となると、サタンであるルシファーがこの「サタンを自称する者」を卑下するのはおかしい。

さておき、ルシファー配下の下で「サタン」を自称出来る実力者は無数に存在すると考えられる。
そしてこれは「Y.H.V.Hを自称する者」という新たな命題を含んだ問題へと発展してゆく。

続・嘔吐

2009年08月10日 | sub-culture

先に『嘔吐』という記事を書いたが、これに非常によく似たやりとりを思い出したので以下に記そうと思う。

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(『機動戦士ガンダム』第13話「再会、母よ…」より)

(あらすじ)
母の住む故郷に辿りついたアムロは、懐かしの故郷が見るも無残に廃れている事に愕然とする。
その際、自分の母が前線のキャンプにボランティアとして働いている事を知り、母の元に向かうアムロだが、そこはジオン軍の巡回地域でもあった。
彼はその土地の人々に匿われる事になるが、巡回してきたジオン軍兵士を、不本意ながら銃撃してしまう事になる。
以下の台詞は銃撃後すぐの会話。


アムロ・レイ:母さん、怪我なんてしてやしないだろうけど……

カマリア・レイ:あ、あの人達だって子供もあるだろうに……。それを、鉄砲向けて撃つなんて。……すさんだねえ

アムロ・レイ:「じ、じゃあ! 母さんは僕がやられてもいいって言うのかい!? せ、戦争なんだよ!?

カマリア・レイ:そ、そうだけど! そうだけど、人様に鉄砲を向けるなんて

アムロ・レイ:母さん……。母さんは……僕を……愛してないの

カマリア・レイ:そんな……。子供を愛さない母親がいるものかい

アムロ・レイ:嘘をつけ

カマリア・レイ:アムロ……。私はおまえをこんな風に育てた覚えはないよ。昔のおまえに戻っておくれ

アムロ・レイ:今は……戦争なんだ

カマリア・レイ:なんて情けない子だろう!!


その後すぐ、アムロはホワイトベースからの通信に応じ、帰還する事になる。
そして母の台詞、


カマリア・レイ:男手で育てたからかしら……。あ、あんな子じゃなかったのに……。虫も殺せなかった子が……


次にアムロと母との離別のシーンである


カマリア・レイ:嫌なのかい

アムロ・レイ:嫌とかじゃないんだ……。あそこには仲間がいるんだ

アムロ・レイ:こ、これからも、お達者で。お母さん

カマリア・レイ:……ア、アムロ

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如何であろうか、さながらコリン・ウィルソンが論評するヘミングウェイの「戦士の故郷」ではないだろうか?
カマリア・レイは明らかに現実が分かっておらず、そしてアムロの愛し方を間違い、追い詰めている

以前に『ニュータイプの結晶化』と云う記事をして、富野由悠季氏のアウトサイダー的側面を書き記した事があったが、この台詞のやり取りは見事にそれを顕している。
ある意味、このようなやり取りは、『嘔吐』を感じる(若しくは感じた)人間にしか分かりえない暗号のようなものでもあろう。


ときに、西洋の全書(いわゆる「バイブル」)でイエス・キリストと呼ばれる聖人に関して、父ヨセフの家業を休みがちになっている事に関して、母マリアが心配し、ヨセフを通してそれを諌めようとするエピソードがあったように思える。
それに対しイエスは「(父)の仕事をしている」と云い、救世の伝道者として開眼してゆく際の、当然の応対をしている。
これに対し、彼の事実上の両親がどのような気持ちで以って接したかは不明であるが、映画『ベン・ハー』(1959年)の冒頭では、父親としてのヨセフの愚痴にも似た台詞を聞く事が出来る。


ベン・ハー 特別版 [DVD]
出演: チャールトン・ヘストンスティーブン・ボイド
監督: ウィリアム・ワイラー

Ben-Hur(1959) - Title Music
Ben-Hur(1959) - Title Music


ともあれ、アウトサイダーの問題にはやはり、理解者が必要なのだと云いたい。


意味存在

2009年07月11日 | sub-culture
本質的「意味存在」を考えるに、それはやはり「子供」であろう。
子供は、それと意識することなく、「意味」を求め、そして「意味」を成している。

先日、合氣道の子供の部の稽古の後、ある先生から話を聞いた。
その先生が町を散策中をしていた時のことだったそうだが、とある空手の道場に足が留まったという。
というのも、うちの道場の子供が必死になって、中の空手の稽古を覗いていたからである。

ときに、子供というのは「強くなる」という事に、何の疑いも無しに憧れる。
ちなみに指導のとき、これが子供に対する最大の煽り文句なのだが、不思議である。
「強い」ということは、現実の世界においては状況や判断において常に右往左往するというのに、己自身の研鑽にこれほど関心を持てるのは子供ならではである。
経験の不足のためと云えば、それはそうなのだが。

ところで、そう考えると子供に点数取りだけの学問を押し付けるのは酷に思えてくる(別に「ゆとり教育」が良いとは云ってない。あんな「魂」の抜けた教育は害悪にしかならない)。
グルジェフ翁は「ハスナムス」(※)的自我と自著で述べておられるが、大人の世界の退屈で、卑屈で、ルーチンワークとも云うべき煉獄に入れるため、それを育成するだけの教育なんぞは、この地上から一刻も早く、永遠に消え去ってもらいたいものだ。

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※<客観的良心>が欠落している個人のこと。良心のかわりに利己主義が生まれた人で、同時に<高次存在体>も形成されているので人々に与える影響も大きくなる。上記のレントロハムサニンはハスナマス個人である。(参照


追記:客観的良心に関する随想
われわれ「人」という存在が「良心」を機能的に持ちうる存在であるとしたら、何故、それをそれと自覚しえないのだろうか?
しかしながら、われわれは適切な方法で以ってそれを実感しうるときがある。
それはすなわち、「祈り」である。

嘔吐

2009年07月10日 | sub-culture

炎の匂い染み付いて むせる”というのはよく言ったものである。
装甲騎兵ボトムズ OP 「炎のさだめ」
(”炎のさだめ”「装甲騎兵ボトムズ」主題歌より)


そこで以下に、二つの相反する話を掲載しようと思う。
まずはアーネスト・ヘミングウェイの『兵士の故郷』に関する、コリン・ウィルソンの論評である。

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『兵士の故郷』は、1919年末に復員した一アメリカ兵士の物語である。
クレブスは入隊前、メソジストの大学に籍を置いていたが、帰国して気がついたことは、家族とも、以前の自分とも接触を失ったということであった。誰一人として彼の戦争体験談を聞きたがらない - 少なくとも、真実の話に耳を傾けようとしない

”戦地で自分に起こったすべてを不快に思うようになったのも、復員後、嘘をついたためだった。想い出しただけでも身うちが冷たく澄んでくるように感じられた日々、何かほかのこともできたのに、ただ一つのこと、男のなすべき一つのことを気軽になしていた日々は、もはや、その冷たい貴重さを失って、やがて、それ自体消え去った

故郷にある兵士は、すべてに対する無関心から、読書と球つきに毎日をすごす。女を求めたい気持ちはあるが、わざわざ見つけに行くとなると、ものうさが先に立った。そういう彼に、ある朝食の席上で母が話しかけてくる

”「神さまは、人間誰もが仕事をすることをお望みなのだよ。神さまの支配する王国になまけものが一人だっていてはいけない」”

こうした話ほど、「アウトサイダー」にとって無意味なものはない。クレブスは母に言う。

”「ぼくは神の王国なんかにいやしない
「人間はみなそこにいるのだよ」
クレブスは、いつものことながら、当惑と腹だたしさを感じた

次に母が質問する。

”「おまえ、かあさんを愛してくれていないのかい?」
「うん」
母はテーブル越しに彼を見やった。眼がうるんでいる。母は泣きだした。
「誰も愛してなんかいないんだ」

言っても無駄だった。母に伝えることは無理なのだ。わからせることはできない。馬鹿なことを言ってしまった・・・。

「今の、本気じゃなかったんだ。何か腹をたてていただけです。かあさんを愛していないなんて言うつもりはなかった」・・・・・・
「わたしは、おまえの母親だ。おまえが小さな赤ん坊だったとき、よくおまえを抱いてやったものさ」
クレブスは辟易し、かすかな吐き気を感じた。”

母は、祈るために一緒にひざまずこうという。彼は、言われたとおりにするが、いくらせがまれても、祈ることはできない。のちほど、彼は思案する。

”自分の生活が複雑にならぬよう、今まで注意してきた。今までのところ、生活は私をほおっておいてくれた。母にすまないと思って、さっきは嘘をついた。カンザス・シティーへ行って職を得よう・・・・・・”

(「アウトサイダーコリン・ウィルソン著 44項6行~46項11行)
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続いて、隆慶一郎作、「柳生刺客状」から引用する。
その前に、この話の主人公、柳生兵介の境遇について触れておく。

柳生兵介がキリシタン一揆の平定において、結果的にそれが虐殺と相成ったのは、それは兵介が生来の殺人鬼であるためでなく、剣士という宿命からであった。
兵介は柳生の里に戻ってから、ただ只管、引き篭もった。
兵介の世話は父である新次郎がつききりでしていた。

そして本題はその虐殺の半年後である。

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兵介について肥後に赴いた者のうち、二人が失踪し、三人が狂った。
・・・(そのうち)兵介は家に篭るのを嫌い、終日野山を歩くようになった。遂にはそのまま野山で眠り、家に帰らなくなった。

・・・そして遂にその日が来た。

春だった。一面に名もなき花の咲き乱れた花野に、兵介は立っていた。眼が異様だった。
兵介にはその花野が、屍で埋まった高原郷の村と映った。赤は血であり、白は女の肌だった。そして緑は屍体すべての顔色である。

「わっ」

凄まじい叫喚が、兵介の咽喉から発せられ、次の瞬間、兵介は花野の中に倒れ、指で土をかきむしっていた。

「わっ。わっ。わっ。」

指は花をむしり、草を引き抜き、土をえぐった。花が、葉が、土が虚空に散乱する。それが悉く屍体の腕に、首に、臓腑に映った。

新次郎は無言で凝視している。彼には、兵介の見ている物が見えない。だが推測はついたこのまま狂うかもしれぬ、とも思った。
それでも動かなかった。狂気もまた一個の救いであることを、新次郎は知っているそれで救われるのなら・・・・・・やむをえないと思っていたのだ

四半刻も兵介の狂態は続いた。
やがておとなしくなった。
死んだように倒れて、また四半刻が過ぎた。


不意に口が動いた。


修羅だったよ

新次郎は兵介のそばに曲がった腰をおろした。

あれは、全くの修羅だったよ、おやじ

噎せぶように兵介が云った。

分かっている

分かってるって。おやじに分かっているって

兵介ははね起きて云った。野獣の素早さであり、激しい怒りの眼だった。

嘘だッ

嘘じゃない。おれも見たよ

嘘だッ。おやじは生きてるじゃないかッ

それは・・・・・・

新次郎は憐れむように兵介を見た。

おれはその中にいたからさ

なんだって

死人(しびと)の中にだよ。おれは倒れて、死人の中にいたんだ。大方、死人と変わりはなかった

・・・・・・・・・・・・

(鉄砲によって)腰をくだかれてね、身動きひとつ出来なかった。お前のように、立って見おろしていたんじゃなかった

兵介が妙な声を出したと思ったら、泣き出した。高原郷で遂に訪れてくれることのなかった涙が、今、兵介の頬をさめざめと濡らしている。

おれはその時、修羅の中にいるとは思わなかった

暫く無言の後に、新次郎がぽつんと云った。
兵介が新次郎を見上げた。新次郎の眼は虚空を見ている。

おれはね、まさしく仏の中にいたよ

長い沈黙があった。

だから生きているんだろうな、今でも

新次郎の声はききとれないほど幽(かす)かだった。”

(「柳生刺客状」 作:隆慶一郎 50項14行~53項11行 より”要約と括弧はO∴EL”)
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この2つのエピソードは共に若者の旅立ちがテーマにある。
しかしながら、決定的な差異というのは、自分の両乳に抱いた乳飲み子を夢見る母と、現実を生きている父親である。

そういったものを捉えると、クレブスには全く、望みが無いと云える。
クレブスはもはや乳飲み子でなく、「意味」を知った人なのである。
「意味」を知った人に、とくとくと意味の無い「無価値」なものを押し付ける母親は、彼にとって、ただ「辟易」とさせる「嘔吐」の原因に他ならない。
そして結果的に、クレブスは「嘘」をつき続けるのである。

その逆、新次郎は「意味」を知った父親である。
それは「仏」という言葉に集約されようが、この意味ある言葉は、兵介を確実に「意味」ある行く末に誘うことになる。
後に、兵介は永い漂白の旅に出ることになるが、それは「涅槃」へと続く何かを思わせる。


色即是空、空即是色

2009年06月04日 | sub-culture
霊は研鑽するほど影響力を増す。
それは時に、巨人と表されるが、強ち間違いではないらしい。
例えば、旧約聖書に出てくる「エノク」は生きたまま天に行ったが、彼はその後の伝説ではメタトロンとなった。
また他にも、ある古神道流派の遠祖明神の話、黒い甲冑を着込んだ巨人の武士がそれにいるというのを読んだ事があるが、ともかく、そういう事があるようだ。

ちなみに何故、そのような事を書いたかといえば、昨日の合氣道の稽古による。
その際、「拡大法」、「集中法」について学んだが、これは己の臍下三寸の一点が2倍2倍とだんだんと大きくし、そして逆に2分の1、2分の1と小さくするという心の方法である。
この目的と効果については別にここで書く必要も無いが、しかし、興味深かったのは各人がどのようなイメージで「拡大・集中」を行ってたかだった。

例えば、ある壮健な老齢の方の場合、「水に波紋がある一点から広がる感じ。そして戯逆にその波紋が一点に集中していく感じ」とお答えになった。
他にも、齢80を超える方のイメージとして、「孫悟空のように大きくなったり小さくなったり」とお答えになる。
前者に関しては、私のイメージに似ていたが、後者の方に関しては、冒頭の「エノク」の話を思い出して、練習の後、その事を伝えに行くほど感心した。

ちなみに私のイメージは、「一点を中心に恒星が宇宙に対して影響力を及ぼすように広がり、そして宇宙に隅々に影響力を及ぼした後、宇宙から一点に集中して感謝を受け取る」というものである。
また「一点」は宇宙の中心であるから、私が動くと、一点を中心にして世界の様相が異なって見えてくる(変化)。
他に、「拡大・集中」のイメージでは、「色即是空、空即是色」にあるように、黄金発色の一点が虚空に消え行くように、普く世界に広がる(だが決して存在が消える訳ではない)、そしてやがて何も無いような空間から再び黄金発色の一点が出現するといった具合というのもある。

ともあれ、個人個人によって、このような差異がある事は喜ばしい事である。
他者との研鑽を通して、実践者はより洗練された鋼へと変化してゆくのが望ましい事である。


現代における古典的戯劇の提案

2009年05月19日 | sub-culture

ちょっと前に「ツンデレ」というのが流行ったが、つまりはまあ、特別興味をもった人物に対してワザとつらく当たるといった幼児的反応なんだろうと、当時から思っていた。
またそれを追ってか、次には「ヤンデレ」とか、色々な「デレ」が溢れ出した訳だが、思うに、どれも「性善」的な人間の反応ではない。
このような「未熟さ」が、現在の俗物的「」に相当するのだろうが、しかし、それは現実生活においてはただの気まぐれに起こりうるアクシデントに収まってもらいたいものだ。


ときに、人の感情というのを大別するに「」、「」、「」、「」と区別することが出来る。
これは一般的に良く知られた事柄であるが、しかし、その内容については皆、考えたことがあろうか?

私見として、

・・・喜びを面に顕にした状態
・・・怒りを面に顕にした状態
・・・哀しみを面に顕にした状態
・・・善なる面を顕にした人の状態

となるが、ちなみに、この4つのポイントというのは、全て感情を面(表情や態度)に顕す事にある。

色々と物議を醸し出しそうなのは「」に関わる事柄であろうが、これはよくいう「何だか楽しそうな状態」ではない(もしそうすると、「」と被るではないか!)。
またこれに「善なる」と記しているが、それはつまり「理想人の通常の状態」といった意味合いで用いている。
もっと噛み砕けば「普通の状態」なのであるが、それが一体何であるのかは「性善」的な状態であるとしかやはり言いようが無い。

そして、これらの相関を表してみる。
-----------------
     

     ↑
 ←  → 

-----------------

この相関を見る限り、「」はそれぞれ感情表現の出発点となる。
ともなれば、ある表現において、「」の状態は重要になる。
例えば、「」を伴う「」の場合

------------------------
      

       ↑
怒怒 ←  → 

------------------------

このような相関が生じることになる。
具体例を示せば、普段「」の状態から怒りが面に顕れている人は、それぞれ感情表現に「」が伴う訳である。
先の「ツンデレ」の場合、また別に「尊大」とか付する事が出来ようが、まあこれが云わば、普段我々が思い込んでいる「性格」というものを形成する。


さて、ここまで書いて何が一体申したいのかというと、結局のところ、「」の状態の重要性、殊更、それが「性善」的、若しくは「自然の状態」であるべきである事が一つ。
そして、各それぞれの感情表現を、この本来の「」の状態から的確に顕にする事の必要性である。
またこれには受け手の状態というものも含まれ、つまり、ポイントはこの3つである。


そしてこの3つを成長させるのに、適当なある戯劇を提案する。
それはこれまで我々がしてきた、所謂「人形遊び」なのだが、重要なのはこの「4つ組み」を意識する事である。
ちなみに、「人形劇」といっても、それは必ずしも人形でやる必要は無い。
それこそ、何の変哲も無い透明ガラスのコップや、またナイフ、スプーンでも良い。
しかし、意味合い的には、感情を込める器が適当かと思える。
というのも、人の形をある器に例えるならば、用いる道具も、やはり「中身を込められる」ものである方が良い(※)。


とまあ、これは儀礼的な見地から書いたものだが、しかし、余興として皆に見せる試みを通して、その演技者の向上を図る上ではもっとも適当ではないかと思う。
勿論、戯劇を観覧するものも、その目的を以てる人、若しくは感性の鋭い人など、気がつくこともあろうが、ともかく、試みとしては使い古されたある種の古典である。
しかし、この古典的作業こそ、今立ち返るべく事柄なのではと思うところがある。

----------------------
※「人形劇 三国志」を思い出した。何故ならば、人形は常に「」の状態であるからだ。またその人形が、卓越した創作主に由って、自然に近い、慈愛に満ちた「」の面を見せるならば、戯劇の本質も伝わってこよう。
Marionette Zhaoyun-01


心霊的自己防衛

2009年05月18日 | sub-culture

先に書いた記事の起因となったものは、実は最近、私の関心事のうちに入ったある女性のためである。
正確には女性でなく女子なのだが、何故にかような些細なことに、あるとき突然、苛烈極まりない心理状態に陥るか思索を巡らせていた。
すると先ほど、ある印象が私の心の奥底から這い上がってきた。

その心象とは彼女の「両眼」である。
ほんの一瞬の、挨拶をして顔を見上げたときに私の目端に映った光景であったが、その2つ眼が強く、鋭い光を放っていた事に気がついた(※1)。

そしてその後、私の心に思い浮かんだのは、ダイアン・フォーチュンの「心霊的自己防衛」である。
ちなみに、この著書に関しては未読であるが、その内容の一部について、確かコリン・ウィルソンが触れていたのを読んだ事がある。
それは無意識のうちに「魔術」を使う事のある人の存在であった。

ときに、”無意識のうちに「魔術」を使う事のある人”とはどういうものであろうか?
こればかりは体験を通して気がついた者同士でしか実感出来ない事柄であろう。
私は大学時代に、ひどくこれを用いている人物に出会う幸運(不幸か?)(笑)に巡り合わせたが、現在の関心事にあるその少女とその学友らというのは共通項がある。

その共通項をあげるとするならば、

1、獣のように鋭く光を放つ両眼
2、場の雰囲気を作り出す
3、人格破綻

である。
1については先に書いた通りである。
2に関しては、私というイレギュラー要素が入ったその当日、初めてその場で反乱が起こった事が(目撃当事者から聞いた事)、過去の体験の裏づけとなる。
最後については、現在の関心事にある人物は少女であるため的確とは云えないが、もし彼女に魔法力が認められ、また且つ、そのままの状態で成長してゆくならその可能性は無きにしもあらずである(事実、これまでの人物は、慢性的な嘘つきをはじめ、精神的疾患と思しき態度を現す事が多かった)。

さて現在、私は彼女の術中下にあるわけだが(事実、動悸が激しい。他、この記事の第一の投稿を阻止されている)、この対抗策は「笑うことこそ、最大の防衛」であるそうだ(参考)。
何というか、フォーチュンの腹の強さが現れるかのような言葉だが、実はこれは修験の諸流ではよく知られている。

まあともあれ、フォーチュンの「心霊的自己防衛」を読むべきかと思った。
また他に、幼児期に施す修養の危険性についても気がつくことも出来た(※2)。

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※1:さながら「光る眼」である(笑)(原作:ジョン・ウィンダム「呪われた町」)

パッケージは新しいものだが、実際は瞳が赤くなったり、光線を放ったりはしない。
寧ろオリジナル版の方が近い。

Village of the Damned (Original Trailer)
Village of the Damned (Original Trailer) (from Youtube)

※2:ルドルフ・シュタイナーについて次のようなエピソードがある(以下)。

『自身(シュタイナー)が40歳になるまでは霊的な指導を引き受けなかったのは、40歳までに霊的な指導を引き受けると誤謬に陥り易くなるためだとも言う(発明は40歳までのは人類の道徳を退行させ、40歳以後は人類の道徳に貢献するものにもなる、と主張されている。)。』

(Wikipedia:ルドルフ・シュタイナー霊的な知識精神科学)」より)


マッピング

2009年04月04日 | sub-culture
「我らは天地の中心の一点を下腹に包蔵しているのである」というのは、統一合氣道の唱句集に存在する文言である。
これから想起するのは次なる「中心を持たない概念崩壊する」という文言である。
これは何故、ヨガにおいては天動説的な発想が支持されうるかという、逆説的説明である。

これを具体的に実感出来ないのであれば、次なる事柄を試してみる事をお勧めする。


1:FC版女神転生を用意
2:マッピングの際、開始地点の座標を常に無作為に変えてみる
3:その際、攻略サイトや攻略本は一切用いない


因みに、地動説の中心となる点は「太陽」にあろうか。
ともかく、特に文系型の人間はこの作用点に関する考察を早くからなすべきかもしれない。

力んでは心は込もらない

2008年12月11日 | sub-culture
「心を込める」というのは「力む」とは全く違う。
それは統一合気道で「胆田」に関する訓練や考察で実感した事だが、とにかく世間では「心を込める」事は「力む」事と、恐ろしい位に誤って伝わっている。

例えば「眼力」を例に挙げてみる。
「眼力」とは、すなはち、その個人が眼孔より発する雰囲気を表すが、特にこれは演技の世界では重要な事柄である。
しかしながら、最近のそれを見るに、どういう訳か、その雰囲気を演じる際、皆が皆、眉をしかめたり、瞼を突っ張らせる。
これは「眼力」ではない。

他にも、楽器演奏の分野でも、「力む」事を「心を込める」と勘違いしている人は多い。
因みに、今思い出しても呆れる事だが、あるいい歳したジャズギタリストに運指に関する意見を求めた時、「利き腕は押さえが強い」など、全く以て荒唐無稽な答えが返ってきた事がある。


ともあれ、このような錯誤が「原罪」の一部と云えよう。

「美♂美♀」考

2008年12月02日 | sub-culture
「美女」は本当に冷たいのか?
これは世の男性に定着している一般的イメージに対するアンチテーゼである。
またそれは「美男は冷たい」といった女性一般のイメージにも云える事だ。


美男美女というものを考えるとき、思うのは彼らに懸かる呪詛の類である。
基本的に彼らに懸かる呪詛というのは、その呪詛の主体が客体である美男美女への占有欲であると云える。

しかし現実に、呪詛主体は彼らを占有するに至らないので、呪詛をかける訳だが、それがまさしく「美人は冷たい」と云う観念なのであろう。

因みに、この呪詛というのはかなり効果があるようで、それは世間の美男美女を孤独にする。
要は世間から特別扱いする事で、上げて下げるといった感じか。
まあ実際、「人を呪わば穴二つ」と云うように、呪詛主体もどんどん歪んでゆく訳だが、この影響というのはかなり劣悪である。

まあとどのつまり、人の容姿は良し悪しに留めておいて、問題はどんな面白いやつかそうでないかだと思う。
「3日も居れば美人も飽きる」と云った言葉もあるが、その真意は人物評なんだと。


ときに「カンナさん大成功です」という漫画がある。
これは個人的にかなりの名作であると思う。
内容は好きな異性のために整形してまで完全な美を獲得したヒロインのドタバタコメディだ。

漫画を読んだのは大学の頃だった。
漫画も面白かったが、何気に巻末の作者のコメントも面白い。
その中に、作者の美人担当者を絶叫マシーンに乗せて、落下する瞬間に撮った写真を掲載してコメントしているが、事前の写真とは在られもない表情になっている姿にエロスを感じつつも、可笑しくて仕方がなかった。

何というか、こんな呪詛であれば可愛くて愉快で良い。

大変だ南極の氷が溶けている!!

2008年12月01日 | sub-culture
世界各地や極地の異変に「環境!環境!」と騒ぐ程不毛な発想はない。
それは有限な資源の保全や、また近隣工場が浄水に重金属を垂れ流しにするといった環境汚染に係る事柄と比べたら、全く具体性に欠けるからである。
そしてその具体性の無いところに、「俗的環境問題」という虚構が生み出される余地があるのだが(※1)、想像力を使うなら空想科学文学に用いた方が余程生産的である。

例えば昨今、南極の永久凍土が溶けているといった話があるが、それを環境KittyGuyに言わせれば、人の業(ごう)だといい、また、今直ぐに改心せねば(※2)、地球環境は壊滅的状況におかれるという。

しかし、ここで疑問を差し挟まねばならないのは「どの程度の壊滅か?」である。
「それは未知数である」と、彼らは仰るだろうが、地震で津波が大陸を覆い、極移動が起き、今ある大地が沈み、沈んだ大陸が浮上すると云った状況と比べれば、実際のところは「植生と生存保全の位相が多少変わる程度」の話なのだろう。
まあ想像力の無い人間の考えそうな事だ。
またそれで本当に知識人を騙し通せるかと云えば、それは有り得ない。
あくまで支配的性質を持った人間が愚民に脳感染症を結晶化させるための発想であるように見える。

さておき、ここに創作たる空想科学文学の発想が介入しうる下地が出来上がる。
キーワードは「環境問題」、「支配」、「古代文明」である。

“「環境問題」を次世代の「支配」の布石として用いようとしている為政者達にとって、南極の気温上昇は格好のネタの一つであると同時に、「謎」でもあった。
それは地球上の気温は確かに上昇しているが、しかし、南極のそれは「ある部分を中心として」上昇しているからであった。
その謎を解くために、為政者達は極秘裏に調査を進めていたが、あるとき、その謎は民間の研究家によって偶然に「発見」されてしまう。

研究家の発見した「それ」は、一見して何かの建造物であった。
彼は、太古よりの意志と未来への復活の兆しを看て戦慄し、「それ」に「王城」と名付け・・・。”



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※1;某所の喫煙所にある「分煙は環境問題のため」といった荒唐無稽な論調などが顕著であり、これに似た例を挙げたらキリがない。

※2;「原罪」は秘儀参入者にしか理解しえない発想である。
これを俗人が解釈しようとするところに、係る今日のような状況が発生する。
また「性善説」「性悪説」と云ったものも、「哲学」という史学的学問の範疇にある限り理解しえない。
広く「ヨガ」において、その答えは明確である。
つまりそれは「人は本来、“性善”であるが今は“性悪”である」という事である。
カバラではそれを「生命の樹」に表し(一般的に知られる形は堕落後の樹である)、エジプト神の座姿で以て本来の性質(性善説)を試みる。
神道ではイザナギ大神の「禊ぎ」で以て、またニニギ尊のもたらされた「十種神宝」(三種神器)で以て自らを、更に臣民までも救う。
グルジェフは性善説、性悪説に関し、その結果生じ得る性質を述べ、秘儀参入者に対し客観性を与えている。

因みに、昨今の「原罪」を押し付ける「俗的環境問題」は、グルジェフ的に云えば「大いなる慈悲で以て備えられたクンダバッファの跡に残った悪癖による機能不全の結晶化の結果」と云えるかもしれない。