青春忘れもの
「尾竹竹坡の〔波に初日の出〕は当時、なかなか評判のもので、おそらく正月用の依頼にこたえるため、竹坡おじは門弟数名を指図し、汗みずくになって筆をふるっていたものであろう。
新国劇の沢田正二郎が危篤前の小康を得た折、この竹坡おじが見舞におもむき二枚折の屏風に獅子舞をえがいたものを贈ったところ、沢田は大変によろこび、この絵屏風へ〔何処かで、囃子の声す耳の患〕の句を書きそえた。
のちに、私が新国劇の座付作者と世間ではいわれるほどに、劇団と密接な仕事をするようになろうとは、竹坡おじも思ってもみなかったろう。」
「私の生れた年に、関東大震災がおこった。 それで、私は六歳の正月すぎまで、埼玉県の浦和で父母と共に暮したのである。
田園生活は父母もはじめてだったろうが、そのころの浦和の印象は、とても現代の浦和市からは想像もつかぬ田舎そのものであって、母が庭へトマトや茄子をつくり、この、朝露にしめった新鮮な野菜を母と共にもぎ取っている光景と、石置場で遊んでいるとき右の手を石にはさまれて大怪我をしたときのことを、いまもおぼえている。この手の傷あとは四十年を経たいまも歴然とのこっている。
この浦和で、父は失職をした。」
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『40歳半ばで半生記を無理に書かされた池波正太郎は長生きできなかった。人間は自分の命の道のりを早く振り返るべきではない。そのような癖をつけてしまうとこの時に対する執着が薄れてしまう。今の幸せに溺れる後期高齢者諸氏は気を張って生きてもらいたい。自分はまだそんな年ではない。』引っ込むのはまだ早い
この時に対する執着は、多世界観で維持するのは至難の感情