公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

善の研究 西田幾多郎

2015-10-06 17:54:11 | 今読んでる本
『唯物論者や一般の科学者は物体が唯一の実在であつて、万物は皆物力の法則に従ふと言ふ。しかし実在の真相は果してかくの如きものであらうか。物体といふも我々の意識現象を離れて、別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与へられたる直接経験の事実は唯この意識現象あるのみである。空間も時間も物力も皆この事実を統一説明するために設けられたる概念である。物理学者の言ふやうなすべて我々の個人の性を除去したる純物質といふ如きものは、最も具体的事実に遠ざかりたる抽象的概念である。(善の研究――四の三)』

純粋経験はあるか?無いと思う。なぜなら現在が自明ではないからだ。
何度も言うが経験は発見されるものだ。ベルクソンは時間は空間と異なり分割できないと述べているが、私はその通りと思う。同様に時間の関数である経験は分割できない。西田が「経験の事実は唯この意識現象である」という通り、経験は概念的に切り出された意識現象としての時間である。それゆえ西田の言う純粋経験は連続の前提無しには成り立たない。むしろ真実は逆にどこまでも遡ることが可能な前提となる宇宙年齢と等しい精神履歴、巨大な情報を持つ。生まれる以前の精神履歴も当然持つ。西田幾多郎の哲学はいつも惜しいところで認識論側に溢れる。存在論を拡張したつもりでも存在論の罠カントの物自体の呪いに絡め取られている。しかし存在論を作用として捉える日本人独自の生成論が西田哲学には貫かれている。ここは評価できる。しかしどうしても観念論の系譜であり、時代がかった存在論に引きずられている。80年も昔の西田哲学を今ごろ相手にしている自分の方が時代錯誤と言われてもいい、惜しいと思うのだ。

倉田百三は、西田幾多郎を弁護して
「しかしながら注意すべきことは氏は口を極めて唯物論者を非難しているけれども、けっして主観のみの実在性を説く唯心論者ではないことである。氏はむしろヴントらと立脚地を同じくせる絶対論者である。」

こう西田は非唯心論側であると述べる。
結局唯物論は現在を自明とする狭い意味の経験主義であり、唯物論では自明の根拠さえも問わないので、手抜きの経験主義哲学に過ぎない。「経験とは発見するもの」と私が言う時、西田と同様に唯物論を拡張された思惟空間に埋葬する意図がある。気持ちの上では同志である。従って『最も具体的事実に遠ざかりたる』経験主義が唯物論であり、ご都合主義でひん曲がった唯物論が歴史的社会主義であるという立場である。西田が攻撃すべきだったのは、物理学者の信じる実在そのものではなく、現在の自明という虚妄信念である。梶田氏ノーベル物理学賞を記念して。







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