公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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日常と無常 「世界は私の表象である。」というショーペンハウエルの意図

2013-01-27 18:19:00 | 日記

「仏陀、エックハルト、そしてこの私は、本質的には同じことを教えている」 

アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)


アルトゥール・ショーペンハウアーは、その美学があらゆる芸術家にインスピレーションを与えたことから「芸術家の哲学者」と呼ばれている。また、存在の価値を問う世界観を明確にしたことから、悲観主義の哲学者としても知られている。その優雅で筋肉質な散文は、ドイツで最も偉大なスタイリストの一人という評価を得ている。しかし、彼の思想は、ジークムント・フロイト、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、そして最も有名なフリードリヒ・ニーチェなどの著名な哲学者たちの研究に影響を与えた。また、ヘーゲルは東洋思想を取り入れた最初のドイツ人哲学者としても知られている。


ショーペンハウアーの思想が象徴的なのは、いくつかの理由がある。彼は自らをカントの唯一の真の哲学的後継者だと考えていたが、世界は本質的に非合理的であると主張した。ドイツ・ロマン主義の時代に書かれた彼は、永遠を強調する古典主義的な美学を展開した。ドイツの哲学者たちが大学に定着し、当時の神学的な関心事に没頭していた頃、ショーペンハウアーは無神論者で、学問の外に身を置いていた。


Arthur Schopenhauer (1788—1860)

Arthur Schopenhauer has been dubbed the artist’s philosopher on account of the inspiration his aesthetics has provided to artists of all stripes. He is also known as the philosopher of pessimism, as he articulated a worldview that challenges the value of existence. His elegant and muscular prose earn him a reputation as one the greatest German stylists. Although he never achieved the fame of such post-Kantian philosophers as Johann Gottlieb Fichte and G.W.F. Hegel in his lifetime, his thought informed the work of such luminaries as Sigmund Freud, Ludwig Wittgenstein and, most famously, Friedrich Nietzsche. He is also known as the first German philosopher to incorporate Eastern thought into his writings.

Schopenhauer’s thought is iconoclastic for a number of reasons. Although he considered himself Kant’s only true philosophical heir, he argued that the world was essentially irrational. Writing in the era of German Romanticism, he developed an aesthetics that was classicist in its emphasis on the eternal. When German philosophers were entrenched in the universities and immersed in the theological concerns of the time, Schopenhauer was an atheist who stayed outside the academic profession.




 日常とは、何時からだろう。
   眠る、起きる、眠る。
   起きる、眠る、起きる。

 日常こそが無常でなくして、何が無常だろう。
時間の矢印など幻想である。そう無常は無時間でもある。
 目的もなく、果てもなく、甲斐もなく。日常こそが無である。人という地獄である。
 
 無に創造されたわれわれは無でしかない。ショーペンハウアーはここを射ている。

「世界は私の表象である。」ショーペンハウアーはこうして仏陀に近づいていった。主観によって制約された客観しかないという的を彼は射た。心理学的にも世界は認知上、システム1がもたらす自動現象にすぎない。「しかしひとり意志のみは物自体である。」とショーペンハウアーは言う。

 はたしてショーペンハウアーによるドイツ観念論の修正が正しいかどうか私にはわからない。

 しかしながら。つまり、ショーペンハウアー的に考えて、日常は何時から始まるかと問えば、
   認知と判断から意志の情熱が生まれた時から始まる。

   眠る、起きる、眠る。 起きる、眠る、起きる。 

このように日常は無常、だが、意志ある限り、世界は毎日新たに物自体として始まる。これもまたエピキュリアン的シンプルライフで楽しいのではないか。

 太陽が昇っても、目覚める意志がなければ、その日あるいはその朝は来ない。これは全く正しい。

 つまりわれわれの虚無存在は全く意志の問題であると捉え、われわれはリアリティを再構築する生物的虚無存在に過ぎないと断じていい。と思う。
 従って日々が無常と背中合わせであるという自覚構造が、ショーペンハウアーの仏教的なところである。

認知と判断に随伴する強い感情こそがその意志ベクトルの源泉であり。感情と強く結びついた判断を避けていては本当の世界は始まらない。目的もなく、果てもなく、甲斐もなく。我家の猫と変わらない。悟りとは大きな目覚め、リアリティの再構築のことなのです。再構築の前には全ては還元され、無となって主客の対立の全ては頭のなかから一度消えなければならない。悟りは自己消失や忘我ではない、知識や意志によらない、心と身体の静寂と自在準備状態がリアリティを整えている。

物自体としてあるとショーペンハウアーが言うのは、現代の心理学で言えば、システム1の見えざる総合性のことだろう。これをシステム2が決意として意志ベクトルを固定する。

客観的なものがその人の朝を決めるのではなく主観的なものがその朝を決める、
「世界は私の表象である。」ということが、カーネマンのシステム1&2の観点から接近すると、ショーペンハウアーの「世界は私の表象である。」意図が何であるかがよく分かる。現代の心理学は哲学を包み始めている。現代の脳化学はエピキュリアンを擁護し始めている。

意志を胚胎する日常が本来無であるというのは、親鸞の悪人正機説にも通じる究極の魂の救いでもある。
救いは智から仁を創造し、人間愛の創造という最難関事業を可能とする。

陽はまた昇る意志ある者たちの上に。


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