沼隈文化財研究所

「温故知新」
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「広島県立歴史博物館友の会」歴史・文化サロントーク

2010年01月28日 | 講演会情報

「広島県立歴史博物館友の会」では、
会員相互の中で得意な分野での会員を招いて、サロントークを行っています。

今回は、財団法人 広島県教育事業団
(旧名:広島県埋蔵文化財調査センター)で長年活動活躍されて来た、
篠原芳秀さんをお招きし、お話を伺いました。


「中世のお墓に入っていたお金」-広島県を中心に-
と題してのサロントークとなりました。


日時:平成22年<2010>1月24日(日)14:00から
場所:広島県立歴史博物館 研修室


尚、文末の資料集は、当日配布された資料の中からのものです。



(講演中の篠原さん)


1.はじめに
1)資料の説明と案内
 全国の中世のお墓から出土しているお金について、『出土銭貨研究会大阪大会「中世の墓と銭」資料集』が、昨年6月頃に研究会の世話方から、全国的に中世のお墓から出土するお金に関する資料を集成するので、広島県関係の担当を依頼され、9月末の締め切りで、大会が11月21日から22日に開催され、9月頃にとりまとめ、その中の広島県分のものがほぼ全て、昨年関わったこの資料に掲載されています。
 (資料3)[広島県 銭貨出土中世墓一覧](資料4)[文献一覧]

 この資料作成に関係する参考資料が、文末の[資料集]です。
 これらの資料が、中世のお墓について資料が作られています。
 この中で、樋口英行さんは、お金に関するものを含めて中世のお墓に関することを集成しているのが、(*3)『中世墓資料集成―中国編―』です。
 それらのものを、集めて表にしたのが、(資料3)です。その資料の文献NO:が(資料4)のNO:となります。
 旧NO:の中で空欄のものは、(*3)に載ってないものとなります。
 今回の資料の中の後ろに付けてある図の資料は、広島県内34遺跡の中、40例を確認し、発掘調査で図示されているものをピックアップしているものです。
 従って、発掘調査を行って銭貨が出土してもお墓に伴って出土したものかどうか不明なものは、この様な図示ができないことになります。
 発掘調査を行っていて、このお墓のこの部分・この地点から出土したものを図示し、それを今回は使用し載せています。

2.人と墓地
1)売地券
 人が亡くなると墓地に葬る訳ですが、その時にお金がどの様に係るかが問題になります。
 現在の仏教関係の葬送では、6枚のお金を紙で印刷したものをお棺の中に持たせているようです。
 何故、現代に6枚となって行ったのかが、今日のテーマになります。
 今まで、遺跡の発掘調査を担当して来たので、詳しい話の内容については、先輩諸氏が書籍にしているものの中から話す事になります。

(*5)の藤澤さんが「六道銭の成立」で書かれています。
 ここで、六道銭なのか六文銭なのかどちらなのか考えられますが、
6枚のお金に変わって行く過程を、私なりの解釈でお話致します。

(*6)の「宝性院跡地取作法遺構」による図面ですが、柱穴跡から建物跡の推定を行い、その建物跡から4ヶ所の遺構(黒い矢印:SK01~SK04)が見つかっています。
 これは、建物を建てる際に神様にお願いをする(地鎮祭の)やり方を想定することになります。
 これらの痕跡から、建物を取り囲むものと、建物の真中にあるものが考えられ、(もう一箇所あったはずであるが別の遺構により壊されている)
4ヶ所あるものは、範囲を示し、中身は四角い盆の上に5枚の皿を乗せている状況が、盆の四隅に4枚と真中に1枚が乗せてある事が見つかった。
 この様な痕跡から、どの様な地鎮祭を行ったのかを考えることにより、このようなやり方は貴族社会の中で行われて、恐らく平安時代頃に行われていたのではないかと思われる。
 これは何のために地鎮祭を行ったのか。
 この事は多分、土地の神に、この土地を使わさせて頂き、安穏でありますように、と祈りを行ったのではないかと思われる。

 お墓の場合も、土地の神にこの土地を使うにあたり、お願いをした、のではないか、と考えられる。
(参加者から:伊勢神宮で御参りをすると、お札を頂き、中に砂があり
家の四隅に撒きなさいと書いてあり、神道系には、そのようなやり方があるのではないか。)
 今の話で大事な事を言われた。それは神道系のやり方で、この遺構はお寺であるが、その方法は、仏教系と神道系があり、お墓も地鎮祭は神道系で行っている。
2)土(ど)公(こう)(土(ど)公(くう)神(じん))
 この方が元々の土地を司る神様になる。
土地に関してはこの神様にお願いする。
 「売地券」に関しては、韓国武寧王陵(6世紀頃)の中に、
供えられていた。
 この時代には、「売地券」により、土地を買って陵墓を作っていた。
王妃の方は、「墓誌」とお金が供えられていた。
 このようなことが、本に記載されていた。

 (*5)の藤澤さんの「奈良県内石造六地蔵年代分布(グラフ1)」によると、奈良県内において、「六地蔵」がどの時代に広まって行ったのかが、
書かれている。
 それによると、1711年頃がピークになっていると読める。
 これは、江戸時代に入り100年ほど経った頃に次々に出来たことが窺える。
 佐賀県の六地蔵を調べたものによると、1551年(戦国時代の終わり頃)がピークになっている。
 ポイントとして、室町時代の後半になると、六地蔵の信仰が一般の人々に広まっていることが解る。

 これは、仏教です。先ほどの平安時代には、神様であったものが、仏教へと変わって来ている。
 これらの間にその変わり目があると思われるが、藤澤さんは、南北朝時代に
その変わり目を様々な資料に基づいて述べられている。
 丁度明王院が建てられる頃が1348年で、その頃に神道から仏教的な色彩に、人が亡くなった後にどの様にするかが、変化している。
 それは、神職と言うか陰陽師が貴族の間で盛んに利用され、その人
達が活躍している。
 鎌倉時代には、様々な宗教が起こり、一般の人々も神道系から仏教系へと変化を表している。
 お墓に関しても、陰陽師から僧侶への変化の表れがあるのではと思われる。

3.亡くなった人とお金
 現代では、「六文銭」は何の為に、一般的には「三途の川の渡し賃」と言われている。
 ある書籍では、善人は橋を渡り、三途の川には瀬があり罪の重さにより、瀬の深さが変わると言われている。

 (*7)の資料は、平安時代の中頃に成立したもので、仏教経典から亡くなるとどのようになるか、を抜き出したもので武家などに広まって行った。この様なことを加持祈祷などで広まる背景となったのではないか。
 そこで、「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天」の六道の考え方があるが、「地獄・餓鬼・畜生」の三つは余り良くないもので、「阿修羅・人・天」は行いの良いものとされている。
 ここで6と言う数字が表れる。

 奈良の中世のお墓では、5枚のお金を出すところが多い。
 平安時代の“5”は、範囲を示す“5”であり、「六道」の6は、セツトとしての“6”となる。
 室町時代の後半には、六地蔵など盛んになって来る。
 しかし、実際にお墓に6枚の銭貨が入っているか、となると広島県の例では、1割か2割程度しか入っていない。
 発掘例として鳥取県では、3割か4割程度になっている。時期により違いはあるがお金だけ出土した場合には、細かな時代の把握が難しく整理が出来ていない。
 室町時代後半になると、六地蔵の普及はしているが、六文のお金については、人々の中には認識・浸透はしていない状況が窺われる。

 (*7)の資料は、怖い事例が出てきて、悪い事をしてはならない、そして六地蔵が救ってくれるとの教えを伝える信仰が広まった。
 奈良県では、江戸時代に入っても六地蔵が作られる背景となっている。
 六地蔵の中にも、年号があるものは、時代が解るが無いものも多くある。
 奈良県では、年号のある六地蔵から江戸時代に入ってピークがあり、佐賀県では、室町時代後半に盛んに作られるピークがある事が解る。
 全国的にみてその傾向は、室町時代後半の時期にピークがあることを予想している。
 実際に昔の人も、お金を埋葬することは、もったいないのではないか、と考えた人が居た。

 (*9)の鈴木公男さんは、次の(*10)の資料の板倉勝重・重宗(・重矩)は親子らしいのですが、辞典によれば、二人の名前しかないものもあり、『板倉政要』は、裁判を行う「大岡裁き」の基になったと伝えられて、京都で裁判を行ったもので、その記録の中で商人が、お金は流通させる為に作られたもので、亡くなった者に現物のお金を供えるのではなく、紙に書いたものを供えれば幕府にも利が有ると言い、そのことに対して、板倉はどの様な裁きを行ったか。
 紙のお金を持って行って閻魔様の前でどの様になるか解らない、お前が行って確かめて来いと言い、首を刎ねた。と伝える。
 17世紀後半に成立したもので、実物のお金から“紙”の形式へ変化したのか?
 発掘調査では、お金の無いお墓も多くあり、紙が使われたのかどうかは解らない。

4.広島県の出土例
1)報告書の図面の書き方の説明
 報告書に書く図面は、平面から見た図と側面から見た図を四面展開した状態で表示する。
 そのことを先ず理解して頂いて、図面から読み取る事が必要となって来る。
 図面を書く場合には、発掘調査を行う時点に於いては、その遺構が廃棄されて時間的な経過があり、その状況を発掘調査時に図面上に表している。
 そのために、元あった状況・状態を推測する思考が必要となる。
2)それぞれの遺跡について
[広島県22]花園遺跡 第1号中世墳墓
 墓壙底面の中央部に20枚埋納されている。
[広島県2]深ヶ迫遺跡
 埋納蔵骨器に6枚のお金が埋葬されている。番号が振っている。
 町の広報誌に載っていた。
 7枚出土となっていたが、1枚は欠けていた。6・7が甕の外側にある。
[広島県8]郡山城下町遺跡 SK1
 木棺墓の底板の上に4枚埋納。報告書には、4枚重ねて出土と記載されている。
 鉄釘が出土していない。竹釘か?棺の外側に皿が出土。
[広島県12]鏡西谷遺跡 D地区SK05
 石組と木棺墓、1枚埋納。石の下から出土、鉄釘が出ている。人に持たせていない。
[広島県13]古市2号遺跡 F2-08
 土溝墓の側面に1枚、底面の小穴に1枚。土地の神に供えたのか、人に持たせた可能性は無い資料。
[広島県14]石佛遺跡 SK11・13・15
 石組み基壇と土溝墓、底面西隅に7枚(SK11)、甕棺墓底面上ほぼ中央に12枚、石は蓋石(SK13)。土溝墓埋土5枚、お金は布の袋に入っていた。(SK15)。
[広島県15]鷺田遺跡 SK1
 木棺墓底部に9枚。木の棺で底がなく、ムシロみたいなものを敷いていた。
 漆の椀が入っていた。6枚がくっ付いていた。漆椀とお金のセットのものがある。祥符通寶・祥符元寶は縁起の良い貨幣として持たせている。
3)銭貨の種類と枚数
 6枚のものは無い、寛永通宝の入っている江戸時代のものは省いている。
 江戸時代に入ると6枚の埋納が増えて来る。
興味深いものに、
[広島県9]興禅寺跡
 木棺墓?(腹部付近:聞き取り)52枚埋納。お坊さんのお墓。
[広島県31]扶岩墓
 木棺墓、木棺内に185枚埋納。お坊さんのお墓。
[広島県3]大明地遺跡 SK5
 火葬墓、墓壙埋土上面に1枚埋納。貞観永寶は日本で作ったお金で広島県で1例。
[広島県34]草戸千軒町遺跡 SX2900・SK2990
 木棺墓、底板上の北端中央部に6枚埋納(SX2900)、土壙墓埋土に20枚埋納、散らばって出土、固まって置かれたものが散らばっている様子。
 火葬と思われる(SK2990)。SX2900は、木の棺が残っているお墓で、土師器の皿と漆椀を埋納している。
 漆椀と6枚のお金が纏まって出土。棺の外側で皿が出ている。
 壮年の男性の人骨で室町時代。

5.まとめ
 銭貨の中に縁起の良い貨幣を埋納している状況も窺える。
 広島県の例でいけば、中世の時代では、まだばらばらに埋納され、
 土地の神に供える意識があり、6枚にはなっていない。江戸時代に入ると、
 六道や六地蔵などの影響を受け、一般の人々の間に広まり、
 銭貨が6枚埋納するようになって行く。
 三途の川などの六道の話が定着して行くのかと思われる。
 これからの課題は、漆の椀とお金のセツトをどの様に考えるか
 検討課題となる。

6.フリートーク
1)江戸期前の銭貨の種類について
 草戸千軒町遺跡の報告書によると、選別されている訳ではなく、中世で5~60種類中国の王朝が代わる度に出る公式のものと、民間人が作る偽金と日本で作る金が混在して流通している。
 室町時代後半になると室町幕府が選銭令を出す。
 これは、良い通貨も悪い通貨も一緒になっているので発令する。
 銭貨の流通は、一本の紐に100枚を通して流通するので悪いお金、
良いお金と選別が難しいことにある。
 偽金は、型に取って造るから大きさが少し小さくなる。偽金も流通する。
 縁が細くなる。
2)お金を6枚選りすぐっているのか。
 特定の場合を除いて、6枚を選りすぐっているとは思えない。
3)中世以前にお金を埋葬する例は
 お墓にお金を入れる例は無い。五重塔の心柱の穴に舎利を埋納するが、お金を入れる例は見当たらない。
 神道系の考え方で、売地券からその土地に供えるものが、中国から入ってきて、ある時期からお金に変わって行っているが、その時期は、まだ明確になっ
ていない。畿内では、そのような例があるかもしれない。
4)土(ど)公(こう)(土(ど)公(くう)神(じん))は儒教の神様ですか
 儒教の神で、中国の考えが入って来たものが日本で変節していっている。
5)図面から見ると、土壙に遺体を横たえているのはないのか。
 この時期には、足を折り曲げるものが多い。
6)火葬する人と土葬する人の区別や比率はどのように分かれるか。
 それは、良く解らない。
 棺を埋葬する場合には、その形に回りを掘るが、余り大きくは掘らない。
 その中でその形以外でどうも棺ではないものの中に、火葬ではないかと考
えるしかない。
7)明王院の石塔のようなものの中や、石積みなどの中からの出土はないのか。
[広島県28]宮ヶ森第2号古墓 積石塚 6枚出土 世羅郡世羅町 では、
 中世段階では無いが、石が立ったままの状態にある。五輪塔でもないし、このような例がある。
 穴の一番下の遺体の部分ではなく、一段上の場所に6枚が紐で繋がったよう
な状態である。遺体に直接ではなく、まだ三途の川への事には考えていないようだ。
8)中国ででは、道路を作る場合には、土地の神様へ犠牲を捧げるやり方や神輿が回る場合に、金棒のワッカでチャリンチャリンと音をたてて回ることなどから、お金の音によるものではないか。
 お地蔵さんの錫杖にもワッカが付いている。当時のお金は紐で通してあり、鳴らそうと思えば鳴らす事も可能ではあるが中々その痕跡を見つけるのは大変である。
9)中世でお墓を造る事の出来る人達は裕福だと思われ、その為に盗掘を受けた様なことは無いのか。
 1枚の価格が当時のお米の価格と比例するので、現在の価格にすると1枚が50円から100円位に相当する。積石塚の場合には信仰の対象となっていて、何百年もこの状態で続いている。
 古墳の場合は、目星を付け易いが、土壙や古墓の場合は、ただ穴が何
処に有るのかが難しい。
 その中で5~6枚の銭貨を探すのは難しいのではないか。
 発掘を行っていて、これは盗掘というのは難しい。

[サロントークの感想]
 今回のサロントークは、発掘調査の最前線で活躍された篠原芳秀さんのお話を窺う事が出来、また調査資料の読み方・見方からの説明を頂き、調査資料の重要性を垣間見る事ができました。
 また、「中世のお墓に入っているお金」のテーマでの歴史の切り口には、今までの考え方を一変するような考察が組み込まれていて、私自身新たな物の見方が出来、眼からウロコが落ちるような感動をいただきました。
 次回も是非この様な感動を味わいたいと思います。ありがとうございました。
           (要旨概略以上、文責:椿庵 遍照)
[資料集]
(*1)
 是光吉基「日本各地の墳墓 中国・四国」『新版仏教考古学講座』
 第7集 雄山閣 1975年
(*2)
 花本哲志「地徳古墳」
『国営広島北部土地改良事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書』
 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター 1997年
(*3)
 樋口英行「広島県」『中世墓資料集成―中国編―』中世墓資料集成研究会
 2005年
(*4)
 梅本健治「広島県の中世土葬墓の検討」『考古論集―川越哲志先生退官記念
 論文集―』川越哲志先生退官記念事業会 2005年
(*5)
 藤澤典彦「六道銭の成立」『出土銭貨』第2号 出土銭貨研究会1994年
(*6)
 『高野山発掘調査報告書』(財)元興寺文化財研究所 1982年
(*7)
 源信『往生要集』985年成立
(*8)
 井坂康二「六文銭考」『出土銭貨』第4号 出土銭貨研究会 1995年
(*9)
 鈴木公男『銭の考古学』歴史文化ライブラリー140 吉川弘文館
 2002年
(*10)
 板倉勝重・重宗(・重矩)『板倉政要』17世紀後半に成立したといわれる。




        (サロントーク会場風景)


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