沼隈文化財研究所

「温故知新」
文化財を通して歴史を振り返ってみよう。
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「卑弥呼と箸墓古墳」と題して、春成秀爾(国立歴史民俗博物館名誉教授)先生の講演会がありました。

2010年01月19日 | 講演会情報

「平成21年度  ひろしまの遺跡を語る」と題して、

財団法人 広島県教育事業団の主催で開催され、

その一環の中での講演会でした。

日時:平成22年(2010年)1月16日(土)13:00~

場所:広島県立総合体育館 武道場(広島市中区基町)

「卑弥呼と箸墓古墳」

1.卑弥呼について

『三国志巻三十 魏書 烏丸鮮卑東夷伝三十 倭人条』に

出てくる日本に於ける人物。

皆様方は、「邪馬台国」が何所にあったか?という問題に

大きな関心があるが、考古学者の立場からは、

この問題に関して既に1960年代に決着が付いていて、

それより新しい問題に関心が移っている。

考古学者は、「邪馬台国」は近畿であると早くから理解していた。

奈良県纏向遺跡から、宮殿跡と考えられる建物の跡が出土し、

日本古代史の中で論争が続いている。

卑弥呼を考える重要な事例は、資料に出している。

『魏志倭人伝』については、鎌倉時代の印刷物を日本人は見ている。

オリジナルなものでは無い。しかし、中国の正史として扱っている。

中国の史書は、記録を残している。それに基づいて記載されている。

『魏志倭人伝』は、その最後の部分に記載されていて、その中で

「其八年」とあるのは、正始八年(247)と考えられる。

この年に、卑弥呼が亡くなっている。

「倭国女王 卑弥呼」と「狗奴国男王 卑弥弓呼」は、元々から

仲が悪く戦争状態にあることが判る。そこでどうしたのか?

倭国 卑弥呼から、楽浪郡に報告に行った。

楽浪郡から「張政等」を遣わした。ここでこの「張政」が

重要な役割を行うことになる。

卑弥呼が亡くなり、「塚(径百歩)を作り、徇葬するもの百余人」

その後、男王を立てるが、国中が服属せず、

再び壹與(卑弥呼の宗女)女王を立てて、国中がやっと静まる。

この状況を見て、「政等」が楽浪郡に帰る。

卑弥呼の登場以前には、男王が立っていた。

倭国が乱れ、卑弥呼が立った。(180年代の頃)

倭国の乱れが治まったのが、190年代の頃。

185~190年頃に倭国の王に即位し、274年に亡くなる。

57年から60年間ぐらい在位したと考えられる長期政権だと言える。

2.箸墓古墳

『魏志倭人伝』には、大塚(径百余歩)を作るとある。

これが箸墓古墳か?

箸墓古墳は、現在陵墓に指定され、宮内庁の管理下に置かれている。

それは、『日本書紀』に倭迹迹日百襲姫命(ヤマト、トトヒ、モモソ、ヒメ)と

記され、孝霊天皇の娘で崇神天皇の祖父孝元天皇の妹とされている。

孝霊天皇の実在は認められていないが、崇神天皇からの実在が

考えられている。

倭迹迹日百襲姫命は、大市の墓と考えられていて、奈良時代には伝承が

あったものと考えられていた。

それは文献上では、卑弥呼の墓とは成り得ない。

中国の史書には登場するが、日本には登場しない。

それらの人物が、誰かとは決め難い。

例えば、「狗奴国(く、ぬなの、こく)」や志賀島で見つかった

「漢委奴国王」の金印などが、意味を持った漢字と言える。

中国側が、倭国からの情報に意味を持たせ発音を漢字に当てたと考えられる。

箸墓古墳(資料P2)は、全長280m、円形155m、高さ27m、で

最古であり、最大の前方後円墳だといえる。

250年頃に造られていると考えて、現在まで形が崩れていないと

すれば大変な構造物だと言える。

この箸墓古墳も1960年代頃にはあまり注目はされていなかった。

それは、前方部が広がっているのは新しい古墳と考えられていた。

1970年代には、前方部がバチ状に広がるのは、古いタイプの

前方後円墳ではないかと、考え直された。

その頃に、宮内庁が箸墓古墳の一部を調査し、埴輪が出土した。

器台から特殊器台、そして壺と一体になった円筒埴輪へと変化する

ことが解って来た。

43年前(1967年)に近藤義郎先生と共著で『埴輪の起源』を発表し、

埴輪が最後に登場したのが大和であると論じた。

吉備で誕生した、器台が特殊器台へと変化し、特殊器台の文様が

なくなり、円筒埴輪へと変化する。

これは、吉備で誕生したものが、大和の勢力へ差し出したと、その当時は

少ない資料で考えた。

それらの背景には、箸墓に埋葬された人物と吉備の人達とは、親しい関係

があり、埴輪を作る人達が奈良ヤマトへ移動して行った。

3.箸墓古墳はいつ頃の古墳か?

先ずは埴輪からの変遷と、C14年代測定法(*)

(*)C14(炭素14)年代測定法は、1950年にアメリカで確立する。

1960年代には、欧米で確立する。が考古学者とのズレる事が多かった。

例えば、弥生時代の始まりは、考古学による従来の考え方では、

紀元前4~5世紀と考えていた。

C14年代測定法では、紀元前10世紀になってしまう。

このままでは、C14年代測定法が使えないので、修正・較正をおこない

年輪年代法と比較し、較正年代を用いて、年代を測定した。

較正年代を用いて、箸墓古墳から出土した炭化物を測定すると

240年から250年と結果が出た。もし箸墓古墳が卑弥呼の墓だとすると

決定的な話となる。

1984年には、箸墓古墳は壹與(イヨ・トヨ)の墓と考えた。

戦闘状態にあった狗奴国と倭国の状態は、どの様になったのか。

倭国が勝ったものと考えられ、その後の狗奴国の王の処遇は、

戦の後の対応は生かして倭国に重用したものと考えられる。

狗奴国は、ヤマトより東にあり、濃尾平野にあったのではないか。

その国の王の墓は、前方後方墳ではないかと考えているが、

濃尾平野には、前方後方墳が見つからない。

50年以上政権の座にあった卑弥呼の出身地は、吉備の王の墓と

考えられる「盾築墳丘墓」が卑弥呼の親の墓ではないか?

卑弥呼が生まれたのは、170年頃と考えている。

                       (講演要旨概略以上)

                        (文責:椿庵遍照)

[今回の講演のポイント]

1)特殊器台の変遷による時代差

2)中国史書による文献による検討

3)C14年代測定法と年輪年代測定法による修正・較正で併用


  (講演中の春成秀爾先生)


              (箸墓古墳)

この後、「ひろしまの遺跡」と題して、

財団法人 広島県教育事業団から平成21年度発掘を行った遺跡に

ついての報告がありました。

[1]「曽川1号遺跡」尾道市御調町大町 平成14年から平成18年調査

  報告:岩本正二 埋蔵文化財調査室長

[2]「曲第2号古墳」庄原市口和町金田(きんで)字本谷

  報告:山澤直樹 調査研究員

[3]「馬ヶ段遺跡」庄原市水越町字場ヶ段・皇塩

  報告:渡邊昭人 調査研究員


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2 コメント

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トラックバックを張らせていただきました。 (鳳来)
2010-01-20 17:15:14
「沼隈文化財研究所」さま

トラックバックを張らせていただきます。

のでよろしくお願い致します。
返信する
了解致しました。 (遍照)
2010-01-20 17:16:39
鳳来 さま

了解致しました。
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