最近はかなりペースが落ちてしまったが、今回で、とうとう100回目である。
我ながら、よく続いたなと思う。
皇室についての自らの考えを延々と述べるブログというものは、そんなに無いのではないだろうか。
というのも、まず、日常生活において、皇室について考えるきっかけというのはそんなにあるものではないだろう。
あるとすれば、ワイドショーや週刊誌の記事ぐらいであろうか。
それに、皇室の話題を書いたとして、まじめに書けば書くほど、あまり面白くないというか、一般ウケしない内容になってしまうであろう。
ただ、それでも、筆者がこのブログを始めた当初に比べると、皇室を扱うブログは、かなり増えたようではある。
当初は、「皇室」という言葉をキーワードとして検索すると、筆者のブログがずらっと並ぶ状態であったが、最近では、すっかり埋もれてしまい、見つけるのが大変である。
ただ、若干、欲を申すと、皇室に関する多くの記事につき、そのような記事が生まれるだけの、論者の内面世界での必然性というものが、あまり感じられないものが多いように思われたのだ。
皇室の伝統が大事であるということがポンと言われる場合があるが、論者は、伝統一般について、何でもかんでも尊重したいという立場なのか、それとも、皇室について、特にそのように考える立場なのか。
皇室の伝統といっても抽象的であり、大事に思うという具体的な心の動きが生じるためには、単なる観念とは別な次元での個人的体験があると思うのだが、いったいどのような体験があったのか。
そういったことが表現されると、筆者としても、読みがいがあるので、期待したい。
筆者としての個人的な体験ということを簡単に述べると、やはり、天皇陛下が公務をなさっているお姿を見て、陛下はいったいどのようなご境遇なのであろうか、どのようなお気持ちでお務めをされておられるのだろうか、ということを、ある時ふと想像してみたことが、大きなきっかけであった。
皇室がどのような仕事をしているかについては、知識としては知っていたが、そのようなお立場におられる方も、やはり人間であり、人間としてのご境遇、お務めであるということは、かつては全く考えていなかったのである。
ひとたび、そのような視点で、天皇陛下のご境遇、お務めについて考えてみると、これはなかなか衝撃的であり、まったく他人事ではないということが、実感せられてきたのである。
陛下のご境遇、お務めは、日本国及び日本国民統合の象徴としてのものであり、日本人としての筆者と無関係なものではなかったのである。
無関係どころか、筆者が日本人であるということ、日本人としての過去二千年以上の歴史を受け継ぐ存在たらしめることの責任を背負っておられるものと感じられてきたのである。
そうなってくると、皇室について、無関心でよいのだろうかとも思ったし、面白い話題としてのみ扱うことに違和感を感じるようになったのだ。
少なくとも、皇室の側は、筆者を含む日本人のために、人生を捧げておられるのだ。
だから、例え、一億何千万分の一にすぎない存在であるとしても、筆者なりに、少しは皇室のお気持ちに、応えるべきではないかと思ったのだ。
もっとも、このようなブログにて、細々と書き連ねていったい何の意味があるのかと言われると辛いところであるが、以上が、あまり多くの人に読んでもらえないような内容を延々と書き続けてきたことの理由である。
我ながら、よく続いたなと思う。
皇室についての自らの考えを延々と述べるブログというものは、そんなに無いのではないだろうか。
というのも、まず、日常生活において、皇室について考えるきっかけというのはそんなにあるものではないだろう。
あるとすれば、ワイドショーや週刊誌の記事ぐらいであろうか。
それに、皇室の話題を書いたとして、まじめに書けば書くほど、あまり面白くないというか、一般ウケしない内容になってしまうであろう。
ただ、それでも、筆者がこのブログを始めた当初に比べると、皇室を扱うブログは、かなり増えたようではある。
当初は、「皇室」という言葉をキーワードとして検索すると、筆者のブログがずらっと並ぶ状態であったが、最近では、すっかり埋もれてしまい、見つけるのが大変である。
ただ、若干、欲を申すと、皇室に関する多くの記事につき、そのような記事が生まれるだけの、論者の内面世界での必然性というものが、あまり感じられないものが多いように思われたのだ。
皇室の伝統が大事であるということがポンと言われる場合があるが、論者は、伝統一般について、何でもかんでも尊重したいという立場なのか、それとも、皇室について、特にそのように考える立場なのか。
皇室の伝統といっても抽象的であり、大事に思うという具体的な心の動きが生じるためには、単なる観念とは別な次元での個人的体験があると思うのだが、いったいどのような体験があったのか。
そういったことが表現されると、筆者としても、読みがいがあるので、期待したい。
筆者としての個人的な体験ということを簡単に述べると、やはり、天皇陛下が公務をなさっているお姿を見て、陛下はいったいどのようなご境遇なのであろうか、どのようなお気持ちでお務めをされておられるのだろうか、ということを、ある時ふと想像してみたことが、大きなきっかけであった。
皇室がどのような仕事をしているかについては、知識としては知っていたが、そのようなお立場におられる方も、やはり人間であり、人間としてのご境遇、お務めであるということは、かつては全く考えていなかったのである。
ひとたび、そのような視点で、天皇陛下のご境遇、お務めについて考えてみると、これはなかなか衝撃的であり、まったく他人事ではないということが、実感せられてきたのである。
陛下のご境遇、お務めは、日本国及び日本国民統合の象徴としてのものであり、日本人としての筆者と無関係なものではなかったのである。
無関係どころか、筆者が日本人であるということ、日本人としての過去二千年以上の歴史を受け継ぐ存在たらしめることの責任を背負っておられるものと感じられてきたのである。
そうなってくると、皇室について、無関心でよいのだろうかとも思ったし、面白い話題としてのみ扱うことに違和感を感じるようになったのだ。
少なくとも、皇室の側は、筆者を含む日本人のために、人生を捧げておられるのだ。
だから、例え、一億何千万分の一にすぎない存在であるとしても、筆者なりに、少しは皇室のお気持ちに、応えるべきではないかと思ったのだ。
もっとも、このようなブログにて、細々と書き連ねていったい何の意味があるのかと言われると辛いところであるが、以上が、あまり多くの人に読んでもらえないような内容を延々と書き続けてきたことの理由である。
「日ごろ皇室を敬えとか、人権尊重とか主張する人びとが、皇族の人権侵害に目をつぶるのは奇妙なことだ。皇室にすべての負担を推しつけてよしとするのは、戦後民主主義の傲慢であろう」という趣旨です。
私は、共感しましたが、尊皇派の西田さんは、どのようなご意見をお持ちでしょうか。ぜひ、ご感想をうかがいたく思います。
ついでに、私は「論座」という雑誌の6月号に「女性天皇容認しかありえない」と称する駄文を書いていますが、ご反論をいただけるとうれしく思います。
このプログで論戦しても面白いかなと存じます。互いに礼節を守りながらを前提としながら、皇室問題を考える一員として。
西田さんと私が考えているいることは、ほんとど変わりがないですか。
ある時期までは、天皇制を支持する側が保守、糾弾する側が左翼といったくだらぬ図式がありましたが、その枠組みが完全に崩壊した表われといえるでしょう。
他者から強制されたイデオロギーから離れて、自らが社会、人びとの営みを考えていくと、かつての保革の構図が単なる学者の処世術でしかなく、学界や論壇でのアリバイ証明であったことがよく分かります。たとえば、天皇制を批判している革新派の学者は、総じて権威主義者であり、学界でミニ天皇制を強いている姿を見聞することが多く、失望の念を感じ続けてきました。彼らはヒューマニズムを唱えているのに、人間の質は強者の立場に立っているのですね。
それなのに現実の皇族たちは、とても謙虚で、弱い側の立場に共感を持ち続けてきたように思います。他人任せのイデオロギーから離れて、自らの目で皇族の対応を側聞するとき、人間性の面からみて、彼らのの方が段違いにヒューマンであり、自己犠牲をいとわないことは明らかなのです。
ただし、西田さんが言われるとおり、制度と人間の立場を両立して考えることは、至難の業ですね。、皇族は自らの立場について、自己主張はできませんから、かれらの置かれている苦難さを打開していくのは、主権を持った国民の義務といえます。
人は合理主義だけでは生きられません。橋爪さの言葉を借りれば、「血統より存続を願う伝統」は、外国の王権とは違う日本の貴重な伝統ということになります。「その伝統が純粋無垢ではなく、部分的に海外から学び、混淆したものであっても何が問題か」と私は言いたいのです。
どうでしょう、大筋では、大して西田さんは私の考えにそんなに違和感がないでないでしょ。すこし不遜な言い方にはなりますが、私も貴方も借り物の思想ではなく、普通の人たちの実感も含めて、揺れに揺れながら、自らの頭で皇室と共同体、人びとの関係を考え続けてきたから思います。
以上、蛇足まで。
筆者としても、これ程、誰かに、自分の考えについて関心を持っていただき、理解をしていただき、また、共感していただいたことは、かつてありません。
おそらくこの先も、そうそうあることではなかろうと思っております。
非常に嬉しい気持ちでおります。
「象徴」とは、競争の理念とは全く無縁のものというお考えについては、筆者も全く同感です。
今の世の中を見てみますと、弱肉強食は何時の時代でも同じであるといたしましても、そのことを問題視せず、むしろ賞賛するような風潮がはびこっておるように感じられます。
腕力のある者の方が無い者よりも、気の強い者の方が気弱な者よりも、粗野な者の方が繊細な者よりも、声の大きい者の方が声の小さい者よりも、ずる賢い者の方が純朴な者よりも、要するに強い者の方が弱い者よりも、価値があり素晴らしいものであるとする風潮がはびこっておるように感じられます。
建前はともかくとして、例えば自分自身どのような存在になりたいかと考えてみれば、後者の類にはなりたくない、後者の類の人間は惨めであると、誰もが思うのではないでしょうか。
もちろん、生存競争を勝ち抜く資質というのも重要なものではありますが、ただ、そればかりに目を奪われる中で、人間という存在にとって、本当に重要なものが見失われているのではないか、そしてそのことが、結局、現在の世の中の人々に跳ね返っており、世の中全体が不幸な状態になっているのではないかとも感じます。
そこで一転、目を皇室に向けてみますと、生存競争ということとは全く無縁に、弱者への思いやり、平和、文化の向上といったことを、真っ正直に取り組まれている、愚直といってもよいほどに。
ある人が、「年を取ると、何故か、だんだんと皇室の良さが分かってくるんです」と筆者に語ったことがありましたが、なるほど、血気盛んな若い頃は生存競争に夢中になっていても、人生経験を積んでいくにしたがい、人間という存在はそれだけではダメなのだと気づくようになれば、確かに、皇室の良さが分かるようになってくるのかもしれません。
これからの社会、ますます人々の心は荒んでいくように思われますので、皇室というご存在の重要性は、高まっていくのではないかと、思ったりもいたします。
ただ、一方で、皇室というご存在の内包する難しい問題が、今表面かしつつあるようにも感じます。
皇室については、単なる徳の高い個人ではなく、日本人及び日本という国との特別な関係の上に立った存在であり、その体現されている徳というのも、普遍宗教上の聖者としてのものというよりも、日本人の心深くにある価値観のようなものではないかと思うのです。
この、日本人及び日本という国との特別な関係の上に立った存在という点で、単なる個人ではなくして、やはり、制度上の存在である。ただ、制度上の存在であるといっても、その制度自体、具体的な「人間」としての在り方に深く依拠しており、そういう意味では、個人としての存在であるとも、やはり言い得る。
すなわち、制度としての存在という側面と、個人としての存在という側面が、切っても切り離せない関係にあるのだと思うのです。
そこが、皇室という存在の妙といいますか、奥深いところだと思うのですが、最近、この、制度としての側面と個人としての側面とを、あたかも二つに引き裂き、どっちを選択するかを問われるかのような事態が生じているように思われるのです。
皇位継承の在り方に関する問題というものも、その一つで、男系男子に固執する主張というのは、要するに、制度としての側面を重視するという宣言であると思われます。
この制度としての側面を解き明かすという点では、保守派の主張に共感するところも多いのですが、個人よりも、制度としての側面を重視するという姿勢については、非常に違和感を感じるのです。それは、尊皇ということとは異なるものなのではないか、それは、尊皇ではなくして、尊国家システムとでも呼ぶべきものではないかと、思ったりもいたします。
だいたい、制度といいましても、その内実が日本人及び日本という国との特別な関係ということにあるとすれば、制度を重視すればするほど、その関係の一方当事者である自らの存在の分際を弁えなければならないはずで、一部保守派の、皇室とはこうあるべきというような、高見に立った物言いには、はっきり言って興ざめです。
筆者としては、制度と個人とどちらを選べと言われれば、個人を選びたいと思いますし、ただ、皇位継承の在り方の問題については、本当に両者を二つに引き裂く話であるのかどうか、より高い視点から統合的に捉えることが可能なのではないかとも思っており、さらに考えていきたいと思っております。
何だか、コメントに対するお返事という趣旨からは、だいぶ脱線してしまいました。
中野さんに対しては、朝日新聞ということからの偏見が強すぎたかなと反省いたしております。
私も、中野さんのご健闘を心から期待しています。
ただ、西田さんが共感を持たれている八木秀次さんや中西輝政さんらは、尊皇派のはずなのに、生身の皇族の方々の人権を考えてはおられず、いわば「政略結婚」を押し付けられているのは不可思議だなあと思っています。
同時に、世間的には人権擁護派とみられている朝日新聞も、システムとしての天皇制についてまともに論じることがなく、政治的な発言を禁じられている現在の皇族の人権を尊重しようという姿勢がみられないのは、欺瞞と感じています。私から言わせれば、既成の尊皇派と既成の人権派は同じ穴の狢ということになります。
西田さんは宮内庁になりかわって「落書き」をお書きになっているとの同様、私も沈黙を強いられる皇族の方々のお気持ちを多少なりとも想像しながら、「落書き」のような気持ちで、クズ本を書いたというのが真相であります。版元が朝日新聞であることから誤解されるのももっともですけれど、私は目下は社員の立場にありますから、出版本部から刊行の申し出があった場合は、他社からは出せないという事情があります。
ただし、朝日新聞社の立場と私の考え方は異なっていて、私は朝日の異端児でしかありません。
また、橋爪さんと私の結論も違います。
私の理解は、ラフに言えば次のように要約できます。
「象徴」とは、競争の理念とは全く無縁のものであるできだと考えます。とするならば、「象徴」となれる人は競争という理念の外に生まれ育った人なければなりません。つまり「象徴」となられる天皇は、幼児からそれなりの覚悟を持つしかなく、結局は不合理であるにはしても、世襲でならざるをえないことになります。競争の理念になじまないということは、争いを否定し、平和であることであり、象徴天皇は平和の「象徴」であってほしいからです。
天皇となられる方が男でも、女でもどちらでもいいのじゃないのかなあ。男系、女系などと言うのもレベルの低い話のような気がします。
以上の意味で、現在の皇室にとてもシンパシーを感じます。また、彼らのご努力には頭が下がります。特に美智子皇后や紀宮の歌を詠むと感嘆します。素晴らしいですね。
もう一つ、カミング・アウトしますが、私自身も社会や会社の中で「適応障害」に陥っているため、かつての美智子皇后や雅子妃の苦痛について、とても他人事とは考えられませんでした。「失語症」や「適応障害」がどれだけ辛いことか、なってみなければ分かりません。彼女たちの自己犠牲ぶりに対して、とても痛ましく思われました。
西田さんとは、立場は異なると思いますが、私もこれからの民主主義や「私とは何か」を模索していくいえで、皇室の問題は、とても大きなテーマであると思うようになりました。競争原理が進行する格差社会の中で、なにがしかの癒しがなければ、人はますます生きづらくなっていくように思われるからです。
故・坂本多加雄さんが指摘されてきたように、国民とは弱いものですから、なにがしかの「物語」がないと生きにくいのですね。自らが「適応障害」に陥って、遅まきながら、そのことを突きつけられました。
だからこそ、いち早く皇室の問題を真摯に考えてこられた西田さんに敬意を感じて読み続けてきました。拙著のご批判は、胸に堪えましたが、自らの至らなさを顧みるといった意味で、むしろ有難く受け止めました。
この投稿へのご返事はいりません。日本人の多くは、皇室の表面的なスキャンダルしか興味を感じてしかいないようですが、西田さんのように「自分探し」の一環として皇室問題を考えていく人がもっと増えればいいですね。私も、もう少し自らの生き方も含めて、皇室問題を考え直していくつもりです。
このプログのご健闘を心から期待しています。くどくどと失礼。これで沈黙しますが、何かの問いかけがあれば、誠意を持ってお答えします。
ご主旨はよく理解できました。また、共感もしました。
どうか、「落書き」を通して、いろいろとご教授して下さい。
私は、あまり学者や評論家と称する方々の他人事のような評論には共感するところがなく、むしろ西田さんのような実感に基づくご意見の方が貴重だと考える男です。
まさかご本人が読まれているとは思いもよらず、そうと知っていれば、もう少し書きようがあったかと思うのですが、後の祭りです。ご勘弁ください。
ただ、中野さんの本については、賞賛される方も多いですし、私のような者のコメントなど、おそらくそれほどお気にされてはおられないだろうと、勝手に解釈し、勝手に安心したりもしております。
ところで、このブログについては、まさに落書きと呼ぶべきものであります。
世の中の事などについて、自分なりに様々な考えを抱きつつも、公式に自己の見解として表明するような筋合いでもないような場合、ないしは、そのような機会がないような場合において、それでいてなお、何らかの形で世の中に出したいと思う場合に人が書くものが、落書きなのではないかと、そのように思うのです。
そういうわけですので、筆者としては、何か体系的な理論を作ることに関心はありませんし、自説の正しさということを他者に納得させるというようなことは、あまり考えておらないのです。
強いて一貫しているものがあるとすれば、人間という存在を見つめたい、その存在意義を考えたいという気持ちぐらいでしょうか。
ただ、理論の体系性にこだわらない分だけ、或いは、何か、新鮮味といいますか、興味深さを感じていただけたのかなと、思ったりもしております。
橋爪大三郎氏の寄稿については、早速読んでみました。
筆者としても、皇室の方のご境遇に対する無自覚については、問題意識を有しております。
そこで、共通する部分もあるようにも思えるのですが、ただ、この方の主張全体については、何でこういう考え方になるのだろうかと、よく分からないところがいくつかあり、この問題意識の内容自体についても、筆者とは、違いがありそうです。
いずれ考えがまとまりましたら、書いてみるつもりです。
このプログは、とても興味深く、期待して読ませて頂いています。
なぜなら、私とは視点は違いますが、西田さんは、日本という「かたち」や伝統を真摯に考えておられるからです。しかも、イデオロギーに縛られることなく、揺らぎながらもご自身の頭で。
愛読者から百回目のお祝い申し上げます。また、さらなるご努力を期待しております。