傍観者の独り言・戯言

団塊世代の手前勝手な放言
ブログ「傍観者の独り言」の続編

舛添要一都知事の人間像・・・・・・嫌悪を感じる(雑感)

2016-06-02 09:32:41 | 雑感

舛添要一都知事の公私混同疑惑の説明責任を回避し知事職にしがみつく様相に資質が問われておりますね。
当方は、厚労大臣時代の言動から舛添要一氏を出来る人物と思うが、野心家でイイカッコシータイプで、謙虚さが無い事が好きになれないと旧ブログで書きました。
舛添要一氏を知れば知るほど生理的嫌悪感が強くなりますね。

舛添要一氏は、Wikipediaによれば、
“「2000年に実母が死去するまでの数年間は、介護のため週末は郷里の北九州市で過ごすことが多く、仕事の重点も関西にシフトさせていた。晩年認知症(痴呆症)であったこの母の介護体験記『痴呆症の母を守って家庭崩壊』を『婦人公論』に連載。母の介護問題を巡る困難や親族との軋轢などを赤裸々に描き、大きな反響を呼んだ。この体験以来、福祉や介護問題を始めとした厚生行政への働きかけや問題提起を活発に行っている。介護体験は自ら政治の世界に足を踏み入れるきっかけの一つとなり、後の厚生労働大臣就任へとつながっていった。」”
と、母親の介護したことをウリにしていました。

しかしながら、「AERA」(2016年6月6日号)の記事『「いつか要一は…」 疑惑だらけの舛添都知事の亡き姉の予言』では、

“「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●生活保護の姉の扶養要請を断る
 他者への比類なき攻撃性と、自分の欲望を満たすことにかける絶対的な情熱の源流を辿った。

あんなにウソばっかりついて他人を傷つけて、いつか要一は手痛いしっぺ返しを食らう。5年前にそう言い残して膵臓がんで亡くなった、母の予言通りになりましたね。ずっと詐欺のようなことをしてきたのですから、同情の余地はありません

 舛添氏の姪がそう語る母とは、11歳年長の長姉のこと。4人の姉を持つ末っ子として八幡市(現在の北九州市)で生まれ育った舛添氏は、中学2年で父・弥次郎さんを亡くした。戦前は炭鉱を持ち、戦後は市場で八百屋を経営していたという父が死んでから、舛添家は教員資格を持つ長姉と、長姉と結婚した会社員の夫が大黒柱になった。成績優秀な舛添氏を東大進学で東京に送り出した長姉夫妻は、年の離れた舛添氏を我が子のように可愛がった。東大の体質を批判して1989年に教員を退官、国際政治学者としてテレビの討論番組に出演するようになると欠かさずビデオ録画して応援していたという。

母親のユキノさんの面倒を長年見てきたのも、長姉夫妻だった。ところが舛添氏は98年に出版した『母に襁褓をあてるとき─介護 闘いの日々』を出版、認知症が進む母の介護を巡って長姉夫妻を悪しざまに罵った。その後もあらゆるメディアで介護体験を自慢して名を売り、「母」「介護」「痴呆」などのキーワードのタイトル本を少なくとも9冊も著し、2007年の第1次安倍政権で厚生労働大臣の座を射止めた。

 長姉夫妻は長年沈黙を守っていたが、同年、週刊文春が3回にわたって掲載した「舛添要一『消せない過去』」で重い口を開き、「要一が本で書いている内容は、全部反対の話だと理解してもらったらいい」と当時、取材した筆者(大平)に語った。

 このシリーズでは、長年生活保護を受給していた4番目の姉を扶養するよう北九州市が要請したにもかかわらず、断ったことも報じた。
92年ごろのことだ。当時、売れっ子の国際政治学者だった舛添氏は、バブルを謳歌していた。講演だけで一日300万円、多い年で年間3億円を稼いだ。北海道白老町に建てた別荘で女優たちと温泉に入ったり乗馬を楽しんだり、都内にも複数のマンションを所有して、世田谷の自宅は3億円で購入したなどと、インタビューで臆面もなく語っていた。その一方で、実の姉に救いの手を差し伸べようとしない理由が、「冷血」以外奈辺にあるのか問い質そうとしたが、舛添氏は「ダメです。不愉快です」と意味不明の対応で取り付く島もなかった。

 さらに、片山さつき参院議員や、フランス人女性との結婚だけでなく、片山氏と結婚していた88年当時に愛人Xさんに男児を産ませて後に認知、さらに91年と95年には別の女性Yさんに2女を産ませた後、96年に現在の妻と結婚したことなども報じた。Yさんは婚約不履行を理由に訴訟で慰謝料を請求、Xさんも出産した男児が重度の障害を抱え、ここまでの生活は並大抵の苦労ではなかったという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
」“

と報じています。

本件については、「週刊文春」(2016年6月9日号)の特集記事『「人間失格」舛添要一都知事が実姉に送った“恫喝文書”』で報じています。
公開されている部分を転載すると、

“「「週刊文春」取材班は、舛添要一東京都知事(67)が、実の母、ユキノさんの介護をめぐり、自らの長姉、A子さんに1997年に送付した一連の文書を入手した。A子さんは既に鬼籍に入っているが、A子さんの実の娘で、舛添氏の姪(48)が当時の背景をこう説明する。

「当時、祖母(舛添氏の母)と私の両親は北九州で30年来、同居していました。叔父(舛添氏)は東京にいて国際政治学者として活躍していましたが、こちらにはほとんど帰ってきていませんでした。それが祖母に認知症の症状が現れてきたことを知ると、突然、祖母を介護している様子を『テレビに取材させる』と言い出したのです。母はこの取材には反対の立場でした」
 結局、舛添氏が車椅子を押す場面などを撮影したが、後日、テレビ局スタッフから「放映してよいか」と電話で尋ねられたA子さんが「私は反対です」と答えると、ほどなく舛添氏から「放映を中止されたら損害賠償を求める」旨の文書がFAXで届いたという。

 以降、舛添氏はA子さん夫妻に対して、「警告書」「告訴準備書面」などと題した文書を送り付けたが、その内容は次のようなものだった。
〈(A子さん夫妻がユキノさんに)罵声を浴びせかけ、恫喝により恐怖のどん底に陥れ、病状を悪化させたことは、人間失格ともいえる行為〉(「警告書」より)
〈金の亡者と化した長姉一家の思考は、所詮は金のことにしかめぐらないのです〉(「告訴準備書面」より)
 小誌の取材では、A子さん夫妻が舛添氏の指摘するような行為を行った事実はなかった。

 舛添氏は、この騒動の直後、母親の介護体験を綴った『母に襁褓をあてるとき――介護闘いの日々』を上梓し、介護問題の論客としての地位を築き、2007年には厚労大臣に就任している。舛添氏に一連の文書を送付した経緯を尋ねたが、回答は得られなかった
。」“

と報じています。

当方は、舛添要一氏の母親介護の虚偽の報道は既知でしたが、当時は半信半疑でしたが、厚生労働相時代のスタンドプレイする野心家には好きになれず選出後の都知事言動を傍観していました。
公私混同疑惑中の舛添要一都知事の過去の言動を知る程に、好きになれず生理的嫌悪感が増長し、何故、こんな人物をマスメディアは喧伝し、自民党、公明党は都知事に応援したのか疑問を持ちます。
それにしても、厚顔無恥の人物を都民は、いつまで許容するのでしょうかね。

「付記」

「週刊朝日」の記事『元愛人の母親が激怒 養育費すらケチろうとした舛添知事の過去』、記事『元妻・片山さつき氏が激白 舛添氏の隠し子、実姉の生活保護』を接すると、舛添要一氏の資質を問うのは分りますね。




コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。