傍観者の独り言・戯言

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NHKスペシャル【作家 山崎豊子~戦争と人間を見つめて~】視聴し安倍政権の戦争観に不安(1)(追記)

2015-10-03 10:22:35 | 社会

9月27日のNHKスペシャル【作家 山崎豊子~戦争と人間を見つめて~】を視聴し、9月28日の「クローズアップ現代」[国連70年①相次ぐ紛争そして難民… 平和は取り戻せるか]、29日の[国連70年② "誰も置き去りにしない"世界を目指して]、を視聴し、日本が歩む方向性に啓発され安倍政権の戦争観に不安を感じました。

NHKスペシャル【作家 山崎豊子~戦争と人間を見つめて~】の番組紹介を転載すると、

“「戦後の日本社会の暗部をえぐる数々の大作を世に問い、おととし、89歳で亡くなった作家・山崎豊子。山崎が死の床でまで書き続けたのは、戦争を経験した日本人の生き様だった。そして、その重厚な作品世界の土台となったのは、膨大な取材だった。山崎は、誰と向き合い、何を考え、どのように戦争と人間を見つめ続けたのか―。
山崎作品の主人公は、誰もが敗戦を明視し、自らの人生を厳しく律する。50年以上、山崎の作家活動を支えてきた秘書は「すべての主人公には、山崎の“かくあるべし”という理想が込められていた」と追想する。番組では、残された600本もの取材テープから作品群を読み解き、山崎が心血を注いで紡ぎ出した作品の深層を探っていく。さらに映像化された数々の作品で主演を務めた仲代達矢さんによる朗読や、「白い巨塔」「不毛地帯」の主人公を演じた唐沢寿明さん、「運命の人」の主人公を演じた本木雅弘さんの証言を交えながら、戦争を経験した日本人の「戦後の生き方」を問い続けた山崎のメッセージを凝視する
。」”

で、山崎豊子女史の作品『不毛地帯』、『大地の子』、『運命の人』らを基軸とした内容でした。

当該番組については、2日の朝日新聞の【記者レビュー】でも取り上げていました。転載すると、

“「山崎豊子の膨大な資料

9月27日のNHKスペシャル「作家 山崎豊子~戦争と人間を見つめて~」は、世の闇をえぐる数々の名作を生み、一昨年亡くなった山崎の創作過程を資料や証言で追った。作品に向き合う山崎を間近で目にしたような迫力があった。 米国と日本の沖縄をめぐる密約を題材にした「運命の人」では、外務省の職員だった女性との関係の表現を巡り、モデルとなった元毎日新聞記者の西山太吉さんから抗議を受ける。番組では山崎が西山さんの妻をなだめ説得している音源を公開。現在の西山さん本人も登場し、納得した様子で笑顔で振り返っていた。
 中国残留孤児の生き様を描いた「大地の子」では、当時日本の両親と孤児の関係ばかりが注目を集めるなか、山崎は育ての親である中国人夫婦にインタビュー。我が子のように育てた孤児が帰国することに寂しさを抱く思いを引き出し、共感している。山崎の書き続ける使命感の底流には、戦争への強い思いがあったことが次々と浮き彫りになった。
 山崎が今生きていれば、安保法制で紛糾した日本の現状を何と言っただろうか、と番組は問いかけた。改めて彼女の作品を手に取ろうと思った。 (後藤洋平)
 」“

で、当方も【記者レビュー】の所感“「山崎が今生きていれば、安保法制で紛糾した日本の現状を何と言っただろうか、と番組は問いかけた。改めて彼女の作品を手に取ろうと思った」”と同様な感想を持ちましたね。

山崎豊子女史の大作、取材内容を1時間で紹介するのは至難の業だったと思うが、当方が印象に残ったのは、北京の出版社から中国を題材とした小説依頼で、中国共産党の胡耀邦総書記と面会場面(1984.11.29)で、

山崎:「私は中国を愛しています。
    もし中国の悪いことを書いても、愛すればこその愛の鞭だと思ってください

胡耀邦:「うんうんいいですね。賛成です。」
    「間違いを克服しながら後から前進するこれが中国です。
山崎:「中国の素晴らしき魅力ある男性のためにも乾杯

で、胡耀邦総書記の後ろ盾で現地取材し、戦争の暗部の養育父母に救われた残留孤児の物語『大地の子』を書きあげた部分で、バブル時代の山崎豊子女史の肉声、

“「中国大陸のそここで、自分が日本人であることもわからず小学校さえ行かせてもらえず、牛馬のごとく酷使されているのが本当の戦争孤児ですよ。
私たち世代の大人の侵略の罪業を幼い子どもたちに背負わせたことに他ならない。
私たちが今日一家団らんの平和な生活が送られるのは、敗戦後のこうした子どもたちの犠牲の上に成り立っていると言ってもいい。
私はこれまで、いろいろな取材を致しましたが、泣きながら取材したのは初めてです
。」“

があり、日本政府の残留孤児の肉親調査、帰国支援の再会の場面があり、一方で、山崎豊子女史は孤児の養父母に注視し、養父母の取材場面があり、養父母が孤児の帰国への心情を語る場面では、

山崎:「そんなにかわいがっていたのに、止めることが出来なかった?」
養父母:「何と言っても息子の体には、私たちとは違う血が流れている。
     やはり日中友好のため実際の両親のために決断しました
。」
山崎:「私がお母さんの立場だったら中日友好も、そんな国家の政治なんかどうでもいいです
    もう かわいくて絶対に話しません「親知らず」ってわめく。」
養父母:「その一点張りの思考では駄目でしょう
    自分のことばかり考えでは

山崎:「偉いね お母さん。 本当に涙でる。」

とあり、ナレーションでは、“「かっての敵国の子供たちに愛情をささげ、孤児の日本への帰国を黙って受け入れる養父母たち、山崎は彼等の姿に真の日中友好を見たと言います」”とあり、山崎豊子女史は、戦争孤児の問題から将来思考となり、『大地の子』結末の主人公が実父か養父母かを選択に「自分は、大地の子・・・」と言わしめる内容でした。

当方は、山崎豊子女史の著作は長くて読まず映画、TVドラマで知っているだけでしたが、NHKスペシャルを視聴し、冒頭で紹介した朝日新聞の【記者レビュー】の結末、“「山崎が今生きていれば、安保法制で紛糾した日本の現状を何と言っただろうか、と番組は問いかけた。改めて彼女の作品を手に取ろうと思った。」”を同感と思いましたね。
安倍政権は、近視眼的に中国を仮想敵国をみなした安全保障法を成立に邁進しましたが、4000年歴史を持ち日本文化の源の中国との付き合いを複眼的に見ないと、真の日中友好は遠のくと思いましたね。

「付記」

(1) 山崎豊子さん追悼展覧会(朝日新聞記事より)

『白い巨塔』や『華麗なる一族』、『不毛地帯』など数々の人気小説を手がけた作家・山崎豊子さんの三回忌を記念した展覧会『追悼 山崎豊子~不屈の取材、情熱の作家人生~』が9月25日、東京・日本橋高島屋でオープンした。

 作家としての原点から遺作まで、多くの人々に愛され続けるそれぞれの物語に秘められたテーマを、取材内容や創作秘話をはじめ数千点に及ぶ膨大な資料や映像をもとに検証し、その魅力に迫る。オープニングセレモニーに参加した山崎豊子文化財団事務局で山崎さんの甥にあたる定樹氏(56)は「原作の入り口をみていただいて、もう一度作品を読んでいただければ」と呼びかけた。
 山崎さんの秘書として52年もの間、支えてきた野上考子氏は「ある意味で先生の“お葬式”だと思っています」と感慨深げ。「先生の足跡をご覧いただける、こんなにうれしいことはありません」と話し「お葬式はあくまで限られた方へのもの。今回は愛読者の方にさようならをいただける会。先生にとっても幸せなこと」と語った。
 同展は日本橋高島屋を皮切りに、来月14日には横浜高島屋など全国4ヶ所で順次、開催される。

(2) 「山崎豊子文化財団」

NHKスペシャルで紹介していた「山崎豊子文化財団」は、1993年(平成5年)『大地の子』などの印税など私財をなげうち「山崎豊子文化財団」を設立し、日本に帰国した中国残留孤児の子供の学資支援を続けてきており、今年(2015.4)も残留孤児3世、4世の16名に奨学金を提供しております。

「追記」

山本慈昭氏ついて

NHKが残留孤児を扱った『大地の子』を本日10月10日(土)「 BSプレミアム」(午後6時00分 ~ 7時30分)から再放送するとのことです。
中国残留孤児については、過去、NHKが放送した「中国残留孤児の父」と呼ばれる山本 慈昭氏を扱った番組を覚えております。
山本 慈昭氏ついては、ウィキペディアから引用すると、

“「中国残留孤児の肉親探し[編集]
1965年(昭和40年)、中国黒竜江省在住の中国残留日本人から手紙が届いた。山本の訪中を何かで知ったらしく[1]、日本にいる肉親の捜索を依頼する手紙であった。これを機に山本は、まだ生存している中国残留日本人孤児の存在を知り、彼らを日本の肉親に引き合せることを決意した[4]。寺の住職としての仕事の合間に、厚生省、外務省、法務省など各省を回り、国会議員全員にも手紙を書いたが、良い返事は得られなかった。それどころか厚生省では孤児たちからの肉親捜しの依頼の手紙が20通以上、棚に眠っている状態だった[6]。

さらに1969年(昭和44年)、阿智郷開拓団の生存者の1人が死去の2日前、実は開拓団8割の死は嘘と告白した。自分たちは子供たちの命を救うべく中国人たちに引き渡し、後に帰国できた自分たちは口裏を合わせて全員死んだと嘘をついたのであり、山本の妻と次女は死んだが、山本の長女、そして山本の教え子15人が生存しているはずとのことだった[4][7]。こうして山本は、長女と教え子たちとの再会に希望を抱き、孤児捜しの使命感をさらに強めた[6]。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
同1972年、待望の残留孤児と日本の肉親との再会第1号が実現。この模様はNHKで取り上げられ、翌1973年(昭和48年)にドキュメンタリー番組『阿智村 ある山村の昭和史』として放映された[9][10]。

この頃は中国残留孤児のことはまだ世間では存在すら知られていなかったが、やがてNHKに加えて新聞各紙も孤児らの情報を取り上げたことで、孤児らの肉親探しは次第に本格化し始めた。中国でも、山本が孤児たちを熱心に案じている噂が全土に広まっていた[8]。身元の判明した孤児は、結成時にはわずか2人だけだったものの、地道な活動の末、1980年(昭和55年)には177人にまで達していた[4][8
]。」“

とあり、当方は、1972年、待望の残留孤児と日本の肉親との再会第1号が実現した模様をNHKが取り上げられた番組を視聴したことを強烈に記憶しており、NHKに再放送を希望しますね。

拉致問題は時間が経過するだけであり、帰国を待つ家族の心情を思うと歯がゆさを感じ得ないです。
外交による正攻法だけでなく、何か民間人に委ねる決断が到来しているのでしょう。




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